第38話 おばあちゃんの電車
いつも真夏の盆の頃に祖母のいる母方の実家に行くと、必ず歩く散歩道があった。
いまだに舗装されていない砂利道で、道の両側には夏草が茂り、一方は山、一方は川に続く斜面。川幅は広く、その向こうを結構交通量の多い国道が走っている。
砂利道は中学生や高校生が自転車で走っているのを見ることも多く、ずっと国道に沿った自転車道なのだと思っていた。しかしまだ小学生の頃、いつものように祖母と散歩しながら話していると、実はここは昔、チンチン電車が走っていた線路だったのだと話してくれた。
「え、電車が走ってたの? こんなところを?」
思わずそう言ってしまったのは、そこが見渡す限りの山野の中にところどころ集落がある程度の、本当の田舎だったからだ。確かに少し先にはそれなりに大きな市街地もあるが、こんな田舎まで線路を伸ばしても、ほとんどお客はいなかったのではないか。一日に、一人とか……
そう言うと、祖母は珍しくふわふわと生えた眉をひそめて、がっかりした顔になった。
「まあ、萌音ちゃんってば、失礼だねえ。昔はもっとたくさん人が住んでいたんだよ。小学校なんか一学年が何組もあって、運動会の時は、応援席は人でぎゅうぎゅう。自分の親もなかなか見つけられないくらいだったんだから」
「へー……」
少し大袈裟ではないかと思いながらも、わたしは一応頷いた。
「でも電車があったのなら、乗ってみたかったな。そしたら向こうのコンビニまで、歩かなくてもいいんでしょ」
小学校の頃のわたしが祖母の散歩に付き合ったのは、つまりはそのあたりで唯一のコンビニがある所までついて行って、アイスや菓子類を買ってもらうという魂胆があったからなのだった。しかし片道十五分以上歩くのは、正直面倒だった。それに暑い。
「まあねえ……」
祖母は私を眺めて苦笑いした。
「でももう古くてガタガタの、動き出すとギシギシ凄い軋み音がする車両だよ。椅子も硬いし、のろのろ遅いし。あたしはその頃小学生だったけど、ちょうど隣の国道を走り始めたバスの方が好きだったね。速いし、新しかったし」
へー、その頃はバスの方が人気だったんだ。
祖母の昔話は嫌いではなかった。普段とは全然違う変わった話が聞ける。たぶんそれもあったから、わたしは退屈な田舎の道を歩き続けられたのだろう。
祖母は夕暮れの黄色いマツヨイグサが垂れかかる道を、わたしと同じような速度で歩いていく。ふっと魔が差したというか、わたしは思ってもいなかったことを祖母に尋ねていた。
「ねえ、おばあちゃん。死ぬの、怖くない?」
後で考えてみると、その時すでに七十歳近かった祖母にいきなりそんなことを尋ねるのは失礼極まりなかったと思うのだが、つい言ってしまっていた。
祖母はさすがに大きく目を見開いて振り返り、わたしを見た。私は慌てて続きを言った。
「学校で同じ組のシオリちゃん、死んじゃったの。特に仲良しでもなかったけど。ずっと入院してたから学校ほとんど来なかったし……でも、同い年の子が死ぬなんて、怖いなあと思っちゃって……」
ああ、と頷いて祖母はまた前を向き、歩き始めた。
「そうだったのかい。……年寄りはいいんだよ。年取ると死ぬのがだんだん怖くなくなるからね。でも、その子は可哀そうだったね」
「うん……」
しかしまだ私は、心のつっかえを全部言ってはいない気がした。
「あれから時々思い出して、怖くなるの。自分が死んだらどうしようって。だって、病気じゃなくても危険なことなんて毎日たくさんあるでしょ。交通事故とか、通り魔事件とか」
「大丈夫」
祖母は立ち止まり、励ますように両手を拳にしてわたしを見た。
「そんな危ない目に萌音ちゃんがあいそうになったら、おばあちゃん、命に代えても萌音ちゃんを守ってあげるから」
「……うん」
祖母が大真面目に言っているのは分かったので、一応わたしは頷いた。でも、命に代えても、なんて、やはり祖母は大袈裟だと思った。そもそも普段は遠く離れて住んでいるのに、どうやってわたしを守るのか。ただ祖母が唯一の女の子の孫であるわたしを、とても可愛がっているのは知っていたので、悪い気はしなかった。
そっか。年取ると死ぬのが怖くなくなるなら、じゃあやっぱり長生きしないと……
その時わたしが最後に得た結論は、その程度だ。
久々に見る祖母は、たくさんの管に繋がれていた。
「おばあちゃん、園子と萌音ちゃんが来てくれたよ。聞こえる? よかったね」
園子と言うのはわたしの母の名前だ。ベッドに横たわる祖母にそう大声で話しかけているのは、祖母と同居している母の姉の香代子おばさん。いつも祖母と一緒に盆のごちそうを作って、わたしと母を迎えてくれていた。
