第35話  怪獣ガゴン(上)





 あまりに酷い夢だったので、僕は目が覚めた後も、かなり詳しく夢の内容を覚えていた。

 酷い、といっても残酷ということではなくて、くだらない、という意味だ。

 僕の住む神南市は怪獣に襲われようとしていた。市街地の端には標高八十メートルくらいの小さな山があるのだが、その後ろから怪獣の顔がぬーっと覗いてきたのだから、その高さはやはり百メートルを超える、ということになるだろう。百メートルの上空から地上を見下ろすって、どんな感じだ。

 とにかく大人も子供も誰もかれもが顔を引きつらせ、走って逃げようとしていた。

 僕は夢の中で冷静に考えた。無駄なのに。

 あんな巨大怪獣から逃げるなんて、できるわけない。その証拠に、山のすぐそばを走る国道も、その上を走るバイパスも、同じように逃げようとする人々の車で渋滞していたのだが、山を越えてきた怪獣の足が、ドンッとバイパスを支柱ごと破壊した途端、大量の車や人が転落して、下の国道を埋める車と一緒に、全部潰されてしまった。うわあ、残酷。

 ガォゴォォォォン!

 耳をつんざくような声で、怪獣が吠える。僕の住むマンションの窓ガラスがビリビリと鳴る。

 少し怖くなってきた。

怪獣がいる山のあたりとマンションの間には、まだかなりの距離がある。でももし怪獣がこちらに向かってきたら、古い五階建ての賃貸マンションなんて、あっという間に倒されてしまうに違いない。

ガォゴォォォォン!

 また怪獣が吠えた。今度は部屋全体がガタガタ鳴った。すっかり怖くなった僕は、とにかく様子を見るために開けていた窓を閉めようとした。怪獣の巨大な黄色い目が、ギョロッと僕の方を見たような気がしたのだ。

 ところが窓が閉まらない。確かに古いマンションのせいか、以前から窓の開閉がきついとは思っていたが、閉まらないことはなかったのに。

 どうして……どうして……

 僕は焦って何度も窓を引く手に力を込める。でも窓は全然動かなかった。マズい。早く窓を閉めないと。閉めないと怪獣が、怪獣が……!


 あんな巨大怪獣に窓を閉めたって、意味ないじゃん。

 目が覚めて真っ先に浮かんだ感想はそれだった。それでも、あんまり変な夢だったので、朝食を食べながら父に言うと、意外なことに、父は笑わず話を合わせてくれた。

「怪獣かぁ。出てくるといいよなぁ。父さんも会社行かなくて済むし」

 そういえば父は特撮映画のファンだと、以前言っていたことを思い出す。

「何バカなこと言ってるの、マサルも、お父さんも。食べたら食器はちゃんとシンクまで持っていってよね」

 先に朝食を食べてしまった母は、既に出勤用の服に着替えて髪を整えながら、不機嫌そうに僕たちを横目で睨んだ。

 ハイハイ。僕と父は首をすくめて皿とカップをキッチンに運ぶ。共働きの森田家の朝は、いつもこんな風だ。

「でもさ、マサル。本当に出てくるかもしれないぞ」

 部屋で中学の制服に袖を通していると、父がウキウキした顔で、僕に新聞を見せに来た。

 父が指さしたのは、つい最近中央アジアのイルヒャ砂漠に落下した巨大隕石の記事だ。落ちた後のクレーターは直径百メートル近くあり、都市部に落下していたら大惨事になっていたそうなので、砂漠のど真ん中に落ちたのは幸いだったが、記事の主要な部分はその後だった。

