第30話 ミハルちゃん






 最初に言い始めたのは、やはり山田だった。

「やっぱり夏と言ったら肝試しだろ? もう使われてない山奥のトンネルとか、朽ち果てた空き家だけが残っている廃村とか。温泉地の廃墟ホテルでもいいけど」

 そう言って山田は、ファーストフード店のテーブルに置いていたカフェラテの最後の一口を、得意そうにズズッとすすった。

暇があれば(なくても)スマホでその手の動画を見ている山田は、以前からそういう場所に行こうと誰かれなく誘っている。行きたいのは行きたいが、やはり一人で行く勇気はないらしい。もちろん誰も応じない。

「そんなとこ、どうやって行くんだよ。交通費はおまえが全員分持つんだよな?」

 今いる4人の中では一番冷静な深町が、現実的なことを言って田中を黙らせた。丸まった体をさらに丸めて下を向いてしまった田中は、少し気の毒ではある。

「あたし山の中なんて行きたくない。虫とかいっぱいいそうじゃない。考えただけでぞっとする」

 少し遅れてきた香名子が、テーブルにコーラとポテトの載ったトレーを置きながら、ダメ押しの一言。これで〈高校最初の夏休みも近づいてきたし、久々にみんなで集まってどこか行こうよ〉ミーティングで、山田案が通る可能性はなくなった。

「あたし、海がいいな。佐々木君は? 佐々木君はどこ行きたい?」

 俺は話を聞いてはいたが、スマホでゲームに夢中だった。

「俺は……どこでもいいよ。海でもいいし。怖いのなら、近場の遊園地のお化け屋敷でもいいじゃん。今年は病院の廃墟だってさ。山田が好きな本物の廃墟じゃないけど、結構怖いらしいよ」

 俺は山田にも配慮したつもりだったのだが、当人はがっくりと肩を落としただけだった。ただの遊園地のお化け屋敷では、動画もレポートも自分のSNSに上げられないと判断したようだ。

「……あるよ。この近所に」

 その山田でも深町でも香名子でも、もちろん俺でもない声は、いきなり背後から聞こえた。せわしなくスマホの画面を動いていた俺の指先が、ビクッと痙攣する。

 俺たち4人はやっと、もう一人いることを思い出した。

 別に教えたわけでも、誘ったわけではないのだが……

「や……やあ、ミハルちゃん」

 俺はスマホを下ろして振り返りながら、多少よそよそしく彼女に挨拶した。彼女は俺たちの隣のテーブルで、俺たちとはまったく値段の違う期間限定高級バーガーを、長すぎる前髪をかき分けながら、さして旨くもなさそうに食べていた。巨大な肉の塊がバンズからはみ出るバーガーが、ミハルが小柄なせいで、さらに大きく見える。

「よくここに集合していることが分かったね……」

 俺が言うと、ミハルは長すぎる前髪の間からぎょろんとした大きな目を上向かせて、俺を見た。

「分かるよ。だってあたしたち、幼馴染でしょ」

 確かにそう……と言えば、そうだった。小さな頃から近所に住んでいた俺、深町、山田、香名子が4人で遊んでいると、必ずいつも気がつくと後ろについて来ていたのが、ミハルだ。俺は正直、彼女が苦手だった。小学校の頃に、お菓子があるよと言われ、のこのこ家について行ったら、酷い目にあったことがある。

「あるよって、何が? ミハルちゃん」

 小学校の頃から意外にミハルと仲のいい香名子が尋ねる。

 ミハルが長すぎる前髪の間から、大きな丸い目をさらに見開いた。

「幽霊屋敷、というか今風に言えば、事故物件」

 山田が俺を押しのけ、身を乗り出した。


 ミハルの家は不動産屋だ。いろいろと訳ありの物件も取り扱っているらしい。

「訳ありの物件が好きな人もいるんだよ。普通の物件より安いし、それにほとんどの物件では、それが訳ありでも何か問題があったなんて話は聞かないしね。でも……」

 翌週の週末。

まだ夏休みにはならないが、期末試験も終わったので、俺たちはミハルの言う事故物件を、取りあえず外から見てみることにした。見るだけなら祟られることもないだろうと思ったのだ。しかし古い団地の端にある小さな森に囲まれたその物件は、事故物件に対して俺たちが持つイメージを、あっさり覆してしまうものだった。

