第39話 きさらぎ町


 



 ガタン、という揺れで目が覚めた。


「……町―、……町―」


 低い聞き取りにくい声で、バス停の案内が流れる。

 わたしは慌てて、うたた寝していたバスのシートから立ち上がり、降車口のある運転席の方に急いだ。一瞬見ようとした窓の外は、薄暗くてよく見えない。しかしよく見えなくても、聞き取りにくくても、わたしが普段高校の下校時に使う路線のバス停で、「町」で終わるのは「青柳町」の一カ所しかない。「青柳町入り口」や「青柳病院前」などというのはあるが「町」で終わるのは一つだけ。つまり私がいつも降りるバス停だ。

 前を向いたままの運転手に「ありがとうございました」と早口で言い、バスを降りる。

 え……?

 最初に違和感を覚えたのは、視界を遮る深い霧と、降りた足で踏んだ地面の感触だった。

 土なのだ。

 わたしが乗る路線はバスターミナルがある駅発着の循環線で、走るのは市街地ばかり。車道はもちろん歩道も、どこにも土の道はない。そういえば窓の外に見えた景色も変だった。どんなに暗くても、霧が立ち込めていても、街灯やビルの明かりが一つも見えないなんて……

 冷たい風が吹いて霧が流れ去る。わたしは息を呑んだ。

 そこには見たこともない田園風景が広がっていたのだ。住宅は田畑の周りに点在しているのだが、その向こうには見慣れない林と山々が連なっている。筋雲の広がる空は薄暗く、山々に接する辺りは、もうぼんやりと赤く染まり始めていた。

 とにかくここは市街地ではない。

 そう言えばバスで聞いたアナウンスも、いつもの女性の声ではなかった。最初から乗るバスを間違えてしまったのかもしれない。

「すいません、降りるバス停を間違えました!」

 焦って大声で言いながら、わたしは振り返り……

「え……」

 バスが、消えていた。

 ドアが閉まる音もエンジン音も、何も聞こえなかったのに。

 わたしはまだバスの中でうたた寝していて、何か変な夢を見続けているの?

 冷えた空気の中に立ち尽くしているうち、そうではないのだろうということは分かってきた。

 冷静に考えれば、別の路線のバスに乗り間違えるはずがないのだ。今年入学した高校の前のバス停には、市内を循環する一路線しか止まらない。つまりは、わたしがバス停の名前を聞き間違えただけなのだろう。アナウンスがいつもの女性の声でなかったのも、機械が故障していたなら説明がつく。それでも循環線にこんな田園風景があるとは、とても思えないのだが……

 そもそも聞き間違えたというなら、このバス停は、どこ?

 わたしはバス停の丸い標示を覗き込んだ。


 「きさらぎ町」


「……?」

 そんな町の名は、聞いたことがなかった。もちろん、環状線にそんな名前の停留所はない。

 さらに最悪なことには、その下にあるべき時刻表が見当たらなかった。寂れた町のようだから、取れてしまってそのままになっているのだろうが、これでは次のバスがいつ来るのか分からない。

 と言うより。次のバスって……来るの?

 山に囲まれ民家も少ないこの場所に、夜遅くまで何本もバスが通っているとは思えない。

 まさか、さっきのバスが最終とか。

 頭を抱えたくなった。こんな山奥に来るなんて、一体自分は何時間居眠りしていたのだろう。

 時間を確かめるためにスマホを取り出そうとして、上着のポケットが妙に軽いのに気づいた。

 ない。

「あ……」

 思い出した。バスに乗るとすぐわたしはスマホを見始め、そのままうとうとして……たぶん慌てて起きて、シートに置き忘れてしまったのだ。

 スマホがあれば、家にも友達にも連絡できる。自分がどこにいるのか、位置情報だって確認できるのに。

「うわ……」

 体の力が抜けて、座り込みそうになってしまう。

 とにかく、どこかで電話を借りて助けを求めるほかなかった。じっとしていても何も解決しないし、寒いだけだ。

 見回すと民家に明かりは点いているが、その周辺にも道端や田畑にも、全く人影は見えなかった。ただ、すぐ近くの小高い丘になったところに学校らしい建物があり、まだ誰かいるらしく、一階の閉まったカーテンの隙間から照明の光が漏れている。学校の方がなんとなく確実な気がした。事情を話せば電話くらい貸してくれるだろう。

