第29話 ずっと一緒だよ
「何なの、サユ、そのクマのぬいぐるみ。どこから拾ってきたの?」
学校から帰って家のドアを開けた途端、お母さんは眉をひそめた。
「もう、拾ったんじゃないよ。最近仲良くなった子がくれたの。下校の途中で」
「下校の途中?」
お母さんはさらに疑うような目でわたしを見る。
「そう。その子の家の前で、ちょっと待っててと言われて。待ってたら、これくれたの。仲良しになった記念だって。その子は新しいぬいぐるみを買ってもらったから、もういらないんだって」
「……何それ。この間のことの嫌味?」
キッチンの奥で洗濯機が終了の音をたてたので、お母さんはため息をつきながら、そちらに向かった。
「とにかくね、そういうものを簡単にもらってはダメ。他の人が持っていたぬいぐるみでしょ? その子の前にも誰かが持っていたのかもしれないし、そんなに簡単にくれるなんて、一体何があったのか、なんだか気味が悪いわ。さっさと返すか、次の燃えるゴミの日に捨ててしまいなさい」
「捨てるなんて、そんな……」
遠くから聞こえる説教に口の中でもごもご言い返しながら、わたしは自分の部屋がある二階にクマのぬいぐるみを持って上がった。ぬいぐるみをベッドの端に座らせ、ランドセルを机の横に掛ける。小学四年になってから通う塾が一つ増えたので、すぐにまた家を出なければならないが、とりあえず椅子に座って、ふーっと息を吐いた。
堂々と言い返せなかったのは、わたしも少しウソをついていたからだ。
わたしはこのぬいぐるみを、確かに拾った。ゴミ捨て場から。
ひどい捨て方だった。
市の指定ゴミ袋に入って、他の多くのゴミ袋と一緒にゴミ置き場に置かれていたのだが、真っ白なクマのぬいぐるみなのに、同じ袋に生ゴミを入れた小袋も一緒に入っていて、クマの足の半分に小袋から漏れた茶色い汁が染みていた。
かわいそう。
でも、わたしもすぐに、その捨てられたぬいぐるみに手を伸ばしたわけではない。気づいたのは集団登校の途中だったし、まさかぬいぐるみを抱えて登校するわけにもいかないので、眺めながらそのまま通り過ぎた。きっと下校する頃には、ゴミ収集車が回収してしまっているだろうなと思い、ごめんね、と心の中で思っただけだ。
回収されていなかった。
下校の途中で覗いたゴミ置き場にはさらにゴミ袋が積み上げられ、クマのぬいぐるみはその下で生ゴミと一緒に潰れていた。地区のゴミ収集車はたまに遅れて、午後の遅い時間になってようやく回ってくることがある。でも日が暮れるまでには絶対やって来て、回収してしまうだろう。
とにかく急いで潰れたゴミ袋に穴をあけ、クマのぬいぐるみをなんとか引っ張り出した。それから近くの公園の水道で、茶色に変色した足を洗ってみた。思ったより簡単に色が落ちたのでホッとする。それからハンカチを濡らして絞り、ぬいぐるみ全体を拭いてみた。伏し目がちに見えたクマの丸い目はぱっちりと開いて、まるで新品のようないい感じになった。
あたし……いいことしたよね。
ベッドの隅に座らせたぬいぐるみを見ながら、わたしは思った。だって捨てられて、燃やされそうになっていた、こんなにかわいいぬいぐるみを助けたんだから。
お母さんに言ったのは作り話だけど、まだこんなにきれいなぬいぐるみを捨てるなんて、きっと元の持ち主はすごく飽きっぽい子だったに違いない。だったらずっとクマのぬいぐるみが欲しかったわたしの手に渡って、このぬいぐるみにとっても良かったのだ。
確かに、私が本当に欲しかったクマのぬいぐるみよりは、一回り小さいけど……
―ねえ、買ってよ、あのクマのぬいぐるみ。
ほんの数日前、久しぶりに出かけた駅前のデパートで、お母さんと交わした会話を思い出す。
―ダメよ、あんな高いの。それにもう今月は、ゲームでリナちゃんとダンスの衣装を揃えたいとかって、結構課金したでしょ。もう絶対ダメ。
―ケチ。
あの課金は、別にわたしがやりたかったわけではない。友達のリナが揃えようと言い出して、つき合いで仕方なくおかあさんに課金を頼んだだけなのに……
机に置いていたスマホが鳴った。そのリナが、もう塾の準備をして家の前で待っている。
わたしは急いで立ち上がり、それから、待てよ、とぬいぐるみを見直した。
お母さんのことだ。わたしがいない間に、本当にこのぬいぐるみをゴミ袋に入れ直して、捨ててしまうかもしれない。
わたしはクマのぬいぐるみを抱え、クローゼットを開いて冬物のコートの奥に隠した。丸い目が暗がりで不安そうに見えて、頭をなでながら言い聞かせる。
「安心して。絶対捨てたりしないから。ずっとここにいていいからね。ずっと、一緒だよ」
〈ずっと、一緒……〉
……え?