「わー、凄い! お屋敷じゃない」

 二階建ての瀟洒な洋館を見上げ、香名子が歓声を上げる。

「うん。一応うちの、人気の賃貸物件」

 ミハルが淡々と言うので、俺はこけそうになった。

「人気の事故物件って、あるのかよ」

 いい絵を取ろうと高級ビデオカメラを持って来た山田も、ビデオカメラは持ち上げないまま眉をひそめる。

確かに白を基調とした明るく豪華な洋館は、どう見ても不気味や恐怖とは真逆の印象だ。

「元々は成金のお金持ちが建てた別荘なの」

 ミハルはどこからか持ち出した鍵で、まるで迎賓館のような過剰装飾のある外門を開き、きれいに芝が刈り込まれた庭へと、俺たちを招き入れた。

「つまりそのお金持ちさんの愛人宅だよね。でもある時奥さんがこの家を知って、刃物を持って乗り込んできたの。刺された愛人とお金持ちさん、そして最後に自分の首を切った奥さん、全員血まみれで亡くなっていたそうだよ」

「……そりゃ壮絶だな」

 深町が冷静に感想を述べる。まあね、とミハルはにんまり笑った。

「次にこの家を買ったのは、大学教授とその妻、二人の娘という四人家族。そのころすでにこの館は幽霊が出ると噂になっていたけれど、殺人事件が何だ、俺は幽霊なんて信じないぞ、という教授は、事件があった部屋の床と壁紙を張り替えただけで、普通に暮らし始めたそうだよ。庭に置かれたブランコで子供たちが遊ぶ姿も、当初はよく見られたそう。でもある日学会に出かけた教授は、なぜか方向違いの山道から車ごと転落して死亡。そして残された妻と二人の子どもは……」

 白いポーチの階段を上がったミハルが、玄関ドアの前で急に立ち止まったので、後ろを歩きながらキョロキョロしていた俺たちも、自動的に立ち止まった。広い芝生の庭の奥には対面式の丸いブランコが、確かに置きっぱなしになっているが……

「妻と二人の子どもは?」

 いつの間にかビデオカメラを構えている山田が、先を促す。ミハルはまた、長すぎる前髪の間からぎょろんとした目を覗かせて、にんまり笑った。

「事故の一報を聞いた妻は、悲しげに二人の子供を連れて家に入り、そして二度と出てこなかったの。教授に教わっていた学生たちが葬儀の手伝いをしようと家に来たけれど返事がなく、鍵が開いていたので家の中を探し回ったけど、誰の姿もなかった。つまり、行方不明」

「実家に帰っただけじゃないのか。本当は妻も子どももこんな殺人事件のあった家にはいたくなかったとか」

 深町がもっともなことを言ったが、ミハルは、今回は同意しなかった。

「家の中には全部の荷物が残されていて、葬儀に着るはずだった喪服もベッドの上に残されたまま。おまけにテーブルには、まだ湯気の立つポタージュが3皿」

「どっかで聞いた話だな……」

 俺は呟いたが、ミハルはふふふと笑っただけだった。

「まあ確かにこれは、近所でまことしやかに囁かれた噂話に過ぎないけどね。3人が消えたのは事実だよ。その後誰も住まずボロボロになっていたのを、うちが安く買い取ってリフォームしたら、この外見だから人気物件になったというわけ。まあどの入居者も一週間と持たずに出ていくけど、礼金敷金、出ていくときは違約金も貰うから、悪くないかな」