 わたしはため息をつき、バスどころか車の一台も通らない道路を離れ、その学校へと続く細い脇道を歩き始めた。


「すみませーん」

 おそらく十分も歩かずたどり着いた小さな二階建て校舎の玄関には、〈きらさぎ小学校〉と書かれた板が嵌め込まれていた。

 一階の部屋にはまだ明かりがついたままだ。しかも、開いたままの昇降口を中に入ってみると、一番近くにある事務室の方からは、女の人が談笑するような声が聞こえてきた。

「そうなのよ。でね……」

「そういえば、山下さんは」

「じゃあリンゴでも食べよっか」

 それから何がおかしいのか、声を揃えて笑った。

 とにかく嫌な感じの人たちではないようだ。わたしは勇気を出して、閉まっている事務室のドアをノックし、声を張り上げた。

「すみません。道に迷ってしまったみたいで。電話を貸してもらえないでしょうか」

 すぐに明るい声で返事があった。

「はーい、どうぞ」

 良かった。これでなんとかなる。

 わたしは胸をなでおろし、ドアを開けた。

 え……?

 わたしの目の前には、薄暗い、誰もいない、静まり返った事務室があるだけだった。

 そんなはずはない。外からカーテン越しでも電灯がついているのが見えた。閉まっていたドアの隙間からも、確かに光が漏れていた。なにより何人もの人の声が聞こえて、わたしの呼びかけにも答えてくれたのに。

 ふと、事務用机の上に置いてある、古いデザインの電話が目に入った。うっすら埃が積もっているようにも見えたが、とにかく電話だ。わたしは恐る恐る受話器を耳に当て、覚えていた自宅の電話番号を押した。

 何の音も聞こえない。

 電源に繋いであるのかどうか確かめたかったが、机の下にはゴミが散乱していてよく分からなかった。目についた部屋の照明のスイッチを入れてみる。やはりつかない。

 変色した書類の散らばる机の上といい、どう見ても、今使われている部屋とは思えなかった。

「でも……」

 本当に、ついさっきまで明かりも……

 呆然としていると、どこからか、またあの女の人たちの声が聞こえてきた。

「あらあ、空耳だったのかね」

「村松さんはそそっかしいから」

 そしてまた複数の笑い声。

 その声は隣の部屋から聞こえてくるような気がした。

 わたしが……勘違いしただけ?

 最初から声は、隣から聞こえていたの?

 この事務室が使われていないだけ?

 でも何か変だよ、という心の声を押し切って、わたしは隣の職員室の前に立った。どうしても電話を借りたかったからだ。それに職員室の戸には明り取りのガラスが嵌っていて、はっきり光が漏れている。

「あの、入ってもいいですか?」

 わたしはドアをノックして尋ねた。

「はーい、どうぞ」

 また明るい声の返事。

 ガラッ

 わたしはもう一度ガラスから見える光を確認してから、ドアを開けた。

 暗かった。

 まただ。入り口横の棚にコインを入れるタイプの電話が置いてあった。受話器を取ってみる。やはり何の音も聞こえない。ずらりと並んだ先生用の机にほとんど物はなく、どう考えても今利用されている感じはない。

 でもおかしい。それなら私が外から見た明かりは?

 わたしが聞いた声は?

「おかしいねえ」

「どうしたのかねえ」

今度は隣の保健室の方から声がし始めた。

 光が漏れる保健室の戸は、もう何も聞かずに開けてみた。

 やはり薄暗い。人もいない。事務室や職員室と同じように室内は荒れ果てた感じで、もう長く使われていないとしか思えない。

「不思議だねえ」

「からかわれたのかねえ」

 今度は、二階から聞こえた。気が狂いそうだった。からかわれたのかと言いたいのは、わたしの方だ。

「いい加減にしろ!」

 いきなり飛び上がるほどの怒鳴り声が響いた。初めて聞く、男の人の声だ。

「わざわざ学校まで来て大人をからかうなんて、ろくな奴じゃねえ。俺が叱りつけてやる!」

 ドンッ!