しかし最後に祖母と話した時から四年。いろいろあってずっと盆に祖母の家に帰省できなかったわたしと母を、久しぶりに駅まで迎えに来た香代子おばさんの車が向かったのは、家ではなく病院だった。ほんの一週間ほど前に自宅で倒れた祖母は、今は意識がないまま病院のベッドの上にいる。
「大きくなったねえ、萌音ちゃん。もう中学生だよね」
病院に三十分ほどいた後、家に向かいながら、車の中で香代子おばさんがようやく普通のことを聞いていた。
「中学二年です」
「そうだよね。びっくりしたでしょう、おばあちゃんが入院なんて。あんたたちが久しぶりに帰ってくるの、おばあちゃんも楽しみにしてたんだけどねえ」
「お医者さん……今日明日あたりがヤマと言ってたね」
少し渋い顔で母が言った。
「ああ……」
香代子おばさんも口ごもる。
ヤマ……。
その言葉は、実は私も一度言われたことがある。小学二年の時だったと思うが、何かのウイルスに感染して四十度以上の高熱が三日続き、食べ物も飲み物も飲み込めなくなって、入院することになった。その時に担当医が「今夜がヤマです」のようなことを言っていたのを、高熱で朦朧とした中で聞いた。
その「ヤマ」を越えた翌日、わたしはいきなり熱が下がってきて、体が軽くなった。とすると祖母も、数日中には元気になってくるのかもしれない。でもそうでもない場合もあることは知っている。母も香代子おばさんもそっちの方を心配しているのだろう。
香代子おばさんが急に、ふふっと笑った。
「でも分かんないよ。これまでにも二回、おばあちゃん具合が悪くなって『今夜がヤマ』なんて言われたことあったけど、二回ともちゃんと元気になって、ほら、翌日にはもう普通に歩いてたこともあったくらいだから」
「そうそう、あったよね。みんなびっくりしちゃって。おばあちゃん昔の人だから、結構体鍛えてるもんね」
母も思い出した様子で笑い出し、急に車の中は和やかな雰囲気になった。
「萌音ちゃんも疲れたでしょ。今夜はおばあちゃんの分も張りきって、おばちゃんがごちそう作るからね」
香代子おばさんがそう言ってくれたので、わたしも急いで笑顔を作って頷いた。
ひぐらしの降るような鳴き声の中で、目を覚ました。
エアコンが効いているので暑くはないが、窓の外はもう夕暮れだ。
わたしは目をこすりながら、香代子おばさんの家の二階でソファから身を起こした。帰省して二日目。昼は香代子おばさんが茹でてくれたそうめんを食べて、その後空いている二階の部屋で、目についたソファに横になったのは覚えている。何か長い夢を見ていた気もするが、なにも思い出せない。
退屈だった。
改めて小学生の頃は、祖母が自分を飽きさせないように散歩や墓参りに連れ出し、気を遣っていたのだなと分かった。さすがに中学生になると、コンビニのアイスや駄菓子のために、暑い外を歩こうとは思わない。しかも今回は一人だ。それなら昼寝の方がましだった。
「萌音ー。まだ寝てるのー?」
階下から母がわたしを呼ぶ声が聞こえる。どうやら母の声で、わたしは昼寝から目が覚めたらしい。
「起きてるよー」
何か用事があるらしいので仕方なく起き上がり、一階に下りた。母は右手に玉葱を持ったまま、階段下の廊下で少し不機嫌そうにわたしを見上げていた。
「夕ご飯にカレー作ろうと思ったんだけど、カレー粉が足りないんだよ。どうせあんた暇なんだから、あのおばあちゃんとよく行っていたコンビニまで行って、買ってきてくれない?」
……確かに、暇だけど。
ハイハイと言って、母に渡された五百円玉をスカートのポケットに入れ玄関で靴を履いていると、今度は香代子おばさんがやって来た。
「少し遠回りになるけど、川向こうの国道を通って行きなさいよ。物置の自転車使っていいから。おばあちゃんとよく使っていた電車道はダメよ。もう日が陰るし、そうなるとすぐ暗くなるから」
「うん。分かった」
わたしは香代子おばさんから自転車の鍵を受け取り、車庫も兼ねた物置に向かった。
「うわ……っ」
壁際にあった自転車にカギを差し込もうとして、思わず飛び退く。
小さなクモが自転車の後輪の辺りに巣を張っていたのだ。だから田舎は……とつい思ってしまう。この虫の多さだけは毎年のことだが、どうにも慣れない。クモは虫ではないが、もちろん苦手だ。
自転車に触る気が失せてしまった。でも遠回りの国道を歩いて行ったりしたら、かなり時間がかかってしまう。母の不機嫌度も倍増だろう。
ため息をつきながら、物置の外を眺める。
ふと、黄色く揺れるものが目に入った。
マツヨイグサだ。まるで私を誘うように、玄関先からあの電車が走っていたという砂利道に向かって、点々とマツヨイグサが生え、ゆらゆらと淡い黄色の花が揺れている。
やはりこっちでいいんじゃない?