 悪い商売してるなあ……

 というのが俺たちの一致した感想だったと思うが、そこに突っ込む気はなかった。

「あのさ、どうして一週間でみんな出ていくんだよ」

 俺は嫌々ながら尋ねた。殺人事件や失踪事件のあった館だ。絶対何か「出る」に違いない。

「さあ……」

 と、ミハルはすっとぼけて首を傾げてみせた。

「なんかね、言うことがよく分からないんだよね。変な声が聞こえるとか、他の誰かが住んでるとか、方向感覚がおかしくなるとか、発狂しそう、とか」

 …………

 さすがに俺たちが黙り込んでいると、ミハルはおもむろに鍵をポケットから取り出して、ドアの鍵穴に差し込んだ。

 ガチャ。

「お、おい待て、ミハル。言っただろ。俺たちはとりあえず外から眺めに来ただけだ」

 俺は慌てて手を伸ばし、ドアを開けようとするミハルの動きを止めた。外から見るだけなら、妙なことに巻き込まれることもないだろうと思ったから来たのだ。

 ミハルが長すぎる前髪の間からぎょろんと巨大な目玉で俺を見上げる。

「佐々木君って意外にビビりなんだね。ここまで来て、本当に中を見なくていいの?」

「本当にって……」

「きゃー、素敵!」

 ドアの隙間から中を覗き込んだ香名子が、いきなり裏返った声で叫び、吸い込まれるように中に入ってっしまった。次に入ったのは、無言でビデオカメラを構える山田。

「おいおいおい……」

俺は慌てて深町を見た。深町の冷静な対処を期待したのだが、しかし彼も苦笑いして肩をすくめただけだった。

「ちょっとぐらいなら、大丈夫じゃないかな」

 もう引き返すのは無理なことは分かっていた。香名子は目の前に自分好みのキラキラしたものが現れると、他のことは考えなくなるし、山田はさらに自分の趣味に没頭する、完全なオタク体質だ。

 そして俺は、またミハルの罠にはまったことを感じつつも、その因縁の屋敷に足を踏み入れてしまったのだった。


 屋敷の中も、香名子が有頂天になるのも分かるほど、豪華で広々としていた。アンティーク調の家具は、金の縁取りに若干の成金趣味を感じるが、幽霊屋敷とか事故物件というイメージは全くない。

 香名子は満足そうに大きなソファに寝転がり、足をバタバタさせながら、いいなー、あたしもここに住みたい、などと騒いでいる。一方山田は、ミハルが言っていた因縁話とは程遠い明るい雰囲気に、多少不満なようだ。

「それにしても勝手に入り込んで大丈夫なのか? 今は誰も住んでないのかよ」

 俺が尋ねると、まあね、とミハルは微妙な感じで答えた。

「今は留守だから大丈夫。それより二階も見たら? 二階には寝室が4つとビリヤード室も」

「えー、ビリヤード?」

 香名子がソファから飛び起き、広いリビング横の階段を駆け上がる。

「香名子は完全にハイテンションだな。昔からお姫様ごっこが好きだったけど」

 深町が苦笑いして呟き、続いて階段を上り始める。俺が続き、後ろにビデオカメラを構えたままの山田、ミハルと続いた。二階に上がった途端、廊下の一番奥で、バタン、と部屋のドアが閉まった。香名子はその部屋に入ったらしい。

「おい、勝手に一人であちこち……」

 深町が部屋のドアを開けながら香名子に注意する……声が止まった。

「どうした」

 当惑顔の深町をよけて先に部屋に入った俺は、声が止まったわけを知った。

 香名子が、いない。

 部屋は中央にビリヤード台が一つ置かれただけの、学校の教室ほどの広さの部屋だった。端には小さなバーカウンターと丸椅子もあるが、その他には何もない。しかしその、リビングに比べれば殺風景と言っていい部屋のどこにも、香名子の姿はなかった。

「おかっしいな。確かにこの部屋のドアだったんだが」

 俺は言いながら、一応カウンターテーブルの奥も確かめた。人一人がしゃがんで隠れられるスペースくらいはあったが、やはり誰もいない。


 あはは……


 どこかで香名子の笑い声が聞こえた。かなり遠くだ。やはりどこかの部屋に入って、はしゃいでいるらしい。

「おい、今香名子の声が……」

 聞こえたよな、と振り返って深町に言いかけ、俺はその場に立ち尽くした。

 誰もいなかった。

 ドアの所にいたはずの深町の姿が消えている。

 深町だけではない。ビデオカメラを構えた山田も、ミハルさえ、どこにも姿が見えない。

 慌てて廊下に出た。三人も香名子の声を聞き、先に聞こえた方向に向かったのでは、と思ったのだ。

 廊下にも誰もいなかった。薄暗い照明に照らされた、赤いカーペットの廊下が、左右に続いているだけだ。

 待て。左右?

 入った部屋は廊下の一番奥だったはずだ。左右に廊下が続くはずはない。

 とにかくもう一度廊下の一番奥まで行き、ドアを開けてみた。

「え……」

 また、同じビリヤード室があった。やはり誰もいない。

 何だこれは……

 確かに頭がおかしくなりそうだ。

 ただ、今回は音がしていた。金属の擦れるような、キィッ、キィッ、キィッ、キィッ……という、まるでブランコが軋みながら揺れるような……

 恐る恐る、ドアと反対側の壁にある窓に寄ってみた。

 黄昏色の芝生の片隅で、白いドレスを着た子供二人が乗ったブランコが、揺れていた。

 これは夕暮れ? それとも朝焼け?

