第2話 中田晶子の場合

「突然申し訳ございません。中田晶子さまですね?」

晶子は歩みを止めて、右側から覗き込んでいる相手の顔をまじまじと見つめた。

面識はないと思うが、気は抜けない。努めて表情を緩めながら、どちらさまでしょうか?と小首をかしげて問いかけた。

女は何も言わずに道の片側を指して進み、晶子も続いた。

女は止まって向き直ると、晶子の目をじっと見つめたまま言い放った。

「冷静にお聞き願いたいのですが、是非ともお会いしたいとのお父さまからの伝言を預かって参りました」

はぁ、と一言を発した口のかたちを変えぬまま、晶子は相手の顔を見返した。

わたし、これから家に帰るんですけど・・・ほかにもっと暇なひとがいるんじゃないかしら、と言ってやりたい気持ちをぐっとこらえた。

土曜の夜、東京屈指のハイセンスな街では、昼と変わらず多くのひとびとが行き交っている。

「人違いだと思います。わたし、父はおりませんのよ」

毅然として応対したつもりであったが、相手は冷静で事務的な調子を崩さない。

「昨年末にお亡くなりになったお父さまが、今一度晶子さまにお会いしたいとのご希望です」

ああ、何を言ってるんだろう、このひとは!

白いスーツを凛と着こなし、小顔の美人で詐欺師にも見えないし、頭がおかしい様子でもない。

いやいや、落ち着いて、落ち着いて、名前だけならともかく、父が昨年末に死んだことまで何故知っている?

父の伝言などと真面目くさって話すこの女性は誰?

父と生前何らかの関わりがあったのだろうか?

自分でも落ち着きがあるほうだと思うが、頭の中にもやもやとしたものが立ち昇って考えがまとまらない。

あり得ない、想像したこともない状況に自分が当事者として遭遇しているのだ。

現実感が湧かない。でも、まづは何か言わねばならない。

脳からの信号が曖昧なままに、口先が気を利かして急場を凌いだ。

「何を仰っているのか、意味が分からないのですが・・・。

亡くなった父があなたに何かをお願いしたということでしょうか・・・。

何がお望みなのか、どうぞストレートに仰ってください」

相手は一向に怯まない。腹立たしいほどに落ち着いている。

「お父さまがたいそう気に入って、是非ともこれを晶子さまに、と買ってくださった青い水玉のワンピースはとてもお似合いでした。でも残念でしたね。お食事中に汚してしまって落ちなくなりましたね。お母さまの黒いクロコダイルのバッグは大事にお使いですね」

晶子は、えーっ、と声を上げながら相手に詰め寄った。

「なんで、そんなことご存じなの?! 

あなた、どなたですか? いったい何なのですか?」

興奮気味の晶子とは対照的に、抑揚のない事務的な口調が続く。

「お父さまのお会いしたいとのご希望について、お受けになるかどうかを『はい』か『いいえ』の二つに一つでお答えください。明確に『はい』とのお答えをお聞きしない限りは、『いいえ』と解釈させていただきます。わたしとお会いになるのは、これが最初で最後となりますし、晶子さまのご記憶にも残りませんのでご安心ください」


 名古屋に独り暮らしであった父は、半年に一度上京して晶子のアパートを訪ねるのが常であったが、心臓病が悪化するにつれて遠出を控えるようになり、二人が顔を合わせるのは、晶子が帰省する八月の盆休みと年末の年二回となっていた。

せめて電話連絡くらいは出来る限り頻繁にとは思っていたが、携帯電話を持たぬ父との連絡は固定電話に限られ、父が自分から電話をしてくるということもなかった。帰宅が深夜となることも多い繁忙期には、寝ているところを起こしてはまずいと平日の電話連絡は憚られ、土、日曜の電話は雑用に紛れてかけずじまいとなり、気がつけば二週間、三週間も無沙汰をしていて慌てることもあった。

なかなか電話口に出ず、悪い予感がして何かあったのではと気をもみ、父の「もしもし」というか細い声を耳にして、ふーっと安堵の息をもらすことも珍しくはなかった。

 晶子の小学校最終学年の夏に、病弱だった母が旅立った。

父との二人暮らしは、晶子が大学進学で上京するまでの六年に及んだ。

役所勤務だった父は真面目が背広を着て歩いていると揶揄されるほどの堅物であったが、大声を上げたり、晶子の言動に目くじらを立てることもなく、好き勝手をさせてもらったと思っている。母の妹である独身の叔母が親身に気を遣ってたびたび家に顔を出しては、父と晶子との間で潤滑油のような役割を果たしてくれたこともあり、世間一般の父娘家庭と比べれば恵まれていたほうだと感じている。