 ―しかし専門家が調査を始めると、次々と興味深い事実が見つかった。イルヒャ隕石は、鉄とケイ酸塩鉱物を主成分とした典型的な石鉄隕石だが、注目はその形成された年代である。隕石の多くは四十億年以上前に生成されているが、このイルヒャ隕石は推定二十億年と遥かに若く、どのような過程を経てこの地球に来たのか、大きな謎だ。さらにこの隕石は当初多量の水を含んでいたことが分かっている。それが蒸発した後の、特に隕石の表層に近い部分の微細な空洞に、アミノ酸の一種を含む未解明の組織がそれぞれ付着していた事実は、世界に衝撃を与えた。アミノ酸は生命の発生と進化に欠かせないものだ。もしこの組織が進化のどの段階であれ生物的な特徴を示すものであれば、我々は初めて地球外生命体をこの目で見ることになる……

「丸いんだってさ。この付着していた組織」

 父がニヤニヤ笑いながら言った。

「丸い?」

「つまり卵だよ。卵から孵った宇宙生物の多くは宇宙に流れたが、その一部は卵のまま隕石と一緒に地球に引き寄せられ、大気圏突入後に爆発し、地上に飛び散った。イルヒャ隕石はその内の最大のかけらというだけで、世界の相当広範囲に大小の破片が散ってるというからな。これから始まるぞ。卵から孵った超巨大生物の」

「行ってきまーす」

 ニヤニヤ笑いながらそう言う父が、悪ノリを始めているのは明らかだったし、本当に遅刻しそうだったので、僕はリュックを肩にかけ、さっさと玄関に向かった。父の会社はフレックスタイム制なので遅刻というものはないが、中学校はそうじゃない。

 二年3組の教室についてから、仲のいい梶谷と井村に夢のことを話すと、予想どおり「窓を閉めたいのに閉まらない」というところに、メチャクチャ反応してくれた。

「たぶん、母さんがよく『虫が入ってくると嫌だから、窓はきちんと閉めなさい』とよく言ってたのが記憶に残っていて、あんな変な夢のオチになったと思うんだけど」

 僕なりの考察を言うと、また二人はヒイヒイ言いながら笑う。

「だってバイパスも踏み潰すくらいの巨大怪獣なんだろ?」

「意味ないじゃん!」

 それは僕も分かっている。

「で、森田が夢で見た怪獣って、昔の特撮というかナントカマンに出てくる、いわゆる怪獣タイプ? それともハリウッド映画でよくある、もっとリアルなCGの恐竜タイプ?」

 しばらく笑った後、梶尾よりは少しそのあたりに詳しい井村が、真面目な顔で聞いてきた。

「ああ……」

 僕も真剣に思い出そうと記憶を探ってみる。

「夢だったからそんなに詳しく覚えてはないけど……やっぱり怪獣かな。だって恐竜は足細いじゃん。でも僕の見たのは太い足だったし、体も黒っぽくてゴツゴツしていて、目は黄色に光ってたし……」

「あはは。確かに特撮の怪獣って中に人が入ってるから、足細くできないよな」

 梶尾がそう言ったところで、ガラッと教室の戸が開いて、教科係をしている女子生徒二人が入ってきた。時間変更があって、一時間目は国語から保健体育に変わったので、すぐに体育館に移動するように、という連絡だった。

「うわ、一時間目から体育。マジか……」

 体育の苦手な井村ががっかりした顔で呟く。それでもクラスの全員がガヤガヤと立ち上がり、僕も仕方なく机の中に国語の教科書をしまい込んだ時。

「あの……森田君」

 聞き慣れない声に、僕は顔を上げた。

顔を上げると、かろうじて顔を知っている女子が目の前にいて、緊張した顔でじっと僕を覗き込んでいた。

 声を聞くのも初めてだったが、同じ3組の池上、だ。下の名前は覚えていない。クラス一大人しくて印象が薄いからだ。こういう女子はいじめにあうことも多いが、存在感がなさ過ぎて今のところそういう被害にはあっていないようだ。にしても、僕に何の用だろう。

「はい?」

 思わず僕も探るような声になる。

「さっきの夢の話だけど……」

「ああ……」

 聞こえていたらしい。梶尾は声が大きいから、つい僕も普段より大声になるのだ。とすると、ひょっとして大人しい池上も、実は特撮オタクとか?

