第34話 十月怪談
その女の子に気づいたのは、中二の秋。両親が郊外に家を買い、その近くの中学校に転校した日のことだった。
転校するのは初めてだった。緊張する。
「じゃあ、安川リエさん。あなたの席はあそこね」
自己紹介した後、担任の先生が指さしたのは、窓際の一番後ろだった。席を見て、うっ……と思った。わたしの机を除けば、教室には縦横ともに六人ずつ座っている。7番目の列は私一人なのだ。正確に言うと廊下側の端にも7番目の机はあるが、誰も座っていない。
横に誰もいないのか……
座りながら、少し悲しい気分になった。転校初日なんて、ただでさえすぐに友達ができるか不安なのに、一人だけ後ろの席なんて。せめてもう一人くらい七列目にいたらいいのに……
「あたし、藤本ナナミ。何でも聞いてね」
前の席の小柄な女の子が振り向いて笑顔で言ってくれたのが、唯一の救いだ。
一時間目の理科は実験室に移動して、班ごとに簡単な実験をした。ナナミという子とわたしは同じ六班で、しかも彼女はとても人懐こく、よくしゃべった。一緒にいろいろな機材を扱ったり記録を取ったりするうち、すぐに仲良くなる。
「まあリエも一人だけ一番後ろで寂しいかもしれないけど、来月になったらすぐに席替えがあるから。うちのクラスは毎月席替えやるんだよ」
ナナミはなぐさめるように言ってくれた。
そうなんだ。
わたしはふと廊下側の空席を思い出した。
「じゃあ廊下側に空席の机があったけど、あそこは誰かが使っていて、たまたま今日は休んでる……というワケじゃないんだね」
それなら一人だけ後ろ、という言い方にはならないに違いない。もともと使われていないのだろう。
「じゃああの机って、どうして置いてあるの? これからまた誰か転校してくる予定があるの?」
それほど興味があって尋ねたわけではないのだが、ナナミはほんの少し目を見開くようにしてわたしを眺め、しばらく答えなかった。
「あ……あのね」
やがてナナミは周囲を気にするように見回し、小声でわたしに言った。
「そういうのはあんまり人に言わない方がいいよ。……ないものはないし、いない人はいないの」
……?
何のことなのか、わたしは意味が分からなかったが、ナナミが他の子と話し始めたので、それ以上は聞けなかった。
ないものはない……いない人はいない……
首を傾げてしまいながら、ぼんやり教室に戻ったわたしは、声を上げそうになった。
廊下側のあの席に、女の子が座っていたのだ。
ほっそりした感じの、髪の長い女の子だった。誰かと話すこともなく、自分から誰かに声をかけることもなく、机の上に筆記用具さえ置かないで、じっとうつむいて座っている。
朝は誰もいなかったのに……
どういうことなのか一瞬ナナミに聞きたくなったが、人に言わない方がいい……と複雑そうな表情で言われたことを思い出して、言葉が止まってしまった。
本当に誰も彼女に話しかけなかった。
二時間目は英語だったが、先生さえ質問する時は、彼女を飛ばして当てていく。不登校気味なのだろうか。だから先生も生徒も頑張って二時間目から登校してきた彼女を、そっと見守っている、とか……
しかしそれも数日経つうち、やはり違うのではないかという気がしてきた。
生徒も担任の先生も、どう考えてもその子はいないものとして扱っているとしか思えない。しかもそっと見守るどころか、かなりいい加減な扱いだ。彼女は登校してくる時も来ない時もあったが、登校した彼女が座っている机や椅子にぶつかって彼女が身を縮めても、誰も謝ったりしない。小テストの用紙も彼女には回らない。しかも、先生もそれを容認している。
ひょっとして、クラス全員で彼女をいじめてる?