 どちらにしてもおかしい。俺たちは期末テストが終わり、午後暇になったから、この屋敷を見に来た。どう考えてもまだ昼の時間帯のはずだ。

 おかしい。絶対、おかしい。

「くそっ、ミハルの奴……!」

 悪態をつきながら廊下へ出ようとした時、背後で何か話している声が小さく聞こえるのに気づいた。そんなはずはない。この部屋には誰もいなかった。

―でも旦那様、わたくしビリヤードをしたことがありませんの。

 若い女の声だった。続いて、初老の男の声。

―ではわしが手ほどきしてやろう。

―ああ……旦那様、いけません。こんなところをもし奥様に見られたら……

 なんだこりゃ。

 そう思って振り返りかけた時、異音が二人の会話を途切れさせた。

 ブシュッ

 何かが激しく飛び散った。悲鳴が響き渡る。わめき声。叫び声。絶叫!

 ドンッ、と何か重いものが床に倒れる音がして、俺の足元にも、その響きが伝わってきた。

 生臭い、鉄錆のような臭いが漂ってきた。まるで血のような……

 もちろんおかしいのは分かっている。この部屋には誰もいないのだ。しかし臭いはどんどんきつくなる。

 ドアノブに手を掛けたまま、俺は恐る恐る、後ろに目を向けた。

 部屋は血で染まっていた。

 壁には血しぶきが垂れ、緑のビリヤード台も血で赤黒く汚れている。床は血の海だった。その中に深紅に染まった3体の遺体があった。仰向けに倒れた男の腹からも、着物姿の女の首からも、若い女の胸元からも、まだ血がぶくぶくと溢れ出している。溢れた血は部屋中に流れ出し、俺の足元へ、まるで生き物のように迫ってくる。

「ぎゃあああああああっ!」

 俺は情けない声で絶叫し、慌てて廊下に出てドアを閉めた。無我夢中で廊下を走り、階段を駆け下りたところで、一階のダイニングの前に、深町が首を傾げて立っているのに気づく。

「深町! おまえどこにいたんだ」

 声を掛けると、ゆっくりと深町は振り返った。

「佐々木。おまえこそ……」

 深町の説明によれば、カウンターテーブルの奥を見に行った俺が、いつまで経ってもテーブルの陰から出てこないので、深町自身も俺の後を追って、カウンターテーブルの奥を覗いた。そして気がつくと、このダイニングテーブルの前にいたと言うのだ。

 ダイニングテーブルには、湯気の立つスープが3皿置かれていた。ミハルが話したとおりだ。

「……おい。いくら何でも、おかしいだろう」

 俺が言うと、深町も頷いた。

「まあな……」

 玄関のドアは目の前だった。すぐに屋敷を出たかったが、落ち着いて考えてみると、香名子や山田を置いて行くわけにもいかない。

「とにかく香名子と山田を見つけて……」

 何か黒いものが階段の上をスッと横切った気がした。ミハルだ!

「待てっ、ミハル!」

 急いで階段を駆け上がる。こんな妙な屋敷に誘い込んだ犯人はミハルだ。問い詰めようと思ったのだが、二階に上った時にはもう、どこを見回してもミハルの姿はなかった。ヤツの神出鬼没は、小学校の頃からだ。黒い髪と黒っぽい服装といい、まるで夏の深夜のキッチンにいるGのような……


 アハハハハ……


 またどこからか、香名子の笑い声が聞こえた。

 キィィ……とかすかな軋み音をたてて、一番奥の部屋のドアが開く。誘うように。

「う……」

 部屋から廊下へと、黒っぽい染みが少しずつ流れ出してくるのが分かった。あの、血だ。惨劇の血だまりから俺に向かって流れていた血が、今再び俺の方へとドアを開けて進み始めている。

 ドアを開けて?

 そんなことがあるはずがない。しかし現に廊下までするすると伸びた血の流れは、俺の方に向きを変えている。血の流れがどんどん大きくなり、紐のようだった赤い流れの先端が、風船のようにぷっくりと膨らむ。

 いきなり風船のような血だまりの速度が上がった。すごい速さで俺の方に突進してくる。

 ガサササササササササササッ!