「おーい、森田。体育館行くぞー」

 廊下から梶尾と井村が呼ぶ。僕は慌てて立ち上がった。

「あ……で、夢が何?」

「あたしも見たの」

 体操着の手提げ袋を持ったまま、すでに半分廊下に歩き出しかけていた僕は、振り返った。

 池上は、やはり緊張した顔のまま僕を見つめていた。

「……見た?」

 池上ははっきり頷いた。

「あたしも、そういう夢見たの。山の向こうから顔をのぞかせた巨大な怪獣か恐竜みたいなものが町を破壊して、そう、バイパスとか道路を壊して、逃げようとするたくさんの人を……」

 池上は大人しいが、本当はこんなに普通に話せることを、僕はその時初めて知った。

 いや、そんなことより。

 同じ夢? そんなことあるのだろうか。しかもなぜ、これまで僕とは全くかかわりのなかった池上が……?

 ひょっとして池上は僕に片思いしていて、同じ夢を見たなんて言って気を引こうとしているだけ、とか。

でも僕はこれまでモテたことはないし、山の後ろからあの巨大怪獣が顔をのぞかせたことまでは、教室で梶尾や井村に言っていない。夢の他の部分も似過ぎている。

もし本当に同じ夢だとしたら……なぜ……

「森田、おいっ」

 池上のことが気になって、僕はバスケットの模擬試合中も集中できず、気がつくとボールは見事に僕の両手の間をすり抜けて相手方に渡っていた。

「何やってんだよ」

 横を走り抜ける梶尾に後ろ頭を叩かれる。

 体育館の向こう半分では、女子も模擬試合を始めていた。池上は体育が全然ダメのようで、ただ人の後ろをついて走っているだけだ。しかしこれまできちんと見たことはなかったが、スタイルもいいし、顔も美人とは言わないがすっきり整っている。

 池上も必死で窓を閉めようと焦ったのだろうか。

 しかしそれはなんとなく、池上のイメージには合わない気がして、聞くのはやめようと思った。


翌朝は、変な夢は見なかった。

朝食を食べる間流れていたテレビのニュースでも、父が注目していた隕石の続報はなく、代わりに東南アジアの複数の村で、一夜にして全住民が消えたという報道に、母が眉をひそめた。襲われた痕跡はあるが生存者はなく、わずかに残る遺体も損傷が激しく、人の形をとどめているものはなかったという。

「村と言っても千人規模の住民がいるところもあったんだって。部族同士の対立とか、盗賊かな。怖いよねえ」

 と言いながら、母は普通に卵かけご飯を食べる。

「森田君」

 登校して教室に入ろうとすると、後ろから走って追ってきたらしい池上が小声で僕を呼び止めた。肩で息をしている。

「おはよう。どうしたの。何かあった?」

 前日の怪獣の夢のことがあるので、この日はあまり警戒せず、普通に話すことができた。

「そう……夢の話……の続きなんだけど……」

 池上は息を整えようと言葉を切り、ごめん、と言いながら少し笑った。笑うとちょっと可愛い。

「続き……?」

「他にも……いたみたいなの。夢を見た人」

「えっ……」

 見開くと澄んだ黒い瞳が際立つ池上の目に気を取られながらも、僕は言葉に詰まった。

「……怪獣の夢を?」

 池上はコクンと頷いた。

「結構話題になってる。ネット上とか。でもね、夢見たのはみんな子供みたいなの。少なくともあたしが読んでみた中では、大人の人っぽいのは一個もなかった」

 僕は周囲を見渡し、まだ先生の姿がないのを確かめてから、スマホを取り出した。校内ではスマホの利用は一応禁止ということになっている。

 〈怪獣の夢〉は確かに検索ワードの上位に挙がっていた。最初に誰かが珍しくこんな夢見たよ、という感じで書き込んだら、自分も見たという話が次々続いて、いわゆるバズりのような状態になっているらしい。

