第3話 浜田公平の場合

「失礼ですが、浜田公平さまですか?」

突然背中から声をかけられて振り向くと、青いスーツ姿の女性が立っている。

「浜田ですが・・・」

女性は、怪訝そうな視線を送る公平の目を見つめながら、道端へ誘導して乾いた声を発した。

「お兄さまが、お会いしたいとのご希望ですが、いかがいたしますか?」

平日の昼下がりということもあり、通行人はさして多くはないが、こんなところで何を馬鹿なことを言ってるんだ、こいつ。

一瞬黙って行ってしまおうかとも考えたが、ひとを小馬鹿にして、しかも言うに事を欠いて、死んだ兄貴をだしに使うとは。

これはたとえ女でも許せない、と思った瞬間、口先から言葉が飛び出した。

「兄貴は死んで、もういないんだけど・・・」

女性をにらみつけて、強く言い放ったつもりであったが、怯んだ様子は見えない。

「ほんとうにご愁傷さまでした。でもお兄さまには公平さまにお話ししたいことがあるそうです」

何を言ってるんだろ、この女は。

死んでもういないんだよ、兄貴は!

なかなかの美人ではあるが、どこかひとを見下したような勿体ぶった言い方が何とも気に食わない。

あんたねぇ、おちょくるのもいい加減にしろよ、こっちも忙しいんだよ! と言うつもりが、女の発した次の言葉は公平にとって口に大きなこぶしをねじこまれたような衝撃であった。

「お兄さまが好きな青いシャツを着ておられるんですね。胸元についたケチャップのしみは薄くなりましたが、やはり消えませんね。でも、あのホットドッグはおいしかったと言っておられました。巨人が神プレーヤーの延長サヨナラで勝ったときはしびれた、あれが自分にとってのベストゲームだと話しておられました」

公平は一瞬固まったが、すぐに気を取り直して、女を見返した。

「何が目的だ。何でそんなことを知ってるんだ!」

兄の公一は、二人で観戦した後楽園の巨人ー阪神戦で、巨人が阿部の逆転サヨナラホームランで勝利した試合が自分にとってのベストゲームだというのが口癖であった。贔屓は巨人一筋、神プレーヤーとは阿部のことである。

この女はまじで死んだ兄貴のことを知っている!

「あんた、誰だよ、誰なんだよ!」

乱暴な言葉遣いになっていくのが自分でもわかるが制御出来ない。

「お兄さまには、公平さまにお話ししたいことがあるようですが、わたくしからはもうこれ以上申し上げません。お会いになるか、ならぬか、二つに一つでお答えください。お会いになると明言されない限りは、お会いにならないものと考えさせていただきます。わたくしとは、これが最初で最後の出会いとなりますし、ご記憶にも残りませんのでご安心ください」

この女はあの世からの使者というわけか?

ファンタジーの世界か、少女漫画か?

白いスーツをきりりと着こなして、ちょっと見ではキャリアウーマン風の美女で、英語なんかもペラペラとやりそうな雰囲気だ。

頭がおかしいようには見えないし、新手の詐欺か?

死んだ兄貴のことをこれだけ知ってるなら、生前につきあいが・・・ないよな、あるわけないよな、こんな知的セレブみたいな美女とは! 世界が違い過ぎるよ。


 公一が死んでから、もうすぐひと月だ。

引っ越しのバイト中に、公一の発電で携帯が鳴り、手を離せなかったので不在着信に切り替えてやり過ごし、昼飯時に折り返した。

携帯からは警察官の声が聞こえ、公一らしき人物が亡くなったので、至急遺体確認のために来て欲しいとの連絡であった。

はじめ警察官の声は、公平のはるか頭上を通り過ぎていくようで耳に届かず、思考回路がショートしたように言葉も出なかった。

現実とは思えぬ空間の中で必死に手を伸ばし、何かをつかむようにして話を終えた。

「よほど急いでいたんでしょうが、あれだけ往来の激しい通りを突っ切ろうとしたのはあまりに無謀でした。トラックの運転手も必死にブレーキを踏みましたが間に合いませんでした。先方に過失は問えません。言いにくいことなんですが、自殺ではという見方もあって・・・お兄さん、何か悩みごとがあったとか、最近様子が変だったとか、何か気になったようなことはありませんでしたか?」