そう考えると、転校初日に声を掛けてくれたナナミさえ、裏の顔がありそうで怖くなってくる。
ナナミは相変わらず笑顔で色々話しかけてくれる。でも、あの女の子のことを話すのはやめようと思った。皆がいないものとして扱っていて、ナナミも言わない方がいいと言った彼女のことをまた言えば、自分まで彼女と同じ扱いを受けるかもしれないと思うと、言えなかった。もちろん、とてもかわいそうだとは思うけれど……
転校して十日ほど経つと月が替わり、ナナミが言っていたとおり席替えがクジ引きで行われた。
ナナミとは近いが、机一つ分横に離れてしまった。それ以上に驚いたのは、くじで引いたわたしの席が、一番廊下側の前から六番目。あの女の子のすぐ前の席になったことだ。
どうしよう。
わたしはまだ一度も、彼女に話しかけたことはない。でもこの距離なら、こっそり話しかけるくらいはできるかもしれない。わたしは彼女が誰かと話すところを、まだ一度も見たことがなかった。今までみんなの彼女に対する扱いを、見て見ぬふりをして、それをずっと後ろめたく思っていたが、この席になったことは、その後ろめたさを少しでも解消するチャンスかもしれない……
「リエ!」
急にナナミに声を掛けられて、ずっと考え込んでいたわたしは、飛び上がるほど驚いてしまった。
「な、何?」
慌てて笑顔を作り、男子の席を一つ挟んだナナミの席の方を向く。ナナミはいつもの笑顔だったが、少し困ったふうにも見えた。
「あのさ……。よかったらその席、あたしと替わってもいいよ。そこ、不便でしょ」
あー……、と言いながらわたしは周囲を見回した。席替えで一番後ろではなくなったが、前も隣もまだ名前も知らない男子なので、確かに孤立しているのは同じだ。逆にナナミの周囲は女子ばかり。ナナミとの繫がりでわたしとよく話をする子もいて、楽しそうだった。
「ずっと一番後ろだったんだから、今度はここに来なよ。あたしは大丈夫だからさ」
ナナミは自分の席を示して、熱心にそう言ってくれる。確かにナナミなら男女問わず誰とでも楽しくやっていくだろう。
でも……
「ありがと。……でもいいよ、ここで。みんなクジ引きのとおりに並んでるし、それにまた来月になったら席替えあるんでしょ」
そう返事をすると、ナナミはまた少し複雑そうな表情でわたしをじっと見たが、それ以上席を替われとは言わなかった。
「うん、分かった。でも何かあったら、すぐ言ってね」
こういう言葉を聞くと、やはりナナミはとてもいい子なのではないかという気がする。全部考えすぎ、のような気もする。
でも、それならどうして、今では私の後ろに座っているあの女の子を、クラス全員で無視するの?
とはいえ、わたしも席は近くなったものの、どう彼女に話しかけていいか、接近していいのか全然分からずにいた。彼女は席にいない時も多く、意を決して振り返ると、もう帰ってしまっている、ということもよくあった。
えっと……
本当にどうやって話しかけたらいいのか。
せっかく彼女の前の席に移ったのに、その日も、次の日も、結局わたしは一度も彼女に話しかけることも、顔を見ることさえできずにいた。
三日目。
その日は午前中から曇っていた。
「最後にプリントを配ります。必ず来週の次の時間までにやってきて下さい」
四時間目の終わりに、社会科の若い女の先生がプリントを配り始めた。プリントを配られるのは、席替えがあってから初めてだ。一列目から順にプリントの紙が回ってくる。一人取るごとに一枚ずつ減っていって、きっとわたしのところには一枚……ではなかった。
あっ、と心の中で叫んだ。
二枚ある。
それはつまり、社会科の先生は後ろの女の子の分もちゃんと配ってくれたということだ。
ドキドキしてきた。ちゃんと女の子のことを気に掛けてくれる先生もいるのだと思うと、ほっとする。わたしは勢いよく後ろに、最後に残った一枚のプリントを回した。
「はい、どうぞ」
そう言いながら私が笑顔でプリントを差し出すと、それまでいつ見てもうつむいたままだった女の子が、ようやく顔を上げ始めた。
え……
その時教室全体が暗く陰った気がしたのは、空が曇っていたせいだけではないと思う。
自分の笑顔が強張るのが分かった。プリントを差し出した自分の手が、震えるのが分かった。
初めて、女の子の顔が見えた。
これ……顔……?
ヒクッと自分の喉が鳴るのがわかった。
よく見えないのだ。今にも背景に溶け込みそうな、暗く滲んだ輪郭。目も鼻も口もはっきりとした形が見えない。特に両目のあたりは真っ暗だった。目のようなものは白目も黒目も何も見えなかった。こんなに近くで見ているのに。
こんな顔って……あるの?
ただ、口のあたりはまだぼんやりと暗いが形が見えていた。その両端がゆっくりと上に上がっていく。
笑っている。うれしそうに。
なぜ?
そんなの分かっている。わたしが声をかけたからだ。みんなが無視しているのに、わたしだけが彼女に声をかけたから。
でも、勇気を出していいことをした、という感覚は完全に消えていた。
怖い。
うまく説明できないが、震えるような恐怖を感じた。これは見てはいけなかったものだ。声をかけてはいけなかったものだ。でももうわたしは声をかけてしまった。もう遅い。もう遅い!
