第32話  ヨウコさん



 確かに僕に新しい母ができた日は、隣で飼っている犬のジョンがずっとうるさく吠えていた。

 でも番犬なら吠えるのが仕事だし、隣のジョンはそんなに吠える犬ではなかったけれど、近くに嗅ぎ慣れない新しい人間の臭いがするのをを敏感に感じ取って、とりあえず吠えてみたのかもしれない。

 まあ、犬のことはどうでもいい。

 新しく家に来た母は美しかった。そう簡単にテレビ以外ではお目にかかれないような、長い黒髪が似合う日本美人。

「大人しいのね。翔くんは小学四年でしょう? もっと元気いっぱいなのかと思っていたわ」

 身を乗り出して彼女はそう言い、細長い目をさらに細めてクスリと笑った。

「緊張しているんだろう。今までずっと味もそっけもない男所帯だったからな、ハハハ」

 隣でそう言う父は少し舞い上がっている感じで、笑ってばかりいる。

 僕の本当の母は、僕が一歳の時に病気で亡くなった。もともと体の弱い人だったと、近所に住む祖母が言っていた。だから僕にはほぼ母の記憶はない。しかし、これまでは祖母や、同じく近所に住む伯母が交代で家のことを手伝ってくれたので、特に寂しさは感じなかった。

 しかし伯母は、伯父の仕事の都合で遠くに引っ越すことになった。

―だからっていう訳じゃないけど、お見合いの話があるの。

 伯母が提案してきたのは、父が見合いをして再婚し、僕の家に新しい母を迎え入れるというものだった。年取った祖母が伯母の分も頑張って体を壊してはいけない、ということらしい。父は最初、僕と二人で大丈夫だからと断ったが、結局会うだけ会ってみることになった。大人の事情というか、伯母の友達がそういう結婚相談所の所長をしていて、断り切れなかったようだ。

 そしてやって来たのが僕の新しい母、ヨウコさんだった。

 彼女の両親や家族はみな亡くなっていて、天涯孤独の身の上。

 だから翔も優しくしてあげるんだよ、と父は僕に念押ししたが、別に優しくできないような不満はどこにもなかった。

 ヨウコさんはそんな風に、誰が見ても分かるくらいすらりとした長身の美人で、いつも笑顔で、料理も上手で、家の中は毎日ピカピカ。僕に口うるさく勉強しろ、なんて言ってくることもなく、ケーキも手作りしてくれたりして、とにかくすべてが完璧だった。

 気になるのは、料理やケーキを食べていると、時々笑みを浮かべたままじっと僕を見てくることくらいだった。見られると緊張して味が分からなくなる。しかしたぶん自分の作ったものを食べる義理の息子を見て、本当においしく食べているかどうか確認したいのだろうと思い、僕は一生懸命、うわあすごい、おいしいな、などと笑顔で言っていた。

 僕の部屋に飾っていた、亡くなった母と父と赤ちゃんの僕の写る家族写真も、棚の引き出しの中に仕舞うことになった。これには少し引っかかりもあったけど、父が頭を下げて僕に頼むので、そうするほかなかった。多分その頃の僕や父は、あまりにヨウコさんが完璧なので、自分たちもそれに応えなければならないと感じて、無理をして頑張っていたのだと思う。


 最初にそれに気づいたのは、ヨウコさんが来てから一か月くらい経った夜のことだった。

 僕は毎日だいたい十時ごろに寝る。でもその日は校内のマラソン大会があって疲れていたので九時ごろには眠くなり、父はまだ帰って来ていなかったが、僕はさっさとベッドに潜り込んだ。

