第36話  怪獣ガゴン(中)




 ようやく助けが来たのは、通報から一時間近く経ってからだった。しかも救助してくれたのは警察ではなかった。

 陸上自衛隊。

 確かに警察の装備で、あの凶暴な怪物二匹に対抗するのは無理な気がしたが、それにしても連携が良過ぎるような……

 それでも助けてくれたのはありがたかった。間近で大型重火器の音を聞くのは初めてだったので、助かって自衛隊の車両に乗せられてからも、しばらくは耳がおかしくなっている気がしたが、それでも安心感の方が遥かに大きかった。車両には既に数人の大人が乗っていた。皆疲れ切った顔をしている。たぶん僕たちも同じだろう。

「君たちは運が良かった」

 隊員の中で救助者対応を担当しているらしい男の人が、車内で僕たちを座席に座らせながら言った。

「トンネルの中にいたから、誤って君たちをケガさせる心配をしなくて済んだからね」

 何と答えていいか分からなかった。運が良かったと言われても、池上の祖父母は間違いなく亡くなっているのだ。ただ、その人の声はとても落ち着いていて、それは確かに僕たちを冷静にさせる助けにはなった。

 簡単に襲われた状況や名前や住所を聞かれた後、「まだ避難の方針が固まっていないので、今日は自宅に帰ってもらいます」と、その人が言った。

 避難の方針……って、あんな化け物がまだほかにもいる……ということ?

 少し考えてぞっとする。池上はまるでスターゼリーがあのバケモノになったと言わんばかりの口調だった。父と同じ説だ。でも昨日はビー玉サイズだったものが、今日は人を呑み込めるまで成長できるか? そもそもあの隕石のかけらは世界中に降り注いだと言われている。だとしたらスターゼリーも世界中にあって、そのどれもが時期の多少のずれはあれ、あんな化け物に一気に成長したとしたら……

 スマホで見た大量のスターゼリーの画像を思い出す。

 自宅、と言われたことを思い出して、ふと気になった。

「あの、池上は……」

 僕が言うと、自衛隊員の人は一瞬だけこちらに目を向けた。池上の祖父母が襲われた家にはもう誰もいない。そこに池上一人を返すなんて残酷過ぎる。それに危険な気がする。

「大丈夫。彼女には別途、避難施設を用意する」

 彼はまた冷静な声で答えた。池上は僕の横に座っていたが、じっとうつむいたままだった。僕もそれ以上、何を言っていいのか分からなかった。

車両が動き出すと、夕暮れの公園の地面に二カ所、ブルーシートで覆われた盛り上がりが見えた。シートの端から黒い鱗に覆われた尻尾のようなものがはみ出している。

 これは夢ではないのだと、改めて思う。

 自衛隊員の人が言う「本部」でまた詳しく状況を聞かれ、完全に夜になり、ようやく家に帰りついた時はもう、街の状況は一変していた。

 夜空には爆音を轟かせて何台ものヘリコプターが飛び、町中にパトカーや消防車のサイレンが響き渡った。家のテレビでは、顔を引きつらせたアナウンサーが、何度も同じ原稿を読み続けていた。

〈絶対に家から出ないでください。シャッターがある家は全部閉めてください。閉める際は周囲に十分に注意して、最短の時間で済ませるよう心掛けてください。各地で避難所を設営中です。自宅が危険な方は地元の情報を確認の上、受け入れ態勢が整ってから移動してください。その時も移動は必ず車を使ってください。歩き、自転車、バイクは非常に危険です。繰り返します……〉

 他局でも、ほとんど同じだった。

〈なんというか、大量の凶暴な人食い熊がいきなり日本中に現れて、町中を闊歩しているとでも考えたらいいんすかね〉

〈そんな感じっすよね。まいったなー。今日どうやって帰ろう……〉

 普段は笑っていることの多い芸人のコメンテーターも、顔を引きつらせている。

「お父さん。会社に泊まりだって」

 すっかり遅くなった夕食をテーブルに置きながら、母が言った。

「電車もバスも止まってるから。そういう公共交通機関使う人って、つまりは駅やバス停からは歩くわけでしょ。それが危険だからって、全部停止。でも駅まで行ってしまった人が動けなくて大変なことになってるらしいよ」

