第33話 赤いワンピースの女の子





 塾が入っている小さなビルから外に出たルリは、暗くなった空を見上げて溜め息をついた。

 塾の帰りは緊張する。昼間の長い夏はそうでもないが、秋の今はもう塾が終われば、ほとんど夜だ。しかしルリの母は、塾の送迎はしてくれない。

 大した距離じゃないでしょ。このくらいの時間なら、お母さんが子供の頃はみんな一人で帰ってたよ。

 と言うが、よく聞いてみるとルリの母が子供の頃暮らしていたのは大きな商店街の中で、夕暮れに一人で歩いていても、必ず近くに買い物客が何人もいて、立ち話しているような感じだったらしい。

 しかし今ルリが住んでいるのは、郊外の新興住宅地だ。塾のある辺りはまだにぎやかだが、そこを抜けると川沿いに街灯も何もない道路が細々と続いている。そこを十分以上歩いて、ようやく次の信号も街灯もある大きな交差点に出るのだ。家のある住宅地はその先だ。

 この川沿いの暗い道がこわい。

 遠くに街明かりは見えるが、周囲は静かな川と山、しんとした交通量の少ない道路が伸びているだけだ。明るければのどかな風景だが、暗くなると、どこかに何かが潜んでいそうで、とても緊張する。そのことは何度かルリも母親に訴えたのだが、どこか楽天的な母親の考えを変えることはできなかった。

 大袈裟ね。おかあさんだって疲れてるの。それにたった十分でしょ?

 昼間はパートの仕事に出ている母親は、ルリが塾を出る頃にはもう仕事は終わり帰宅しているのだが、どうも疲れているから送迎までしたくない、というのが本音のようだった。もう五年なので、そろそろ進学塾にも通わないとね、と今の大手の塾に入れたのは母親なので、ルリとしてはかなり不満だ。本当はクラスの友達が通っている、小さいがもっと家から近い塾に一緒に通いたかったのに。

 だが、仕方ない。

 とにかく今日は暗くなってきた川沿いを、いつものようにできるだけ速足で通り抜けるほかなかった。

 覚悟を決めて歩き出したルリは、街中を抜けて川沿いの道路に入ってすぐ、いつもとは状況が違うことに気づいた。

 ルリの十メートル先くらいを、同じような小学生―いや、ルリよりもっと幼い小学校低学年くらいの小さな女の子が、一人で歩いているのだ。

 やはり速足だった。この子も何か事情があって一人でこの暗い道を帰らなければならなくなったのだろうと思うと、少し親しみがわく。暗いので分かりにくいが、髪は短いおかっぱで、膝上丈の赤っぽい色のワンピースを着ているようだ。歩きながら観察していると、スマホが鳴った。友達のユウナだ。

〈ねえルリ、もう算数の宿題終わった? 全然分かんないんだけど。量多いよね〉

「まだやってないよ。今やっと塾終わったところだもん」

 そう言えば宿題もあったと、がっかりしながらそう答えると、スマホの向こうで、えーっ、と大声でユウナが驚くのが聞こえた。

〈じゃあ今から家に帰るの? だってもう窓の外真っ暗だよ〉

「うん、家の近くの信号がある交差点まで、真っ暗な川沿いの道を十分以上歩かないといけないんだよ。人気もないし、すっごくイヤ。そうだ、ユウナお願い。今日だけでもいいから、交差点に着くまで話し相手してよ」

 思いついてそう頼んでみると、ユウナはすぐに、いいよ、一人なんて絶対こわいよ、と同意してくれた。

 よかった。ルリはほっとして肩の力を抜き、また前を行く女の子を見ながら歩き出した。

 確かに友達の声を聞きながら歩くのは全然違った。怖くない。それに同じような小学生の女の子の話し声が後ろから聞こえたら、あの前を歩く女の子も少し安心するだろう。自分がちょっと親切にも思えてくる。

 ただ、ルリが一人ではなく別の女の子も同じ道を歩いていると言うと、ユウナが話し相手をしてくれなくなるかもしれないと思い、それはユウナには言わないことにした。

 ユウナは呆れた声で話を続けた。

〈でもルリの塾は週三日だったよね。その度にそんな暗い道を一人で帰るなんて、絶対危ないよ。今度ルリの家に遊びに行った時、あたしもおばさんに頼んであげる。あたしが通っているところは家からも学校からも近いし、塾が終わったら、ルリの家の近くまで一緒に帰れるよ〉

「だよね。あたしもそっちが絶対いい」

 本当にそうなったらいいのにと思いながら、ルリはスマホに向かって何度もうなずきかけた。その後は宿題のことやクラスのこと、週末に予定している買い物のことなどを、思いつくまま二人で話し続けた。

 話していると時間はあっという間に過ぎる。ルリはスマホの時計を見て、もう十分以上経っていることに気づき、前を行く女の子の向こうに目をやった。

 緩やかにカーブする川沿いの道の向こうに、信号機や街灯の明かりは……まだ見えなかった。話しながら、思ったよりゆっくり歩いていたらしい。前を行く女の子との距離は変わらないが、小さな子供の速足は、きっとルリのゆっくり歩きと同じくらいの速度なのだろう。

