第37話 怪獣ガゴン(下)
ガクンッ
車両が大きく揺れて目を覚ました。移動中の車の揺れの中で、僕は少しウトウトしていたらしい。
窓の外は真っ暗だった。もう着いたのか、と一瞬思ったが、周囲の人の不安そうな顔を見ると、そうではないようだ。
「まだ三十分も経ってないよね」
「パンク?」
そんな会話を聞いた後、後方の幌の入り口が開いた。
「土砂崩れで道が塞がっていました。荷物を持って、一度車を降りていただきます」
「道が塞がってるって、事前に確認しなかったの?」
誰かが少し責めるように言う。対応する自衛隊員はまた申し訳なさそうに頷いた。
「確認した時はありませんでしたので、その後に起きた土砂崩れでしょう」
下りてみて、ようやくここが、まだどこかの山の中だと分かった。車両のライトの中に、道を塞ぐかなり大きな岩や土砂、倒木などが浮かび上がる。
「完全に土砂が道を塞いでいるわけではないので、ここから徒歩で港に向かいます。時間は一時間半から二時間程度と考えています」
「だ、大丈夫なの?」
誰かが心配そうに言った。
「夜間にガゴンは動きません。間に合います」
自衛隊員の滑らかな返答に、そこにいた全員が顔を見合わせる。
「じゃあこの車両は、ここから引き返して、別の人を載せて、別ルートで港に向かう、ということになりますか?」
僕にバスの運転手のことを言っていた男の人が質問した。
先ほどの隊員は他の隊員と目配せし、頷いてから答える。
「……その可能性はあります。バスが遅れているので」
「じゃあさっき校庭に残した高齢者を乗せてくれませんか。車両に引き上げるのは、僕も手伝いますから」
再び隊員同士で目配せ。
「では……二人、成人男性が協力してくれると助かります」
結局、交渉した男の人と梶尾の父親が車両に乗って校庭に戻ることになった。梶尾の祖父も校庭に残っているのだという。一方、住民の質問に答えていた自衛隊員は車両に乗らなかった。
「この先は自分が先導します。一人では全体に目配りできないので、お互い気をつけあって離ればなれにならないようにしてください」
それから僕たちは、普通ならどう考えても立ち入り禁止の札が立ちそうな崖崩れの間を縫って反対側に渡り、深夜の道路を歩き続けた。
「……でも、おかしいよな」
いつの間にか隣を歩いていた井村が言う。
「ここ一週間くらい、雨なんか降ってないだろ。というよりここ一か月くらい、地盤が緩みそうな大雨なんか降ってない。どうして急に崩れたんだろう」
雨が降らなくても土砂崩れが起きることはあるだろうと思ったが、タイミングがタイミングなので確かに引っかかる。
「さっき土砂崩れで車が止まって、道路に下りた時……」
井村の横を歩いていた梶尾が、珍しく沈んだ声で言う。
「運転席の自衛隊の人たち、やたら長くどこかと連絡取ってたんだよな。……気になったんだけど、ガゴンってさ、夜は動かなくなるんだろ? でもただじっとしていたら標的になるに決まってるから、たぶんどこかに隠れるよな。一体どこに隠れるんだろうって……」
「どこって……」
僕と井村は顔を見合わせた。それから崖崩れのあった場所の上を見上げた。
「わ、分かるわけないじゃん……」
それから少しずつ、僕たちは早足になった。なんとなくこの場所から早く離れたいような気がしたからだ。
ただ、全体として速く動くことは容易ではなかった。全く照明のない山の中を、自衛隊員の人と数人が持っていた懐中電灯を頼りに進んでいくのだ。しかも崖崩れがあったのは、上り坂の途中だった。五十代の十人くらいが少しずつ先頭から遅れ、列が伸びていく。今や時計としてしか役に立たなくなったスマホを見ると、午前三時。説明どおりなら、あと一時間くらい歩いて午前四時頃に港に到着する。しかしそれから船に乗るまでには、手続きなどでさらに時間がかかるかもしれないから……