「安川サン、何やってんの?」
唐突に聞こえたその声で我に返った。
振り向くと、前の席の男子が今にも吹き出しそうな表情で、わたしを見ていた。
「それ、誰にあげんの?」
誰って……
わたしはもう一度、恐る恐る後ろを見た。
女の子は、姿を消していた。誰にあげんの、とまで言われて、いづらくなったのか。でも、椅子を動かす音も足音も、何も聞こえなかった……
周囲の生徒が、わたしを見ながらクスクス笑いだす。
「ああ、余ったプリントは返してくださいね」
先生が当たり前のように言い、わたしが持ったままだったプリントはその男子によって取り上げられ、また前の方へとリレーして先生に返された。
まだ笑い声は続いていた。わたしはまだ体に残る震えと混乱の中で周囲を見回し、ようやく気づいた。
ナナミだけが笑っていなかった。
給食の時間が終わって五時間目になっても緊張は収まらなかった。
あれは……一体何?
あれを見れば確かに、みんながいないように振舞うのも分かる。あまりにも異質過ぎた。絶対に見てはならないものを見てしまった気がした。あれは……本当に生きた人間?
逃げたい。どうしてナナミが席を替わろうかと言った時、断ってしまったのだろう。そうだ。ナナミはやはりいい子だ。遠回しに忠告してくれたのに、わたしは……
いきなり心臓が跳ね上がった。
また教室内が暗くなってきたのだ。
窓の外に見える空は青いのに、辺りは夕闇のように暗い。黒板に数式をかきながら説明する先生の声が急に遠くなり、わたしの荒い、ハア、ハア、という息の音だけが耳の中に響く。
あの子が戻ってきた。そう直感した。何の音もしなかったけれど。
背を向けているのに、彼女がじっとわたしを見ているのが分かる。輪郭もよく見えないのに、笑っているのが分かる。
〈トモダチ……〉
彼女のぼんやりした唇が動く。
〈ヤットアタシニ気ヅイテクレタ、初メテノ、トモダチ〉
違う。そこまでのことは考えていなかった。わたしはただ、誰からも無視されてかわいそうだと思って……
いきなり電流が走ったように体が硬直した。
動かない。まるで型にはめられたように、体が動かなくなった。手足だけではなく、首も、口も、強張っていうことを聞かない。
背中が急に冷たくなった。氷のように冷たい何かが2つ、背の左右に貼りついた。人の手のひらのような……
ぺた……ぺた……
ゆっくりと上に這い上ってくる。逃げたいのに逃げられない。声を出したいのに出せない。寒いのに、どっと汗が噴き出してくる。
助けて……誰か……助けて……!
わたしは心の中で叫び立ち上がろうとしたが、実際には目を見開き、前を向いて座っているだけで、手も足も口も動きはしなかった。
ひっ……ヒッ……ヒィッ……
這い上ってきた冷たい何かが、両肩にたどり着いた。首を舐めるように這い、制服の襟にまわる。視界の端に映るその何かを見てしまった。まるで骨がないような、ぬるんとした赤紫色の手!
いきなり目の前に長い髪が垂れた。
〈ネエ、マタ振リ向イテ声ヲカケテヨ。ダッテ、トモダチデショ?〉
目の前にあの暗闇のような顔が逆さになってぶら下がっていた。両目は闇の中に陥没したような、全ての輪郭が黒く滲んだ、ただ笑っていることだけが分かる顔。
〈トモダチ……ワタシノ、トモダチ……〉
嫌だぁ!
心の中で絶叫した。言った途端に赤紫の手に首元をぎゅうっと絞めつけられた。苦しい。息ができない。窒息する!
先生……ナナミ……助けて……死んじゃう……!