クローゼットの戸を閉めようとして、わたしはあたりを見回した。今、全然聞いたこともない女の子の声が、どこかで聞こえたような……
しかしもう耳を澄ましても、なにも聞こえなかった。
気のせいか。
わたしはスマホと塾用のバッグを取り、急いで部屋を出た。
「そういえば、あのもらったとか言ってたぬいぐるみ、ちゃんと捨てるとか、返すとかした?」
それから十日ほど過ぎて、もうお母さんはぬいぐるみのことを忘れたのだと思い込んでいた夕食の最中に、いきなり聞かれた。
わたしはなんとか口に入れたものを飲み込みながら、不機嫌な表情を作った。
「返したよ。だってお母さんが返せって言ったじゃん」
「ふーん……」
そう言ったきりお母さんが黙ってこちらを見ているので、わたしはもう一言文句を言った。
「返すしかないでしょ。せっかく友達がくれたのに捨てるなんて、ぬいぐるみが可愛そうだと思わない?」
お母さんはまだ何か割り切れない様子でわたしを見ていたが、ようやく視線を外し、一口味噌汁を飲んだ。
「返したならいいんだ。まあね……来月はサユの誕生日もあるし……じゃあ、その時なら買ってあげてもいいよ、あのクマのぬいぐるみ」
え……?
わたしは耳を疑った。
あのピンクの豪華なリボンをつけた大きなクマのぬいぐるみを、本当に買ってくれるの?
「ホント? ホントに?」
うれしくて、思わず身を乗り出して言ってしまった。そのままドキッとして、言葉が止まってしまう。
でもどうしよう。クローゼットの中の……
「どうしたの。うれしくないの?」
急に笑顔を引っ込めてしまったわたしを見て、またお母さんは眉をひそめる。
「ううん。もちろん、すっごくうれしいよ。絶対欲しい」
欲しいけど……
夕食が終わってしばらくしてから部屋に戻ったわたしは、いつものようにそっとクローゼットの扉を開けた。
奥の暗がりでひっそりと待っていたクマのぬいぐるみが、わたしをじっと見上げている。
「あ、そうそう、クーちゃん。今日の夕ご飯はハンバーグだったよ。超おいしかった」
わたしはいつものようにクローゼットの前に座り、小声でぬいぐるみに報告を始めた。
ぬいぐるみの名前はクーちゃんにした。クマだからという単純な理由だけど、名付けた時のクーちゃんの目はとても嬉しそうだった気がする。クーちゃんにはその日にあったことを何でも話した。授業や塾や友達とのことも、それこそ給食や夕食の献立まで。ハンバーグは先週お母さんに食べたいと言ったのだが、たぶんその時は材料が揃っていなかったので、今週材料を買って、作ってくれたのだと思う。
「そうなんだよね。お母さんは、すぐには願いをかなえてくれないけど……」
今月は無理でも、最初からクマのぬいぐるみは、誕生日とか、クリスマスとかに買ってくれるつもりだったのかもしれない。
ただ、それとクーちゃんはやはり別のことだ。
「大丈夫だよ。何があってもあたしとクーちゃんは友達だから。ずっと一緒だからね」
そっとクーちゃんをクローゼットから取り出し、抱きしめる。
かすかに、生ゴミの臭い。
ウッと思いながらぬいぐるみを離し、よく洗ったはずの足を眺める。
外側の茶色い染みはすぐ落ちたのだが、奥まで染み込んだあの生ゴミの汁は、残ってしまったのだろう。もっとよく洗えばよかった。すぐになくなると思っていた臭いは、日に日に強くなっている気がする。