朝のことを思い出す。ガゴンが動き始めたのは、午前五時くらいだったはずだ。
ぞっとする。ぎりぎりかもしれない。
急にどこからか轟音が響き始めた。夜空を見上げると、腹側が明るく光る自衛隊機が二機、まるでこちらに突っ込んでくるように接近してくるのが見えた。近距離で聞くビリビリ震えるような大音響に、思わず身を縮める。山腹をかすめるように飛び去った二機は大きく旋回して、再びこちらに機首を向けたように見えた直後、いきなり「攻撃」が始まった。
「やっぱり俺の言ったとおり……!」
梶尾が言いかけて首をすくめる。遠くから眺めるのとはまるで違う大音響に、鼓膜が破れそうな気がした。僕も梶尾や井村も、周囲の大人もあわてて逃げようと走り始める。自分たちが攻撃されているくらいの至近距離に思えたのだ。
「十分距離は離れています。落ち着いて」
自衛隊員の人が言うが、今回は誰も立ち止まる者はいない。
ふと後ろを見ると、疲れた、無理と言いながら、ずっと後ろを遅れて歩いていた大人たちまでが、もの凄い勢いで走って来るのが見えた。
そのせいかどうかは分からないが、港には予定の四時より十分くらい早く着いた。まさか皆を急がせるために、あの至近距離での攻撃をさせた……ということはないと思うけど。
「神南市はFエリアです。ここから動かないでください」
自衛隊員の人が倉庫壁面に貼られたアルファベットの紙を指さし、大声で誘導している。既に港湾には大勢の人々が集まり、そこここに話の輪のようなものもできていて、騒がしかった。
そして、明るい。
夜が明けたわけではないのだが、太陽光発電らしい湾岸道路の照明がまだ無傷で残っていて、煌々と辺りを照らしている。そこに港に着岸している大型フェリーの明かりやずらりと並んだ自衛隊車両のライトも重なって、眩しいほどに明るかった。状況が分かっていなければ、大きなイベントか祭りかと思うような賑わいだ。
大型のフェリーらしい船が端のAエリアの前に着岸していた。たぶんこの船に乗るのだろう。
「お父さん……いないね」
母が溜め息混じりに言った。井村の祖父母も見当たらないままらしい。見回せば、引き返した自衛隊車両に乗った男の人や梶尾の父親、公園に残した高齢者の人たちも、誰も見当たらなかった。別ルートと言っていたが、思いのほか時間がかかっているのかもしれない。
「父さんはどこか別の港に行ったのかもしれないよ」
僕は言ったが、全く説得力のない声になってしまっているのは、自分でも分かっていた。
バスが一台入ってくる。Fエリアだ。皆、身内や知人の姿を探しているのか、大勢がドアの前を囲む。ただ、下りてくる人々の中に数人同じ中学の生徒がいるのは見えたが、僕の父は見つけられなかった。
「あ、池上!」
隣にいた梶尾が呟く。
「え?」
慌てて僕はもう一度下りた人々を見たが、梶尾はバスの中を指さした。
いた。
まだバスの中を歩いている行列の中に、かなり深くうつむいている女の子。そのうつむく角度と肩につかないくらいの長さの髪。確かに池上だ。
「池上!」
下りてきた池上に三人で呼びかけると、珍しく彼女は顔を上げて目を大きく見開き、リュックを抱えて駆け寄ってきた。
「ちゃんと避難施設に入れたんだ」
僕が言うと、池上はほんの少し笑って頷いた。同じクラスであることを母に紹介する。家族の祖父母を失ってしまったことも。その内容は僕や梶尾の母親、井村の両親の同情を誘ったらしく、急に全員で池上を取り囲んで、大丈夫、みんないるから、と励まし始めた。池上はちょっと慌てた感じで、一生懸命頷いている。
「急いで乗船してください。立ち止まらないで」
遠くから聞こえてきた声に、全員が振り返った。一番フェリーに近いAエリアの方向だ。