ガタンッ
誰かが椅子を引いた大きな音で、いきなり体の呪縛が消えた。
まだ体は冷え切ったままだ。それでもやっと動くようになった顔を音がした方に向けた。ナナミが立ち上がっていて、チョークを持ったまま教壇で目をパチパチさせる先生を見ている。
「先生。安川さんが気分悪そうなので、保健室に連れて行ってあげてもいいですか?」
ナナミが指さしたわたしの方に、先生が顔を向けた。周囲の生徒もわたしを見る。
「うわ、唇が紫……」
四時間目はわたしを笑って見ていた前の席の男子生徒が、顔を引きつらせながら呟いた。
「本当に、本当にナナミには見えないの?」
放課後、誰もいなくなった教室に保健室から戻ってきたわたしは、付き添ってくれたナナミに問い返した。
信じられなかった。ナナミはわたしの後ろに机も椅子もないというのだ。もちろん女の子の姿も見えない、らしい。
何を言っているのだろうと思った。今も、目の前に机も椅子もあるのに。
「ほら、ここにあるじゃない」
わたしが指さす先を、ナナミはじっと見つめた。
「そこに……リエの言う女の子が座っているの?」
「え……今はいないけど……でもいつも、いる時といない時があるから……」
見れば分かるでしょ、と思いながらも、わたしはだんだん、大真面目な顔をしているナナミが嘘を言っているわけではないことが分かってきた。
確かに見えない、ということなら説明がつくのだ。先生や他の生徒が完全に彼女を無視していた理由。でもやはりそれはおかしい。今も間違いなくここに、机と椅子はある。
「じゃあ……その机にこれを貼ってみて」
ナナミは制服の胸ポケットから小さな紙切れのようなものを取り出した。
よく見ると、それは小さいが、いわゆるお札のようなものに見えた。
「うちはお寺だから」
ナナミはわたしの指先に、二枚あるうちの一枚を載せながら説明した。
「もちろんあたし自身には何の能力もないけど、たまにこういう事情でお寺に助けを求めて来る人、いるのよね。これはそういう人に僧侶の父が使うもの。リエが転校してきた日に、自分の組に他の人には見えない机や女の子のことを話す子がいるって話したら、たぶん必要になるからって、渡してくれたの」
こういう事情って……
わたしは一瞬だけ抵抗を感じた。わたしが体験したことは、誰かに相談しなければならないほど、それほど恐ろしいものだったのか。
でも、たぶんそうなのだ。音もたてずに現れ、音もたてずに消え、あんなに暗い、禍々しい姿の人間がいるはずがない。わたしは……わたしだけが、誰にも見えないものを見、誰にも見えない女の子をずっと見ていたのだ。そしてあの女の子は必ず、またここに現れる。
沈黙するわたしに、ナナミは促すように頷きかけた。
「いいから、貼ってみて」
貼る、というのがよく分からなかったが、とりあえずその小さなお札を机に置き、指先で押さえてみる。
「えっ!」
思わず叫んで、わたしは後ろに下がった。
いきなりその小さなお札が燃え上がったのだ。炎は机や椅子に燃え移り、まるで薄い紙のように机もあっという間に燃え尽き……消えた。
灰も残さず、机も椅子も目の前から消えてしまったのだ。
「お札……燃えたね。机も消えた?」
相変わらずナナミには何も見えないらしい。わたしがうなずくと、ナナミはようやくほっとした様子で肩を落とした。
「リエがどうしてありもしない机のことを言うのが気になって、少し調べてみたの。わたしが入学する前の年だけど、やはりこの組に転校生があって、でも転入してから数日後に、友達もできる前に、事故で亡くなってしまったんだって。でね、話を聞かせてくれた、もう高校生になっている部活の先輩が言うには……やはりそれらしいものを見た人は、何人かいたみたい。転校生が座っていたのが廊下側の一番後ろ……つまりここなんだけど、あるはずがない机があって、その女の子が座っていたとか……。ただ女の子の方からリエを近くの席に引き寄せたり、『トモダチ』と声をかけるなんて、かなりの執着を感じる。やはりリエが声をかけてしまったのが、縁を作っちゃったのかな。縁と言っても不運な縁だけど」
声をかけたことだけではない気がした。同じ転校生で、知らない人ばかりの中で、うまくやっていけるか不安だった。それはあの女の子も同じだっただろう。そしてたぶん彼女は不安な状態を引きずったまま、亡くなってしまったのだ。
「でも、もう大丈夫だよ」
ナナミはわたしを元気づけるように、明るい声で言った。
「もう机も椅子も浄化されてなくなってしまったから。こういう人はたいてい執着してる場所や物とセットになっているから、もうこの教室には現れない。だから、もうあたしたちにできるのは……」
ナナミが手を合わせたので、わたしも急いで手を合わせた。もう、できることは祈ることだけのようだった。
その女の子が早く天国に行けるように……
「実はね、リエが転校してきた初日、あたし、この子に絶対声をかけないといけないって妙に強く思ったんだよね。それも今考えてみると、何か理由があったのかも。虫の知らせ、というか」
校門の前で別れる間際、ナナミは笑いながらそう言った。
そうなんだ。
ナナミは不運な縁と言ったけど、同時にナナミが転校先の教室にいたというラッキーな縁も、わたしは持っていたらしい。
ナナミが手を振り、別方向に帰っていくのを見送って、わたしも帰り道を歩き始めた。
よかった。
わたしは久々に晴れ晴れとした気分だった。
わたしの転校したクラスが、先生も含めて全員で彼女を無視するような、そんな組でなくて本当によかった。何より、ナナミがこんなにわたしのことを気にかけて、助けてくれてうれしい。ナナミこそ、本当の友達だ。
交差点に近づくと、それまで青だった信号が赤に変わった。
え?