年のころ五十前後かと思われる警官の物言いは、同情の響きを持ちながらも、すっかりと板についており、これまで多くの遺族を相手にしてきたベテランであることを感じさせた。

 あの日、すでに抜け殻となった公一に対面したのが、つい昨日のように思い出される。

おそるおそる触れた額は陶器のように冷たく無機質で、嗚咽しながら繰り返し叫んだ言葉は霊安室の壁に吸い込まれていった。

「何でだよ、何で死んじゃったんだよ」

事故にせよ、万が一自殺にせよ、公一は最早この世には存在しないという現実が受け止めきれていない自分を、どうすることもできなかった。

毎朝アパートを出る時も、毎晩アパートに帰り着く時も、公一の遺骨に線香を上げながら、自分は独りになってしまったという疑いなき事実に押しつぶされそうになった。

公一の自殺行為であったとの結論が出されると、兄は何故自分を置いて逝ってしまったのかと、熱に浮かされたようにそればかりを考えた。

それが分からなければ、四十五日が過ぎても遺骨の埋葬をする気持ちにはなれないだろう。

「何で死んだんだよ。今年の夏には一緒に長野に帰ってみようと決めたよね。昔遊んだ赤山に登ろうと言ったじゃないか」

四六時中考え抜いて辿り着いたのは、警察が何を調べようと、やはり自殺などはあり得ない、時間に追われてやむを得ず通りを強行突破しようとしてトラックにはねられたのだという見立てであったが、これも確信にはほど遠いものであった。

遺品の一つとして警察から渡されたものが妙に心に引っかかっていた。

制服の胸ポケットから手縫いのカバーに入った交通安全のお守りが見つかったが、それは公平が初めて目にするものであった。

自販機の設置場所を巡回して飲料の補充をする仕事をしていた公一は、一日中輸送車のハンドルを握っていたことから、毎年二人で出かける初詣の折に交通安全のお守りを買う習慣であった。公一の遺品となったお守りは、行ったこともない神社のもので、しかも公一の好きな青色のフエルトで手縫いしたカバーまでついている。

兄貴には好きなひとがいたんだろう、と気がついたが、公一からは生前そうした話を聞いたこともなければ、残された公一の携帯にも手がかりはなく、どうにもしっくりこなかった。

いろいろと考えをめぐらしてみたが、結局のところは、もうどうでもいいや、兄貴はもういないんだから、との気持ちになり、忘れてしまおうと心に決めた。

本当にそうした女性がいたのなら、向こうからこちらを探し当ててくるだろう。

そんなことよりやはり、公一の死因を、自分が信じる(いや信じたいと思う)事故と考えてよいのか、あるいは、警察の結論通り自殺であったのか、いずれにも与しきれずに堂々巡りを繰り返した。