 いきなり巨石が落下したような大音響が、二階から校内に響き渡った。天井が抜け落ちるのではないかと思ったほどの重量感だ。理屈抜きの恐怖に、全身が冷たくなる。

 何これ? 何これ!

 とにかく気づかれてはいけない気がして、保健室にあった戸棚の陰に逃げ込んだ。

 ドスン、ドスン、ドスン、ドスン!

 校舎を揺るがす岩石のような足音が、二階から一階に下りて、こちらに近づいてくる。ヒッ、と悲鳴が漏れそうになり、慌てて両手で口を押えた。

 保健室の外で足音が止まった。

 薄暗い廊下が巨大な影で黒く染まっている。でもおかしい。あの足音とこの影なら、とてつもない大男で、到底小学校の廊下に収まるようなサイズとは思えない。

 でもそんな人間、この世にいるわけない!

「日下さーん。リンゴ剥いたよー」

「もういいじゃない」

「そんなに短気な用務員は、嫌がられるよー」

 またのんびりした女の人たちの声が、上から聞こえてくる。

「ハイハイ、分かったよ」

 急に普通の男の人の声が聞こえた。

 パタ、パタ、パタ、パタ……

 スリッパのような足音がゆっくり階段を上がり、遠ざかっていく。

 何……これ……

 わたしは口を押えたまま、恐る恐る廊下を覗き、誰もいないのを確かめてから急いで校舎を出た。

 訳が分からなかった。小走りで校舎を離れながらも、まだ足が震えている。とにかく、酷く時間を無駄にしたことは確かだ。もう日が暮れてしまう。

 そう思いながら空を見あげて、奇妙なことに気づいた。

 空の色が変わっていない、ような。

 暗くなってもいない。もちろん明るくなってもいない。遠くの山々の稜線にかかる細い雲も、わずかに赤みを帯びた空も、全部同じ、のような。

 気のせい?

 わたしは急いで坂を下り、一番近くの家の玄関に近づき、引き戸を叩いた。奥の方からは夕食の支度をしているらしい水道の音と、テレビのような騒音と賑やかな子供の声が聞こえた。

「すみませーん。こんばんはー」

 すぐに子供らしい足音が玄関に走って来るのが聞こえた。

「お母さーん。お客さん」

「はーい」

 ガラスの嵌った引き戸の向こうに、明かりが灯る。しかし……

 そこまでだった。やはり、いくら待っても誰も出てこない。引き戸に手を掛けると、簡単に開いた。

 暗かった。誰もいない。広い土間には埃をかぶった子供用の自転車が横倒しに転がっているだけだ。次に訪ねた家も、その次に尋ねた家も、全部同じだった。明かりもついているし、声も音もするけれど……

 どうして……

 混乱と疲れで、頭の中が真っ白になってくる。

 一体この町はどうなっているの? わたしはなぜこんな異常な場所に迷い込んだのだろう。

 分からない。

 なんとなく、わたしが見ているのは、ただのこの町の遠い記憶の残像のような気がした。本当は……もうこの町には、誰もいないのではないか。もう何十年も前に人が途絶えてしまった廃墟なのではないか。そんなところに、今わたしはたった一人で……

 ぞっとする。

 しかしそんなはずはなかった。本当に無人の町なら、バス停にバスが止まったりしないはずだ。

 でも……確かにあのバスも、変だった。

 わたしは高校前のバス停にバスが来た時のことを、思い返した。

 放課後、友達と長話をしてしまったせいで、わたしはいつもの帰りのバスに、ぎりぎりのところで乗り遅れてしまった。次のバスまでは二十分も待たねばならない。誰もいなくなったバス停で、わたしは時刻表を眺めながら溜め息をついていた。

 その時、なぜかまたバスが近づいてくる音が聞こえたのだ。

 ラッキー、と思った。

 バスが遅れることはよくあったので、乗り遅れたと思ったバスは、実はもうひとつ前の時刻のバスで、今来るのがいつものバス、とその時は考えたのだ。前のバスが出た直後だったので、乗り込んだのは私一人だけだった。そしてバスの中にも誰もいなくて、珍しいな、と思ったけれど、座った後はいつものようにスマホを眺めて、すぐに酷い睡魔に襲われて……