驚いた。横断歩道の向こう側に、さっき別れたばかりのナナミがいて、笑顔で手を振っている。
びっくりさせようと思ったのか。でもやはりうれしい。
早く横断歩道を渡りたいと思った。だってトモダチが待っているんだから。信号が赤? そんなのどうでもいい。
もう誰にも邪魔はさせない。
初めてできたトモダチを、絶対誰にも渡さない。
トモダチハ、ズットアタシノモノ。
「リエ、だめーっ!」
なぜかすぐ近くからナナミの大声が聞こえた気がした。
誰かが走ってくる音。体を真後ろに引き倒される。
ゴォォーッ!
尻餅をついたわたしの目の前を、大型トラックが轟音を上げて走り過ぎていった。
え……
あたし今、何をしたの……?
振り返ると、ナナミが肩で息をしながら、目を見開いてわたしを見下ろしていた。
「そんな……。だって向こうに……」
大型トラックが通り過ぎた道路の向こうを見る。やはりあちらにもナナミが立っている。
ナナミ……のはずだ。
暗い。まだ明るい午後のはずなのに、あちらのナナミの周囲だけ、宵闇のような陰に包まれていた。その中で少しずつナナミの輪郭がぼやけていく。髪も顔も手も、ゆらゆらと揺れながら憎々しげに歪み、捩じれ、すべてが黒く溶け落ちる。
まるで髪の長い、あの顔の見えない女の子のように……
「ひぃっ……」
後ずさるわたしの額に、ナナミが手を伸ばしてきた。その指先には例の小さなお札。
「痛っ!」
お札がわたしの額に貼りついた途端、焼けるような痛みを感じた。小さな塵のようなものが目の前を落下して、歩道の上に落ちる。お札の焦げた切れ端だ。
「縁切り」
ナナミが呟く。
慌てて道路の向こうに目を遣った。
女の子の黒い影が薄くなっていた。
忌々しげにこちらを見たまま、影はやがて塵のように形をなくし、風に流れ、消えた。後には、まだ明るい午後の日が、路面を白く照らしているだけだ。
「……校門で別れた後、歩きながら何か引っかかったの。なぜ父は二枚くれたんだろうって」
ナナミは私を引っぱり上げて立たせながら、言った。
「あたしは勝手に予備だと思い込んでいたけど、じゃあ何のための予備だろうって。リエと別れて歩き出して、ようやく気がついたの。確かに最初、リエの見た女の子と机や椅子はセットだった。その時なら一枚でよかった。でも……変わったんだよ。リエが女の子に声をかけたから。声をかけたことで、もっと強い繫がりが―縁が生まれてしまった。わたしが一枚目を使った時、リエに女の子が見えなかったのは、ただ見えない時もあったから、ということではなくて……」
ナナミはわたしの頭の上あたりを指さした。
「いたんだよ、リエの背後にずっと。だからリエ自身にも見えなかった、というだけのことだと思う」
ぞっとした。教室で背中を這い上がってきた手の恐怖が蘇ったのだ。恐る恐る自分の背後や肩を見る。
「大丈夫だよ。今度こそ」
ナナミは苦笑いしながら言った。
「もうその縁も切ったから。そうそう。机や椅子はもともとないものだったから縁を切れば消えたけど、リエは消えないから安心してね」
……そうなんだ。
わたしはほっと息をつき、それでも本当にもう女の子がいないか、何度も周囲を見まわしてしまった。
目の前の広い道路には切れ間なく車の騒音が続いている。もしナナミが来て止めてくれず、あのまま道路に飛び出していたら、わたしは間違いなく車に轢かれていただろう。
「じゃあ、あの子は今度こそ成仏したんだよね。あの世に行ったんだよね」
自分自身を安心させようとそう尋ねると、ナナミは残念そうに、首を横に振った。
「え……」
ナナミは少し困った様子で、わたしを見る。
「縁を切った、というだけのことなの。……そう簡単に成仏してくれるようなものではなかったみたいね。確かにあの子はもう教室にもリエにも憑いていないけど、まだこの世界のどこかを漂っているの。そしてまたいつか誰か、彼女と同調するような不安や心配や憎しみを抱えた子と偶然近づけば……」
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