 僕が帰宅した時は、泣きそうなくらいの安堵の表情を浮かべていた母だったが、今は僕や父が食器をシンクに持っていかなかった時とは比べ物にならないくらい、厳しい表情に変わっていた。

「でも一体何なの、結局。何が出没してこんなことになってるの?」

 テレビでもあの黒いバケモノそのものは、はっきり映していないようだった。スマホで検索する。すぐに、到底母には見せられないようなグロな画像や動画が大量に出てきた。道端で襲われる人を、近くの家の窓から撮影したらしい画像とか。ワゴン車に襲い掛かった化け物がフロントガラスを叩き割り、中の人を引きずり出している動画もあった。車の移動なら大丈夫なんて、ウソだ。

「あ、あれ?」

 母の声にテレビに目を戻すと、かなり遠くからの黒いシルエットだが、確かにあのバケモノがビルから出てくる映像が流れていた。そいつはもう動かなくなった人の残骸のようなものを、前足で引きずっていた。そこにもう一匹ビルから出てきたヤツが、横取りするように飛びかかる。

 ガガガガガガガガガガガガッ

 いきなりの掃射音に、母が口を両手で押さえた。でも僕にはそれが陸上自衛隊のものだと分かった。公園で、トンネルの中で聞いたのと同じ音だったからだ。

 二匹が、動かなくなる。

〈えー、これは先ほど陸上自衛隊が公開した映像です。ショッキングな映像ですが、自衛隊の装備で十分対応できることを示し、国民をパニックに陥らせないための公開だったと思われます〉

 説明するアナウンサーも、顔が少し引きつっている。

〈今入ってきた情報です。先日中央アジアのイルヒャ砂漠に落下した隕石を調べていた各国共同調査チームのキャンプ地が、その後何者かによって破壊され、全滅していたことが分かりました。その状況から、今の映像に映っていた生物と同じものに襲撃されたと思われます。キャンプ地周辺の少数民族の村々も連絡が取れなくなっているということです〉

 人を喰うバケモノ。一言で言うとそんなものが世界のあちこちに現れている。そんな感じだった。

「お父さん、大丈夫だよね。会社のビルの方が家より丈夫だよね」

 母が僕に聞いてくる。分かるわけはなかったが、たぶん、と言っておいた。

「それよりお母さんも、よく家のシャッター全部閉めたね」

「だって、テレビがそうしろって言うから。それに、実際どんな生物なのか、よく分からなかったし」

 母もまた、運が良かったと思った。シャッターを閉めようとして窓を開け、あれに出会ったら……きっともう生きてはいないだろう。

 ニュースは、日本各地の被害状況を伝えていた。全国に及んでいる。ただ表示されているのは通報の件数だけで、何人被害にあったのか、何人死んだのかは分からなかった。

 母はもうたくさん、という顔でテレビを消した。

「大丈夫だよ。だって自衛隊が退治しているんでしょ? 明日か……二、三日中には、また外を歩けるようになるよ」

「うん……」

 もちろん僕もそれを願った。あれが何であろうと、確かに自衛隊の火器で対応できたのだから。

 とにかく疲れ切っていたので、二階の自分の部屋に行き、早めに寝ることにした。寝る前にスマホを開くと、梶尾や井村からいろいろ近況報告が来ていた。家族も無事なようだ。僕も同じようなことを書いて送信しておく。怪獣が現れたら会社に行かなくてもいいと言っていた父が、会社に足止めされていることも。その父からも「無事でよかった。気をつけろよ」と文面と変なスタンプが届いていた。こちらには、「そっちも気をつけて」くらいしか書くことがない。

