そんな春から、4年が経った。


 3月。

 ボストンの大学を卒業した美那は、懐かしい空港へ降り立った。

 キャリーケースを引きながら、日差しの暖かさにダウンを脱いで腕に抱えた。



 異国の大学での4年間。

 脇目も振らず、勉強に励んだ。

 それは、留学で自分自身の望む知識を習得したいという理由だけではなく——


 そんな大学生活は、まさにあっという間だった。

 この上なく充実した時間だった。



 ——何が何でも、充実したものにしなければならなかった。



 自分の失ったものの大きさを、こんなところで一人噛み締め、項垂れているわけにはいかない。

 自分の心にできた大きな空洞を寒風に晒したまま、空虚に異国を彷徨うわけにはいかないのだ。



 思い返せば——

 あんな時期に想いを告げて、こうして彼女から返事がもらえなければ、そこからの4年間が辛い時間になることは予想できただろうに。



 いや。

 それは、もういい。

 無我夢中で目の前の勉強に取り組んだことで、むしろ自分の思った以上の成果を得ることができた。


 ——良かったのだ。これで。




 空港から自宅へつながる路線の駅へ向かい歩く美那のスマホが、リュックの中で着信を知らせる。


 その画面を確認した美那の目が、大きく見開かれた。



『——美那?』



 懐かしい声が、電話の奥から美那の耳に満ちた。









 駅の出口の壁際にもたれ、詩音は待っていた。

 黒のタートルネックのニットに、しなやかなベージュのタイトスカート。チャコールグレーのピーコート、上質な光沢のハーフブーツ。

 もうすっかり大人の装いを着こなした詩音は、道ゆく人の目を引くほどに美しい。いかにもラフな服装で帰国した自分と一瞬見比べる。

 美那の顔を見ると、彼女は小さく微笑んですいと右手を顔の横へ上げる。

 変わらぬ艶やかなブラウンの髪が、さらさらと肩にかかった。



「——詩音……」


「この後、何か予定ある?」


 なんともさらりとそう問われ、まともな言葉も出ないまま、美那は半ば呆然と顔を横に振る。


「じゃ、乗って。

 ここまで車で来たから」


 詩音は微かな微笑を崩さないまま、歩き出す。

 美那はその背を慌てて追った。









「今日、この時間の便で帰国するって——あなたのお母さんから聞いた。

 私も、この前大学の卒業式終わって。

 希望の会社にも内定もらったし、すごく気楽」


 慣れた手つきでハンドルを操作しながら、詩音は前を見たままそう話す。



「……」



「向こう、どうだった?」


「——色々、勉強になった。すごく。

 行って良かった」


「で、恋人とかはもうできた?」


 さらりとそう問いかける詩音の言葉に、美那は思わず強い視線をその美しい横顔に向けた。


「——ねえ、詩音。

 恋人なんか、できると思う?

 本当にそう思ってるの?」



 詩音は、口元に静かな微笑を浮かべる。



「……もしもあなたに恋人ができてたら、今すぐ車から突き落とそうと思ってた」



「——……」




 詩音の車は、空港の側の小さな公園へ停車する。

 ブレーキレバーを上げると、詩音は静かに口を開いた。



「美那。

 この4年間、私の心は、一歩も前へ進めなかった。

 あなたの言葉を受けとめたあの日のまま——あなたへの怒りは、あの日からこれっぽっちも色あせないまま、今日がきた。

 ——この意味が、わかる?」


 詩音の眼差しが、まっすぐに美那に向けられる。


 詩音のそんな言葉をすぐには飲み込めず、美那は焦点を絞りきれないような瞳で詩音を見た。



「……」


「……あなたがあの日、どんな顔で、どんな眼差しで、私に告白をしてくれたのか。

 私に向けられているあなたの心が、どんな形をしていたのか——私は、振り向いてそれを確認することを許されなかった。

 一番大切なそういうものを見られないまま……あなたと一言も話し合わないまま、私は一人放り出された。


 お互いにとって大事なあの時期に、我を忘れて取り乱し、騒ぎ立てることなど、私にはできなかった。——全ての感情を、胸の中へ封じ込める以外なかった」


 静かにそう話す詩音の声が、どこか苦しげに詰まりながら、小さく震える。



「あなたの気持ちを両腕にずっしりと抱えて、一人闇の中に立っている——この4年間、私はずっと、そんな気持ちだった。

 希望の大学に合格したのだし……もうあなたの言葉を忘れて、目の前にやってくる恋に手を伸ばしてしまおうと——そう、何度も思った。


 けど——できなかった。


 忘れようとすればするほど、私の中にはあなたしかいないんだって……それを、思い知らされた。

 あなたと離れた高校の3年間も、そうだった。

 私の心の中はずっと、あなたでいっぱいだったんだって。

 こうなってみて初めて、私はそれに気づいた。

 

 でも——やっとそれに気づいた時には、あなたはもう側にいない。


 あなたは向こうで、きっと勉強に忙しくて。キラキラするような刺激と、大勢の新しい友人に囲まれて。

 返事を返さなかった私などとうに忘れて、一人でどんどん先に進んで——今頃、とびきり素敵な恋人を見つけて。


 ……そんな想像ばかりをする毎日だった」




「——……ごめん」


 拳を膝に堅く握り、深く俯いた美那の肩から、震える呟きが漏れる。



「——ごめん、詩音。……本当に。

 あなた一人に、そんなに苦しいものを背負わせて。


 私は、自分勝手過ぎた。

 あなたに拒絶されることを思うと、怖くて——私はただ自分の心を守ることしか、考えていなかった。

 そんな自分の誤りに、少しも気づけなかった。——今の今まで」



「——美那。

 私を見て」


 穏やかで確かな詩音の声に、美那は思わず顔を上げる。



「美那。

 大切な告白は、相手の目をしっかりと見つめてするものよ。

 相手がたとえ、どんな顔をし、どんな反応をしようとも。


 そして、私とあなたのような関係ならば尚更——一方的に答えを求めるんじゃなくて。

 お互いの肩を抱きながら、一緒に答えを探すべきだわ。


 私の言っていることに、美那が頷いてくれるなら——

 私は、これから美那と歩きたい」



 詩音の瞳が、真剣な色を帯びて美那を捉える。




「——詩音」


 深い熱のこもった美那の眼差しが、詩音を見つめ返す。



「何?」



「——あなたを、抱きしめていい?

 思い切り」




「待ってた」


 固く閉じていた蕾が綻ぶように、詩音は微笑む。

 何かを堪え続けていたその瞳が、初めて大きく潤んだ。




 やっと——

 静かに、互いの肩を抱き締めた。


 互いへの想いを、しっかりとその腕に込めながら。





 早春の太陽が、明るく柔らかに車窓へと降り注いだ。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る