 何かが引っかかった。頭の中でキィィ―ン……という不快な金属音が響く。

 こんな話を……以前にも聞いたことがあったような……


―もう、この話をするのはやめよう。聡子も忘れなさい。


 そう言ったのは、母だった。友達も皆、親にそう言われたそうだ。だからわたしは、心の奥にその記憶を押し込んだ。

 そうだ、まだ小学生の……五年の頃。

 同じ五年の男の子が行方不明になった。その子は一人で行った塾の帰りにいつものバスに乗り遅れて、家にいた母親に迎えに来てほしいと電話したけれど、その電話の途中で……

―あ、お母さん。またバスが来たから、もう迎えに来なくていいよ。よく分からないけど、ラッキー。

 ただその子は私と違って、スマホをバスの中に置き忘れたりはしなかった。しばらくするとまた男の子が母親に電話してきた。

―お母さん、ここ、どこなんだろう。バスの中で居眠りしちゃって、起きたら窓の外が霧でよく見えなくて、〈……町〉って言うから、降りるバス停だと思って慌てて降りたら、全然知らないところで、僕、聞き間違えたみたいで……

 そうだ。わたしもバスを降りる前に窓から外を確かめようとしたけれど、白っぽい霧がかかった感じでよく見えなかった。

 とにかく母親が迎えに行こうとして、降りてしまったバス停の名前を聞いたそうだ。

〈〇〇〇〇町〉

 しかしその町に心当たりはなく、バス会社に問い合わせても、そんな名前のバス停はないと首を傾げるだけだったそうだ。母親は男の子の位置がいつでも自分のスマホで分かるようにしていたけれど、それも全く表示されなかった。

 大騒ぎになって、保護者総出で捜索もされたが、見つからなかった。その後のことは、近所の親同士で話し合っていたのを、通りすがりに漏れ聞いたことくらいしか覚えていない。


―スマホで言ってくるその街の様子がおかしいんですって。

―どこを訪ねても、声はするのに出てこないとか。

―巨人の男に追いかけられそうになったとか。

―血管人間が襲ってきたとか。ありえないでしょ?

―その〈○○〇〇町〉とかいうバス停もね。

―ずっと夕暮れなんて、あのお母さんの話、異常過ぎる。もしかしたら……


 そして最初は同情的だった親たちは、半狂乱になったその男の子の母親から徐々に距離を置くようになり、男の子の失踪の話もなんとなく口にしてはいけないような雰囲気になった。子供のわたしたちも話題にしてはいけないと言われ、無理やり忘れたことにしたのだ。

―ひょっとしてあのバス路線、メビウスの輪みたいになってんじゃないかな。

 最後にその子の噂を聞いたのは、数か月後の学校の廊下だ。男子が数人でヒソヒソ話していた。

―メビウスの輪? テープを半回転させて表と裏をくっつけるとできるやつ? 

―そう。ぐるぐる路線を回っているうち、何かの拍子に裏返って別の世界に行ってしまう時があるのかな、って。

―別の世界ってどういう世界だよ。

―それは分からないけど……

 いきなり視線を感じた。

 わたしはぎょっとして、思わず振り返った。

 高齢の夫婦らしい会話が聞こえる家の横だ。会話は聞こえるが無人の家なのは確認済みだった。その家の木の塀の辺りに誰かが立って、じっとわたしを見たような気がしたのだ。でも、この町で生身の人間に出会ったことは、まだない。

 気のせいかもしれないが、気味が悪い。

 とにかく、早くこの町を離れた方がいいと思った。

 塀のそばに誰もいないのを確かめてから、わたしは急いでバス停の方向に向かった。

 男の子が乗ったのはぐるぐる回る路線。つまり、循環線だ。やはりあの子も同じ路線だったのだ。それに、思い出してみれば全部わたしの見たものと一致する。〈○○○○町〉の部分は思い出せないが、〈きさらぎ町〉だったに違いない。あの後、男の子が見つかったという話も聞かない。

 寒いのに、手にジワリと汗が滲んでくる。

 もし、本当にこの町から出られなくなったら……

 それにまだ一つ、一致していないものがある。

 小走りでバス停に向かいながら、背筋が冷たくなるのを感じた。

 血管人間って、何?

