第31話 自転車ババア
その自転車は、気がつくと前を走っているらしい。
夕暮れとか夜が多いそうだ。
乗っているのは長い白髪をなびかせたお婆さん。よろよろ走っているが、だからといって追い抜いてはいけない。急に別人のようにすごい勢いでペダルを踏んで、追いかけてくるからだ。
〈自転車ババア〉と呼ばれている。
僕の友達が、塾からの帰りに自転車を漕いでいたら、その〈自転車ババア〉に遭遇した。夜道をふらふらと軋み音をたてながら自転車を漕いでいるので、危ないなあと思いつつも、早く家に帰りたかったので、さっさとその自転車を追い越したそうだ。
追い越す時に、ちらっと漕いでいる人の横顔を見て、ぎょっとした。まるで生きている人とは思えないほど皺だらけで、目は落ちくぼみ、骸骨みたいにやせ細ったお婆さんだったから。
薄気味悪くなって、そいつは全力で自転車のペダルを踏み、そのお婆さんから離れた。そうしたら、なぜか急にお婆さんの自転車の速度も上がって、軋み音ををたてながら、ずっと後を追いかけてきたそうだ。そいつは怖くなって必死で自転車を漕ぎ、脇道に入って幾つも角を曲がり、なんとか追ってくるお婆さんを振り切った。そして交差点に差し掛かったそいつは、ようやく自転車を止めて、僕にそのお婆さんのことをスマホの通話で伝えてきたんだ。
話を聞いていたら急にそいつが、ぎゃって叫んだ。
どうしたのって聞いたら、ダメだ、あの婆さんの自転車追いついてきた。あんなに引き離したのに、あんなに長い距離を走ったのに、なんであのババア、あんな凄いスピード出せるんだよ。おかしいだろ。人間じゃない。逃げなきゃ、逃げなきゃって……
通話も切らないまま、そいつは無我夢中で自転車に乗って走り出した。そして車の行き交う交差点に突っ込んで……
「し、死んじゃったの?」
聞いていたうちの一人が、かすれた声で尋ねた。
話していた隣の中学の子は、数秒困った様子で口ごもった。
「いや……大怪我」
「ああ……」
何人かの安堵のような、少しがっかりしたような声が聞こえてくる。
「ただ……後でそいつに話を聞いたらさ、そいつの近くにいた通行人の目撃者はみんな、そんな高齢のお婆さんが乗っている自転車なんて見ていないというんだ。でも、僕聞いたんだよ。スマホの通話、切れてなかったから。そいつが、助けてって叫びながら自転車を走らせた音の後、確かに別の自転車の音が……
キィッ、キィッ、キィッ、キィッ、キィッ……
油の切れた古い自転車は、ペダルを踏むとそういう音をたてるそうだ。
「でもさ、お婆さんが全力で自転車漕いでくるだけで、そんなに怖いかなあ」
その日の塾の講習が終わった後、塾が入っているビルの階段を下りながらも、友達のユカは納得がいかない様子だった。
「そもそも、お婆さんが自転車で突っ込んできたからって道路に飛び出さなくても、歩道とか別の方向に逃げることだってできたわけでしょ。そう思わない、ハル?」
横に並んで階段を下りていたわたしは、とりあえずうなずいて同意する。
「まあね。そう考える余裕もないほど、焦ってたのかもしれないけど」
「あたし絶対、作り話だと思うなあ」
中学に入ってから通い始めたその塾には、確かに自転車で通ってくる子が多かった。帰りはどうしても暗い道を一人で自転車を漕いで帰ることになるので、結構緊張する。怖い怖いと思いながら走るので、〈自転車ババア〉もそのあたりから出てきた都市伝説なのかもしれない。
とにかく〈自転車ババア〉の話は、塾では結構有名だった。バイク並みの速度で追ってきたとか、実は以前この辺りで自転車に乗っていたお婆さんが交通事故で亡くなって、今も自分を死に追いやった犯人を捜している、とか内容も様々だ。