 ただ、夢の内容はそれぞれ少しずつ違っていた。どれも「自分の町に巨大怪獣が現れて……」という出だしなのだが、都会なら「高層ビルの向こうから」、地方なら僕と同じように「山の向こうから」。「海からぬっと顔を出して」というものもあった。

 人々が逃げ惑い、家や道路、ビルが次々破壊されるのは同じだ。その後を読んで、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

 やはり、みんな何かを閉じようとして失敗している。

 窓もあれば、家や車のドアもある。

「池上は? 池上が見た夢の終わりはどんなだった?」

「あたしは……」

 池上はまた困ったように数秒下を向いて口をつぐんだ。

「あたしは、小さい頃から大事にしてる、おばあちゃんに貰った小物入れの箱。高価なものは何も入ってないんだけど、これだけは持って逃げようと思って掴んだら、鍵が開いていて中身を落としてしまって。その後も何度も閉めようとしたけど、閉まらなかった」

 やはりそうだ。これは……一体何を示すのだろう。

 一つだけ、子供っぽくない書き込みがあるのが目に入った。

―興味深いですね。子供の中には大人よりそういう、まだ形にならざるもの、に対する感覚が強い人が、一定数いるのでしょう。大人になると失われてしまうのかもしれませんが。怪獣は何を示唆しているのでしょう。超巨大地震とか、第三次世界大戦? 本当に起きたら嫌だけど……

 そうなのだろうか。僕はなんとなく疑問に思った。巨大怪獣は、何か本当は別のことを示しているのか?

 何かしっくりこない、ような……

「森田君」

 小さな池上の声で我に返った。スマホから顔を上げると、池上が珍しく目を大きく開いて僕をじっと見ていた。

「森田君、スターゼリー……って聞いたことある?」

「え? ないけど。何それ?」

「それの検索数も増えてるの」

 検索してみる。すぐに画面を大量の画像が埋め尽くした。

 これは……何だろう。草むらや路面、水路など場所は様々だ。そこに何個かまとまって転がる半透明で丸い、ビー玉のようにも見えるが、とても柔らかいような……

「これがスターゼリー?」

「そう。隕石が落ちた後に、見つかるらしいの。この間、かなり大きな隕石が砂漠に落下したでしょ。その後には特にたくさん世界中で見つかって、もちろん中には別のものもあるだろうけど、画像も大量に上がって、海外ではニュースにもなったみたい。このスターゼリーって、分析するとアミノ酸を含んでいることもあるそうなの。そういうのが進化して、地球に生命が生まれたという説もあるんだよ。確かに……何かの卵のようにも見えるよね」

―隕石の空洞には、アミノ酸を含んだ未知の組織が……

 父に見せられた新聞の記事を思い出す。ついでに途中で遮ってしまった父の言葉も。

―つまり、卵だよ。これから始まるぞ。卵から孵った超巨大生物の……

「あの、池上は……このスターゼリー見たの?」

 念のためと思い尋ねると、彼女は予想外なことに、再びこっくりと頷いた。

「あの夢の中で怪獣が出てきた山。どうしてあの山なんだろうと思って、気になって見に行ったの。そうしたら、山を囲む遊歩道のそばの草むらで。ただね、イメージしていたより硬くて不透明だった。でもアップされている画像とそっくりだから、間違いないと思う」