ふと、そんな気がしてきた。小学生の時に片道十五分程度だったのだから、中学生の今ならたぶん十分くらい。往復に買い物の時間を入れても、五時過ぎには帰宅できるはずだ。まだ絶対明るい。
「すぐ暗くなるなんて、おばさんはちょっと大袈裟だよね」
わたしは呟き、よく祖母と往復した懐かしい道に足を踏み入れた。
歩き出してすぐ、記憶の中の砂利道とは少し様子が違うことに気がついた。
なんとなく、荒れている。
道の両脇だけでなく砂利と赤土の混じった地面にも結構草が生え、もともと生えていた両脇の草も、草丈がかなり高くなっている。砂利道に入るまではよく目に入ったマツヨイグサの黄色い花も、ここでは雑草の草丈に負けてあまり目立たない。
本当に雑草だらけだ。
そのせいか、以前はよくすれ違った、帰宅途中の自転車に乗る中高生の姿も全く見なかった。いや、自転車で帰る生徒はいるにはいるのだが、皆、川向こうの国道を走って行く。
国道ってこんなに遠かったかな……
生徒たちは何か話しながら走っていることもあったが、ほとんど声は聞こえなかった。車の音さえ、たまにトラックのエンジン音が響く程度だ。
砂利道を歩いているわたしの耳に届くのは、道の反対側を覆う山から響く、降るようなひぐらしの声と、時おり雑草が風に揺れる、ザワザワという葉擦れの音だけ。
ひょっとしてこの道は、もう地元の人も全く使っていないのではないか。
そんな気がしてきた。来なかった数年の間に、もしかしたら使いたくなくなるような出来事があったのかもしれない。土砂崩れとか、でなければ照明も全くない道だから、何か、事件とか。だから香代子おばさんも旧道はダメと……
だんだん不安になってくる。
急ごう。
わたしは足を速めた。急にこんな寂しい場所を一人で歩いている自分が、とても無謀に思えてきた。山が西側にあるせいで、確かに夕暮れの近くなった道は、思ったより暗い。帰りはもっと暗くなるだろう。しかも、とても長く感じる。やはり誰かと話しながら歩くのと、一人は違う。
懐かしい道だと思ったのに……
とにかく急ごう。
わたしは自分に言い聞かせた。そうしてやっと半分を過ぎたあたりまで歩いた時だ。
薄暗い前方に、ゆらりと細い人影が見えた。誰か、こちらに向かって歩いてくるようだ。一瞬、ほっとした。全く誰も使っていないわけではないと分かったからだ。
安堵はすぐに、緊張に変わった。
向かい側から近づいてくるのが、背の高い男の人のようだと分かったからだ。
近くの農家の人のような、何かの作業員のような、少し汚れた服を着ている。何の荷物も持たず手ぶらで、なぜここを歩いているのかもよく分からなかった。
「こんばんは」とか、挨拶をした方がいいのだろうか。
しかしそういう気にはなれなかった。男の人は三十代くらいだろうか、わたしの方を無遠慮な目でじろじろと見ている。怖い。というより、気持ち悪い。いくら暑いからといって、どうしてわたしは普段着のタンクトップのまま外出してしまったのだろう。
ついにすれ違った。すれ違いながらも、男の人はわたしをじっと見続けている。わたしは下を向いて、無言で通り過ぎた。
男の人が歩いて行く、ザリッ、ザリッ、と地面を踏む音が遠ざかっていく。ほっとした直後、ザリッという音が止まった。
男の人が、立ち止まった。
振り返って、わたしをまた見ているのが分かった。何のために見ているのか、分からない。全身が冷たくなるのを感じる。とにかく必死で速く歩いた。早くあの男の人との距離を離したかった。
ザッ
いきなり男の人が、わたしの方に向かって走りだした。わたしも悲鳴を呑み込んで走り始めた。
とにかく死に物狂いで走った。メチャクチャに走ったので、伸びた夏草の尖った葉で何度もひざ下に切り傷を作る。痛い。それでも必死に走った。とにかく怖かった。しかし元々、それほど距離が開いていたわけではない。すぐに真後ろに男の足音が迫ってくる。
助けて、誰か気づいて!