 ひと眠りした頃、何かを感じて目が覚めた。窓の外でまたジョンが吠えている。でも何か、を感じたのはもっと近くだった。

 かすかに部屋のドアが開く気配がした。

 僕は目を閉じたままだったが、最初は帰ってきた父が僕の寝顔を見ようとしてドアを開けたのだと思った。時々そういうことがあったからだ。しかしいつまでたっても、父が部屋の中に入って来る様子はない。気になって、僕は小さな明かりだけをつけた薄暗い部屋の中で、そっと薄目を開け、ドアの方を確かめようとした。

 悲鳴をあげそうになった。

 ドアと壁の間にできた黒い隙間から、見たこともない巨大な目がじっと僕を見ていたからだ。スイカよりもビーチボールよりも巨大。ドアの長さの半分を占めそうな巨大な目が、瞬きすることもなく僕をじっと見ている。

 ヨウコさん。

 なぜそう直感したのかは、よく分からなかった。ヨウコさんの目はこんなに大きくないし、むしろ細くて睫毛が長くて、黒目がちだ。

 しかしそれが、あのじっと見てくるヨウコさんの目であることは僕にはすぐ分かったし、だからこそ、これは夢ではなく現実なのだと理解できた。

 目以外のところは暗くてよく分からなかった。僕は緊張で心臓がバクバクして息がうまくできず、とにかく動かず寝たふりをするので精いっぱいだった。今動いたり起き上がったらもっと怖いことになる。それもなんとなく分かっていた。巨大な目のまなざしには、〈獲物〉を見る冷酷さを感じた。しかし何かの理由で今は僕を襲うのではなく、眺めるだけにとどめている。でも僕が気づいたことを知ったら……目が覚めていることに気づいたら……

 それでもあまりの息苦しさに我慢しきれず咳込みそうになった時、ふいに玄関でガチャッと鍵が開く音がした。父が帰ってきたのだ。

 ふっと目玉の気配が消えた。玄関先でヨウコさんが明るく父を出迎えている会話が聞こえる。僕はそれを遠くに聞きながら、布団の中で声を殺しながら体を丸めて咳込んでいた。息苦しさがなかなか収まらず、涙が滲んでくるのが分かる。

 助かった。助かったけど……

 一体何なんだ、あれは。

 とにかくその後は、父が帰ってくるまで絶対に寝ないことにした。父が遅くなる日も、宿題に時間をかけたり、ゲームに夢中になってしまった、ふりをして。

 それでも父があまりに遅い時は、先に寝るほかなかった。

 目玉は必ずやって来た。ドアをゆっくりと開け、その隙間からじっと僕を眺めた。薄目を開けてそれを確かめながら、僕は気が気ではなかった。何の理由があるのか、確かに目玉はそれ以上近づいては来ないし、父が帰宅すると消える。しかし本心は明らかに部屋に入りたい様子だったし、それ以上に僕を……喰いたくて喰いたくてたまらない残酷な目線を感じた。

 そう。目玉のまなざしは、例えば人間が大好物の肉料理を目にした時のような、ためらいのない食欲そのものだったのだ。

 昼間のヨウコさんは相変わらずにこにこ笑っていて、特におかしな様子もない。しかしいつまでこの平穏が続くのか、僕は不安だった。こんな話、父も祖母も絶対信じてくれないことは分かっていた。むしろ父は怒るだろう。たぶん……僕は一人で何とかしなくてはならないのだ。

 でも僕が何とかする方法を何も思いつかないうちに、その決定的な時はやって来た。

「来週二泊三日で出張することになった」

 その日の晩、父は夕食を食べながら笑って言った。

 僕は箸を落としそうになった。

「以前は翔が一人になるから、おばあちゃんに泊まりに来てもらっていたけれど、もうヨウコさんがいるから大丈夫だよな」

「ええ、大丈夫よ」

 そう答えたヨウコさんが、うつむきながら一瞬細い目を見開き、にいっと笑うのを見てしまった。

 大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。それなら僕は父の出張中は祖母に来てほしい。

 でもそんなことをしたら……もしかしたら祖母まで怖い目にあうかもしれない、獲物にされてしまうかもしれない。そう思うと、僕は下を向いたまま何も言いだすことができなかった。