 明かりを消し、目を閉じながら、池上はどうしているだろうと考えた。スマホがあったら聞けるのだが、何も持たずに家を飛び出したのだから無理だろう。靴さえ履いていなかった。

 ラインの交換さえしてないから、持っていてもムリか……

 現実に行き当たって、目を閉じたまま苦笑いする。

 慣れない場所で、池上がちゃんと眠れるといいなと思った。でも、それも無理だろう。池上はトンネルの中でずっと、祖父母が死んだのは自分のせいだと自分を責めていた。何でもいいから声をかければよかった。そんなことないよ、とかつまらない薄っぺらな言葉でもいいから。そうだ。次に会ったら必ず声をかけよう……

 その日、僕はまだ「次」があることを信じていた。なぜなら自衛隊は確かにあいつらをやっつけていたし、異常な状況ではあったが、家にはまだ食料もあって、電気も水道もテレビもスマホもいつもどおり使えて、何も変わるところはなかったからだ。

 ただ、その一方で僕はうとうとしながらも、何かが頭の隅に引っかかってしょうがなかった。

 本当に? 本当に数日中に状況は良い方に向かうのか?

 奴らは一日で小さなビー玉のようなスターゼリーの形状から、人を飲み込むほどの大きさに成長した。

 じゃあ、明日は……


 バンッ!

 家中が揺れるような振動で飛び起きた。

 まるで大型トラックか何かが家にぶつかってきたような、凄い衝撃。

 何? 何が起きた?

部屋の中は真っ暗だった。母が家中のシャッターを閉めたことを思い出して、部屋の明かりをつけるリモコンに手を伸ばす。何度かボタンを押したが明かりはつかなかった。仕方なくベッド脇に置いたスマホに手を伸ばし、電源を入れる。

 午前五時。

 静かだった。昨夜はうるさいほどだったヘリの音も、サイレンも、車の音も、何も聞こえない。

 じゃあ、さっきの音と振動は何だ。

 ギ……キキキギギギギ……ガシャンッ!

 再び大きな音が聞こえた。何かが軋み、ガラスごと潰れるような……でも今度は僕の家ではない。

「マサル、何? さっきの音、何?」

 懐中電灯を持ちながら二階に駆け上がってきた母が、ドアを細く開けながら小声で聞いてくる。分かるわけがない。

「分かんないよ」

答えながら、なんとなく僕も小声になった。音がしたのは、玄関のある東側だった気がした。ふと、北向きのトイレの窓なら、東側もある程度眺められることを思い出す。トイレの小さな窓にまでは、シャッターはついていない。急いで廊下に出て、トイレのドアを開けた。小窓の外はまだ薄明るい程度だ。

「ひっ……」

 窓を少しだけ開けて声を上げそうになり、僕は慌てて口を押えた。

 いる。

背を向けてはいるが、目の前にいる。

 信じられないほど巨大化していた。昨日は大柄な大人よりさらに一回り大きいくらいだったが、今日はもう五階建てのビルも超えるのではないかと思うほどの見上げる高さだ。

 まるで一夜にして家の前にできた、黒い壁だった。

 その向こうで、向かいの家が潰れている。まだ巨大獣の太い足が壁の上に載っていて、ギチギチと鈍い音を立てていた。完全に潰れると、そいつは黒い鱗だらけの前脚を伸ばし、その巨大な鉤爪で、紙でも剥がすように屋根全体を取り去った。

 畳と倒れかかったタンスに挟まれて、唸っているおじさんおばさんの姿が、巨大獣の真正面に現れた。僕にもよく声をかけてくれた、愛想のいい人たちだ。巨獣は前脚を伸ばして、まるで二人を助けるようにタンスを払いのける。そして身を屈め、頭部をおじさんに近づけた。