公一のいない日常にようやく慣れつつある今でも、決着をつけてしまわなければ、自分の中で現在と未来とが永遠に折り合いをつけないような気がしている。


 公平を大きな感情の波が襲い、女を激しく怒鳴りつけるように言葉が飛び出した。

「もう一度会いたいし、話もしたいよ、そりゃ!」

女は表情ひとつ変えずに、分かりました、と告げると勢いよく歩き出した。

「分かったって、何が分かったんだよ。ちょっと待てよ!」

十歩ほど追いかけ、大通りへの曲がり角に差しかかったところで、バイト仲間の次郎と鉢合わせした。女の姿はどこにも見えない。

「何急いでんだよ、メシ食ったのか?」

「あ、まだ食ってない・・・よな? 何かさ、頭ぼーっとしちゃって。変だな。俺、何してたんだっけかな」

「おいおい、公平!大丈夫かよ。早く行かねえと弁当屋混んじゃうぞ」


 夕方五時に作業が終了すると、公平は皆の誘いを断って帰路についた。

明日はゼミがあり大学に行かねばならないし、そのための準備もある。

昼は肉体労働、夜はゼミの準備で脳細胞に過剰な刺激を与えたおかげで疲労度はぐっと上がっていた。

公一の遺骨に、おやすみと声をかけると、唸りを発しながら布団にもぐりこんだ。


「お兄ちゃん、お腹空いたよぅ」

「もう少ししたら夕飯だから、我慢しなよ」

玄関を開ける音がして、叔母さんの声が聞こえる。

「遅くなってごめんね。お腹空いたでしょ。すぐつくるから。これ一個しかないけど二人で分けてね」

公一は、もらった菓子をそのまま公平に渡した。

公平は一口で頬張ると、口を不器用にゆがめながら懸命に噛み出した。

甘くて美味しかった。


「公ちゃん、ごめんね。気にしないで。おじさんも本気じゃないのよ。会社で面白くないことでもあったんだわ」

「叔母さん、ほんとに申し訳ないです。お父さんが早く迎えに来てくれればと思うんですけど」

「あんたも偉いね。まだ中学生になったばかりなのにさ。さすがお姉さんの子だよ。わたしはいつもあんたたちの味方だし、たいしたことは出来ないけど、でも出来ることは何でもするからね」

「ほんとに有難うございます」

公平は、公一の堂々とした物言いを誇らしく感じた。


「公平、今日から、僕ら二人で生きて行くんだぞ。お兄ちゃんがしっかり働くから、おまえは一生懸命勉強して大学まで行くんだ」

「うん、わかった。頑張るよ」

公平は、スポーツ観戦を好む公一に触発されて、野球やサッカーに興味を持ったが、用具代や遠征費用等の話を聞くと、自分にとってはとてつもなく高い壁であることを悟り、自分がプレーすることはことごとくあきらめた。

お兄ちゃんもそうだったんだ、と思えば、気持ちの切り替えも早かった。

公一のみならず、公平も新聞、雑誌、テレビを通じてのスポーツファンとなっていった。

公一がすべてやり繰りしていたので、細かいことはわからなかったが、毎年夏になると、一、二度は後楽園ドームに出かけ、外野席ではあったが、巨人戦のナイターを観戦し、値段の高さに驚きながら弁当や飲み物を楽しんだ。

「いいの? こんなに高いの」

「公平くん、うちらも、たまにはパパッとやらにゃー!」

こういう時の公一は、いつになくハイで、日ごろ抑えているものを一気に解放している様子であった。

後年、大学生になりアルバイトを通じて初めて足を踏み入れた実社会で、公平は公一が自分のためにどれだけ頑張ってくれたのか、そして今も懸命に頑張っていてくれることを実感して感激したものである。


「公平、どうだ、勉強のほうは。アルバイトしながらだと大変か?」

「そんなことないよ。お兄ちゃんこそ、最近疲れた顔してるけど大丈夫? 僕が就職するまで、あともう少し待ってよ」

「おまえもアルバイトした金がそのまま学費に行くから大変だよな。もう少し学生生活をエンジョイ出来ればいいんだけどな」


 あと二年ちょっとで社会人になって、僕なりに恩返しするつもりだったのにさ。

何で死んじゃったのさ。突然過ぎて今でも信じられないくらいだよ。

実感がわかないんだよ。小っちゃい時からずっと一緒だったから、今こうして毎日独りで暮らしていることが、何かのまちがいで、お兄ちゃんがどっからか、ぱっと現われたりするんじゃないかと思ったりしてさ。

だめだ、だめだ、嘘だろ、これ。


「公平、ごめんな、突然独りにしちゃって。

ほんとに申し訳ない。軽はずみなことしちゃってさ。ほんと恥ずかしいよ。

公平とちゃんとお別れしなくちゃと思ってさ。

「当たり前だよ、いくらと突然といったって、これじゃあまりに突然過ぎるだろ。

何であんなとこ渡ろうとしたんだよ。運動神経もいいほうじゃないのにさ」

「へっ、相変わらず辛口のご批評! そうだよな、そう思うよな・・・

実はさ、心に何て言うか、かっこいい言い方すると、ぽっかりと穴が空いちゃってさ。それがもうどうしようもなく大きくなっちゃったもんだからさ・・・

もう、ああするほか思いつかなかったんだよ」

「何、それ。もしかして自殺だったの? 