 父が出張に出かけてしまったその日、僕は人生で最悪の気持ちで学校に出かけた。ところが教室に入ってみると、僕以上に暗い表情をしているヤツがいた。隣に住んでいる同級生、広戸直也だ。

「直也君、何かあったの?」

 机にうつぶせ今にも泣きそうなそうにしているその姿に、僕は一瞬自分の状況も忘れて尋ねた。

 直也は机にうつぶせたまま顔だけ横にして僕を見つめ、うっと唸った。

「ジョンが……いなくなっちゃったんだ」

「ええっ」

 しかしジョンは僕の家からも見える庭の高い柵の中に飼われていて、今まで逃げ出したりしたことは一度もない。

「どこから逃げたの?」

「分からないんだ。鍵はちゃんと閉まったままだったし、塀は高過ぎて、絶対越えられないと思う」

 直也はようやく顔を上げたが、どうしても納得がいかない様子だった。

「ただ……昨夜一度だけ、夜……九時前かな。ジョンが大きな声で吠えたんだよ。でも一回だけだったから様子を見に行かなくて……」

 え……

 僕は心臓がドキンと鳴るのを感じた。

 昨夜、ちょうどその時間、ヨウコさんの姿が家から消えていたのを思い出したのだ。一時間くらい。最近の僕は家の中にヨウコさんの姿を見るとそれだけで緊張するくらいだったので、理由を考えることもなく、ヨウコさんがいないことにほっとしていた。

 理由を考えるべきだった。ジョンはヨウコさんが来てからよく吠えるようになった。特にヨウコさんが外出する時はよく吠えるので、少し迷惑そうに彼女がジョンを眺めているのを見たこともある。でも……だからって……まさか……

 そういえば、ヨウコさんの以前の家族はみんな死んでしまったと言うけれど……

 

「よう、坊主。こんなのが珍しいか」

 いきなり声をかけられたのは、その日の下校中だった。僕は家に帰りたくなくて、道端に立ったまま雑木の刈込みをしている作業中の人たちをぼんやり見ていた。

僕の家や学校があるところは平らな住宅地なのだが、一つだけ小さな低い山が残っている。父によれば、山の上に古い墓地があるので住宅地にもならず、なんとなく残ってしまったそうだ。その山の雑草や雑木が周辺の道路に伸びてこないように定期的に刈り込まれているのは、僕も何度か見たことがあり知っていた。

 珍しくはないけど……

 そう言おうとすると、僕に声をかけてきた作業員のおじさんは人懐こそうな笑みを浮かべて、刈った枝の一本をつまみ上げた。

「まあ刈り取ってはしまうが、こういう低地の植物は種類が多くてな。鳥が種を運んでくるのか、よく見ると品種改良された庭木が芽を出していたり、珍しいシダやランも混じって生えていたりして結構面白いんだ。ほら、これは榊といって、珍しくはないが神社で神主さんが使ったりする神様の木だ。家に神棚があるなら、持って帰って供えてもいいぞ。……といっても、今の家には神棚なんかないか」

 神様の木……

 僕は心の中でおじさんの言葉を繰り返し、それから息を呑んだ。

「神様の木なら、妖怪とか悪霊とか、悪いものを追い払ってくれたりしますか?」

 さすがにおじさんは首を傾げた。

「ははあ……どうかなあ。榊は木に神の字を書くくらいだから何かの効果はあるかもしれないが……おいおい」

 僕はそこら中に散らばっていた切り落としの枝の中から、つやつやとした緑色の葉が目立つ榊を選んで両手一杯に抱え込み、頭を下げて礼を言うのもそこそこに、家に向かって走った。

 そうだ。この榊を部屋のベッドの周りにぐるりと並べて、〝結界〟を作る。作り方は以前アニメで見たことがあった。うまくいくかどうかは分からないが、今の僕にはこれくらいしかできることがないのだ。