 そんなもの見たくもないし、襲われたくもなかった。とにかく早く、早くこの町を離れるのだ。

 バス停に着いた。

 バスがどちら方向から来たかは覚えていた。その方向には山に沿ってカーブする道路が、切れぎれに見えている。スマホを置き忘れたと分かった時点で、電話で外に連絡を取ろうなんて思わないで、最初からこの道路を歩いて引き返せばよかったのだ。そうしたら、あんな訳の分からない体験をしなくて済んだ。とにかく歩いて戻ろう。こんな訳の分からない町には二度とかかわりたくない。

「無駄だよ」

 いきなり聞こえた声に、歩き出そうとしていたわたしは飛び上がった。

 子供の声だ。振り返ると私から数メートル離れた路上に、いつの間にか小学生くらいの男の子が立っていた。初めてこの町で生身の人間を見た。なのに全く嬉しくない。むしろ、怖い。

「無駄って……何が?」

 ビクビクしながら、わたしは尋ねた。男の子の顔は、お面のように表情が感じられなかった。

「歩いてこの町を逃げ出そうと考えたんでしょ? 逃げられないよ。誰も、永遠にこの町から出られないんだ」

 気がつくと、少し離れた民家の前にも一人、畑の横にも一人、見回すと数人の人間が立って、じっとわたしの方を見ていた。高齢の男の人もいれば、若い女の人もいる。

 まさか……この人たちも全員、この〈きさらぎ町〉に迷い込んだの? そしてそのままずっと……

 嫌だ!

 とにかく歩き始めた。別に誰かから妨害を受けることもなかった。歩きながら振り返る。どんどん男の子の姿が遠くなっていく。もっと歩調を速くした。早く元の町へ、いや、この異常な町でなければどこでもいいから、普通の場所に戻りたかった。

 カーブを一つ越えると、もう町は見えなくなった。

 やった!

 少し歩くのをゆっくりにする。もう見える景色は、田畑と遠い山々の連なりだけだ。さらに一つカーブを曲がって歩く。次の町、というより寂れた感じの村が見えてきた。田畑の間に点在する家々にはポツポツと明かりが点いているのも見える。奥の小高い丘になった場所には学校らしい建物も……

 立ち止まった。

 わたしが歩く道路の先にはバス停があった。バスを待つように男の子が立っていた。その子がゆっくりと振り向く。

「ほらね。無駄だったでしょ?」


 いやぁぁぁぁぁ―――っ!


 声を上げたわけではない。声など出なかった。ただ立ち止まってブルブル震えていただけだ。男の子は年齢に合わない妙に落ち着いた笑みを浮かべて、わたしの方に寄ってきた。

「最初はパニックになるよね。みんなそうなんだ。でも、そのうち何をどうしても逃げ出せないことが分かって……」

「松井……君? ねえ、松井君でしょ?」

 わたしは思わず呟いた。

 五年の時いなくなった男の子の名前だ。同じクラスではなかったが大きな事件だったので名前を覚えていた。言った途端、男の子は目を見開き、それからわたしの姿をじろじろと眺め、それから急に呻き声を上げ顔を歪めた。

「僕がここに来てから、一体どれだけ経ってるの?」

「5年……くらいかな」

「5年!」

 今度は男の子―松田君の方が叫び声を上げそうだった。松田君は両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

「そんなに?……信じられない。ここでは時間が動かないから、年も取らないし空腹も感じない。止まってるんだ! だから、なんとなくまだ数か月くらいかと……!」

「でもバスは来るでしょ。わたしや松田君みたいな、ここに迷い込んだ客を乗せたバス」

「……僕たちには見えないんだ」

 吐き出すように松井君は言った。

「気がついたら、また一人バス停に立ってるみたいな。だから着いたバスに乗ろうと待ち構えたこともあるけど、ダメなんだ。全部ダメなんだよ。学校で声のする部屋を全部開けたり、民家だって、声のする方に入り込んでみたけど、ダメなんだ。あまりやり過ぎると、大男の足音に踏まれそうになる。それよりもあの……あの血管人間が……!」