そりゃ、ないじゃない。ひとに相談もしないで。お兄ちゃんがいなくなったら、俺独りだよ」

「だからさ、ほんとに申し訳ないと思ってる。最後の瞬間には自分に向かって、バカと叫んだけど間に合わなかったんだよ。ほんとにバカだよな」

「あたりまえだよ。大バカだよ。でもそこまで追い詰められていたお兄ちゃんに気がつかなかった俺はもっと大バカだと思う。情けないよ」

「公平が気に病むことなんてないよ。すべてお兄ちゃんがバカだったんだから」

「何があったのさ? たった一人の肉親なんだから、それくらい教えてくれてもいいよね。俺はこれから独りで生きて行くんだからさ」

「うん、おまえに嘘など言いたくないし、ほんとのことを言うよ・・・

お兄ちゃん、好きなひとがいてさ。バカなんだよ、勝手にさ、そのひととの生活設計なんか夢見ちゃってさ。ほんと独りよがりでさ、恥ずかしいよ」

「でも、それが独りよがりだと分かった時は、落ち込んだんじゃないの、ショックでさ。これまで随分と面倒見てもらったのに、俺のほうこそ何もしてあげられずに終わっちゃってさ。それこそ、恥ずかしいよ、ほんとにごめんね。

お兄ちゃんの胸ポケットに青いニットカバーに入った交通安全のお守りがあってさ。あれ、と思ったんだよ。でもさ、お兄ちゃんが死んでずいぶん経つのに何の連絡もないしさ、お兄ちゃんと相思相愛なら連絡くらい来るよね。それに携帯、ごめん、お兄ちゃんの携帯見たんだよ。警察官のひとからも念のために調べさせてもらいますって言うからさ。でも、それらしいひととの交信記録とか、登録も無くてさ。違ったのかなあ、あのお守り袋はお兄ちゃんがどっかで買ったものなのかなあ、とか考えてたんだけどすっきりしなくてさ。これでわかったよ」

「公平もあともう少しで大学を卒業して、社会人として巣立っていく。

そう思った時に、お兄ちゃん、今度は自分の将来についても考えたんだよ。

でもさ、そのひとと一緒になって幸せいっぱいの明るい家庭をつくって、子供には出来る限りのことをしてやって、公平みたいに大学まで行かせてやって、好きな道に進んでもらいたいとか、かなり独りよがりな、小市民的な夢が出来上がって、どんどん大きくなっちゃってさ。

そのひとが、自分と夢を共有できないと知った時に、自分が歩いている地面が突然陥没してなくなっちゃったような衝撃でさ。苦しくて、苦しくて、楽になりたいと思っちゃったんだよ。バカだねぇ。

でも、公平は大丈夫だ。

おまえはしっかりと自分を見据えて前に進んでいける強さも賢さもある。

だから、公平のことは心配していないんだよ。

ただ、最後にきちんと言葉も交わさずに、突然いなくなっちゃったから、それだけは謝りたくてさ。だって、ずーっと一緒だったからな。

短かったけど、おまえがいたから良い人生を送れたと思ってるよ。

公平、ほんとにありがとな。

おまえなら素晴らしい人生を送れるよ。

あの巨人ー阪神戦はベストゲームだったよな」

「やれやれ、しょうがないな。次もお兄ちゃんの弟になって、足を引っ張ってやるか。

ほんとに有難う。ここまで生きてこられたのも、大学まで進学出来たのも、みんなお兄ちゃんのお蔭だよ。あとは任せておいてよ」


 長く深い眠りであった。

よく眠ったなあ、と呟きながら洗面台へ向かった。

からだが軽く、力が湧いてくるような気がして、鏡に向かって、今日も頑張るぞ!とこぶしを握った。


「公ちゃん、お兄さん、気の毒だったな。でも元気を取り戻したようでみんな安心してるんだよ。仕事も、勉強も両方頑張ってな。今夜は巨人-阪神戦楽しもうよ」

「あ、専務、有難うございます。やっと吹っ切れた気がしています。いつまでもめそめそしていても仕方ないですから。お気遣いいただき感謝しています」

「お兄さん、巨人ファンだったんだろ。あそこから見てるんじゃないか」

見上げると大きな月がホームベースを照らしているようだ。

「何か、終盤にドラマがありそうで、わくわくしますね、この試合」


「有難うございました。弟とけじめがつけられて、これでもう思い残すことはなくなりました。本当に有難うございました」

若い男は一礼し、静かに後ろへ向き直ると、バットスイングの真似をした。

それからおもむろに見えない白球を見上げるしぐさをして歩き出した。


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