乗船が始まっていた。広い桟橋を歩いて、フェリーに乗り込んでいく大勢の人々の姿がシルエットで見える。Aエリアの人が半分も乗り込まないうちに、Bエリアの人々が割り込むように移動していく。
「あたしね……」
皆がフェリーの方を向いているのを僕も眺めていると、ふいに横で池上の声が聞こえた。顔を向けると、池上もまたフェリーの方を眩しそうに眺めていた。
「あたし、お父さんの居場所は分からないんだけど、お母さんが実は結構近くに住んでいるのは、知っていたの」
「そうなんだ……」
僕はあいかわらず何と答えていいか分からず、同じようにフェリーに目を戻した。
「避難施設で、会っちゃって」
「えっ」
僕はもう一度池上に目を向けた。池上は今度こそ僕を見ていて、そして少しだけ笑った。
「でも、目をそらされちゃった。おじいちゃんもおばあちゃんも死んじゃったんだよって言っても、そう、って言うだけで」
僕は、確かに次は何か言おうと思っていたが、話があまりにも予想外で、何と言っていいのか、やはり全然分からなかった。気休めでもいいから何でも言えばいいと思っていたが、やはり気休めはダメな気がした。
「……ここには一緒に来たの?」
僕が尋ねると、池上は周囲を見渡し、首を横に振った。
「見たのはその時だけだった。避難施設は市内に数カ所あるって聞いたから、その後、他の施設に移ったみたい」
池上は、危ない、押すなよ、と声を上げながら我先にとフェリーに乗り込む人々を眺めながら、自分に言い聞かすように付け加えた。
「酷いと思ったけど、でも後でおじいちゃんが逃げろって言ったのを思い出して、やっぱり頑張って逃げようって」
「うん……」
トンネルの中では、ずっと自分が悪いって言い続けていたけれど、だいぶ落ち着いたらしい。僕はなんとなくほっとしながら、池上と同じようにまたフェリーを眺め、ぞっとした。
辺りの闇が薄くなっている。周囲が明るすぎて気づかなかった。
周囲の風景が少しずつ見え始めていた。
遠くに低い山がある。その方角が東らしく、特に夜空の色が薄かった。黒や紺色ではなく、赤い。その手前には大きな道路。さらにその上を高速らしい道路が通り、立体交差している。立体交差する二つの道路のどちらにも、バスや自衛隊の車両が連なり、今でさえ人であふれかえっている港へ、続々と向かいつつあった。その周辺には多くの集合住宅……
ドクン……
心臓が跳ねる。
ここは……どこだ……?
僕は唾を飲み込もうとして、初めて喉がカラカラに乾いていることに気づいた。
ここはあまりにも、夢の光景に似過ぎている。
僕は、もうマンションを離れたのだから、夢で見た光景は関係ないと思っていた。 とっくに夢のことなんか忘れていた。ベッドタウンの風景なんて、どこでも似たようなものかもしれないが……
心臓がドクン、ドクンと鳴り始める。
「こんなに人が多かったら、あたしたちはもうフェリーに乗れないんじゃないかしら」
同じFエリアにいた誰かが言った。
「おい、もう俺たちは乗れないらしいぞ!」
別の誰かが言う。
「ひどい! だって空はもう明るくなり始めているのに!」
他の誰かも言い、一気に人々が騒ぎ始めた。
「落ち着いて下さい。船のスペースは十分あります!」
避難誘導していた自衛隊員の人が大声で言うが、全く騒ぎが収まる様子はない。むしろその自衛隊員に向かって罵声が浴びせられた。
「ウソをつくな!」
「いいよな、自衛隊は。情報を握ってんだから、いつでも真っ先に逃げられてよ!」
その時だった。
……ァゴォォォォォ―――ン…………
低い、地鳴りのような音があたりに響き渡った。
誰もが凍りついたように口を閉じ、我先にと桟橋を渡っていた人々も動きを止めた。
港湾は静まり返った。隣にいた池上が息を詰め、持っていたリュックを抱きしめる。次の一声は、文字通りの爆風だった。
ガァゴォォォォォォォォォ―――――――ン!