そのお蔭もあって、たしかに一面では張り合いがないとも言えたが、晶子がすさんだ時もほとんど普段と変わらぬ調子で接してくれた父には感謝もしている。それだからこそ、上京後亡くなるまでの間に、もう少し何かしてやれたのではないか、という後悔の気持ちが拭えない。

社会人となって世間の風にあたるようになると、母親がいない家庭で育った不幸にばかり目を向けていた自分の背後には、不器用に一人娘との家庭生活を一生懸命に守り抜いてきた父親がいたということに思い至るようになった。


 こんな馬鹿げたことはあり得ないが、亡き父にもう一度会いたいか、会いたくないか、と問われれば、会いたいに決まっている。

父とは結局のところ、胸のうちをすべて見せ合って思いの丈を語り合ったことなどなかったのだから。

それに高志のことだって、顔合わせは無理だったとしても、せめて、せめて、「一緒になるひとができたよ」の一言ぐらいは伝えて安心させてやりたかった。

(父さんは、口に出して言うことはなかったけど、わたしが妻になり、母になる日をじっと待ち焦がれていたのはわかってたんだよ。

ああ、父さん、やっぱりもう一度会いたい。話したいよ)

そうだ、頭を冷やして考えれば、この女性に「会いたい」と答えて、対価など求めてくるようなら、そこでさよならと言って、終わりにすればよいではないか!

ジョークならジョークで結構、詐欺なら詐欺で結構、実害はないんだから。

晶子は意を決して言った。

「はい、会いたいです。どうしたらいいんですか?」

女性は表情ひとつ変えずに晶子の目を見つめた。

「分かりました。すぐにお父さまが会いに来られます」

それだけ言うと、ぱっと身を翻して歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ってください。どこで、何時に?」

土曜の夜は人波が途切れない。目で追いかけたが、すぐに見失い、腕時計を見ると十時半を回っている。

埼玉の実家へ帰るという高志と別れてから、まだほんの十分、十五分ほどしかたっていないことに驚きながら、晶子は静かに歩き出した。

何これ、いったい、と呟きながら地下鉄の駅を目指して帰宅の途についた。

あの女性とのやりとりが思い出されて目が冴えた。

頭の中は、今晩高志と話した挙式の段取りでいっぱいの筈であるが、父親に会わせてやると自信満々に語っていたあの女性の白いスーツ姿が目に焼き付いて離れない。

冷蔵庫から飲みかけのワインボトルを取り出してグラスに注ぐと、ちょうどよいところで空になった。

ソファに座ってグラスを口につけると、あの女性の事務的な口調が思い出された。

いったい、何だったんだろう。

あんな芝居じみたことをして、何の得があるんだろう。

頭がおかしいのか?

いや、あのあたりにはいくつかの小さな劇団がある。もしかして、通行人を相手に演技の勉強でもしていたのか。あるいは、新手のストリート・パフォーマンスか。

いずれにしても今考えてみれば、えらい迷惑だし、だいたいあんなことを言うのは不謹慎、言語道断だ。でも、赤の他人のことを何故、あんな細かいところまで知ってるんだろう。怖い話だ。想像や当てずっぽうで、あそこまで言い当てるのは無理だろうに。何?何!何よ!?

会わせると言っておきながら、いつ、どこで会わせるのかも告げずに、ぱっといなくなるんだから話にならないわ。

何じゃ!いったい!

「晶子、東京のど真ん中でキツネに騙されました、ケーン」と呟きながら、ベッドにもぐりこんだ。


「何、これー、いやだよぅ、こんなのさ、恥ずかしいよ。お母さんならこんなの買わないよ」

腹が立つより悲しくなって、中学に上がったばかりの晶子は父親の手からまだ値札のついているセーターをひったくって横に放った。目からは涙があふれた。

「ごめんよ、お父さん、よくわからなくてさ。晶子に似合うと思って買っちゃったんだよ。ごめん、ごめん、お店に返してくるからさ。明日は家にあるのを着て行ってよ」


「あ、お父さん、遅いねえ」

「悪いな、晶子の十六回目の誕生日だから、もっと早く帰って来ようと思ったんだが出来なくてさ。夕飯は食べたのか?」

「佳代子おばさんがつくってくれて、一緒に食べた。おばさん、さっきまでいたんだよ」

「そうか、遅くまで。悪いことしちゃったな」

「そんじゃ、わたし寝るよ。あっ、ケーキ、冷蔵庫に入ってるから」

「ああ、悪かったな。おやすみ。おっと、忘れちゃいけない。誕生日おめでとう」晶子の目の前に赤い包装紙に白いリボンの小箱が現われた。


「おっ、おはよう。よく眠れたかい?」

眠気から覚めやらぬぼんやりとした視界に、牛乳を注いだカップと目玉焼き、炒めたウインナー、トーストをのせた皿が現われた。

いつも変わらぬ朝のテーブルだ。

おそらくは出張先のホテルででも食べたのだろう。父はこれこそが洋風の朝食、おしゃれなものと思い込んだようで、いつの頃からか定番となり、たまに目玉焼きが炒り卵になったり、ウインナーがベーコンやハムに代わることはあっても基本は同じだ。正直、だいぶ食傷気味で、たまには白いご飯に焼き鮭や海苔の純和風でもと思うが、出勤前の忙しい時間を自分のために母親代わりを務めてくれる父に無理は言えない。「いただきます」と言って食べ始め、多少無理をしてもすべて胃の中に収めて「ごちそうさま、おいしかった」と言いながら、食器を流しに運んでいく。

