情熱

 ひとりになった。



 高校の、美術教師。


 この仕事に携わることは、私にとって掛け替えのない幸せであり——堪え難い苦痛でもあった。



 美術を選択する生徒は、胸の奥に尋常ならぬ熱を秘めている者も多い。——自分自身ですら無自覚の、強烈な情熱を。


 生徒達の持つその情熱と個性に触れるたびに、新鮮な感動が訪れた。

 そして、宝石の原石のような才能に出会う瞬間、例えようもなく大きな喜びに胸が震える。



 その一方で——

 彼らの若く迸るような情熱が、創作にでなく——自分に向けられる。

 それは、この上なく恐ろしいことだった。



 大人へと近づきながらも、まだ未成熟。

 彼らのその剥き出しの熱は、あまりにも強烈に私の感情を揺さぶる。


 そして——ともすればその振動に共鳴しそうになる激しい何かが、常に自分の中に波打っていることも、私は知っている。



 自分の情熱は、目の前の創作にのみ向けられなければならない。

 心が振れそうになる度に、必死に自分自身を固く壁の奥に押し込んだ。


 そして——時に激しくぶつけられる彼らの想いを、ことごとく無視した。

 まるでそんなものには一切気づかないような顔をして。



 これでいい。

 そう言い聞かせながら、何とかうまくこの仕事に向き合ってきた——つもりだった。





 ある年の3年生が、巣立ったすぐ後——

 私は、5年連れ添った相手に、離婚届を渡した。



 互いに、もう想いが通い合ってはいないことに、気づいていた。

 だが、夫婦などそのようなものだと——そう思っていた。


 ひんやりと冷え切った部屋に流れる、薄暗い時間。

 気分が塞ぐそんな時間にも、慣れたつもりでいた。



 なのに——

 そうではないと、気づいてしまった。


 彼の絵を、見てしまってから。




 彼は——

「愛する人と一緒に歩けるなら、こんな景色を見たい」と。

 静かに、そう言った。

 私をじっと見つめながら。



 キャンバス一杯に、色が溢れていた。

 何色、という説明のできない——私の見たかった色が。




 それでも。

 波立ち、溢れ出してくるような彼の想いを受け止めることは、しなかった。


 ——できなかった。




 そうして、彼が卒業していった年の夏——

 私は、ひとりになった。




 手の中に何も残らないことは、知っている。


 それでも——この薄暗い空間と時間は、私を決して幸せにはしないと。



 それを教えてくれたのは、彼だ。





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