今日、講習の後に聞いた話は初めて聞く話で、一番リアルっぽかった。でもまあ、確かによくある話のような気もするし、誰かが大怪我した話なのに、周りを囲んでいた塾生も、半分くらいは信じていない様子でニヤニヤ笑っていたので、やはりユカの言うように作り話なのかもしれない。
その話を聞いていて、いつもより教室を出るのが遅れたので、ビルを出ると、もう迎えに来た父の車が歩道に寄せて止まっているのが見えた。
「え、今日はハル、自転車じゃないの?」
いつもは自転車で途中まで一緒に帰るので、ユカは軽くショックを受けた顔だ。
「うん。今日はお父さん仕事から早く帰ったから、車で送迎」
「ええ、いいなー」
「ユカも気をつけて帰ってね。お婆さんの自転車、追い越しちゃダメだよ」
駐輪場に向かうユカに手を振りながら言うと、舌を出した変顔をされてしまった。 でもユカと同じ方向に帰る塾の子は多いので、本当はそんなに怒っていないと思う。
「渋滞にはまりそうだな。迂回して帰るか」
私を後部座席に乗せると、すぐに父は幹線道路からは一つずれた細い路地へ入った。
静かな古い住宅地の中の道だ。ずっとうるさく続いていた車の音が嘘のように途絶え、すぐにぽつぽつとある街灯の下、走る車はうちの車一台だけになった。
「やはり迂回して正解だったな」
父は機嫌良さそうにそう言い、しばらく信号機もない住宅地の道を、車は順調に走った。静かな中で車に揺られて、少しウトウトしてくる。
「あれ……?」
再び父が呟いたのは、初めて信号のある十字路に差し掛かり、車が止まった時だ。
「あれ、迎えに来る時に見たお婆さんじゃないかな」
父は言いながらバックミラーにちらちらと目を遣っている。
……お婆さん?
一気に目が覚めた。
父は、あんなに遠くを走ってたのに、なぜこんな場所にいるんだろう、と首を傾げている。わたしは、シートにもたれていた身を起こし、同じようにバックミラーを覗き込んだ。
確かに、ずいぶん後ろに薄暗い自転車のライトが揺れている。乗っている人の顔は分からなかったが、背を丸めたその姿は確かに高齢者に見える。ただ、男性か女性かまでは分からなかった。
別に変ではない気もした。高齢者でも必要があれば夜でも自転車くらい乗るだろう。そう思った時、自転車が街灯の下を通り、風が吹いたのか、乗っていた人の髪がふわりと舞い上がった。真っ白な、腰までありそうな長い髪。
「え……」
思わず口を押えてしまう。
―〈自転車ババア〉は白い長髪で……
「それにしても危ないなあ、こんな暗い道を高齢者が自転車で走るなんて。ほら、ライトもふらふら揺れてるだろう。ああいう自転車が一番怖いよ」
父が少し迷惑そうに言い続ける。
「……お父さん、塾に来る途中でも、あの自転車見たの?」
わたしが聞くと、父は嫌そうな顔をして頷いた。
「そうなんだよ。でも、ここからは相当離れてたんだよな。あんなに遠くから自転車で、しかも老人がここまで移動できるものかな」
わたしはもっと別のことが気になっていた。車で自転車を見かけたとしたら……
「じゃあ、お父さん。塾に向かう途中、お婆さんの乗る自転車を見かけて……追い越したんだよね」
父は小さく吹き出した。
「追い越すも何も、車と自転車ではスピードが違うんだから、追い越してしまうに決まってるだろう」
それはそうだ。車は全部自転車を追い越してしまっただろう。
「……だよね。追い越したのはお父さんの車だけじゃないよね」
わたしが言うと、父はうーんと曖昧な返事をした。
「まあさっきも言ったけど、塾に向かうときは別の用もあったから、少し遠回りをしたんだ。結構郊外まで行ったから……うん、考えてみるとあの時走っていたのは俺の車くらいだったかな」
ドクン……
少し気分が悪くなった。〈自転車ババア〉の話など全然信じていなかったが、なんとなく早く信号が青に変わればいいのにと思う。バックミラーの中で、自転車の小さな光は揺れながら少しずつ車に近づいてくる。