 もう少ししたら明かりが見えてくるに違いない。

「そう言えば……ルリ、川沿いって言ってたよね」

 話に一区切りついたところで、ふいにユウナがそれまでとは違う、小さな、探るような声で言った。

「今、本当に一人だよね。誰かの後……をついて歩いたりはしてないよね」

 え……

 ただの通話なのに、まるでこちらの状況を知られているような気がして、ルリは一瞬答えに詰まった。

「もちろん……一人だよ。どうしてそんなこと聞くの?」

 スマホの向こうで、ユウナはごまかすように笑った。

「ううん、何でもない。一人なら別にいいんだ。もう信号機とかの明かり見えてきた?」

「えーと……」

 ルリはもう一度、女の子の向こうに目をやった。

 何も……見えなかった。

 ルリは思わず立ち止まった。もう二十分近く歩いている。いくら何でも、もう信号機のある交差点に着いてなければおかしい。まさか話すのに夢中で通り過ぎてしまったということはありえない。大きな国道と接する交差点は眩しいほど明るく、近くにはコンビニやファーストフードの店もあって騒がしい。絶対に気づかないはずはないのだ。

 しかしどんなに周囲に目を凝らしても、前方にも、左右にも、明かりのようなものはやはり見えなかった。いくら暗いといっても、川向うには小さな民家の明かりも遠くに見えたはずなのに。たまには車も通り過ぎるはずなのに。振り返れば、まだ塾のある街の明かりも遠くに……

 見えなかった。

 後ろを向いたルリは、そこに他の方向とまったく同じ、薄闇の中に音もなく流れる川と緩くカーブする道、ゆらゆらと揺れる黒いシルエットの雑草や木々を目にしただけだった。見上げる夜空にさえ星の一つもなく、ただ暗いのだ。音も色もない、知っているようで全然知らない風景。

 ここは、どこ……?

 気がつくと、前を速足で歩いていたはずの女の子もなぜか立ち止まっていた。暗さに目が慣れてきたのか、最初はなんとなくワンピースを着ているとしか分からなかった後ろ姿も、はっきりと見える。ルリは首を傾げた。

 女の子のワンピースの色は赤のようだった。これは小さな女の子なら、よくある服の色だ。ただその上の、髪の色がおかしい。女の子の髪は白髪に見えた。まるで老婆のように。

「どうして……この赤いワンピースの女の子、髪の毛がお婆さんみたいに白いの?」

 思わず呟いてしまった。その途端、スマホの向こうでユウナが息を呑むのが聞こえた。絶叫が聞こえたのはその直後だ。

「逃げて、ルリ。逆方向に! その女の子に絶対ついて行ってはダメ!」

 え……?

 すぐには体が動かなかった。一体何をユウナは言っているのだろうと思った。立ち止まっていた女の子がゆっくりと振り返る。なんとなく、見ない方がいいと分かっているのに、女の子の顔に目を凝らしてしまう。

 白いおかっぱ髪に包まれた、しわだらけの老婆の顔。

 しわに囲まれた黒い穴のような口が動く。

「あたしもね……ずうっと帰り道を探しているの……」

 子供とは思えない、枯葉のこすれるような老人の声。

「ヒッ……ヒィィィッ!」

 ルリは全力で逆方向に走り出した。逃げないと、逃げないと!

「何なの、何なのあれ!」

 走りながらユウナに聞く。ユウナはこの異常な高齢少女のことを知っている。

〈あれは……ミヤコさん。何十年も前、まだこの辺りが全然開発されてない田舎だった頃、道に迷ってそのまま行方不明になった子。あたしは地元だからその噂は聞いたことあったけど、ルリは転校生だから知らないよね。でもあたしだって全然信じてなかったの。とにかく走って、ルリ。走って逃げられた子もいるみたいだから!〉

 もちろんルリは全力で走り続けていた。息を切らして、手も足も必死で動かして走った。塾のビルが見える明るいところまでもどれば絶対大丈夫。それから母親に電話して、迎えに来てもらおう。腹痛で歩けないとか、何か理由を言えば、母親も仕方なく迎えにくるだろう。

 え……

 ルリは再び立ち止まった。まだ何も明かりの見えない暗い道の向こうに、また小さな人影が歩いて行くのが見えた。赤いワンピース。そして白髪のおかっぱ髪……

 そんなはずはない!