やっぱりゴミ捨て場にあったぬいぐるみだから……
私はため息をつき、ぬいぐるみの足に消臭スプレーを吹きかけ、クローゼットに戻した。
「え、何あれ」
異変が起きたのは翌日の朝だった。
集団登校で同じ班のリナと話しながら歩いていると、後ろを歩く五年生が歩いている道の先を指さして言った。
二階建てのありきたりな一軒家の前に、数台のパトカーが止まっていた。既に周辺には黄色い規制線が張られていて、その外側には報道関係らしいカメラを構えた人や近所の人たちが大勢立っている。
登校できないほどの人だかりではないが、近づくにつれ近所の人たちが話し合う声が聞こえてきた。
「……かわいそうにねえ」
「食事も与えてなかったみたいだよ」
「そうだよね。痩せてたもの」
「友達とも遊ばせないで……」
「いつもあの二階の窓から、クマのぬいぐるみ持って、うらやましそうに下を通る子どもを見てたよね」
「ぬいぐるみが唯一の友達だったんだよ」
「……あの新しい奥さん、そのぬいぐるみも捨てちゃって」
「そうそう、わたしも見た。ゴミ捨て場で」
「酷い話だよねえ……」
ぬいぐるみ……捨てられた、クマのぬいぐるみ……
「何だろう」
言いながらリサがわたしを見たが、わたしは何も答えることができなかった。
なぜパトカーが来ていたのか、理由がわかったのは、家に帰ってからだった。夕食の時、つけっぱなしのテレビで流れていたニュースに、朝見た家が映っていた。
〈近所の住民によると……ちゃんの父親は三年前に離婚。しかしこの春に再婚して、当初……ちゃんは新しいお母さんができたと喜んでいたそうです。しかしその後、父親は遠方に単身赴任。しばらくすると深夜でも母親の怒鳴り声と……ちゃんの泣き声が聞かれるようになり、先月からは小学校も長期欠席。市には何度か市民からの通報が寄せられていました。……ちゃんは発見された時、すでに死後一週間は経っていたそうです。……ちゃんを救う方法はなかったのでしょうか……〉
「小学校から近いじゃないか。サユ、あの子知ってるのか?」
ビールを飲んでいたお父さんがいきなり聞いてきた。知るわけがない。
「知らない。学年も登校班も違うもの」
そんなことは……今はどうでもよかった。
あのクマのぬいぐるみ。
一日中、そのことばかり考えていた。急に怖くなったのだ。テレビではなんとなく遠回しな言い方だったけれど、つまりは虐待されて死んだ子だ。その死んだ子の唯一の友達だったクマのぬいぐるみ……女の子の苦しい思いがいっぱい詰まった……もしかしたら、その亡くなった女の子の魂さえ宿っているかもしれないぬいぐるみを、わたしは今、自分の部屋のクローゼットに置いている。
怖い……
ゴミ置き場から助けたことを、わたしは後悔し始めていた。
あの時はいいことをしたと思ったけれど、今は自分から離したくてしょうがない。どうしても、じゃあこのクマのぬいぐるみだけでも大切に可愛がってあげよう、という気持ちにはなれなかった。どうして拾ってしまったんだろう。お母さんも、以前の持ち主のどんな思いがこもっているか分からない、と言っていたのに……
でも、じゃあ本当に捨てるの?