信号が青に変わった。
父がアクセルを踏み、すぐに自転車の小さな光は通りの向こうに見えなくなった。
ほっとする。
確かに自転車とは全然スピードが違うのだから、追いつけるはずがない。何も心配することはない。
「その別の用って何だったの?」
特に興味もなかったが、他に話すこともないので聞いてみた。
「病院に見舞いに行ったんだよ。会社の同僚でね、自損事故、つまり自分で電柱に車をぶつけちゃった人がいて、命にかかわるようなものじゃないけど、二カ所骨折」
「うわあ、痛そう」
わたしが顔をしかめて言うと、父は苦笑いした。
「そうだけどね。もし他の人を轢いたりはねたりしたら、痛いじゃすまないから。でもあいつ、自損事故なんか起こしたせいか、変なこと言ってたなあ。これは俺が起こしたんじゃないんだ。やっぱり魔の道路だった。いくら早道だからって、あそこの道路は使っちゃいけなかったんだ。おまえも気をつけろ、とか……」
「えー、何それ。怖いじゃん。どこの道路?」
大人もこういう都市伝説みたいな話をするんだと思うと、少し興味がわいた。
「それが普段暮らしてる場所じゃないから、説明がよく分からなくて……えっ!」
いきなり父が叫んだので、わたしも意味も分からず、ぎょっとした。
「ど、どうしたの?」
父は信じられないものを見るように、目を見開いて前を見ていた。
「あの自転車が……」
は?
そんなバカな。しかし道路の向こうの暗がりから、一台の自転車が迫って来ていた。薄暗いランプ、背を曲げた老人らしい姿、何より暗がりでも分かる、長い白髪。
あのお婆さん!
悲鳴を上げそうになる。でもそんなはずはない。もう自転車を引き離してから、ほぼ直線の道を五分以上は走ってきたのだ。先回りできるはずがない。それでも自転車はどんどん近づいてくる。ヘッドライトの中で、もう顔がはっきり分かるほどになっていた。
噂どおりの顔だった。皺だらけの痩せた顔に落ち窪んだ黒い穴が三つ。目玉が見えるわけではないのに、こちらを睨んでいるのが分かった。
「お父さん、ぶつかる!」
わたしは叫んだ。自転車が道路の端ではなく、ゆらりと車の正面に寄ってきたからだ。信じられなかった。正面衝突しても平気な様子で、自転車を漕いで突進してくる。皺だらけの顔がみるみる大きくなる。威嚇するように黒いくぼみの口を大きく開き、わずかに残った歯をむき出しにして何かを叫ぶ!
「うわっ、ひゃあああっ!」
父が悲鳴を上げながらハンドルを切り、ブレーキを踏んだ。
車が軋みをたてて止まる。
しんとした住宅地の道路の真ん中で、車は斜めになって止まり、その中でわたしたちは数秒、声も出せないまま震えていた。
「轢いて……ないよね」
わたしが聞くと、父は無言のまま、カクカクと首を縦に振ってうなずいた。
「絶対……轢いてない。轢いたら分かるだろう。そういうのは……」
震える声で言いながら、父は車の周囲を窓ガラスの内側から見まわす。わたしも同じことをしていた。あのお婆さんと自転車が見当たらないのだ。轢いたのでないなら、一体どこに……
車の周りには、やはり何も見えなかった。その周辺にもない。道路脇にも、その向こうにも……
ダンッ!
いきなり目の前の窓ガラスに、皺だらけの骨の浮いた両手が貼りついた。
「きゃあっ!」
ダンッ、ダンッ、ダンッ!
窓の向こうから何度も両手を叩きつけてくる。
窓ガラスいっぱいにお婆さんの顔が貼りついた。深く刻まれた放射状の皺、落ち窪んだ眼の奥に見える赤い眼球は血走っている。
ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ!
お婆さんの皺だらけの額と両手が、何度も窓ガラスに叩きつけられる。これではガラスが割れてしまう!