でも無理だ。コンビニのある砂利道の終わりまでは、まだまだ遠い。国道も遠い。悲鳴を上げてもたぶん届かないだろう。夏草の草丈とこの薄暗さでは、国道からこちらを見る人がいても、誰かいることさえ気づかないかもしれない。
男の息の音が聞こえるほど、近くなった。男が手を伸ばせば、わたしの肩に届きそうだ。
助けて、助けて、助けて!
男の指先が、本当にわたしの肩をかすった。
「いやああああああ―――っ!」
ピ―――――――――――…………
奇妙な高い音が、その時聞こえた。笛の音のような。どこかで聞いたことがあるような。懸命に走り続けるその先から、笛の音のようなものは聞こえ続ける。だんだん大きくなってくる。
…トン……
さらに奇妙な音が混じり始めた。
…トン…タン、ゴトンガタン、ゴトンガタン、ゴトンガタン、ゴオォォォ――――
薄暗い道の向こうから急に明るい光が差したかと思うと、それは一気に目の前に全貌を現した。
小さな一両編成の電車だ。一目で分かるほど古く、車両は軋みながら走って来る。古い車両だ。緑と黄色の塗装はどこも剥げかかっている。
ギシギシギシギシギシギシ
チンチンチンチンチンチン、シュ―――――……
軋み音と様々な音が混じりあって、わたしは走りながらも、とうとう自分は恐怖で頭がおかしくなったのだと思った。それでも夢のように走って来る電車から目を離せない。
電車の窓が開いて、そこから誰かが手を振っている。
「萌音―っ、萌音―っ」
おばあちゃんだ!
なぜ? どうして? もう全然分からない。分からないが電車の窓から手を振っているのは、確かに着物姿の祖母だ。
「萌音、早く、早く!」
ゴトン……
電車が止まった。わたしは開いていた両開きの古めかしい扉の中に、無我夢中で飛び込んだ。ダンッ、と背後で扉が閉まる。
振り向くと、扉のガラスの向こうに信じられない様子で両目と口を大きく開けた男の姿が、チンチン、という音ともに後方にゆっくりと流れていくのが見えた。
ゴオオオォォォォ――――ガタンゴトーン、ガタンゴトーン……
「おばあちゃん……」
わたしは周囲を見回し、窓が開いていた場所に祖母が本当に座っているのを見て、嬉しくて泣きそうになった。祖母も嬉しそうに笑い、座っている椅子を手でパンパンと叩く。わたしは急いで隣に座った。
布の擦り切れた席は、確かに硬い。祖母の言ったとおりだ。
「でも……おばあちゃん、どうしたの? 病気はもうよくなったの?」
尋ねると、祖母はまた得意そうに笑った。
「あんなの大したことないよ。すぐ良くなったよ。おばあちゃん、体は昔から丈夫だからね」
香代子おばさんの言うとおり、本当に元気になるのは早いらしい。
「そっか……。良かった……」
それにしても、祖母の着物姿は珍しい。
「でもおばあちゃん、その着物どうしたの。着物なんて持ってたんだ」
そう言うと、祖母は少し不満そうに自分の夏ものらしい藍色の着物とわたしを見比べた。
「そうかい? おばあちゃんだって着物くらい持ってるよ。それに今日は……特別な日だからね」
そう言われて周囲を見回すと、確かにちらほらと乗っている他の乗客も、きれいな着物や袴姿、上品なワンピースやスーツ姿ばかりだった。田舎のせいか乗客のほとんどは高齢者だが、たまに若い男の人や子供連れの女性もいる。
特別な日……
「そっか。だからみんないい服着てるんだ。じゃあこの電車が走っているのも特別な日だからなんだね。え? 今日はお祭りなの?」
わたしが尋ねると、何が面白かったのか祖母はくくっと笑った。
「まあそんなことはいいから、外をごらんよ。こんなきれいな景色は、そうは見られるもんじゃないよ」
言われるままに外を見た私は、思わず声を上げてしまった。
「うわあ、すごい。マツヨイグサが……」