耳をつんざくような大音響とともに、暴風が遠く見えた山の木々を薙ぎ払い、連なる住宅の屋根や車を吹き飛ばし、一気に港まで押し寄せた。特にBCエリアの人々が強風をまともに受けて、悲鳴を上げながら重なるように倒れる。
呻きと子供の泣き声が幾重にも重なって聞こえてきた。僕も池上も顔を両腕で庇ったが、その腕の隙間から、桟橋を渡る途中だった人々が風に煽られてバラバラと海に落ち、その向こうでは高速から吹き飛ばされたバスや自衛隊車両が無惨に落下していくのを見てしまった。
もしあの中に父や梶尾の父親がいたら……
いつの間にか、辺りは夢で見た惨状そのものの光景に変わっていた。
誰もかれもが逃げ惑い、桟橋には大量の人々が押し寄せ、押されて海に落ちる者がいても、踏まれて泣き叫ぶ者がいても、誰も気にしなかった。僕たちも必死でフェリーへと走った。そのフェリーからは、早く出航しろという怒声が聞こえてくる。僕たちも含めて、まだ乗ってない人たちがたくさんいるのに!
そうだ。母は? 池上や梶尾や井村は?
身動きもできないほどの人波の中で周囲を見ると、全員まだ見渡せる範囲の中にいた。しかし池上はやはり押されるタイプなのか、かなり後ろに離れている。
「池上、あんまり離れないで!」
無茶を承知でそう叫んだ時、誰かが泣きそうな声を上げた。
「お、おい、何だよあれ。なんで山が動くんだよ!」
動く?
僕は人の波に揉まれながらも、山の方に目を向けた。
確かに動いているようにも見えた。波打つように震えながらまだ暗い山の頂上が徐々に盛り上がっていく。でも僕は知っている。あれは……あれは…………
ドンッ!
本当に山が動いて、とんでもない地響きとともに僕たちは文字通り浮き上がり、一斉に地面に叩きつけられた。
「やめてーっ!」
女の人の絶叫に、痛みをこらえながら体を起こす。
桟橋からフェリーに飛び乗ろうとする何十人もの人を海に落としながら、フェリーが出港していく。
「何やってんだ!」
「置いて行くなよ、くそったれ!」
ドンッ!
再び地面が跳ね上がる。動き出した山は……全長百メートルを超えそうな超巨大怪獣ガゴンは、一踏みで高速も下の道路も車ごと完全に破壊した。
人々はもう、ただひたすら走って逃げていた。逃げ切れるはずがないのに僕も走っている。頭は真っ白だ。
「早く、早く乗ってください!」
つい先ほど住民を降ろしたまま止まっていた自衛隊車両やバスに、再び人々が殺到する。
「池上、それに乗って!」
幸い一番後ろで自衛隊車両の近くにいた池上に、僕は怒鳴った。車両の中から手を伸ばす自衛隊員に、池上が引き上げられる。梶尾と井村も乗る。僕も自力で飛び乗った。
「母さん、早く!」
振り返って僕はぞっとした。車両の周りには既に大量の人々が放射状に連なり、車上に向かって手を伸ばしていた。その後ろに僕の母や、梶尾、井村の親がいる。
「あたしたちはバスで行くから、先に逃げなさい!」
母が悲鳴のような声で叫ぶが、周囲に止まっているバスももう人で溢れていて、新たに乗ろうとした人が蹴り落とされている。
無理だ……
そう思っている間にも、自力で車両に這い上がれる人が次々乗ってきて、僕は奥へと押しやられた。
ドンッ!