 家に帰ると、窓からヨウコさんがキッチンにいるのが見えた。こんな大量の榊を持っていることを変だと思われないか、急に心配になる。こっそり庭をまわって自分の部屋の窓の外に榊をそっと置いた。それから玄関に戻って、普通にただいまと言って家の中に入った。

「お帰りなさい、祥くん。あら……」

 キッチンから出てきたヨウコさんは通り過ぎる僕をじっと見ながら、クンクン、と鼻を鳴らした。ヨウコさんの目が見開かれ、それからさも嫌そうに歪む。

「何か臭いがしない?」

 え?

「何か……嫌な臭い。山の……」

 ああ、と言いながら僕は急いで言い訳を考えた。

「えーと、学校からの帰りに、おじさんたちが山沿いの草刈りをしているのを友達と見ながら、少し道草したから。その時雑草とか、触っちゃったし」

 ヨウコさんは嫌そうに、もう一度鼻を鳴らした。

「そう……。じゃあ手をしっかり洗ってね。すごく臭いから」

「うん」

 僕は急いで部屋にもどり、静かに窓を開けて榊の束を中に入れ、クローゼットの空いているところに押し込んだ。それから扉を閉め、念入りに手を洗った。心臓がドキドキしてくるのが分かった。僕にとっては何の臭いもしないように思える榊だが、本当にバケモノには効果があるかもしれない気がしてきたのだ。

 その日の眠る前は緊張した。ベッドの周りに榊を隙間なく並べ、実際に結界を作らなければならなかったからだ。

 この〝隙間を作らない〟というのが重要で、以前見たアニメの主人公は結界にできたほんの小さな隙間のために、大変な目にあっていた。榊の枝元と次の枝の葉先が重なるように、慎重に並べていく。ベッドの周りは思ったより長かったが、なんとか全部の榊を使って輪を作ることができた。

 後はもうできることはない。僕はトイレに行ってから、ヨウコさんに食べられないよう守ってくださいと神様仏様に祈り、明かりを消してベッドに潜り込んだ。

 それからしばらくして、僕が緊張感の中でもうとうとし始めた頃だった。

 キィ……、と小さな音がして部屋のドアが開く気配がした。

 ドアの外で誰かがぼそぼそと何かをつぶやく。

「人間はやはり面倒だね。消えると大騒ぎになるし、喰うのに犬なんかよりよほど時間がかかる。でも今夜はもう邪魔は入らないからね。喰って、アタシがあの子に成りすましてしまえば……」

 確かにヨウコさんの声だった。やはり……やはりそうだった。成りすますって、父が帰ってきても、僕が食われたことに気づかないということ……? ぞっとした。急に不安になってきた。本当にそんなバケモノに、こんなシロウトの子供が作った結界が効くのだろうか。もし効かなかったら……僕にもう逃げ場はない。

 薄目を開け、息を殺してドアと壁の隙間を見る。

 悲鳴をあげそうになった。

 目玉が……あの僕を喰いたくて喰いたくてたまらない視線で僕を見ていた巨大な目玉が、今まさにドアを開けて、ぬーっと僕の部屋に入りこもうとしているところを見てしまった。巨大な目玉は2つもあった。2つの目玉が移動しながらも、じーっと僕から視線を外さないでいるのだ。

 そして部屋に入ってきて、やっと僕はこのバケモノの全体を見ることができた。

 バケモノは手も足も胴体もない、巨大な一つの顔だった。青白い顔の、僕なら頭がある高さに、二つの巨大な目と小さな鼻の孔、その下に耳まで裂けそうな大口があり、大口の薄い唇からは牙が左右に覗いている。その異様な顔を長い黒髪が取り巻き、髪の先はズルズルと外の廊下にまで流れていた。

 大顔のバケモノは髪を引きずって滑るように僕に近づいてきた。笑っていた。目を飛び出そうに見開き、裂けそうな口の両端を上げ、よだれを垂らしながら僕のベッドに寄ってくる。全身から汗が噴き出すのが分かった。恐ろし過ぎて声も出ない。こんな巨大なバケモノに、自分で立ち向かえると思ったことを後悔した。いくら神様の木でも、これは道端で拾った小枝に過ぎないのに。顔が上下二つに割れそうなほど大口を開けて、大顔が寄ってくる。もうダメだ!