「うぁああああああああっ!」

 俺は叫び、思わず一番近くにあったドアを開け、中に飛び込んだ。

 ドアを急いで閉める。心臓がバクバクと鳴っているのが分かる。

 ……信じられなかった。あれは何の妖怪だ。

 部屋の中は真っ暗だった。俺は焦りながらも、ドアの近くにあるであろう照明のスイッチを手探りで探した。

「うわっ」

 スイッチを探しだして押した途端、真っ赤な光が室内を照らし出したのだ。ものすごく悪趣味な光だった。しかも十畳ほどの部屋はどこを見ても、何か大量のでこぼこしたもので埋まっている。丸いような、細長いような……

 目が慣れてくると、ようやくそれが何なのか分かってきた。

「げっ!」

 俺は閉めたばかりのドアに貼りついた。

 人形だった。大小の、大きいものは一メートル以上の高さがありそうなものも含めた、大量の人形で壁も床も埋まっている。

 全て美しい少年の人形だった。ひな人形のような直衣に烏帽子姿の若君から、豪華な銀の装飾の施されたビロードジャケットにシルクのシャツを身に着けた、金髪の王子様タイプ。可愛らしい甘え顔から、氷の眼差しが一部の女子に受けそうなドSタイプまで様々だった。

 俺は(見たかったわけではないが)、この部屋を一度だけ見たことがあった。俺が一番敬遠する女の部屋。悲鳴を上げて逃げた当時と比べても、人形の数はさらに倍増している。

「やっと二人きりになれたね、佐々木君」

 唯一の足の踏み場に置かれた椅子に座り、ティーカップでお茶を飲みながら、俺の一番敬遠する女が余裕の口調で言った。真っ赤な光の中でも分かる黒の装飾過剰なワンピース。しかし前髪が長過ぎて、目玉がどこを向いているのかは、分からなかった。

「いや……血だまりの妖怪みたいなのが襲ってきたから、たまたま一番近かったこの部屋に逃げ込んだだけだ」

 俺は誤解を受けないよう説明した。別に二人きりになりたくて、ここに来たわけではない。

「そもそもこの屋敷に、どうしておまえの部屋があるんだ。これもビリヤード室と同じ、訳の分からない空間接続で繋がれてるってことなのか?」

 なるべく感情を押さえて尋ねると、ミハルは肩をすくめた。

「そもそもも何も、ここはうちの家だし」

「はあ?」

 自分の声が裏返るのが分かった。もう感情を抑えるのは無理な気がする。

「おまえの家?」

「そう。いろいろ苦情も多いし、以前住んでた家も手狭になったので、社長のおばあちゃんの判断で、引っ越して自宅として使うことにしたの。まあ確かに……ちょっと変だけどね」

 ちょっとじゃないだろ。

「じゃあ何か。さっきの血だまりの妖怪も、ビリヤード室が何部屋もあるのも、そこでかつてあったという惨劇が今も繰り返されているのも、窓の外がセピア色の夕暮れなのも、その外に見えるブランコに、行方不明になったという二人の子どもが見えたのも、ダイニングのテーブルに湯気の立つスープが3皿置いてあったのも、香名子や山田が消えたのも、おまえに言わせりゃ全部ちょっとなんだな」

 まあ落ち着いてよ、と言うミハルに全く動じたところはなかった。

「その血だまりの妖怪というのはよく分からないけど、ビリヤード室の窓はガラスが割れていたので、家にあったセピア色のアクリル板を代わりに嵌めただけだよ。ブランコに乗っていたのは、たぶん私の双子の妹のチハルとマヒル。ダイニングのスープは、両親とおばあちゃんが今、出張中なので、私と妹たちの夕食のスープを早めに準備しておいただけだ」