それもできなかった。わたしはあのクマのぬいぐるみに約束した。もう大丈夫。ずっと一緒だよって……
でもやはり今夜はあのクマと一緒の部屋で、明かりを消して寝たくなくない。
「ねえ、お母さん。今夜一階でお母さんたちと一緒に寝ていい? 友達から怖いマンガを借りて読んだら、本当に怖くなっちゃって」
夕食の後でそう言ったら、お母さんは苦笑いしながら、いいけど、と言ってくれた。
ほっとする。とりあえず、今夜は大丈夫だ。
自分の部屋に入り、パジャマに着替えてから寝具を抱えて部屋を出た。ドアを閉める前に、なんとなくクローゼットの扉が閉まっていることを確認する。
今日は一度もクーちゃんに話しかけなかった。
ごめんね。だって……
後ろめたかったせいか、それとも慣れないところで寝たせいか、夢を見てしまった。何も見えない真っ暗な中で、声だけの夢。
〈今日はリナちゃんと何して遊んだの?〉
〈今日の夕ご飯は、お母さん何を作ってくれたの?〉
〈ねえ、どうして今日はあたしに話しかけてくれないの? どうして同じ部屋で寝てくれないの?〉
まるでクーちゃんがわたしを問い詰めているようだったが、声は知らない女の子の声だった。違う。わたしはこの声を一度だけ聞いたことがある。
〈ずっと一緒と言ったのに……〉
ぎょっとして、目が覚めた。
心臓がドクドク音をたてて鳴っている。いつの間にかパジャマの下にはびっしょり寝汗をかいていた。
両親が寝ている一階の和室が、暗い中にぼんやりと浮かび上がる。障子の外はしんとしていて、まだ深夜なのが分る。隣のお母さんも、その隣のお父さんも寝息を立てている。お父さんの寝息にはいびきの音も時々混じっていて、少しなごんだ。
ふと、小さなことが気になった。
お父さんが寝ている向こうの襖が少し開いていて、黒い筋ができていたのだ。お父さんはこんな感じでドアや蓋をきちんと閉めないことがよくある。嫌だ。ちゃんと閉めたらいいのに。まるで何かが少しだけ襖をあけて、こちらを覗いているみたいじゃない。
障子越しのわずかな街明かりが反射して、本当に黒い筋の中で何かが光っているような気がした。見たくないのに、目を凝らしてしまう。ごく小さな光。光沢のある丸いものに反射した光。暗さに目が慣れてきてようやく分かった。
隙間からクーちゃんが黒く丸い目をこちらに向けて、じっと見ていた!
「ぎゃっ!」
わたしは悲鳴を上げて、飛び起きた。
「え、何?」
お母さんもお父さんも慌てた様子で身を起こす。身を起こしたお父さんの向こうの襖は……閉まっていた。
夢……?
「とにかく、今夜は二階で寝てね。お父さんもお母さんも寝不足になっちゃうから」
朝からお母さんは機嫌が悪かった。わたしが夜中に悲鳴で起こしてしまったからだ。
「もう怖いマンガなんか借りちゃダメよ」
「……はぁい」
わたしはトーストにバターを塗りながら、溜め息交じりに返事をする。
しょうがない。
もう気持ちは決まっていた。クーちゃんは処分する。でないと二階の部屋でなんか寝られない。今日、お母さんは用事で夕方に出かけると言っていたから、その間に捨てようと決めた。そのまま捨てたらやはり目立つので、新聞紙か何かにくるんで。
決めてしまうと心が少し軽くなって、わたしは登校の準備をするために、二階の部屋へ駆け上がった。
え……
クローゼットの扉が、開いていた。
部屋のドアを開けたまま、わたしは立ち止まり、ごくりと唾を飲みこんだ。
服の奥の暗がりから、クーちゃんがじっとわたしを見ている。
どうして? ちゃんと閉めたのに。
夜中の夢が頭をよぎった。
ただクローゼットの扉は、かみ合わせが少し緩くなっていて、これまでにも何度か閉じたつもりなのに少し開いていたことはあった。
たぶん、それだ。
わたしは自分にそう言い聞かせ、今度はカチッと音がするまで扉をしっかり閉め、急いで支度をして部屋を出た。
「サユ。次はいよいよ舞踏会だね。また衣装揃えるよね」
登校班の集合場所に着くなり、リナが寄ってきてゲームの話を始めた。
無理だと思った。今お母さんに課金の話なんかしたら、誕生日のクマのぬいぐるみは買ってもらえなくなるかもしれない。
「うーん、最近お母さん、お金の話すると機嫌悪いんだよね。来月……再来月なら、なんとかなると思うけど」
「再来月!」
言った途端に、リナは気絶しそうな顔でわたしの言葉を繰り返したが、やがていつもの笑顔に戻った。
「ま……いいや。じゃあさ、週末にいつものアイスクリーム屋さん行こうよ。新フレーバー、猫型のチョコチップが入って、すっごく可愛かったよ」
「行く!」
話しながら歩いているうちに、昨日大騒ぎになっていたあの家が見えてきた。まだ警察も報道の人たちの姿も見えたが、取り巻いていた近所の人たちの姿はぐっと減っている。
かわいそうだと口では言っても、大人でさえ忙しくて、いつまでも眺めてはいられないのだ。それなら子どもがかわいそうだと思うより先に怖いと思ってしまうのも、仕方ない気がした。
そうだ。もともと捨ててあったぬいぐるみが、元の運命に戻るだけなのだから、そんなに罪悪感を持つことはないのかもしれない。だいたいぬいぐるみとの約束なんて、それほど真面目に考える必要ある?