「ギャッ!」

ベッドの真横まで来て、僕を一口で飲みこもうとしたバケモノが、潰れたような声で悲鳴をあげた。

「臭い、くさい、くさい、臭い!」

 バケモノが慌てた様子で身を引く。引く時に床を流れる黒髪の先が、一瞬榊に触れた。バチッと火花が散って髪の先が焦げる。

「イタタタタッ!」

 ヒイヒイ言いながら、バケモノが後ろに下がった。

 すごい。この結界は本当に効果がある!

 ただ、バケモノは僕を諦めたわけではないようだった。臭いくさいと言い、榊に触れないようにしながらも、一晩中口惜しそうに結界の周りをズルズルと行ったり来たりした。しかし部屋に最初の日が差すとだんだん顔が小さくなり始め、ドアの半分くらいの大きさまで縮んだところで、悔しそうに顔を歪めながらも部屋から出て行った。

 僕はバケモノを追い返したのだ。

 その日はかなりの寝不足だったが、僕はバケモノに勝った興奮で、眠くはならなかった。あと一晩頑張れば父も帰ってくる。きっと大丈夫という気がした。

「お帰りなさい、翔君」

 その日家に帰ると、玄関を入ったところにヨウコさんが立っていて、僕をじっと見ていた。

「翔君の部屋にある、あの汚いたくさんの小枝。臭いから、すぐに片づけてちょうだい」

「でも、あれはよく眠れるおまじないで……」

 僕は考えておいた言い訳を言いかけたが、ヨウコさんは口の両端を吊り上げ、にっと笑っただけだった。

「でも、あの臭いが部屋中に染みついたら困るでしょう。早く片付けてね」

「……うん」

 うん、とは言ったが、もちろん僕は片づける気はなかった。榊の結界は僕の命綱だ。

 その日の夜も、僕は一晩寝られないだろうと思っていたのだが、ずっと寝ていなかったのが響いたのか、そして榊の結界に本物の効果があると分かったせいか、食後はひどい睡魔が襲ってきて、ベッドに横になるとすぐ寝てしまった。

 それからどのくらい経っただろう。音はしなかったが、何かの気配に目が覚めた。

 ベッドの端に、あの大顔のバケモノが目と口を裂けるほど開いて立っていた。

「ぎゃああああああ!」

 僕は思わず悲鳴をあげ、ベッドのもう一方の端に毛布を抱えて逃げた。

「あれだけ片づけておいてね、と言ったのに……」

 大顔は、まるで眼球そのもののようだった丸い目を細め、口の両端を吊り上げて、またにっと笑った。これはまさしくヨウコさんだ。ヨウコさんの顔だ!

「言うことを聞かない子だね」

 結界は……榊は……

 気が動転したまま、僕は床を見た。榊の結界はまだ無事だった。大顔はその外にいる。しかし昨夜のように口惜しそうな様子は全然ない。なぜだ。

 毛布を抱えながら周囲を見回して、僕は再び、ギャッと悲鳴をあげた。結界の輪の一カ所がほんの少し開いて、そこから大顔の長い髪の毛が数本、内側に入りこもうとしていたのだ。