 ……紛らわしいことをするな。

「香名子ちゃんと山田君はそのうち出てくると思うよ。私たち家族も結構消えたけど、すぐ出てきたから大丈夫」

「大丈夫? 大学教授の奥さんと子供二人は結局行方不明のままだったんだろ?」

 俺が指摘すると、ミハルは長すぎる前髪の間から巨大な目玉で俺を見たまま、ニヤッと笑った。また俺は何か間違った気がする。こいつの大ボラ吹きに引っかかったような……

「ウソなのか!」

 叫ぶ俺の前で、否定するようにミハルは両手を胸のあたりでひらひらさせた。

「だから、ただの噂と言ったじゃない。とにかく落ち着いて。一緒にお茶でも飲む?」

「絶対イヤだ」

 それだけは断固お断りだった。

 人形愛好者の間では、新たな人形を購入することを「お迎えする」というそうだが、俺は小学校の頃、勧められるままミハルの家に行き、山田や香名子と一緒にケーキやジュースを勧められ、俺のジュースだけに睡眠薬を混ぜられて、危うくミハルの人形コレクション部屋にお迎えされそうになったことがあるのだ。その時はミハルの母親が気づき、「生き物を人形にしちゃいけません」と助け出してくれたが……まあ確かに俺は生き物だが……そういう問題か?

 気がつくと、ミハルが長すぎる前髪の間から、巨大な目玉でじっと俺を見つめていた。

「かわいいよね、佐々木君って」

 話が危険な方向に向かっているのは分かっていた。今やこの屋敷で誰よりも一番危険な状態になっているのは、間違いなくこの俺だ。

「別にかわいくないだろ。学校では深町の方が全然人気あるよ」

 俺が言うと、ミハルは軽くうなずいた。

「確かに深町君のインテリ顔もいいけど……でもやっぱり私は、佐々木君のアイドル顔の方が好きかな。時々ブチ切れモードになるところも好き」

 好きにならなくていいから、と絶望とともに俺は呟いたが、ミハルに届いた様子はなかった。

「ねえ覚えてる、佐々木君。あの時の椅子。まだ佐々木君のために空けてあるんだよ」

 ミハルの視線が横に流れたので、思わず俺もその方向を見てしまった。

 ぐえっ

 俺が小学生の時、人形として飾られそうになった椅子が本当にまだ残っていた!

「この深緑のビロードの椅子。絶対佐々木君に合うと思うんだよね。あの時は京都の闇人形師に頼む予定だったけど、でも実は中国にも相当腕のいい闇人形師がいるらしいの。生前と変わらない容貌に加えて、頼めば背中に翼をつけたり、皮膚を美しい鱗に変えるとかのオプションにも応じてくれるんだって。お内裏様と天使と人魚。佐々木君はどれがいい?」

「全部お断り!」

 あまりの怒りとアホらしさに、俺は怒鳴った。何がお内裏様だ。何が闇人形師だ。とにかくこれ以上ミハルの訳の分からない話に付き合うより、さっさと山田と香名子を見つけて、この異常な屋敷を出ようと思った。それが俺自身の危険回避のためにも、最良の策というものだ。

「へ?」

 しかし回れ右して廊下に戻ろうとした俺は、間抜けな声を上げてしまった。

 廊下へのドアがあるべき壁に、ドアがない!

「そこのドアも時々消えちゃうんだよね。待ってればそのうちまた出てくると思うけど」

 ミハルがのんびり言う。待ってる暇なんかあるか!

 ぎしっ……

 背後でミハルが椅子から立ち上がる音がする。俺は不覚にも飛び上がってしまった。靴音が一歩、また一歩、俺の方に近づいてくる。言い知れぬ恐怖を感じて、俺は壁を背にして再びミハルの方に向き直った。

 深紅の光をあびて、ミハルが俺の目の前に立っていた。右手に何か持っている。大きめのスポイト。スポイトの中には紫っぽく見える煙のようなものが漂っている。

 な、何だそれは。

 ミハルが長すぎる前髪の間から覗くぎょろ目を、少し歪めて笑った。

「確かに……これは小学校以来の千載一遇のチャンスだよね。大丈夫だよ、佐々木君。これはあの時の中途半端な睡眠薬とは違うから。ほんの少しでも嗅いだら永遠の眠りに落ちて、どんな邪魔が入っても二度と目覚めない、成功率百パーセントの媚薬……」

 二度と目覚めることのない???