「おいしかった、と必ず言うのよ。お父さんも一生懸命頑張ってるからね」

佳代子おばさんの言いつけを守ると、父は「そうか、良かったな」と言いながらにこりとした。晶子が叔母に教えられて、食器洗いや、料理のまねごとを始めるのは高校生になってからであった。


リビングのほうから父の声が聞こえる。

「あ、佳代子さん、いつもお世話さま。晶子のほうからも電話してお願いするかもしれないが、また相談に乗ってやってください・・・うん、そうなんだと思う。

父親には相談できないことが沢山あるんだね。晶子には、ほんと不自由させてしまって申し訳ないと思うんだけど・・・佳代子さんには、ほんとに感謝のしようもない・・・そうそう、本人頑張っているようだから、親としては出来る限りのことはしてやらなけりゃと思ってるんですよ」


「お父さんのことは心配しなくていいんだよ。田舎でのんびりやってるんだから。しかしさ、晶子がこうして一人前になって東京で頑張ってるんだ。母さんも喜んでるよ。ほんとに良かった、良かった。晶子!ほんとによく頑張ったな」


就寝前のワインが利いたのか?

晶子は延々と夢を見ていた。

フラッシュバックがどのくらい続いただろうか。

急に老け込んだ父が現われて、晶子に語りかける。

生前最後に会った父の姿だ。

「晶子とは腹を割って話したことがなかったなあ。

まあ、父さんの仲間連中に聞いても、年頃の娘と構えずに話が出来るって奴はほとんどいなくて、だいたいが娘に疎まれて寂しい思いをしてきた連中ばっかりでさ。でもさぁ、そういう連中も、娘が嫁に行って自分の家庭を持つと、直接あるいは旦那や孫を介してさ、本音で話が出来るようになったというんだな。うちの場合は、そもそも前提が違うんだね。晶子と母子家庭ならぬ父子家庭で、それだけでもほんとに苦労かけたよな。晶子がどんなに切ない青春時代を過ごしたかと考えるとさ、お父さん、今でもやりきれなくてさ。この子には世界中の幸せを全部あげてくださいなんて、勝手なことを考えたりしたけど、でもこれからの自分に与えられる幸せの量というものがあるなら、せめてそれだけでも全部晶子にまわしてください、とお願いしたもんだよ。初詣なんか行くとさ。

ほんと、佳代子さんがいなかったらどうなっていたんだろうね。今でも怖くなる。お父さんの至らぬところをどれだけカバーしてもらったか。もう感謝のしようもないよ。

佳代子おばさんも随分と歳をとっちゃったけど、これからも何かあったら何でもおばさんに相談するんだよ。

お父さんはね、とにかく晶子が大好きで、宝物だったんだよ。これからもだよ。だから幸せになるんだよ。晶子の選んだ相手なら大丈夫だ、二人で思いやりを持ちながら明るい家庭を築いていくんだよ」

「お父さん、たしかに本音で話したことがあったかと言われれば、なかったかも。だって、お互いに照れて口に出せないことって沢山あるよね、とくに、うちみたいに父娘家庭ではさ。

母親相手だったら言えることも、父親には言えないことがあるんだよ。お父さんだって同じでしょ。息子だったら言えたことも、娘のわたしには言えなかったことが沢山あったんじゃないの。

お父さんの前では、死んだお母さんのことは口に出さないと決めていたけど、それはきついこともあったわよ。でも今はわかる。お父さんのほうがもっと辛かったんだよね。ほんと有難う。

わたしもお父さんのことが大好きなんだよ。お母さんが亡くなってから、というか亡くなるまでの看病も含めて、ほんとに大変だったと思うけど、いつもやさしくてさ、お父さんに守られてるんだって思うと安心出来たよ。