いつの間にか日の暮れた旧道の脇で、マツヨイグサが満開になっていた。歩いているときは雑草に隠れているように見えたが、暗くなると黄色いマツヨイグサの花は、輝くように明るく目立った。そして眺めている間にもどんどん開花して黄色い花は増え、いつの間にか電車は夜空の下で、黄色い花の海を走っていた。
「きれいだねえ、おばあちゃん」
うっとりとため息をつきながらわたしは呟いた。わたしが椅子に置いた手に、祖母の手が重なる。暖かい。小学生の頃に手をつないで歩いた時の記憶が蘇って、幸せな気持ちでいっぱいになる。気がつくと他の乗客も窓から身を乗り出し、マツヨイグサが流れるさまを、幸せそうに目を細めて眺めている。
「今夜は本当に良かったよ」
わたしの手を握ったまま、祖母がしみじみと言った。
「チンチン電車に乗りたいって言ってた萌音を乗せてあげることができたし、こんなにきれいな景色も一緒に見ることができたし……」
ガタンゴトーン、ガタンゴトーン、ゴオオオォォォ……
「さあ、もうすぐだよ。ちょうどうちの家の近くで止まってくれるはずだから、萌音はそこで降りなさい」
え……
吸い込まれそうな黄色い花の海から、わたしはようやく目を離し、祖母を見上げた。
「萌音はって、おばあちゃんは降りないの?」
祖母はわたしの手を握ったまま、また笑った。
「おばあちゃんはちょっと用があるからね。後ですぐ帰るから」
じゃああたしもついて行くよ、という間もなく、電車の窓からは見慣れた香代子おばさんの家が見え始め、やがて電車は速度を落とし、ゆっくりと止まった。祖母が言ったとおりにしないと、なんとなく祖母が困るような気がして、わたしは仕方なく開いた扉から電車を降りた。
他に誰も降りる人はなかった。
「じゃあおばあちゃん、すぐ帰ってきてね。みんな待ってるから」
なぜか急に悲しくなって、急いで窓越しにそう声をかけると、祖母は笑顔でこっくりと頷く。
電車の扉が閉まる。チンチン、とベルが鳴り、またゆっくりと電車が動き出す。マツヨイグサが揺れる黄色の海を、祖母を載せた電車が遠ざかっていく。後に残ったのは、ただただ黄色い一面のマツヨイグサ。
わたしがなかなか帰ってこないので心配した母が外に出た時、わたしは玄関の外に、ただぼんやりと、涙を浮かべて立っていたそうだ。
祖母が危篤なのですぐ来てくださいと病院から連絡が来たのは、その日の深夜のことだった。
まあ、ちょっと変だなと思わなかったわけではない。
チンチン電車が廃止になったのは、もう六十年以上前のことだと聞くし、車両も残っていない。そもそもレールさえもうなくなっているのに、電車が走れるわけがない。
でも確かにわたしは電車に乗ったし、硬い椅子の感触も覚えているし、走って逃げた時夏草で両足についた切り傷はやはり痛かったし、それに、握った祖母の手の温かみも、確かにわたしの手は覚えているのだ。
盆は亡くなった人が仏になって家に帰ってくる期間だが、最近亡くなった人はまだ仏ではなく、やはり向こうの世界に向かうのだと思う。
もしあの電車がそういう人を向こうの世界に運ぶものだったとしたら、どうしてわたしは乗れたのだろう。
もしかして、祖母は無理をしてわたしを乗せてくれたのではないか。命を懸けてわたしを守ると言ったあの約束を果たすために、祖母はあの日命を差し出し、電車に乗ってわたしを助けに来てくれたのではないか。
わたしがダメだと言われた旧道を一人で歩いたりしなければ、祖母はもう少し長生きできたのではないか。
そう思うと本当に祖母に申し訳なくて、わたしはその後も毎年夏になり、道端のマツヨイグサを見かけるたび、
ごめん、クモが怖くて、とか。
だって思い出の電車道を歩きたかったんだもん、とか。
ただ風に揺れるだけの黄色い花に、色々と言い訳をしてみるのだった。
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