「だから、なぜそんなものを、おまえが持ってるんだ!」

 俺は口をパクパクさせながら、裏返った声で怒鳴った。こんなのありえないと思ったが、ミハルの場合、到底冗談には思えない。

「お、おばさんも、生き物を人形にしちゃいけませんって言ってたじゃないか」

「大丈夫。さっきも言ったように大人は全員、今日は出張中だから」

 くそ。だからミハルは今日俺たちをこの屋敷に招き入れたのか。

 またミハルが一歩、俺の方に近づいて来た。もうミハルのぎょろんとした目も、スポイトも、俺の目の前だ。

「あれ? 佐々木のやつ、さっき二階に上って行ったのに一体どこに行ったんだ?」

 いきなり妙に冷静な深町の声が、間近に聞こえた。

「深町、ここだ! 助けてくれ! 深町ー!」

 思わず壁を叩いて叫ぶ。

「ここだ、ここ、深町ーっ!」

 バンッ

 いきなり壁が消えて、俺は顔面から床に叩きつけられた。廊下の床には赤いカーペットが敷かれてはいるが、もちろん痛い。痛みにしびれる鼻を押さえながら上を見ると、ドアノブを握ったまま深町が、首を傾げながら俺をぽかんと見下ろしていた。しかもなぜか、深町はあの血だまりの風船妖怪を抱っこしているのだ!

「うわわわわわっ!」

 俺は全力で廊下を這って、深町から離れた。

「おまえな、な、なぜその妖怪を!」

「妖怪?」

 深町がぽかんとした声で言いながら、妖怪をもふもふと撫でた。

「あら、ブッチャー。そんなところにいたの」

 部屋から出てきたミハルが、さりげなくスポイトをワンピースのポケットに仕舞い込みながら言う。

 深町がハハハと笑った。

「ブッチャーって言うんだ。確かにここまで深紅に近い赤毛のプーリーは珍しいよね。高かったんじゃないの、このモップ犬」

 ……犬?

 ミハルが深町からそのモップ犬を受け取りながら、にんまり笑う。

「大丈夫。うち、お金だけはまあまああるから」

 俺は笑うどころではなかった。今の今までこいつのせいで生命の危機にさらされていたのだ。

「とにかく帰ろう、深町!」

 俺は壁に寄りかかって立ち上がりながら言った。

「香名子と山田のことは、後で考えよう。これ以上こんな異常なところにいられるかっ」

 言いながら、さっさと階段を駆け下りる。この階段も、その先にある玄関のドアも、いつ消えてしまうかも分からないのだ。これまでこの屋敷を借りた客たちのことも、心底気の毒に思った。客たちはこの屋敷の異常さに発狂寸前になりつつも、内容の荒唐無稽さに到底信じてもらえないだろうと諦め、泣く泣く違約金をミハルの不動産屋に払って、出て行ったに違いない。

「その山田のことだけどさ」

 後からついて来ながら、深町が言う。

「うん。外で聞くよ」

 俺はためらわずドアノブに手を掛ける。

 ミハルの声も追ってきた。

「その玄関ドアは内側から開けない方が……」

 無視した。俺を人形にしてお迎えしようとした女の言葉を聞く義務はない。とにかくドアが消えないうちに外に出るのが最優先だ。

「ぎゃああああああああっ!」

 開けた途端、俺は気絶しそうになった。白いポーチが米粒に見えるほど遥か下に、芝生の庭が見えた。とっさにドアノブを握った手と壁についた手で体を支えなかったら、俺はバンジージャンプできるほどの高度から、真っ逆さまに転落していただろう。もちろん、命はない。