 さらに松井君は体を丸く縮めた。

「あの血管人間だけは、幻じゃない。いつも……あの山の向こうの赤い空が少しだけ暗くなると、あいつがやって来るんだ。みんな食べちゃうんだ。逃げても絶対見つかる。どこに隠れても見つかる。何度食べられたか分からない。痛いんだよ。すごく痛いんだ。それで、食べられて、死ぬ」

 えっ

「死んで……でも気がつくとまたここにいるんだ。いつもその繰り返しなんだ! あああ……っ」

 顔を上げた松井君が頭を抱えたまま、怯えた表情で目を見開いた。見ているのは山の向こうだ。どうしてもその方向を、わたしも見てしまう。

 山々の向こうが、暗くなり始めていた。

 初めて見た。ずっと夕暮れのようだった空が、赤黒くくすみ始めている。

 大地に黒い影が広がる。いつの間にか一番近い山の上に、黒い卵のようなものが乗っている。山の左右に黒く細長い鉄柱のようなものまで、何本も見え隠れしながら、うごめいている。

 まるで昆虫の細長い脚のように。

 何……これ……

 いきなり黒い卵のような物の中央に巨大な目玉が開いた。何の感情も感じられない爬虫類のような目。黒目はほぼなく、白目の部分には無数の赤い血管が走っている。

 わたしは体が動かなかった。息もうまくできなかった。ただそこに立ったまま、その山一つからはみ出るような信じられない物体を、ぽかんと見ていただけだった。

 これが……血管人間……?

「ああ、また来た。早く逃げないと!」

 高齢の男の人が、そう叫びながら民家の後ろへと走り出す。別の若い女の人も、ヒィヒィと声を発しながら逃げ出した。

「逃げたって無駄なんだよ。無駄なんだけど……」

 言いながら松井君も震えている。

 どうしていいか分からなかった。わたしはただ、あの化け物から逃げたいのではない。もうこの異常な町から逃げ出したいのだ!

 一つ目の怪物は何かを探すように、縦長の小さな黒目を動かし、やがて方向を定めると、その細長い、数十メートル以上はあろうかという複数の脚を、ゾリ……ゾリ……と昆虫のように動かして動き出した。

 山を越え、ゆっくりときさらぎ町に近づいてくる。近づくにつれ、赤黒い管と深紅の管がよじれながら、全身の外側を覆っているのが見えてきた。脚と同じくらい細長い胴体の中央に、そこだけナイフで横に切り裂いたような口があって、奥に牙のような歯が並んでいる。まるで悪夢だ。


―それってやっぱりさ、切るしかないんじゃない?

 あの時、途中から加わった誰かが言い出した。

―ぐるぐる回っているうちに、いつの間にか表から裏の世界に迷い込んでしまったのなら……元に戻るには、その繋がった表と裏のところを断ち切るしかないんじゃないかな。

―切るって、どうやって?

―それは分からないけど……


 血管人間の長い鉤爪のついた脚が最初の家に伸びた。中から半透明の人のようなものを引きずり出す。わたしにとっては声しか聞こえない幻だったが、血管人間にはちゃんと形のある餌なのだと分かった。半透明の人は両手両足をバタつかせていたが、すぐに血管人間の腹にある、ぱっくりと開いた口の中に放り込まれた。

 血管人間が次に目をつけたのは、まだ隠れる場所を決められずにいた若い女の人だった。ヒィ、ヒィと声を上げながら走るその人を、再び血管人間の長い脚が追う。無造作に鉤爪に突き刺し、引き上げる。

「いやああああああぁぁぁっ!」

 血管人間の口の中から聞こえた絶叫が、ぼぐっという異様な音とともに途切れた。血管人間の腹にある口から血が滲む。口の中からはみ出して動き続ける両足が痙攣して、やがて動かなくなった。わたしの方がパニックで叫びだしそうだ。これを何度も繰り返す?

 嫌だ。嫌だ。こんな酷い町、絶対もういたくない。こんな、ないはずのバス停の町!