佳代子おばさんにも、ほんと感謝、感謝だよね。

でもさ、ひとつ疑問に思ってたことがあってさ。

佳代子おばさん、絶対にお父さんのこと好きだったんだと思うよ。

お父さんが鈍くて気がつかなかったのか、あるいは死んだお母さんの妹だということがネックになったのか、わからないけど、どうだったのさ」

「晶子はそんなことを考えていたのか。そういうことは全くなかったよ。

うーん、晶子は覚えてないだろうなあ。あれは母さんが亡くなってすぐの頃だったな。二人で遊園地へ行ってさ、パラシュートみたいなやつ、上に上がってそのあと急降下するやつだよ。晶子は乗りたそうだったんだけど、降りてくるひとがみんなキャーキャー叫ぶもんだから、乗る直前になって怖じ気づいたんだね。急に顔つきも凍りついてさ。でもね、勇気出してひとりで乗っておいで、面白いぞ、と送り出したんだよ。晶子が固まった表情のまま上に昇っていくのを見て、ひとりで乗せたのはやっぱりかわいそうだったかな、と後悔してさ、一転急降下してふらふらになって青白い顔で降りてくる晶子を見た時には、胸がつまったよ。

ほかの子は乗るときも、降りるときも、家族でわいわいやっててさ、降りてきたらみんなで、大丈夫か、大丈夫かと大声をかけててさ。

おまえだけだったよ、乗るときも、降りるときも、ひとりぽっちで、降りてきてお父さんのほうへ駆け寄ると無理してにっこり笑ってさ。

帰りに食べたハンバーグはおいしかったね。普段出来合いのものが多かったから、晶子がおいしそうに食べる様子を見て余計に切なくなってさ。

あのとき、お父さんはね、晶子を守れるのは自分しかいないし、将来自分に代わって晶子を守ってくれるひとが現われるまでは、何としても元気で頑張ろうと思ったんだよ。それこそが、これからの人生の目的だと思ってね。

だから、お父さんに代わって晶子を守ってくれるひとには、ちゃんとお父さんの口からお願いをしたかったよ。それが果たせなくて無念だったけど、晶子はもう大丈夫だ。そういうひとが現われたんだから。お父さんは、もうこれでお役御免だ。安心してお母さんのもとへ行くよ」


 窓から差し込む光がまぶしく、晶子の目から涙がこぼれた。

ナイトキャップのお蔭か、すっかり熟睡してしまったが、高志との約束の時間までには十分な時間がある。

コーヒーとトーストの準備を始める。

何かつくろうと思ったが、目玉焼きや炒めたウインナーはいまだに食傷気味のところがあり、わざわざ自分ひとりのために料理する気持ちにはなれない。

苦笑しながら、冷蔵庫を開けてバターとジャムを取り出した。


 高志はもうソファに座って待っていた。

晶子を見つけると、おはよう、と言いながら6番と印刷された番号札をひらひらさせた。

「次の次だよ。終わったら、昼は何食べる?」

「何かわからないけど、ハンバーグが食べたいの」

「おっ、肉食とは珍しい。どうしたの、こっちは異存ないけど、というより大賛成!」

 ハワイでの二人だけの挙式、ハネムーンを申し込むと、駅ビルの最上階に上がってレストランへ入った。

「ご両親には、ほんとうに了解していただけたの? わたしのほうから直接お願いすべきじゃなかったかしら」

「全く問題なし。君の事情は分かっているし、帰国後にお披露目会もすることだしさ。おふくろなんか、今風でいいんじゃないかって言ってるよ」

「高志にもお世話かけちゃったね。ほんとうに有難うございました」

そう言うと、晶子はぺこりと頭を下げた。

「何を、水くさい」と高志は鼻で笑った。

親兄弟もなく、式に呼べる肉親といえば、からだをこわしてから遠出も難しくなった叔母の佳代子だけという晶子にとっては、世間一般の結婚式は荷が重かった。

高志も気安く賛成してくれたお蔭で、当人二人だけの海外挙式で落ち着いた。

「ハンバーグを見ると、何故か父を思い出すのよ」

「そうか、昔どっかのレストランで一緒に食べたんじゃないの。

 でも、お父さんとはあんまり話をしたこともないって言ってたよね」

「えーっ、そう? でも最近昔のこといろいろと思い出すの。そうするとね、実は沢山の思い出を残してくれていたんだなと気が付いて、有難いなあ、と感じるようになったの。

それにしても高志のこと、紹介したかったなあ。高志にも会って欲しかったなあ」

「俺も会いたかったなあ。そうだよ、お父さんの墓参りに行こうよ。新幹線なら日帰りも可能だろ。佳代子叔母さんにも挨拶だよ。早速来週にでもどう?」

「えーっ、せっかち!」

「思い立ったが吉日ですよ!」

有難う、と言いながら晶子は笑みを返した。


「お世話をかけました。ほんとうに有難うございました」

深く一礼すると、老人はまっすぐに前を向いて歩き出した。

背筋をぴんと伸ばして一歩一歩踏みしめるように階段を昇って行く。

数歩進んだところで、ひょいと右手を上げると、さようなら、と呟いた。

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