春
そんな春から、4年が経った。
3月。
ボストンの大学を卒業した美那は、懐かしい空港へ降り立った。
キャリーケースを引きながら、日差しの暖かさにダウンを脱いで腕に抱えた。
異国の大学での4年間。
脇目も振らず、勉強に励んだ。
それは、留学で自分自身の望む知識を習得したいという理由だけではなく——
そんな大学生活は、まさにあっという間だった。
この上なく充実した時間だった。
——何が何でも、充実したものにしなければならなかった。
自分の失ったものの大きさを、こんなところで一人噛み締め、項垂れているわけにはいかない。
自分の心にできた大きな空洞を寒風に晒したまま、空虚に異国を彷徨うわけにはいかないのだ。
思い返せば——
あんな時期に想いを告げて、こうして彼女から返事がもらえなければ、そこからの4年間が辛い時間になることは予想できただろうに。
いや。
それは、もういい。
無我夢中で目の前の勉強に取り組んだことで、むしろ自分の思った以上の成果を得ることができた。
——良かったのだ。これで。
空港から自宅へつながる路線の駅へ向かい歩く美那のスマホが、リュックの中で着信を知らせる。
その画面を確認した美那の目が、大きく見開かれた。
『——美那?』
懐かしい声が、電話の奥から美那の耳に満ちた。
*
駅の出口の壁際にもたれ、詩音は待っていた。
黒のタートルネックのニットに、しなやかなベージュのタイトスカート。チャコールグレーのピーコート、上質な光沢のハーフブーツ。
もうすっかり大人の装いを着こなした詩音は、道ゆく人の目を引くほどに美しい。いかにもラフな服装で帰国した自分と一瞬見比べる。
美那の顔を見ると、彼女は小さく微笑んですいと右手を顔の横へ上げる。
変わらぬ艶やかなブラウンの髪が、さらさらと肩にかかった。
「——詩音……」
「この後、何か予定ある?」
なんともさらりとそう問われ、まともな言葉も出ないまま、美那は半ば呆然と顔を横に振る。
「じゃ、乗って。
ここまで車で来たから」
詩音は微かな微笑を崩さないまま、歩き出す。
美那はその背を慌てて追った。
*
「今日、この時間の便で帰国するって——あなたのお母さんから聞いた。
私も、この前大学の卒業式終わって。
希望の会社にも内定もらったし、すごく気楽」
慣れた手つきでハンドルを操作しながら、詩音は前を見たままそう話す。
「……」
「向こう、どうだった?」
「——色々、勉強になった。すごく。
行って良かった」
「で、恋人とかはもうできた?」
さらりとそう問いかける詩音の言葉に、美那は思わず強い視線をその美しい横顔に向けた。
「——ねえ、詩音。
恋人なんか、できると思う?
本当にそう思ってるの?」
詩音は、口元に静かな微笑を浮かべる。
「……もしもあなたに恋人ができてたら、今すぐ車から突き落とそうと思ってた」
「——……」
詩音の車は、空港の側の小さな公園へ停車する。
ブレーキレバーを上げると、詩音は静かに口を開いた。
「美那。
この4年間、私の心は、一歩も前へ進めなかった。
あなたの言葉を受けとめたあの日のまま——あなたへの怒りは、あの日からこれっぽっちも色あせないまま、今日がきた。
——この意味が、わかる?」
詩音の眼差しが、まっすぐに美那に向けられる。
詩音のそんな言葉をすぐには飲み込めず、美那は焦点を絞りきれないような瞳で詩音を見た。
「……」
「……あなたがあの日、どんな顔で、どんな眼差しで、私に告白をしてくれたのか。
私に向けられているあなたの心が、どんな形をしていたのか——私は、振り向いてそれを確認することを許されなかった。
一番大切なそういうものを見られないまま……あなたと一言も話し合わないまま、私は一人放り出された。
お互いにとって大事なあの時期に、我を忘れて取り乱し、騒ぎ立てることなど、私にはできなかった。——全ての感情を、胸の中へ封じ込める以外なかった」
静かにそう話す詩音の声が、どこか苦しげに詰まりながら、小さく震える。
「あなたの気持ちを両腕にずっしりと抱えて、一人闇の中に立っている——この4年間、私はずっと、そんな気持ちだった。
希望の大学に合格したのだし……もうあなたの言葉を忘れて、目の前にやってくる恋に手を伸ばしてしまおうと——そう、何度も思った。
けど——できなかった。
忘れようとすればするほど、私の中にはあなたしかいないんだって……それを、思い知らされた。
あなたと離れた高校の3年間も、そうだった。
私の心の中はずっと、あなたでいっぱいだったんだって。
こうなってみて初めて、私はそれに気づいた。
でも——やっとそれに気づいた時には、あなたはもう側にいない。
あなたは向こうで、きっと勉強に忙しくて。キラキラするような刺激と、大勢の新しい友人に囲まれて。
返事を返さなかった私などとうに忘れて、一人でどんどん先に進んで——今頃、とびきり素敵な恋人を見つけて。
……そんな想像ばかりをする毎日だった」
「——……ごめん」
拳を膝に堅く握り、深く俯いた美那の肩から、震える呟きが漏れる。
「——ごめん、詩音。……本当に。
あなた一人に、そんなに苦しいものを背負わせて。
私は、自分勝手過ぎた。
あなたに拒絶されることを思うと、怖くて——私はただ自分の心を守ることしか、考えていなかった。
そんな自分の誤りに、少しも気づけなかった。——今の今まで」
「——美那。
私を見て」
穏やかで確かな詩音の声に、美那は思わず顔を上げる。
「美那。
大切な告白は、相手の目をしっかりと見つめてするものよ。
相手がたとえ、どんな顔をし、どんな反応をしようとも。
そして、私とあなたのような関係ならば尚更——一方的に答えを求めるんじゃなくて。
お互いの肩を抱きながら、一緒に答えを探すべきだわ。
私の言っていることに、美那が頷いてくれるなら——
私は、これから美那と歩きたい」
詩音の瞳が、真剣な色を帯びて美那を捉える。
「——詩音」
深い熱のこもった美那の眼差しが、詩音を見つめ返す。
「何?」
「——あなたを、抱きしめていい?
思い切り」
「待ってた」
固く閉じていた蕾が綻ぶように、詩音は微笑む。
何かを堪え続けていたその瞳が、初めて大きく潤んだ。
やっと——
静かに、互いの肩を抱き締めた。
互いへの想いを、しっかりとその腕に込めながら。
早春の太陽が、明るく柔らかに車窓へと降り注いだ。
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