 目の前にある丸いバス停の標示が目に入った。


〈きさらぎ町〉


 そうだ。こんなバス停があるからいけないんだ。

 わたしはバス停のポールに手を伸ばした。これが全ての元凶だとしか思えなくなった。こんなバス停があるからバスが引きずり込まれる。こんなバス停があるから、バスが止まって、うっかり降りてしまう。

 何人かの半透明人間をつまみ上げて喰った後、血管人間は塀の陰に隠れていた高齢の男の人に向かって腕を伸ばした。男の人は助けてくれと叫びながら、わたしたちの方によろよろ走ってくる。どうすることもできなかった。わたしや松井君だって、このままでは、いずれ血管人間に喰われる運命だ。

「こんなバス停があるからいけないんだよ。こんなものがあるから。こんなものがあるから……!」

道路際の土手の下まで落としてしまおうと、わたしは錆びたポールを道路の端へと押し続けた。落としたらどうにかなると思ったわけではない。何かしないと頭がおかしくなりそうだった。ただ、ポールの立つコンクリートの台は思った以上に重く、簡単には動かなかった。

「ダメだよ。それを動かしたら、もうもとの世界に戻れなくなっちゃうよ!」

 松井君がわたしの手をポールから引き剥がそうとする。

「何言ってるの。こんなバス停があるから、わたしたちこんな変な町に迷い込んで戻れなくなってるんだよ。そうでしょ!」

「そうだよ。そうだけど、でもやっぱりダメだよ。ここしかバスは来ないんだ。ここしか元の世界につながってる場所はないんだよ!」

 そう聞くと、やはりこのバス停が何かの重要なポイントなのでは、という思いが逆に強くなる。

「うぎゃあああぁぁぁっ!」

 高齢の男の人が、とうとう血管人間の鉤爪に捕まった。遥か上空まで吊り上げられたその人は、まるでポップコーンの一粒のように無造作に腹の口の中に放り込まれ、ぐぎょっ、という異様な一声とともに、上下の牙で潰された。

 次は間違いなくわたしと松井君だ。

「ダメだよ。やめようよ!」

 松井君はわたしが道路の外に倒そうとするバス停のポールを引き戻そうと引っぱる。

 グラッとポールが傾き、わたしの方に倒れてきそうになった。思わず全力で押し返す。

「あ……っ」

 松井君が小さく叫んだ。

 〈きさらぎ町〉と書かれた丸い板がゆっくりとわたしたちから遠ざかり、土手の下に落下していくのが見えた。暗い奈落の底に沈むように。

 暗い。

「……え?」

 本当に暗かった。慌てて周囲を見回す。

 いつの間にか、空が夜空に変わっていた。ずっと夕暮れのようだったのに。

 時が、移った?

 ギシッ……ガタン……

 何かが軋み潰れていく音が、あちこちで響き始めた。暗さに目が慣れてくると、それは民家が次々と朽ち果て、倒壊していく音だと分かった。庭木が大木になり、廃屋を隠し、黒い林を作る。道路のアスファルトが浮き上がったかと思うと、雑草が噴き出した。雑草は辺りを覆い尽くし、やがて町は、どこが家だったのか、道だったのかも分からないほど荒れ果てた有様になっていく。

 そして、これまで全く何もなかった目の前の山の中央に、気がつくとトンネルができていた。煌々と照明が照らす明るいトンネル。その向こうからは、微かに車の通り過ぎる音が聞こえる。

 ここだ。このトンネルを抜けるしかない!

「松井君、早く!」

 わたしはまだぼんやりしている松井君の手を引っぱって、全力で走り始めた。

 走らなければならなかったのは、これだけ全てが壊れようとしているのに、まだ血管人間が完全に動きを止めていなかったからだ。体中の血管のあちこちから液体を吹き出しながらも、血管人間はまだよろよろと動き、細長い脚をわたしたちへと伸ばしてくる。

「松井君、急いで!」

 言いながら振り返ったわたしは、彼が少し変化していることに気づいた。少し皺が増えたというか、全身が痩せてきたというか。そして、なんとなくフラフラしている。

 嫌なことを思い出した。

―ここでは時間が動かないから、年も取らないし、空腹も感じない。

 だとしたら……時間が動き出したということは……もしかしたら松井君の時間も一気に……

 しかしそれでも今は、元の世界に戻るのが最優先だと思った。具合が悪くても、元の町に戻れば病院にも行ける。

「松井君、頑張って。もう少しでお母さんに会えるよ!」

 そう言うと、ようやく松井君は小さく頷いた。

 トンネルに走り込んだ一瞬、ぐにゃん、と空間が歪んだ気がした。車の音が少し大きく聞こえるようになる。

 やはりここだ。帰れる!