「ひっ……ひひっ……ヒッ……ギャァァ―――……」

 起き上がった巨獣の格子のように細く長い牙がずらりと並ぶ口から、おじさんの片足のひざ下だけがブランと揺れているのを見てしまった。

 ごぎゅっ

 鈍い何かの潰れる音に、僕は耳を塞ぎ、目を閉じてその場にしゃがみ込む。

 吐き気がした。

 こいつは知っている。家の中には人間という食料があるのを知っている。また板を剥がす音が、耳を塞いでいても聞こえてきた。その下から子供や女の人の泣き叫ぶ声。それもすぐ聞こえなくなった。次はどこの家だ。あの家の隣? それとも……向かいの僕の家? さっき家中が揺れるほどの衝撃があったのは、巨大獣の長い尻尾かどこかが家に当たったせいに違いない。あんな巨大な化け物が相手では、次がどの家だろうと、いずれ僕の家も潰されるに違いない。逃げ場なんかない!

 そうだ、電話!

 握ったままだったスマホに気づき、僕は慌てて電話を掛けた。警察でも消防でもいい。昨日と同じように助けを求めたらいいのだ。しかし通じなかった。いつまで待っても、誰も出ない。ネットもラインも沈黙している。

 どうして? 

 母が息を呑むのが聞こえた。

 顔を上げると、廊下に座りこんで震えていた母が、這ってトイレの窓から見えない位置に移動しようとしているのが見えた。

 スマホに気を取られていて、気づかなかった。

 いつの間にか、頭上にある小窓が黒く陰っている。

 全く何の音も、気配もしなかったのに。

 いる。

 何かが……窓のすぐ外にいて、じっと中を見ている。

 動けなかった。息もうまくできない。

 そうだ。僕は窓を閉めないまましゃがみ込んでしまった。そこから人間の臭いが外に漏れだしてしまったに違いない。どうして閉めなかったのだろう。でももう遅い!


…グゥォォォォ―――ン……


 その時、夢で聞いたのと同じ雄叫びが微かに聞こえてきた。かなり遠くからだ。正確に言えば、夢よりは少し高い声。


…グゥォォォォ―――ン……


 また聞こえる。


 ガグォォォォォォ――――ン!


 いきなり体を貫くような大音響が、耳を塞ぐ間もなく僕を襲った。慌てて耳を塞いで目を閉じる。もうダメだ、という絶望感に全身が冷たくなる。

 ドンッ!

 再び家が揺れた。体ごと突き上げられるような衝撃。しかしさっき飛び起きた時の横揺れとは違う振動だった。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ……

 あの巨大獣が走り出したのだと分かった。地響きの音が小さくなってから立ち上がって窓の外を見ると、確かに道路を破壊しながら走るそいつの向かう先には、もう一体の巨大獣がいる。何かを壊している。そこからわずかに漂ってくる臭いが、僕の家を襲おうとしていた巨大獣の気を変えたようだった。

 取りあえず、助かった。

 緊張の糸が切れて、僕は窓枠に寄りかかる。

 あの辺りには……市で一番大きな病院と老人ホームが並んで建っていたはずだ。どちらも古い建物で、個室の窓にシャッターなどは見なかった気がする。よく見るとはるか遠く、駅ビルのあたりにも二体のシルエットが蠢いていた。駅には、バスにも電車にも乗れなかった客が、大勢足止めされていたのではなかったか。

 もう、それ以上は考えたくなかった。

 長過ぎる一日だった。

 ようやく複数のヘリの音が再び聞こえ始めたのは、それから一時間も経ってからだ。

ヘリは妙なものをぶら下げていた。生肉のような……僕には、それは昨日公園で陸上自衛隊が殺処分したものの一部のように見えた。それを追って、巨獣が病院や駅から離れる。ヘリは住宅地の外へ誘導しようとしているようだった。郊外の小さな山のあたりまで巨獣たちが移動すると、やがて爆音が響き、昨日は見なかった航空自衛隊による「攻撃」らしいものが始まった。

