第15話 冬を迎える朝は涼やかに
◇◆◇
パチリ、と目を開ければ涼乃がベッドの上で眠っていた。
どうやら昔の夢を見ていたらしい。
隣で眠る凉乃の腹が、規則正しく上下していることに安心して、私は壁に掛けられた時計を見る。
そろそろ仕事に行かなければいけない時間だ。
未だ愚行を行っている国王に仕えることが嫌だろうが、私には守らなければならないものがあるから。
「涼乃」
その柔らかな唇に口付けようと思って寸でで止めた。体調を崩してからその行為を嫌がったことを思い出したからだ。
「楽しみは残して置いた方が良いだろう?」
そう笑った凉乃に私は呆れたような気がする。
それでも律儀にその約束を守ってしまうのだから、心底惚れ込んでしまったのだろうなとも思う。
唇は諦めて、凉乃の額に口付けをひとつ落とすと、二人の寝室から凉乃を起こさないように静かに出て行った。
◇◆◇
それは確かにいつも通り仕事をこなしていた、ただの日常だった筈だったのだ。
スパロウの人間が仕事をしている私の元に入ってきてそっと耳打ちをするまでは。
それは、涼乃の体調が悪化したとの報せだった。
仕事も何もかもを放り出して慌てて屋敷に帰れば、荒い息をする涼乃の傍に滅多に涙を見せない娘が私から受け継いだ金の瞳に涙を滲ませて控えていた。
「涼乃!」
泣いている娘も気になるが、今は気にかけてやれる余裕がなくて、なりふり構わず近付けば、涼乃は私の声に反応したのか微かに目を開けた。
「……ヴェル? ……帰ってきたのかい。……しごとは?」
「ああ、今、帰った。仕事は、放ってきた」
「ふふ、ふ。相変わらず素直だねぇ……」
眠そうに喋る涼乃は時折咳をしては血を吐く。
細く華奢な手は今は骨と皮だけで、頬は痩けてしまっている。
なのにその黒い瞳だけは真っ直ぐで。私を見て、焼き付けるように映す。
「涼乃……」
手を握ったまま、床に膝をつき、いつかのように視線を合わせた。
涼乃は浅い息を繰り返しながら、微かに口元を緩めた。
「嗚呼、そうさねぇ……」
「涼乃?」
「あたしなら、三千世界の烏を殺して、ヴェルと涼萌と三人で、生きたかったねぇ」
諦めが混じった言葉に、気付いたら声を上げていた。
「まだ! まだ生きられる! 諦めるな!」
「ヴェル……インヴェルノ……」
「……なんだ」
「ふふ、呼び収めだよ」
その言葉に、ヒュッと喉の奥で息が詰まるような音がした。
「嗚呼、――幸せな人生だった」
目を細めて、眦から涙を零しながら、それでも凛とした声音で言う涼乃に「もう、いい」と、言葉が漏れ出たのは、一所懸命に生きようとしてくれている凉乃を裏切る行為だっただろうか。そうは思いつつも、それでも「もう、いい」と再度言った。
もういい。もう、苦しまなくても良いんだ。
「涼乃……」
「……なんだい? ヴェル」
「あいしてる」
「……そうかい。そりゃあ、」
――本当に、幸せなことだねぇ。
涼乃はそれだけを言うと瞼をゆるりと閉じた。
凉乃が瞼を閉じる瞬間、弱々しく、風でも吹けば聞こえないようなか弱い声で、それでもあの日のように確かな言葉を放ったのだ。
「あたしも、ヴェルをこころから――あいしてたよ」
その日は許される限りを眠ったままの涼乃と過ごし。
棺に入れるその時に、あの朝出来なかった唇へそっと触れるだけの口付けをした。
◇◆◇
「余命は持って半年でしょう」
静かにそう告げられた言葉に、あたしはそうかいとだけ呟いた。
「メイド長。ヴェルと凉萌にはただの風邪だって伝えておいてくれるかい?」
「奥様……っ」
涙を滲ませるメイド長にあたしは微笑んだ。
あたしの大事な宝物。二つしかないと取るのか。二つもあるのかと取るのか。
きっとあたしは幸せ過ぎたんだ。こんな幸せが続くなんてあり得なかっただけの話。
一番下の子が生まれた時、おっ母の乳が出なくなった。
おっ父は酒浸りで働こうともしない。そんな時に、あたしは売られた。
たくさんの男に股を開いて、たくさんの男に媚びを売って。
あたしは虚無の中に居た。それをヴェルが救い上げてくれた。
あたしが望んだから、凉萌を乳母ではなくあたしに育てさせてくれた。
幸せ過ぎたんだ……。
「ああ、なんだって涙なんて出てくるんだろうねぇ……」
あたしがそう漏らしたら、メイド長が本格的に泣き出した。
口煩いけれどもこの屋敷の中で誰よりもあたしに真摯に接してくれた女性。
ああ、まったく。泣き出したいのはあたしだって言うのにねぇ?
「ヴェルに、会いたいねぇ……」
ぼそりと呟いた言葉に、あたしは驚く。
こんなにもあの男を愛おしく思ってしまったのかと。
でも、仕方がないか。
「愛してしまったんだから、仕方がない」
ふふ、とあたしは微笑んで。
ヴェルに贈られた煙管盆に置かれた煙管を優しく撫でた。
ヴェル。インヴェルノ。
お前様は泣き虫だねぇ。……ねぇ、泣き虫ないとしいインヴェルノ。
もしもあたしが地獄に堕ちずに、もしもまた生まれ変われたとしたら。
その時もあたしを、見付けてくれるかい?
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