 丸一日経って乾燥してきた榊の葉先が丸まり、次の枝との間に隙間ができてしまったらしい。気がつかなかった。眠くてつい、結界に綻びがないか確かめないまま寝てしまった。

 切れてしまった結界がどうなるのか、それは以前アニメで見た通りだった。数本の髪が中に入って来るにつれて、ほんのわずかだった隙間がじりじりと広がり始めたのだ。繋がりをなくした結界の力は弱い。隙間が広がるとさらに数本の髪が侵入し、もっと隙間が広がった。

「あ……あ……」

 僕は一気に侵入してくるザラザラとした黒髪から一番遠いベッドの端に身を寄せたが、無駄だということは分かっていた。黒髪の先端がベッドの上まで這い上がる。蛇のように鎌首を持ち上げ、僕の足首に巻きつく。

「うぎゃああああああっ!」

 信じられないほど強い力で引かれ、僕はベッドからずり落ちた。天井を覆うまでの大顔となったバケモノの巨大な目と口が、シルエットとなって僕を見下ろしていた。

 笑っている。やっとコイツを喰える、その嬉しさで笑っているのが分かる。僕を一飲みに喰らおうと、奴の大口が開く。ずらりと並んだ牙の先からよだれが垂れてくる。逃げたいけれど、手にも首にも長い黒髪が巻きついて僕は動けない。声も出ない。息ができない。もうダメだ、と思って僕は両目を強くつぶった。

 ダンッ!

「ぎゃーんっ」

 何かが倒れる大きな音が響いた。それとともに変な叫び声も。

 まるで犬か何かが痛がって吠えたような鳴き声だった。それから……静かになった。

 僕は恐る恐る目を開き、辺りを見回した。

 天井を覆うばかりだった巨大な大顔が消えていた。残っているのは、倒れた棚の下敷きになって、苦しそうに床にのたうつ茶色く長い毛のかたまりだけだ。

 これがもしかして……ずっと僕を喰おうとしていたバケモノの本体……?

 大きな顔は、人を驚かせ動けなくするための幻? そういえば昨夜も朝日が差すと、大顔は小さく縮んでいった。

 そしてどうして、本や小物を入れただけの全く不安定ではなかった棚が、倒れたのだろう。毛玉はこの棚に潰され、大怪我をしたらしい。ふさふさとした毛を痛そうに震わせながら、なんとか棚の下から抜け出すと、よろよろと部屋から出て行った。

 僕はまだ怖かったが、震える足でベッドを下り、毛玉の後を追った。

 玄関の引き戸が少し開いていた。

 毛玉はここから外に逃げ出したらしい。僕は急いで戸を閉めて鍵を掛けた。それから念のために家中を見てまわったが、もうバケモノの姿も、そしてヨウコさんの姿も、どこにも見つけることはできなかった。


 ヨウコさんは二度と僕と父の前に現れることはなかった。美人なヨウコさんと再婚できて舞い上がっていた父は、出張から帰ってきて彼女が消えたことを知り、がっくり肩を落としていたが、僕はもちろんほっとした。

 不思議なのは、ヨウコさんが消えたことを知った伯母は、そんな人を紹介してごめんなさい、と父に謝ってくれたのだが、実際にヨウコさんを紹介した結婚相談所の人は、全くヨウコさんのことを覚えていなかったということだ。そんな人が相談所に登録されていた記録もないという。

 狐にばかされたような話だわね、と電話で伯母は不思議そうに呟いた。

 それにしても机の横にあった棚は、地震で揺れたわけでもないのに、なぜ倒れたのだろう。

 分からなかった。ただ……その棚の引き出しには、僕が記憶もない母と一緒に写った写真が仕舞い込まれている。僕は後でそのことを、なんとなく幸せな気持ちで思い出した。

 ところでその数か月後。

 学校の授業でタブレットを使い文章を書いていた僕は、何かの言葉を打とうとして間違えて、「ようこ」で変換してしまった。すると変換候補の一つに「妖狐」というの出てきたのだ。

 僕はずっとヨウコさんの「ヨウコ」は名前だと思っていたけれど、もしかしたら……






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