 ルリは心の中で叫んだ。自分は確かに逆方向に走った。それは間違いない。……たぶん……でも……

 ルリは最初ずっと川を左側に見ながら歩いていた。だから逆方向に走っている時は右側に川があったはずだ。それなのに……今も左側を川が音もなく流れていた。

 どうして……どうして……

 女の子が立ち止まる。ゆっくりと振り返る。またしわだらけのお婆さんの顔。

「あたしもね……」

「い……いやあぁぁぁーっ!」

 ルリは悲鳴をあげながら、また逆方向に走り出した。今度は振り向きながら、川が右側に見えるのを確認した。確認しながら必死で走った。

〈ルリ、どうしたの、何があったの!〉

 ユウナが焦った声で聞いてくるが、うまく答えられない。

「ミヤコさんから……逃げないと……逃げないと……!」

 走る道の先はただ暗いだけだ。今度こそ大丈夫だと思った。絶対大丈夫。だって川が左側に……

 左側?

 ルリはガクガク震えながら、立ち止まった。

 それは、最初の進行方向の時だよ……?

〈ルリ、ルリ、どうしたの!〉

 スマホからはまだユウナの声が聞こえていたが、もう何か答える余裕もなかった。暗い道の先に、またうっすらと小さな人影が浮かび上がる。速足で歩く、赤っぽいワンピースを着た……

 そんなバカな……そんなバカな……!

「いやあああああああぁぁーっ!」

 ルリは絶叫し、もう方向も分からないまま、やみくもに走り出した。


「それで……そのミヤコさんという子に引っぱられて、ルリさんは姿を消したと、そう君は言うのかい?」

 若い刑事が少し困った様子で頬をかきながら、確認するようにそう言った。

 引っぱられたのか、取り憑かれたのか、それともたまたま何かの波長が合ってしまったせいなのか、それはユウナには分からなかった。ただ、噂どおり赤いワンピースの女の子の後をついて行ってしまったルリが、姿を消してしまったのは、動かしようのない事実なのだ。

 ルリが姿を消す直前までスマホで話していたというユウナに話を聞くため、自宅まで訪ねて来た二人の刑事は、ユウナの前で顔を見合わせた。

「まあね。僕もこの辺りの出身だから、そのミヤコさんの噂話は結構聞いたけどね」

 もう一人の中年の刑事も、苦笑いしながら言う。

「赤いワンピースに白髪のおかっぱ頭……。確かに五十年以上前、ミヤコちゃんという赤い服を着た子供があそこでは行方不明になっているし、その後も二人、あの川沿いで姿を消している。他にも赤いワンピースの子を見たけれど、気味が悪いので後を追わないでいたら消えてしまったとか、歩き出してすぐ女の子に気づいたので、全力で走って引き返したら、まだ明るい街灯の近くだったので助かったとか……もっともらしい話をいくつも聞いたよ。ただ、最後にスマホで話していたのがそのミヤコさんの話なら、ルリさんも君の話に合わせて怖がってくれただけかもしれないし、あの道路も全く車が通らないわけじゃないから、最後の悲鳴は車にはねられたのかもしれない。誘拐されたのかもしれない。道路沿いの川も結構深みがあるから、誤って落ちたのかもしれない。警察としては、やはりもっと現実的な可能性を探ってみるかな。ただ失踪直前の状況が分かってとても参考になったよ。ありがとう」

 刑事の話し方はとても丁寧だったが、やはり信じていないのだなとユウナは感じた。

 信じるわけがない。こんなこと、昨日までユウナ自身もただのよくある都市伝説だと思っていたのだから。

 でも、これを聞いたら刑事たちはどう思うのだろう。

「じゃあ……ルリの話を直接聞いてみますか?」

 ユウナがそう言いながらスマホを差し出すと、さすがに二人の刑事はきょとんとした顔でユウナを見返した。

「は?」

「まだ……つながってるんです。通話」

 え、え、と言いながら、中年の刑事がユウナのスマホを手に取る。

「もしもし、ルリさん? もしもし?」

〈……助けてください〉

 泣き疲れたような声が、ユウナにも聞こえた。

〈ずっと暗いの。暗い道を……どう逃げてもミヤコさんが……〉

「え、どこにいるんですか。まさか警察をからかってないですよね。居場所を教えてください」

〈からかってなんかいません。場所はずっと家に帰る途中の川沿いの道です。ずっと……ずっと……〉

「と、とにかく位置を確認しましょう。位置情報!」

 慌てて若い方の刑事がスマホを受け取る。

 位置は、間違いなくルリの歩いていた川沿いの道だということを、ユウナは知っていた。警察やルリの両親が今も探している場所だ。しかしそこにルリはいない。ルリもまた、両親や警察に会うことはできないだろう。

 同じ場所にいるのに。

 一度だけ、ルリ以外の誰かの声もかすかに聞こえたことがあった。高齢の老婆のような嗄れ声だ。

―あたしもね、ずうっと帰り道を探しているの。

 もしかしたら、ミヤコさんもまた何十年も同じ道を歩き続けているのかもしれないと思った。

同じ場所にあるのに、迷い込んだら二度と出られなくなった異空間の道を……

 数日のうちに、少しずつユウナのスマホに届くルリの声は遠くなり、離れるように小さくなっていった。そしてその後は、ユウナがどれだけ声をからして呼びかけても、スマホはわずかなノイズしか伝えてこなくなったのだった。






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