「お、お父さん、早く車を出してよ! 窓ガラス割れちゃうよ!」
わたしは思わず叫んだ。
目を見開いたまま動かなかった父が、慌ててお婆さんから離れるため車をバックさせる。お婆さんを巻き込みそうで危ないが、仕方ないと思った。そのま父はアクセルを踏み込み、車は軋み音をたてながら、一気にスピードを上げ自転車から離れた。
なのに今度は引き離せなかった。
お婆さんが自転車を漕いで追いかけてくるのだ。どんどん追い上げてくる。車がスピードを上げる。それでも自転車が、追いついてくる。
「ウソだろう。もう八十キロ越えてるんだぜ!」
父が悲鳴のような声で叫んだ。
真っ白な髪をなびかせた〈自転車ババア〉の姿はもう車の真後ろだ。
「お父さん、もっとスピード出してよ!」
わたしは後ろを見ながら叫んだ。
「このままじゃ追いつかれちゃうよ!」
「分かってるよ! 信じられない……信じられない!」
父は裏返った声で呟きながらも、さらにアクセルを踏み込んだ。
ようやく自転車との距離が少し離れた。やった!
その時だった。遠ざかるお婆さんがわたしたちを見ながら、にやっと笑った気がしたのだ。
ふと、妙な考えが浮かんだ。
わたしたちが騒いでいた〈自転車ババア〉の話と、父が入院先で聞いた魔の道路の話は、本当に別々の話だろうか。
塾で聞いた話の子は自転車で道路に飛び出して、大怪我を負った。父が見舞った会社の同僚の人も、自分の車で電信柱にぶつかって、大怪我をした。
もしかしたら何か関係があるの?
もしかして……同一の話?
もし父が見舞いに行った時、知らずにその呪いの道路を通ってしまって、それで〈自転車ババア〉が追ってきたのだとしたら……
だとしたら〈自転車ババア〉の目的は私たちに追いつくことではなくて……
「うわああああああああっ!」
父が絶叫した。
鼓膜が裂けるような急ブレーキの音。わたしは揺さぶられ、助手席の背面に額を叩きつけられ、一瞬意識が遠のいた。
狭い視界に浮かぶフロントガラスの向こうに、横断歩道を渡る途中の作業服姿の人がいて、目を見開いてこちらを見ている。次の一瞬、ゴンッという衝撃とともに車が急カーブして歩道に乗り上げたのが分かった。
再びガンッ、という強い衝撃。体が軋む。近所の人が出てきたのか、急に騒がしくなるのが分かる。でも、もっと近くで耳の中に響く音があった。
キィッ、キィッ、キィッ、キィッ、キィッ、キィッ、キィッ、キィッ……
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、満足そうな笑みを浮かべてわたしたちの車の横を通り過ぎて行く、〈自転車ババア〉の姿だった。
車と塀はへこんでしまったが、わたしも父も軽傷で済んだのは幸いだった。
もちろん自転車にあおられたという話は、信じてもらえなかった。もう少しで父の車が轢いてしまうところだった作業服姿の人も、やはりそんな自転車など見なかったと警察に話したそうだ。わたしも後でこの話をユカにしてみたけれど、半信半疑の顔をされただけだった。
たった一度だけ、ユカの顔色が変わったところがある。わたしがスマホで撮った車の窓ガラスの写真を見せた時だ。
あの〈自転車ババア〉の両手で叩かれた跡がたくさん残った窓ガラス。
でもこれも、そのうち〈自転車ババア〉にまつわる噂の一つとして、流れていくのだと思う。
―ねえ聞いた? 〈自転車ババア〉に追いかけられて事故を起こした車の窓、追いついたババアに叩かれた時の手の跡や指紋が大量に残ってたんだって。警察は信じなかったけど、その指紋、車の所有者の身近な人の誰とも一致しなかったらしいよ。
それにね、そのドアの取っ手のところに、長くて白い髪の毛が一本、巻きついていたんだって。
ホントかな。ねえ、信じる?
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