「な、な、な、何だこれは!」

 俺は慌ててドアを閉めてから、絶叫に近い声でミハルに尋ねた。後ろから見ていた深町も、さすがに目を丸くしている。

「だから、内側から開けちゃダメって言ったじゃない」

 ミハルは多少迷惑そうな声で答えた。

「時々そんなふうに具合が悪くなるんだよね、そのドア。外から入るのは大丈夫なんだけど」

 具合が悪いで済む話か。

「俺は死ぬところだったんだぞ!」

 そう怒鳴った時、いきなり外から香名子の笑い声が聞こえたかと思うと、ドアがバンと開いた。

 香名子が立っていた。普通に白いポーチの床に。

 その向こうには青々とした芝生と迎賓館のような門扉、そして道路と古い団地という普通の景色が広がっている。

「あー、面白かった。あれ? 佐々木君、深町君、どうしたの? ぽかんとしちゃって」

 すぐに香名子の後ろから小学校低学年くらいの女の子が二人湧くように現れて、テーブルに駆け寄りスープを飲み始めた。ミハルの妹たちに違いない。

「香名子……おまえ今までどこにいたんだ」

 毒気を抜かれつつも俺が尋ねると、香名子はまた無邪気に笑った。

「もちろん、ミハルちゃんの妹ちゃんたちと一緒に、ブランコに乗って遊んでたよ」

 言いながら香名子がドアを閉めようとしたので、俺と深町は慌てて止めた。ドアが閉まったら、もう二度と永遠にまともな空間に戻れない気がしたからだ。


 そして、山田はどうなったのか。

 ミハルのことに気を取られて、山田を置き去りにしようとしていた俺だが、ドアを押さえ外気で頭を冷やしてみると、やはりそれもかわいそうだなという気がしてきた。

 深町の説明は次のようなものだった。

 俺が二階に戻った時、まだ深町が一階にいると、奥の方から、山田の助けを求める声が小さく聞こえてきたのだという。急いで声のするキッチンの方に行ってみると……

 深町は言いにくそうに眉をひそめた。

「あり得ないことなんだが、山田の声。その……キッチン横の壁の……中から聞こえてきたんだ」

「はあ?」

 俺は玄関ドアが閉まらないように、近くにあった椅子を挟むように置き、なおかつミハルがおかしな行動をとらないよう香名子に監視を頼んでから、慌てて深町とキッチンに向かった。

 キッチンの壁は、しんとしていた。古い邸宅とはいえ、その厚みは入り口の側面から見ても、十五センチはない。いや、無理だろう。あのぽっちゃりの山田が、こんな壁の中に存在できるはずがない。

 それでも深町がこんな時に冗談を言うとも思えなかったので、一応声を掛けてみた。

「山田。いるのか……?」

 耳を当てた壁はしんとして、やはり何も聞こえなかった。と思ったら、いきなりザリザリという何かをひっかく音が聞こえてくる。

「だ……だずげで……!」

 山田だ!

「ミハル! 大工道具持ってこい!」

 俺が廊下に出て叫ぶと、香名子と玄関ドアの前にいたミハルは肩をすくめた。

「そんなのあるわけないじゃん」

「あるだろ。不動産屋は経費削減のため、物件の簡単なリフォームは自分でやることが多いと、以前ネット記事で読んだことがあるぞ」

 というのはあやふやな記憶だったが、自信たっぷりに俺が言い切ると、ミハルは不服そうに長すぎる前髪の間から覗く目を細くしながらも、どこからか道具箱を引っぱりだしてきた。

 持ってるじゃないか。

「佐々木君がこれ以上余計な知恵をつける前に、やはりお迎えした方が良さそうね……」

 背後でそんな不穏な呟きが聞こえた気もしたが、とにかく俺と深町は使えそうな金槌などを道具箱から出して、声のする漆喰の壁を剥がしてみた。

 山田は壁の中の木枠に挟まれて、破裂しそうに押しつぶされていたが、生きていた。ビリヤード部屋からなぜこんなところに移動したのか、たぶんミハルでも説明できないだろう。

 説明できないのはそれだけではない。

 あのビリヤード部屋で見た、過去の殺人場面の再現は何なのか。それに、ブランコにいたのは二人の妹だとミハルは言ったが、実際の妹たちは、俺がセピア色の窓の外に見た二人とは明らかに違っていた。ミハルの妹たちは小学校低学年のガキで、キャラクターTシャツにスカートという現代の服装だったが、俺が見た二人は白いワンピース姿で、年齢ももう少し高く、十二、三歳に見えた。

 俺は一体何を見た……

 香名子もそうだ。

 ずっと二人と一緒にブランコで遊んでいたと言っていたが、香名子の姿など見えなかった。そもそも二階に駆け上がったはずの香名子が、なぜ庭でミハルの妹たちと遊んでいたのかも謎だ。


 山田と香名子は懲りもせず、夏休みのレジャー計画を立て始めている。心霊現象で有名なホテルと人気のビーチで揉めているようだ。人気のビーチの心霊現象で有名なホテルに泊まればいいじゃないか、と深町は言っているが……

 とにかく今度こそ絶対に、ミハルに漏れないようにしなければならなかった。漏れたら最後、また理解不能な現象でメチャクチャにされるのは目に見えている。俺個人にとっても生命の危機だ。

 ただ、今も俺はヤツに見張られている気がするんだよな。なんと言っても、ミハルだけに……





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