「へえー……」

 なんとなく、凄い、と思ってしまう。

「ええと……それ、見てみたいんだけど……無理かな」

 僕が恐る恐る聞いてみると、池上は数秒考え込んだ後に、またこくんと頷いた。頷き方も、ちょっと可愛い。

「先生、来たぞ」

 誰かが言い、僕も池上も急いで教室に入った。席に着いた途端、後ろの席の梶尾に頭を叩かれる。

「おまえ、ああいうのがいいんだ」

 頭を押さえて後ろを向くと、梶尾とその後ろの席の井村がニヤニヤ笑っていた。

「そういうのじゃないって……」

 先生が教室に入ってきたので、ガタガタと音を立てて皆が椅子から立ち上がる。離れた席で池上も立ち上がるのが見えた。

「ま……いいんじゃないの。俺、学校であいつが誰かと話すの、初めて見たよ」

騒音に交じって梶尾が言った。確かに、僕も見たことはない。

 思い出すと、初めて僕に池上が声をかけた時、彼女はとても緊張していた。声が震えていた気もする。でも今日はそんなことはなかった。声も落ち着いていた。とても透き通った、きれいな声だ。今も離れた席に座る池上の横顔は涼しげで、退屈な授業の癒しになりそうだった。

 僕はその時、一瞬だけどこんな変な夢を見たことを感謝した。この夢を見なかったら、こんな池上に気づくことも、池上が勇気を出して僕に話しかけてくれることも、きっとなかったに違いない。

 その日は秋晴れの、空が高い、涼しい風が吹く一日だった。何もなくてもちょっと記憶に残りそうな、気分のいい一日。

 そして、僕がそれまでごく当たり前だと思っていた、毎朝母に追い立てられ、遅刻を気にしながら中学に通い、友達と話し、ちょっとした出来事にドキドキしたりするという、言ってみればありきたりな生活の……

最後の一日だった。


 池上は、待ち合わせの公園に来なかった。

 元々住宅地の中にあって、大声を上げられないので不人気の公園で、今日も人っ子一人いない。しかし池上が来ない理由はなんとなく分かっている。公園の樹木の後ろから、わざとらしく体を半分だけ隠した梶尾と井村が顔をのぞかせているからだ。自分たちもスターゼリーを見たいからだと言うが、これは絶対に妨害だ。ほとんどの女子はこれを見たら警戒して帰ってしまう……のではないか。

「自宅まで行ってみたらいいじゃん。俺、家知ってるよ」

 誰もいない公園で、近くを通り過ぎるパトカーをぼんやり眺めながら、約束の時間を過ぎてもやってこない池上を待っていると、木陰から出てきた井村が言った。

「俺、小学校も一緒だったから。この公園から近いよ」

「え……いや、でも」

 でもまだ少し過ぎただけだから、と思った時にはもう井村と一緒に梶尾も歩き始めていた。

「いいよ。急用かもしれないし。家まで行かなくても」

「あ、そうそう。びっくりすんなよ。かなりボロい家だから」

 急に立ち止まった井村が、真面目な顔で振り返った。

「じいちゃんばあちゃんの家だから、古いんだよ。じいちゃんは寝たきりで、ばあちゃんも足の具合が悪くて、家事はほとんど池上がやってるらしいって聞いたことある。つっても慣れてなかったせいか、小学校の頃はよく学校休んでたけど。それで印象薄くなったというのもあるよ。毎日学校に来るようになったのは、中学に入ってからかな」

「え……お父さんとかお母さんは?」

 なんとなく聞かない方がいい予感がしながらも、僕は尋ねた。

「いないよ」

 井村はぽつんと言って、また歩き始めた。

 僕もそれ以上は聞けなかった。どうしていないのか、死んだのか、それとも出て行ったのか……

 とにかく家にはいかない方がいい気がした。そんな古い家ならなおのこと、普通は見られたくないと思うに違いない。だから池上は近くの公園を指定したのだ。

「やっぱり僕……」

 言いかけた時、バンッという音がして、誰かが素足で道路に走り出てきた。平屋の古い家屋からだった。縁のベニヤ板が取れかかっている玄関のドアは閉まっている。叩きつけるように閉めて、飛び出してきた感じだ。