その効果があったのかどうかは分からないが、「攻撃」の後は丸一日、怪物が動く姿を目にすることはなかった。

 再び事態に動きがあったのは夕暮れになり、辺りが薄暗くなってからだ。

 いきなり聞き慣れた大音量のメロディが流れ始めた。

〈こちらは、広報神南です〉

 メロディの後、やはり聞き慣れた、よく聞き取れない音声が二重三重に響きながら大音量で聞こえてくる。

〈現在、神南市には第一級災害として、全市に避難指示が出されています。災害の元となった正体不明の巨大生物を、今朝政府はガゴン、と命名しました。政府の会見によれば。成獣になったガゴンは、深夜に動きを止め巨大化する、という海外からの報告があるそうです。よって、住民の避難は深夜に集中してバスと自衛隊車両によって行います。現在、日本各地の離島でガゴン掃討作戦が行われており、一時的に国民を船舶で離島に避難させる準備が進められています。住民の皆さんは身分証と最低一日分の食料飲料を自分で準備し、今後の指示に従って……〉

 深夜に各地区の決められた場所に集合し、そこから近くの港に移動するらしい。

「最低一日分だって」

 言いながら母が慌てて準備を始める。買い置きのパンやジュース。インスタント麺はお湯が入手できるかどうか分からないので、カセットコンロで作り、夕食に食べてしまうことにした。

「でも……今日は朝以外、あの……ガゴンは見なかったでしょ。もうこの辺りにはいないんじゃないかな。本当に離島にまで行かないといけないの?」

 懐中電灯の明かりの下で麺をすすりながら、母が不安そうに呟く。

確かに個体数は減っているのだろう。しかし離島に避難させるということは、本州のガゴンを全滅させることはできなかったということだ。僕は明日の朝が怖かった。昨日二、三メートルだったものが、今日はたぶん十メートルを超えていた。じゃあ明日の体格は……あの夢そのままに、郊外の山を越えてくるのではないか。

「それでも一応逃げた方がいいよ。大丈夫なら、すぐ戻れるんだから」

「そう……そうだよね」

 母は頷き、スープを飲みかけ、再び手を止めた。

「お父さん、大丈夫かな。病院とか駅とか、たぶん会社も、人が大勢いる場所が狙われてたみたいだから、心配だよ」

 考えてもしょうがないことだけど、と母はため息混じりにつけ加える。

個人では何の情報も得られない状態が続いていた。電気もスマホも使えないままなのだ。おそらく今使える通信手段は、電力がいらないという昔の黒電話くらいではないかという気がした。電話線が切れていなければの話だが。バッテリーさえあれば衛星通話も可能そうだが、やはり使えるところは限られるだろう。

 僕たちの住む地区の集合場所は、近くの小学校校庭だった。集合するのが夜でよかったと思った。夜ならガゴンに襲われた家々の凄惨な現場を、少しは見ずに移動できるに違いない。

「森田!」

 深夜に破壊された道を懐中電灯で照らしながら、なんとか校庭にたどり着いた途端、梶尾の声が聞こえた。

「梶尾、井村!」

 二人が走り寄ってくる。梶尾には三発も頭を叩かれた。梶尾の悪い癖で、嬉しい時ほど頭を叩く回数が増える。でも僕も叩き返してやりたいくらい嬉しい。

「二人とも、ご家族も無事?」

 母が尋ねると、梶尾は大きく頷く。

「はい。あ……でも井村は」

 遠方にあるという祖父母の家と連絡が取れていないらしい。

「うちも、会社に足止めの父さんがどうなってるか分からないよ」

 僕は言い、井村と一緒に苦笑いした。

 校庭には意外に多くの人が集まっていた。早朝に起きたことはあまりにショックで、今でも思い出すと吐き気がしてきたが、その後自衛隊がやっつけてくれたので、無事だった家も多かったようだ。