「松井君、あと少し……!」

 励まそうとそう言った途端、わたしはいきなり大人のような腕力で握った手を引かれ、トンネルの外に引き戻されそうになった。危うく倒れそうになりながら振り返ると、松井君は顔を伏せたままハアハアと荒い息をしていた。

「ダメだ……やっぱりダメなんだよ……!」

 松井君の声が変な嗄れ声になっている。

「ヒッ……」

 わたしの手を、ガリガリに痩せた血管だらけの手が握っていることに、ようやく気づいた。

「痛い、痛い、痛い―――っ!」

 松井君が苦しそうに絶叫した。血管の浮き上がった手足が、何かに引っ張られるように細長く伸び始める。苦痛に引き歪んだ顔にも血管が浮き出し、両目だけが異様に大きく飛び出したかと思うと、いきなり鼻も口も呑み込み、一つの巨大な目玉に合体した。

「ぎゃああああっ!」

 わたしは悲鳴を上げ、既に鉤爪のように変化した松井君の手を振りほどいて、走って逃げた。気が狂いそうだった。

 どうして? 松井君はどうしてこんなことになったの? 五年間もここにいたから? あの血管人間は、あの町に迷い込んだ人間のなれのはてなの? それとも、一度迷い込んだ人間が外に出ようとしたのがいけなかったの?

 だとしたら……わたしは……

 コンクリートの段差につまずいて転び、膝を強く路面に打ちつけた。痛い。でも逃げないと。血管人間が、松井君が追ってくる!

 そう思って振り向いた。

 ブォォッ、とエンジン音を響かせて、ライトをつけた車が目の前を通り過ぎていった。反対方向からも、何台もの車。その向こうにはコンビニと、自販機。

 わたしは膝を庇いながら立ち上がり、辺りをぼんやりと見回す。

 明るい街灯の下、人々が家路を急いでいた。街路樹の向こうには、見覚えのあるビルとマンションの林立する街並み。

 そこにはもう、何もなかった。

 血管人間も、松井君も。トンネルそのものも。


 わたしがあの町にいたのは、ほんの数時間のつもりだったが、実際には丸三日間、行方不明になっていた。

 何も説明できなかった。信じてもらえるはずがない。

 結局、一時的な記憶喪失ということになった。

 その後も数週間は、もしかしたら自分にも松井君に起きたような変化が起きるのではないかと怖かったが、今のところは大丈夫のようだ。

 考えてみれば松井君はもう五年も〈きさらぎ町〉にいたのだ。トンネルの中で見た松井君の変化を思い出すと、時の過ぎたこちらに帰ってくることは、やはり無理だったかもしれない。自分だけ逃げることはできなくて、無理に松井君の手を引いてしまったけれど、あんなことになるなら、街に残った方がよかったのか……

 今頃松井君はどうしているだろうと、時々考える。今度は松井君が血管人間になったのだろうか。崩壊していくあの町の姿を思い出すと、今生きているかどうかさえ……

 でも、本当に〈きさらぎ町〉崩壊したのかどうかは分からない。

 一度は崩壊したように見えて、あの血管人間に食べられた人たちのように、また再生している可能性は? あれだけ苦労して突き落とした〈きさらぎ町〉のバス停が、またあの場所に、当たり前のように復活しているとしたら……

 なぜなら先週、学校の廊下でこんな話を耳にしたのだ。


―俺この間、帰りにバスに乗り遅れちゃってさ。しばらく待つのかと思ってたら、すぐに次のバス、来たんだよ。時刻表にはない時間なのに。ラッキーと思って乗りかけたんだけど、中に誰もいなくて、乗るのも俺一人でさ。なんとなく気味悪くて、乗るのやめちゃったよ。あの路線、昔から時々変なバスが走っていて妙なところに連れていかれるから、一人の時は絶対乗るなって、ばあちゃんから聞いたことあったんだよな。もしあのバスに乗っていたら俺、今頃どこに連れて行かれてたんだろう……






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