 池上だった。まだ制服を着ている。一瞬家の方を振り返り、息を何度も吸い込み、頭を抱えて絶叫した。

「いやぁあああああぁっ!」

「池上!」

「どうしたの?」

 僕と井村が続けて声をかける。池上は目を開いたまま、僕たちを見た。それから見たこともない引き歪んだ表情で叫んだ。

「逃げて、早く逃げてぇっ!」

 何か異常な状況なのは分かった。強盗と家の中で鉢合わせたとか。だったら池上も一緒に逃げなければいけない。逃げてある程度距離を取ってから、警察に連絡。

「わ、分かった、一緒に逃げよう」

 僕は数歩近づき、動こうとしない池上の方に手を伸ばした。

 キィィ……

 ドアが、少し開いた。

 開いたドアの奥から、老人の顔がのぞいた。祖父母と同居しているというから、池上の祖父だろう。

 ただその顔の位置が、おかしかった。

 地面からわずか五十センチくらいの高さなのだ。そういえば池上の祖父は、井村によれば寝たきりだったはずだ。這ってドアまで来た、ということだろうか。でもやはり、それもおかしい。

 もし這ってきたのでないとしたら、なぜ池上の祖父の顔は、あの位置に……

 ぺたっ、と祖父の手がドアの端を押さえた。

 人間の手ではなかった。

 黒い。黒くてやたらと細くて長い三本の指の先に、フックのように曲がった鉤爪が見えた。

 ぺたっ、ともう一方の手が、屋内から外壁に伸びた。今度は腕も見えた。黒くむっちりとした、鱗の浮いた腕。見えるにつれ、池上の祖父の首も外へと伸びる。

 祖父の首から下もまた黒い鱗に覆われていた。鱗の中になぜかもう一つの目が見える。大きな、黄色く光る細い眼。何の感情も感じない目が、じっとこちらを見ている。それだけではない。祖父の首から下を覆う黒いものの向こう。廊下の暗がりにも、もう一対。やはり黄色い無機質な目がこちらを凝視していたのだ。

 ウソだろう……?

 最初にい浮かんだつまらない感想はそれだった。今はまだ昼間だ。夕暮れにさえなっていない。空も晴れて青空だ。ハロウィンっていつだっけ。僕や池上が変な夢の話をしたから、池上の祖父母が……ハハ、そんなはずはない。寝たきりの老人が怪獣の着ぐるみを着るなんて絶対無理だ!

 祖父の首が、ぼとり、と地面に落ちた。

 後に残ったのは、鉤爪よりも鋭利な血だらけの牙がずらりと並ぶ、巨大な口。

 キャゴォォーッ!

 いきなり黒いものが甲高い声で吠えた。

 そして、飛んだ!

「ひ、ひぃぃぃぃぃ―――――っ!」

 ようやく僕は変な声を上げ、夢中で池上の腕をつかみ、全力で走り始めた。梶尾も井村も、もちろん池上も、泣きそうな声で悲鳴を上げながら走る。

 真後ろで、ダンッ、という重いものが道路に落ちた音が聞こえた。黒いあれが着地したのだ。あっという間に背後に足音が迫ってくる。しかも二対! 大きさは確かにそれほど大きくない。しかし敏捷だった。走る先に立っていた僕の母くらいの年齢のおばさんが、棒立ちのまま悲鳴を上げ続けている。

「逃げてっ!」

 すれ違いながら僕は叫んだが、その人は動かなかった。動けなかったのだと思う。

 ぐじょっ、という何を意味するのか分からない湿った音が真後ろで聞こえ、同時におばさんの悲鳴も途絶えた。

 後で分かったことだが、僕たちもまたほんの少しだけ運が良かっただけだった。その黒いバケモノはとてつもなく狂暴で、一度狙ったものを逃すことはなかったが、「たまたま、二頭それぞれが大人一人を呑み込んだ後だったので、若干動きが鈍くなっていたのだろう」と、最終的に僕たちを保護してくれた自衛隊員は説明した。

