鯨と喋る

「ねえ。

 私、鯨とお喋りしたいの。宇宙について」


 冴は、急に体を起こし、僕に微笑んだ。



 晴れた5月の午後。

 小さな川の脇に広がる、緑の空き地。

 地面に寝そべるなんて、高2にもなっておかしいけれど、ここでだけは、僕たちは鞄を放り出して柔らかな草の上に大の字になった。


 冴とは、幼い頃からの幼馴染だ。家も近所だし、小学校からなぜか高校まで同じ学校という縁の深さだ。


 この野原に寝転んで、空を眺める。

 天気のいい帰り道には決まって楽しむ、僕たちの小さなイベントだった。

 ただ、中学生になった途端、そんな時間も作れなくなった。

 クラスも部活も違うし、何より周囲の目がうるさいし……タイミングの合う時、友達の目を盗むようにほんのたまにしかできなくなってしまった。


 けど——この時間が、僕は好きだ。

 他のどんな時間よりも。


「鯨って、どうやって仲間とコミュニケーションしてるか、知ってる?

 エコーロケーションっていう、超音波を使った会話。

 遥か遠くの仲間と、その声で意思をやりとりするの。

 どうやら、画像のような複雑な情報を送受信しているらしい。

 それに比べると、私達の『言葉』は、思ったよりもずっと原始的な道具なのかもしれないね」


「へえ」


 僕は、いつものように心地よい彼女の声を何気なく聞き、短く答えた。



「——ねえ。彼らの見てるものを、見てみたくない?

 鯨の交わすコミュニケーションの仲間に、入れてもらいたいの。私も。

 彼らは、一体どんな世界を、どんな心を、やりとりしてるのか。

 私も、そこに加わってみたい。

『人間って思ったよりおバカね』って、言われるかもしれないけどね」



 いつになく生き生きと話す冴の様子に気づき、僕も起き上がって彼女の表情を見つめた。

 彼女は、今日は僕を見ていない。

 そんな気がした。



「夢を叶えるために、何ができるんだろう?

 どうしたら、夢に近づける?

 最近、それを考えると、心が逸って居ても立ってもいられないの」



 くすっと笑った僕を、冴は見逃さなかった。

 ちょっと本気で怒ったようだ。


「——優。今、笑ったでしょ?

 何を寝ぼけたことをって、そう聞こえた」


「そんなこと言ってないよ、一言も」


「じゃあきくけど。

 優はもう、ベッドの中でしか夢を見なくなったの?」



「——……」



 夢。


 ただ漠然と、勉強して、寝て、起きて。

 希望の大学すら、まだ曖昧で。

 そんな僕に、冴の言葉は突然深く突き刺さった。


 

「じゃ、私の勝ちだね」


「……え?」


「だって、私、もう決めたから。

 私は、叶えるために前に進むって。


 私の夢は、鯨と語り合うこと。

 これは、脳の休息が終われば消え去る幻なんかじゃないの。

 絶対に叶えたい、正真正銘の私の夢。


 ね、優。

 昔、私に話してくれたじゃない。優の夢。

 海の生き物を研究したいって、あんな楽しそうに。

 あの夢は、どうなったの?


 真っ直ぐに見定めて——踏み出さなきゃ、叶わないよ。

 そうでしょ?

 スタートラインにも立たずに諦めるなんて、私はイヤ。

 優は、違うの?」



 海洋生物の研究。


 そうだった。

 それは、昔の僕の夢だった。


 僕は一体いつ、夢を忘れてしまったのだろう——?



 冴はすっと立ち上がり、スカートについた草をパン!と力強く払った。


「こうして空を見てる時間は、もうおしまい。

 この夢は——優と空を見ながら、見つけた夢だよ。

 私は今から、そこに向かって全力疾走する」


 僕は座ったまま、彼女を黙って見上げた。


 数歩、冴が歩き出す。

 その背中が、急に遠くなってしまったようで——僕の思いは、ただ胸で激しく空回る。



 その背中から、声がした。

 はっきりと。



「——一緒に行こうよ。


 広い海を悠然と泳ぐ鯨に、生きる意味を尋ねてみようよ。

 この謎だらけの宇宙について、インタビューしよう。


 彼らの言葉を、私達が世界で初めて通訳するの。

 何が聞けるか、楽しみじゃない?」



 冴は、くるりと大きく振り向いた。


「早くしないと、置いてくよ」



 彼女の明るい笑顔に——気づけば僕も、ズボンの草を払って勢いよく立ち上がった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る