夜明けに仰ぐ月

後藤守利

第1話  田中修一の場合

「突然申し訳ございません。田中修一さまですね?」

男は読んでいた雑誌から目を離して、声のしたほうへ首を回した。     

黒いスーツ姿の見知らぬ女が立っている。

一瞬たじろいだものの努めて平静を装いながら、読みかけのページに人差し指を挟み込むと、からだの向きを変えた。

「そうですが・・・」

男の目が女の視線と交差すると同時に、女の口から低い声で言葉が続いた。

「冷静にお聞き願いたいのですが、是非ともお会いしたいとのお母さまの伝言をお伝えに参りました」

  男の表情が固まり、怪訝な顔つきは眉を寄せて険悪なものへと変わった。

「何を言ってるんですか、おふくろはとうに死んでるんですけど!」

男は語気を強めて女を非難する口調となったが、夜半の書店には人影もまばらで、少し離れたところで立ち読みに精を出している中年女性は顔を上げることもなかった。

 女は怯むそぶりも見せず、男の顔を見つめたままで事務的な口調を続けた。

「存じ上げております。宜しければ少しお話させていただきたいのですが」

「え、えっ! 死んだおふくろが俺に会いたいって! 何言ってんだよ、あんた大丈夫か、おかしいんじゃねえのかっ!」

肩をそびやかして飛びかからんばかりに気負った男は、自分の声が大きくならぬよう精一杯の注意を払ったつもりであったが、女の次の言葉を耳にして、からだの芯からすーっと力が抜けていくのを感じた。

「お母さまは、いつもあなたを気にかけておられます。ライターの封印を解かずに禁煙を続けていますか? 喘息はどうですか? もう治りましたか?」

「えーっ、何でそんなこと知ってんだよ! あんた誰だよ、誰なんだよ!」

男は声を殺しながら、今度は不安を帯びた声で言い返した。

「お母さまのご希望通りにお会いになるか、あるいは、お会いにならないのか、ご返事は今この場でお願いしなければならないのです。いずれにせよ、わたしとはこれが最初で最後の出会いとなりますし、わたしのことはご記憶には残りませんのでご安心ください」

女は返事を促すように男の目を強く見つめ続けた。男は女の気迫に押されるようであった。

「そ、そんなことすぐに決められるか! おふくろは死んだんだぞ、ずいぶんと前に!」

「最後のお花見をした吉川公園の桜の木の下でお会いしたいとのご希望です。あなたと奥さま、お子さま、そしてお母さまの花見の席に酔客が倒れ込んできて、いざこざが起きましたね。お母さまの洋服の上にビールがかかってしまいましたね」

 男の脳裏に当時の記憶がよみがえった。

桜が大好きだった母を呼んで、家族と夜桜を楽しんでから十日もたたぬうちに逝ってしまった。あの花見が、女手ひとつで育ててくれた母との最期の別れになってしまった。母にはもう少し生きていて欲しかったと、今も何かにつけて思うのが常である。苦労ばかりかけて、きちんとした親孝行もしないで終わってしまった。

「どうされますか? わたしはもう失礼しなければなりませんので、『はい』か『いいえ』でお願いいたします。『はい』と仰らぬかぎりは、『いいえ』とお答えになったものとさせていただきます」

 母の死後はろくなことがなかった。

五年近く連れ添った女房とは、すったもんだの挙句に昨年末別れ、一粒種の娘は女房が引き取った。

酒はともかく稼ぎの半分以上を競馬につぎ込み、家計、家族を顧みなかった当然の報いであったが、女房、娘の涙も男を更正するには至らなかった。

世間で言うところの一流企業ではあったが学歴社会の色が濃く残る保守的な会社にあって、高卒であれば人一倍頑張らねばならぬところであったが、次第に男の気力は萎えて誇りも消えた。

男の変化は共に暮らす家族には次第に耐え難いものになっていった。

それでも母親が存命中は、母の一喝で何とか納まった。母の死後は、うじうじと泣きながら家計苦を訴える女房に、うるさい!と怒鳴り声を返し、時には手まで上げるようになった。幼い娘の笑顔に応える余裕までも失くなった。

 救いようのない男になってしまった、すべては自分が悪いのだ、との自覚はまだある。娘にも会いたいし、女房に頭を下げてでも元のように家族一緒に暮らしたいという思いもある。死んだ母親の墓にも久しく参っておらず、こちらも気になっている。

すべてやり直したいとの気持ちはあるが、それを行動に移す勇気がない。

こんな情けない自分の姿を見たら、おふくろは何と言うだろう。

そのおふくろが俺に会いたい?!

死んだおふくろが? そんな馬鹿な!

でも、もし本当に、もう一度だけでも会えるなら・・・。

 男の全身は物理的にも精神的にも硬直した。

どうしたらよいのか、わからない。

現実感のない話に騙されてはならない、という気持ちと、母への恋しさのどちらにも勝てぬまま、口を突いて出て来たのは苦し紛れの捨て台詞であった。

「いったい、何なんだよ!」

男の様子を窺っていた女は、これが潮時と思ったのか、さっと回れ右をすると足早に出口へ向かった。

「お、おい待てよ!」

あわてて駆け出したが、通りに出て左右を見渡しても女の姿は見えない。

右へ走り、今度は戻って左へと駆け出してみたが、やはり女の姿はどこにもない。

深夜の歩道はひっそりとして人影もまばらである。男がため息交じりに、何なんだよ、と呟くと、青い羽根を優雅になびかせて虚空を舞う蛾の姿が目に入った。

何なんだよ、ったくよ!

 一瞬、男の意識が飛んだ。

ん、俺はここで何をしている?

男は月を見上げて、独りごちた。

ラーメン屋の後に、本屋に寄って、ビデオを借りて帰るつもりだったんだよな。

あれ、ボケたか、呑み過ぎか。

今一度大きなため息をつくと、男は本屋に入っていった。


 老婆は固唾をのんで女の様子を見守っている。

是か、非か、今それが明らかになろうとしている。

女は老婆に近づくと、首を左右に振った。

あーっ、という小さなため息をもらすと、老婆は肩を落とし、小さな背中を見せながらとぼとぼと歩き出した。

もうこれ以上、ここにはいられない。行かねばならない。

二度と振り返ることもできないし、息子や孫の記憶も消えていくのだ。

もう何にもしてやれないけど、元気にしっかりやっておくれよね。

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