―もう一つ言えば、君たちが一度もつまずいて転んだりしなかったことも、運が良かったと言えるだろうね。

 転べるはずがなかった。転んだら最後だと、全員何も言わなくても分っていたのだ。

「トンネル!」

 一番先を走る梶尾が叫ぶ。公園の遊具の中に、縦横のトンネルを組み合わせた、小さな山のような遊具があるのだ。確かにあの幼児向けのトンネルの狭さなら、黒いものは入ってこられないに違いない。ただ、あの中に四人もの中学生が入れるだろうか……

 公園を突っ切り、真っ先に横向きのトンネルに飛び込んだ梶尾が、繋がっている縦トンネルの取っ手を握って、少し上に上がる。その下に井村が滑り込む。次に池上。最後に僕。

 キギャァーッ!

 黒いバケモノまで大口を開き、首のところまで中に入ってきた。慌てて膝を曲げた直後に、信じられないくらいずらりと並んだ牙が、ガチッと上下から重なる。

「うわあああっ!」

 叫んだのは縦トンネルにいる梶尾だった。上からもう一体の方が首を突っ込んできたのだと思う。

 グシュッ、という鈍い音がした。梶尾!

「うわあ。俺のスクバが……」

 梶尾の情けない声が聞こえたので、死んではいないと分かった。

「あたしが悪いの。あたしが悪いの……!」

 気がつくと、トンネル中央で膝を抱えた池上が、顔を伏せたまま呟いていた。二体のバケモノは、キギャァー、キギャァーと周囲を回りながら鳴き続けているが、どうやら首以上は中に入れないようだ。

「ど、どうして?」

 僕は警察を呼ぼうとスマホを取り出しながら、池上に尋ねた。池上はさらに身を縮めた。

「あたしがあんなもの、箱に入れておいたから」

「あの……スターゼリーとかいうやつ?」

 池上の頭が、うん、というように動く。

「下校して家に入る時、ただいまって言ったら、返事がなかったの。でもおじいちゃんもおばあちゃんも昼寝していて返事しないことはよくあったから、気にしなかった。そのまま急いで自分の部屋に入ろうとして、ちゃんと閉めて出かけたのにドアが開いたままで、変だなって思ったけど、何か用があっておばあちゃんが入ったのかなと思って……」

 池上はようやく顔を少し上げたが、目は何もない方を見ていた。

「箱の蓋が開いていたの。中を見たら、昨夜にはあったスターゼリーがなくなってた。箱には簡単な鍵がついてたんだけど、無理やりこじ開けた跡があって、金具が折れ曲がっていて、それでこんなことおばあちゃんにはできないって気づいた途端、怖くなった。強盗だと思って……。そうしたら廊下の奥の方から、カタンって音が聞こえたの。恐る恐る部屋から廊下の奥を覗いたら、いつもはベッドに寝ているはずのおじいちゃんが廊下に這い出そうとしていて、あたしを見たら、サヤ、逃げろって……叫んだおじいちゃんは急に引き戸の向こうに引きずり込まれて、そしたら……そしたら……もっと近いキッチンからも音がして、見たら、おばあちゃんの服の切れ端を口から垂らした……もう一匹の……」

 梶尾も井村も身を縮めたまま沈黙していた。僕も何と言っていいか分からなかった。分からないまま、とにかくスマホで110を押す。

「え、事故か事件? じ……事件だと思います。信じて貰えないかもしれないけど、今、神南東公園の遊具の中で、バケモノみたいな黒い生き物二匹に囲まれてるんです。そいつ、友達の家で既に二人、人間を……く、喰ってるみたいで、とにかく助けてください!」

 その時通報を受けた人の呟きは、確かにこう聞こえた。

〈え、またか? ウソだろう? 同一事件じゃないよな〉


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