第14話 冬を迎える朝は涼やかに
◇◆◇
「おや、お前様。あの時の」
「……何をしているんだ」
そこに居たのはあの日、見惚れた女だった。見惚れた女が何故か遊郭の紅い鳥居の外に居たのだ。
遊女は鳥居の外には出られないとあの夜、聞いたのだが。
「見て分からないのかい? 茶を飲みながら景色を見ているのさね」
「確かにここは茶を飲める場所だが……」
「ふふ、表情も動作もお堅いねぇ。お前様、女の経験が少ないだろう?」
「……否定はしない」
「素直で良いねぇ、こういう場所では見ない反応さぁね」
茶を啜りながら口元を緩める女は、その爪紅の塗られた指で俺を手招きした。
隣に座れということだろうか? 渋っていても仕方がないかと、俺は隣に座る。
「こんなところを誰かに見られたら仕置きとやらをされるのではないのか?」
「あたしは元々足抜けする気がさらさらないのは理解されているからね。大丈夫さぁね」
「娼婦というのは、良く分からないな」
「まあ、あたしが特殊なだけでさぁ」
他の遊女が同じことをしたら、きっと叱られるどころか三日はおまんま食えない程に折檻されるだろうねぇ。
のほほんと天気のことでも話すかのように言う女のその発言に目を見開く。
彼女が身を置いている世界はそんなにも厳しい世界なのか、と。
この国も、己が身を置く国とさして変わらないのか、と。
そんなことを憂いながらも、心は何処か落ち着かない。にも関わらずそれに反するように彼女の傍は酷く落ち着くとも思った。
相反する感情に揺さぶられながら、気付いたら自身の住まう愚かな国の話を凉乃にぽつりぽつりと振り出した雨粒のように話していた。
「私の国は暗愚な国王によって暴虐の限りが尽くされている」
嗚呼、そうだ。あの男さえ。あの国王さえ王位に就かなければ、きっとヴァンダーフェルケも良い国だったろうに。前国王の威光さえも現国王のせいで消え去ってしまった。
何故私はその愚行を止められなかったのだろうか。あの男は私の――幼馴染で親友であった筈なのに。
「……国王だけではない。他の友だった者達も暗愚な王の傍で甘い蜜を啜っては民を愚弄するような言動を行っていて、私はもう……情けないことに見ることさえも嫌になってしまった」
友人達の行いは正しくはない。正しくはないが、今の国の状態ではきっと正しい姿なのだろう。それがきっと正しく、賢い生き方なのだろう。
けれども、それをどうしたって私には肯定出来なかった。
肯定してしまえば私の中での矜持が消え去って、それこそあの今や愚王と呼ぶに相応しい男と同じになってしまうような、そんな恐怖心さえ抱いてしまった。
「私は愚か者だ。もっと上手に生きられたなら、何も考えずに生きられたなら、きっとそれは幸せなことなのだろうに……」
けれども見てしまった。油が勿体ないからと灯りすらも灯らない城下町を。見てしまった。貴族でないというだけで虐げられる存在を。
見てしまったら、もう、見なかったことには出来なかった。
「私には何も出来ないと言うのに皮肉なものだな」
そんな言葉を吐いて渡された茶を啜った瞬間、ハッとした。
何 をこの場限りで出逢った女に話しているのかと。
私は一体何を彼女に求めているのだろうか。彼女を恐る恐る見れば、彼女は柔らかな表情を浮かべたままゆるりと今は紅が引かれていないその薄い唇をゆっくりと開いた。
「お前様は優しい人間だねぇ」
「……は?」
予想外の言葉が返ってきて驚いた。てっきり馬鹿にされるかと思ったのに。
私の今話した言葉のどこが優しいと言うのだろうか? 腐った国の暴言と、己の不甲斐ない姿しか零していないと思ったのだが。
「お前様は国を憂う気持ちがある。民を思う気持ちがある。そういうのをあたしは『優しい』と思った」
「……凉乃殿」
「は? なんだい。はは。そんな畏まった呼び方をされたから驚いちまったよ」
ケラケラと可笑しなものでも見たような顔でそんなことを言うが、それでは一体なんと彼女のことを呼べば良いのだろうか。
「涼乃。ただの涼乃でいいよ」
困っていたのが伝わったらしい。彼女は優しい瞳でそう言った。
「ご贔屓筋に怒られそうだな。聞いたぞ。名を呼ぶだけて大層な金を積まねばならぬそうではないか」
「ああ、ふふ。それで言うと、お前様の国の王様とやらとあたしは同じかねぇ」
「……何故そうなる」
「金子がすべてだからよ。あたしの生きてる世界はね?」
こんな位に就くまで、多くの男に股を開いた。多くの男の慰みものになった。
それでも他の……もっと下の階層に居る女に比べたら少ない方ではあるだろうけれども、あたしは汚れきってる。金の為にね。
「どうして、そんなに金が要るんだ」
「貴族の生まれのお前様には分からん世界かも知れないけどね、あたしは親に売られた身さね。ろくに働きもしない父親が馬鹿みたいに子供作って、母親は乳すら出なくなってねぇ。食わせられなくなっちまったんもで、一番上のあたしが売られた」
「……涼乃は、何も悪くないのに」
「そうさねぇ。でも、それでも。あたしはこの生活をわりかし気に入ってるよ」
にこやかに笑った涼乃はぬるくなった茶を一気に飲み干し、そうして私の腕を引いた。
「お、おい!」
「しんみりした話は終わりさぁね。いい所に連れて行ってあげるよ」
にんまりと笑われながらそう言われて、彼女と離れるのがあまりにも名残惜しかったから。私は彼女に連れられるまま、どんどんと丘の上へと連れられて行った。
丘の上から見た景色は絶景と言えるもので。きっと春になれば可憐な花が咲くのだろう。そんな兆しが見えて、なんだか心が温まったような、そんな気がした。
「ここはあたしの一等気に入りの場所だよ」
誰にも、お前様にしか教えてない。
無邪気に笑う涼乃の身体を、私は何も考えずに思わず、抱き締めていた。
「……やだねぇ、お前様はあたしのことそういう目で見ないと思っていたのに」
「……嘘を」
「ふふ、バレたか」
本当はね、はじめて目が合った瞬間に攫われたいと思ってしまっていたんだよ。
「叶わぬ夢だと知りながら、ね?」
「叶わない等と誰が決めた」
「え?」
切なそうな声でそう言った凉乃に私はしっかりとその身体を抱き締めながら言う。
「私はこう見えて、欲しいものは手に入れる主義……らしい」
「はは。なんだい、『らしい』ってのは」
「私もはじめてこんな感情を抱いたから、訳が分からん」
「……そうかい」
はじめて、か。
噛み締めるようにそう言った涼乃は、私の腕の中から私を見上げて、その黒曜石のような両目を柔らかく歪めると小さく、けれども私には確かに聞こえる声で確かに言った。
「あたしを、連れ去ってくれるかい?」
私は凉乃を抱き締める腕に更に力を込めて、そうしてその白い、日に焼けていない頬に手を宛てがうと、そっと顔を近付けた。
目を閉じる瞬間、優しい眼差しと目が合った。触れ合った唇は柔らかくて、心の中で約束をした。
大事にしよう。いつまでも。いつまでも。死が私達を分かつまで。
いや、そんなもので分かたれたとしても。
大事にしようと、そう決めたのだ。
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