 大勢の人を見て、だんだん前向きな気分になってきた。

 大丈夫だ。全員避難するのだから、皆が逃げ惑っていた夢のようにはならない。これだけ助かっているのだから、絶対父も無事に違いない。もちろん井村の祖父母も。

 その時僕は、やっと非難できることになり、友達にも再会できて、すべてが不安だった時の反動で、必要以上に楽観的になっていたのだと思う。

「それにしても、バス遅いですね」

 一緒に近くに来た梶尾の母親の不安そうな声で、我に返った。確かに、集合時間からもう三十分以上過ぎているが、バスも自衛隊車両も、やってくる様子はない。

「他の地区ではまだ暴れているんでしょうか。あの、ガゴンとかいう怪獣」

「でも夜は動きを止めるって言ってましたよね」

 僕の母の声も、少し沈んでいる。

「じゃあ動きを止めている方が攻撃しやすいから、自衛隊はまだ戦ってるんだよ」

 梶尾が調子よく言ったが、梶尾の母はまだ不安そうだった。

「それならバスを回せばいいじゃない」

「思ったより人が多いんじゃないかな」

 井村が一番ありそうなことを言う。

「それで全体的に遅れが出てるとか。でなきゃ……港までの道路がガゴンの破壊で塞がっていて、道を開けるのに手間取っているのもありえるよ」

「…………」

 不安は既に僕の中でも大きくなっていた。もしかしたら、忘れられているのではないか。乗せ切れなくて、ここは素通りされたのではないか。もし夜明けまでに全員出発できなかったら。港に着いても、船に乗れなかったら……

 その時、いきなり校庭のフェンスの向こうに光が見え、辺りが明るくなった。

 幌で車体を覆った自衛隊車両が二台近づいてくる。助かった。これほど頼もしく感じた光はない。

「今回の車両に乗れるのは、主に六十歳未満の方です。座席まで高さがあるので、高齢の方、車椅子など特別な配慮が必要な方、及びその介護者は、次のバスを待ってください」

 車両から降りた自衛隊員がよく通る声で言う。

 ええ、という不満の声が広がった。バスはいつ来るんですか、という問いかけにも、自衛隊員は気の毒そうに、次のバスを待ってください、と言うのみだ。そのやり取りの間にも、制限に引っかからない住民が次々自衛隊員の補助で車両に乗り込んでいく。僕と母も乗るしかなかった。

 座席に座りシートベルトを締めてから、周囲を見渡した。なんとなく池上が乗ってはいないかと思ってしまったのだ。池上は見当たらなかった。ふと外を見ると、こちらをじっと見ている高齢の住民と目が合ってしまう。恨めしそうに見られている気がして、慌てて目をそらした。隣の母は、目を合わせないようにするためなのか、車両が動き出すまでじっと下を向いていた。

「バス……来るよね」

 遠ざかる高齢者の人々を窓越しに眺めながら、僕は母に尋ねる。

「運転手がいたらね」

 近くに座っていた、全然知らない男の人が答えた。

「バスの車両があっても、もともと大型の運転手なんて数が少ないのに、この状況じゃあね。だから手間取ったんじゃないかな。最悪この車両でピストン輸送することになるだろうが、ここから一番近い大型フェリーでも入港できる港となると、通常でも車で片道一時間近くかかる。高齢者をこの車両のシートまで持ち上げるのは時間がかかるだろうから、下手すると港に着く頃には、夜が明ける……」

 そんな、と男の人の話を聞いていた近くのシートの女の人が口を押えた。

「すぐバスが来ると思って、おばあちゃんとおじいちゃん、置いてきたのに」

 母が沈黙している僕の腕を軽く叩く。

「大丈夫。ちゃんとバス来るよ。きっと……」

 しかし来るという根拠は、母にもないようだった。僕は……いや、僕たちは何か大きな間違いをしてしまったのでは、という疑問が湧いてくる。車両が来たことに安心してしまって、今回はしょうがないよね、と高齢者を置いて乗り込んでしまったことは、本当に正しかったのか……

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