「ひっ!」
思わず悲鳴を上げてしまった。慌てて自分の左右を見る。
「どうしたの? 虫?」
リナが不思議そうに聞いてきた。
言えるはずがなかった。
今、道路を曲がってきた黒塗りの車が登校班の横を通り過ぎた時。車体に歪んで映ったわたしとリナの隣に、クマのぬいぐるみが見えたなんて……
こんなことは一度もなかった。やはり捨てると決めたことが、わたしを相当後ろめたい気持ちにさせているらしい。
とにかくその日は一日中、ふっと視線をどこかに向ける度にクーちゃんの幻が見えて、頭がおかしくなりそうだった。
トイレを出た後、手を洗いながら髪が乱れていないか目の前の鏡を見ると、背後に並ぶ人の肩にクーちゃんが乗っていた。体育で運動場を走った後、解けかけていた運動靴の紐を結ぼうとしゃがみ込むと、手を伸ばした先に自分の運動靴と一緒に、クーちゃんの足が見えた。
あの臭い足。臭いまで一瞬漂った。
一番混乱したのは、その日の掃除時間が終わって教室に戻った時だ。当たり前のように、わたしの席にクーちゃんが座っていた。隣の席のリナの方を向いて、おしゃべりでもするように。
なんであんたがそこに座ってるの、と叫びそうになった。そこはわたしの席なのに!
「サユ、どうしたの。今日はホントに変だよ?」
クーちゃんを見ながら震えていると、リナが立ったままのわたしを心配そうに見上げる。リナを見て、もう一度わたしの席を見ると、やっとクマの幻は消えていた。
もういや、いや。絶対に捨てる!
泣き出したいような気持ちでそう思いながら、家に帰った。
これは本当に私の後ろめたさが見せる幻?
こんなの、まるで……まるで……
「ただいま。お母さん、部屋を片付けたいからゴミ袋一枚欲しいんだけど」
家に帰りつき、そう言いながらキッチンに向かった私は、息を呑んだ。
食事するテーブルのわたしの椅子に、クーちゃんが座っていた。
「お母さん、なぜこんなもの、ここに……」
「お帰り。こんなものって?」
キッチンの奥にいたお母さんもまた、不思議そうにわたしを見た。リナもそうだったが、やはりお母さんにも、クーちゃんは見えないのだ。
お母さんがテーブルにおやつのシュークリームを乗せた皿を置く。まるでクーちゃんにあげるように。
違う。それはわたしのシュークリームだよ!
思い切って椅子を引くと、ようやく幻は消えた。
「部屋の片づけなんて珍しいね。あら、もう出かけないと」
お母さんはゴミ袋をテーブルに置いてから、時計を見て、忙しそうにキッチンを出て行った。
「夕ご飯までには帰ってくるからね」
玄関のドアが閉まる音がする。
まだ体が震えていた。テーブルに手をついてなんとか椅子に腰かける。
「ぎゃっ!」
悲鳴を上げて、椅子から飛び退いた。お尻の下に丸くぶよんとしたものが当たったのだ。
クーちゃんがまた座っていた!
「なんで座るの。そこはあたしの椅子でしょ!」
叫びながら、近くにあったティッシュの箱を投げつける。クーちゃんの姿は消えて、ティッシュの箱は壁に当たって落ちた。
わたしは怖さと腹立たしさで、泣きながら階段を駆け上がり、自分の部屋に入った。
クローゼットを開ける。暗がりにクーちゃんがじっと座って、わたしを見ている。これは本当のクーちゃんだ。消えたりしない。
わたしは乱暴にクーちゃんを引っぱりだし、持ってきた古新聞を広げて、きっちり見えないように包み始めた。
せっかく助けてあげたのに、わたしに成り代わろうなんて、ずうずうしい!