今度の音と揺れは信じられないほど近かった。ガゴンに目をつけられたのだ。車両が大きく横揺れして悲鳴が飛び交い、乗ろうとした人々を振り落とす。
「もうこれ以上は乗れません。出発します!」
自衛隊員が幌を閉じようとした。閉じられなかった。まだたくさんの手が車上に伸びていたからだ。
「車から離れてください。危険です!」
その声にも、伸びる手は増えるばかりだ。そのまま車両は、罵声を浴びながら走り出す。這い上がろうとしていた人たちが、地面に次々転がる。
僕たちはその向こうに、母や梶尾、井村の親が手を振るのを無言で見ることしかできなかった。その真後ろにはもはや黒い山と化したガゴンが仁王立ちになり、背後から薄明を受けながら、港湾全体に巨大な影を落としている。
遅れてのろのろと動き出したバスが、ガゴンの短い腕に無造作に掴まれ、中空に振り上げられる。まだ閉まっていない扉からバラバラと人が落ちていく。もしあのバスに母が乗っていたら……と考え、ぞっとする。ようやく気づいた。
大きな乗り物に乗るのは、たぶん危険なのだ。そこにたくさんの人間―獲物がまとまっていることを、間違いなくガゴンは知っている。僕たちが乗っているこの車両でさえ、いつあのバスのようになるか分からない。
「この先のトンネルにまず向かいます。その出口付近で、振り切れたかどうか様子を見ましょう」
この状況にしては冷静な自衛隊員の言葉も、どこか心もとなく聞こえる。
ああっ、と窓から海側を見ていた人たちが叫んだ。
海面が異様に盛り上がっていた。盛り上がりの真上にフェリーがある。フェリーはあっという間にバランスを崩して転覆し、大量の人が海に投げ出された。
いつの間にか巨大な黒い塔のようなものが、盛り上がった海面からそびえていた。牙のずらりと並んだ大口を空に向かって開いた、二匹目のガゴンだ。そうだった。海から現れるガゴンの夢を見たという書き込みもあったことを忘れていた。
牙の間からは複数の人の手足が見えた。牙の間から抜け出そうとする人の上半身も見えた。そのまま容赦なくガチッと口が閉じた。
吐き気がした。乗っている誰もが言葉もなく床に座り込んでいる。
唯一の救いは、スピードを上げた車両がカーブを曲がる直前、母たちが地元の小さな漁船に乗せてもらう姿を確認できたことだ。小回りの利く小さな船の方が、まだ生き延びられる確率が高い気がした。ただその先は分からない。ガゴンが水中を自由に動けるなら、離島のガゴンをせん滅して、人間がそこに一時避難するという計画は、もう成立しない。僕たちの乗るこの自衛隊車両も、必ずどこかで新たなガゴンに遭遇するだろう。確かに個体数は減っているが、その体躯は無敵の巨大さに成長し続けているのだ。もう自衛隊の攻撃も、いやどの国のどんな最終兵器さえ、効かないかもしれない。
「こんなこと……こんなこと続くわけない」
窓際にいた男の人が頭を抱えながら呟いた。
「そうだろう? 中生代の恐竜だって、確かに巨大隕石の落下によって全滅したと言われているけど、もうその前に体が大きくなり過ぎて、既に自滅の道を歩み始めていたとも言われてるんだ。あんなに毎日倍々ゲームで体が大きくなっていたら、すぐに自分の重さで動けなくなって自滅するに決まってる!」
「それで終わるってこと? それまで生き延びたら元の世界に戻るの?」
近くに座りこんでいた女の人が、放心した声と表情で聞き返した。
元の世界……
僕はぼんやり考える。思い出してみれば、たった四日前のことだ。四日前の朝、僕は変な夢を見て、母は朝から不機嫌で、父は悪ノリで夢の話を面白がってくれて、学校でも梶尾や井村に笑われて、初めて話した池上の表情や容姿に、僕は少しドキドキして……
楽しかった。
