波
大学4年の秋。
就職先も何とか決まり、一息ついた学校の帰り道、駅に貼られた美術展のポスターが目に止まった。
好きな画家の特別展だ。
俺の一番好きな絵も来るらしい。
その絵を観たい、と思った。
少し寒い、薄曇りの日曜の午後。
人で賑わう美術館。
幾度となく胸の中で蘇らせたその絵が、目の前に展示されている。
吸い寄せられるように、近づいた。
絵の前の人々の奥に、どこかで見慣れた背中がある。
その瞬間——俺の目は、その背に釘付けになった。
すらりと長身なのに、華奢でどこか心細い背中。
——忘れるわけがない。
「————先生」
躊躇する間もなく、唇から声が零れた。
「………あ……」
振り返り、俺の顔を認識したその瞳が、大きく見開かれる。
そして——
次の瞬間、明るい茶色の美しい虹彩が、ゆらりと潤んだ。
「…………」
…………涙?
なぜ——
「——久しぶり」
さっきの涙は、見間違いだったのだろうか。
昔と変わらぬ淡い微笑みと、静かで抑揚の少ない声が返って来る。
「……お久しぶりです」
ああ。
俺は今、ただの教え子の笑顔ができてるか?
「元気そうだね」
柔らかくそう呟くと、俺から静かに視線を逸らし——
目の前の絵を、その人は美しい眼差しで見つめる。
「——この絵が好きで。昔から」
変わらない、華奢な横顔。
あの日の横顔が重なる。
「……俺もです。
俺も、これを観に来ました」
「そう」
静かにそう微笑みながら少し乱れた髪を直そうとする指が、昔と違うことを——
その微かな変化を、俺の目ははっきりと捉えた。
「——先生……
……指環……」
左手の薬指に嵌っていた指環が——消えていた。
いつも、震えるほどの憎しみを込めて見つめていた、あの指環が。
「……」
先生は、微かに肩を揺らしたが——
どこか諦めたような弱い微笑みを浮かべて俺を見る。
「離婚してね。——3年前の夏に」
「————」
俺の中に、激しい衝撃が駆け巡る。
何となく話す気だった自分自身のことなど、もう一言も出てこない。
俺と先生は、それ以上何を話すでもなくそのまま館内を巡り、出口へと向かった。
「——じゃ。
元気で」
先生の眼差しが、昔のままさらりと俺を見つめる。
綺麗な左手が、軽く顔の横へ上がった。
たまらなく愛おしいその視線が、すいと事も無げに俺から離れていく。
先生にとっては、俺はただの目立たない教え子の一人だったんだろう。
けれど、俺にとっては——
かつて散々殺し続けたその感情が、波を打って戻ってくる。
そしてその波は、あの日の幼い自分の頭をはるかに超えていくように。
あなたが固く囲われていたはずの分厚い壁は、もうどこにもないのだ。
今、このまま別れたら——もう二度と。
「————先生!!」
大声で、呼び止めた。
胸の奥に秘め続けた激しい波が、堰を切って声帯から放たれる。
遠ざかりかけた背中が、歩みを止めた。
その人は、静かに振り向くと——
押し寄せる波をそのまま胸に受け止めるように、鮮やかに微笑んだ。
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