そうだ。このクマのぬいぐるみは―というより、クマのぬいぐるみに宿っているものは、わたしに助けてほしいんじゃない。わたしに優しくしてほしいのでもない。
わたしに、なりたいのだ。
〈どうしてそんなことするの。捨てちゃダメだよ。ずっと一緒って言ったじゃない〉
クローゼットの奥から、知らない女の子の声が聞こえた。
「一緒? 違うでしょ。あんたはあたしの場所を取ろうとしているだけ。せっかく拾ってあげたのに!」
〈……それはサユがあたしを捨てようとするからだよ。おいしいハンバーグも作ってくれる、おやつにシュークリームもくれる、あんなに優しいおかあさんなのに、娘のサユはこんな酷いことするんだね。あたしなら絶対ぬいぐるみを捨てたりしないよ。優しくしてあげるよ。サユはもしかしたら、ここのお母さんにふさわしくないんじゃないかな。あたしの方がふさわしい〉
わたしはむっとして顔を上げ、クローゼットの奥をじっと見た。その暗がりに……確かに薄ぼんやりと、髪の長い痩せた女の子が見えた。
「確かにあんたはかわいそうだよね。酷い目にあったよね。でもお母さんの子どもはわたしだけ。ふさわしいとか、ふさわしくないとか関係ないもん。それにね、分ってるの? このぬいぐるみを捨てるように最初に言ったのは、お母さんだよ」
〈それは、あたしがどんなに良い子か、あなたのお母さんがまだ知らないからだよ。新しいお母さんには認めてもらえなかったけど、あたし、あなたのお母さんには絶対〉
クローゼットを閉じた。ぬいぐるみを包んだ新聞紙もガムテープで閉じて、さらにゴミ袋に入れてきつく縛った。
これで大丈夫。後はゴミ置き場に持っていけばいい。
すぐに持っていこうと立ち上がった。ゴミの収集日は明日だけど、前日の夕方にはもう出してもいいって、以前お母さんが言っていた。窓の外は、もう夕暮れだ。
〈ダメだよ、ダメ! そんなのダメ!〉
廊下を歩く私を声が追ってきたが、無視した。お母さんの言うとおりだった。これほど強い思いがこもっているなんて、思いもしなかった。もう二度とかわいいからって、捨てられているものに手を伸ばしたりしない。恐ろしい。
……?
階段を一段下りたところで、持っていたゴミ袋がなぜかふわっと軽くなった気がした。確かめようとゴミ袋を見ながら、もう一段下に右足を下ろす。その右足が丸くぶよんとしたものを踏んだ!
クーちゃん……!
気づいた時にはもう、わたしの右足はクーちゃんの上で滑り、体はバランスを崩し、突き落とされるように階段を滑り落ちていった。痛い! 痛い!
頭をガンッと打って意識を失う直前、階段の上の廊下からわたしを見下ろす、ぼんやりとした女の子の姿が見えた。女の子は少しだけ、笑っているように見えた。
サユ……
サユ、しっかりして……!
「サユ!」
遠くでわたしを呼ぶお母さんの声に、ようやく目が覚めた。
「ああ、良かった。階段から落ちたんだね。帰ってきたら倒れてるから、どうしようかと思った。どこか痛くない? 骨折してない? 頭は打ってない?」
頭は打ったが……それほど痛くなかった。それ以外のところも、痛くない。ただ真っ暗で何も見えなかった。見えないだけではない。声が出なかった。動くこともできない。足も……手も……指一本動かない。どうして? どうしてさっきから、お母さんの声がこんなに遠くで聞こえるのだろう。お母さんはわたしを見て言ってるはずなのに。あたし、目も耳も口も、体全体も、どうかしちゃったのかな……?
「うん、大丈夫。階段でちょっと滑っちゃった」
遠くで、〈わたし〉が返事をした。
え……?
「でも心配してくれてありがとう。やっぱりお母さんは優しいね」
やはりわたしの声だ。でもわたしは話してなんかいない!
「何、この子……。やっぱり変なとこでも打って、おかしくなったんじゃないの?」
お母さんは少し困った様子で、でも普通に会話している。お母さん、やめて。違うよ。その子はわたしじゃない。わたしはここにいるよ!
でも、ここって……どこ?
トントントン……と誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。廊下を歩き、ドアを開ける音。パチンと明かりをつける、聞き慣れた音。
真っ暗な世界に、細く明るい縦線が生まれた。
やっと分かった。わたしがいるのは……わたしがいるのは……
キイッと音をたて扉が開き、光が広がる。
目の前に、〈わたし〉が立っていた。
満足そうな笑みを浮かべて、わたしを覗き込む。そしてにっこり笑った。
「大丈夫。わたしはいい子だから、絶対捨てたりしないよ。ずっとクローゼットの中に置いてあげる。ずっと一緒だからね。クーちゃん」
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