僕は近くでシートに座ったままうつむいている池上を見た。しかし元の世界に、元の生活に戻ることは絶対にないのだ。少なくとも池上は、祖父母という家族を失ってしまった。高齢者との生活はきっと大変だったろうけど、小物入れの箱をくれた祖母も、自分は喰われながらも「シホ、逃げろ!」と叫んだ祖父も、もういない。二度と帰ってこない。
「確かにおかしいんだよ、こんな生物」
別の学生らしい誰かが言った。
「アメーバやウイルスみたいな単細胞生物なら、条件が揃えば短時間で爆発的に増殖するというのも分かるが、あんなどう見ても人間並みに複雑な構造を持った生物が、こんな途方もない巨大化を毎日続けるなんて異常すぎる。まるで……自然に生まれた生物じゃないみたいな」
「何言ってんだ、おまえ!」
一番奥でしゃがみ込み、ブルブル震えている男が怒鳴る。
「自然に生まれたんじゃねえなら、どうやって生まれたって言うんだよ。誰かが作ったとでも言うのかよ!」
車両の中は静まり返る。
誰が、どうやって……
僕は開いたままの幌の向こうを見た。少しずつ距離は離れつつあるが、ガゴンはまだこちらを見て追ってくる。ガゴンが動くたびに道路は地響きで揺れ、アスファルトは崩れ、マンションや倉庫は倒壊し、湾岸にきれいに並んでいた照明はすべて倒れた。路上を逃げ惑う人々はまとめてガゴンに掴まれ、開けば数メートルはあろうかという牙の並んだ口の中に放り込まれ、あるいは踏み潰された。
ガゴンが地球に現れたのが偶然ではないとするなら、あの無惨な生物が自然に生まれたものでないというなら、一体何によって、いや誰によって作られた。今僕たちの世界を蹂躙しているのは……本当は何?
自衛隊の装備もいつか尽きる。他の国でも同じことが起きているなら、同じように尽きるだろう。そして人間も文明も滅び、その後に動けなくなった超々巨大ガゴンさえ死ぬとしたら……その後の地球は、一体誰の手に渡る?
池上がよろよろと顔を上げ、幌の外に見える空を見上げた。それだけはいつもと変わらない、薄日の差し始めた空。
僕は自分の見た夢を思い出した。池上が教えてくれた、たくさんの子どもたちが見たという夢の、色々な内容も思い出した。
窓も、扉も閉じることはできないのだ。
もしその誰かが、地球が滅びていくのを空の上からじっと眺めているとしたら……この広い空をどうやって閉じることができる。
ガゴォォォォォ―――ン!
ガゴォォォォォォォォ―――――ン!
二頭のガゴンが、続けて吠えた。爆風に僕も池上も顔を伏せた。車体が激しく揺れる。海の上の小舟は大丈夫なのか、急に不安になってくる。
その時だった。
ァォォォォォォ―――――……ン……
遥か遠くで、もう一頭らしい遠吠えが聞こえたのだ。
心臓が跳ね上がった。あの声は、ちょうどこの車両が向かう先の方から、聞こえなかったか。
横で池上も息を詰めるのが分かる。もう車上の誰も、何も言わなかった。ただ顔をこわばらせ、息をひそめた。一緒に乗っている自衛隊員の横顔も、厳しいものになっている。
「あたし、子供の頃からずっと、いいことなんか一つもなかったって思ってたけど……」
池上が顔を覆った手を離しながら、呟く。
「でも、そうじゃなかった。これが本当の、最悪のいいことなんて一つもない状態なんだよね。……ずっと悪夢を見てるみたい」
「そうだよな。僕だって……」
池上とは比べられないが、もう父も母もどうなったのか分からない。井村や梶尾もそうだ。何もいいことなんて……
僕は考え、言葉を選び、それから苦笑いしてしまった。
「ガゴンが現れてからいいことなんて、池上とこうして普通に話せるようになったことくらいかな」
池上が珍しく笑った。泣き笑いのような笑顔だった。
僕はその笑顔を、この先何があっても絶対忘れないだろう。
聞いていたのか、梶尾が僕の後ろ頭を、笑いながら叩いてきた。その後ろで井村もニヤニヤ笑っている。
まるで、朝の教室に登校した時のように。
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