第28話 真夜中の遊園地
夢の中で目覚めると、私はそこにいたのだった。
ビルの谷間にある、少しレトロな感じの小さな遊園地。
こんな遊園地、あったっけ……
夢の中だから、私は呑気にそんな疑問を持つ。夢の中なのだから、何がどこにあっても不思議じゃないのに。
目の前には黒い鉄製のアーチ。
アーチの上には遊園地の名前らしい文字が書いてあるけれど、私にはどうしてもその文字が読めない。さらに上を見上げると、星も月もない漆黒の夜空が見えた。その闇から遠くまばゆい光を放つ高層ビル群が、まるで蜃気楼のようにこの小さな遊園地をじっと見下ろしている。
「ようこそ、真夜中の遊園地へ」
その声に私は視線を元の遊園地に戻した。
いつの間にかアーチの前には、黒いビロードのスーツを着た小柄な少年が立っていた。わたしは中二としては平均的な身長だと思うが、少年はもっとずっと低い。小学校三年生くらい?
「ここは招待状を持つ方しか入れない、特別な遊園地。どうぞ特別な一夜を、存分にお楽しみくださいませ」
そう言うと、その少年は青みがかった緑の髪を揺らし、わたしに向かって深々と頭を下げた。目を伏せると長い睫毛が際立つ、美しい少年だ。
気がつくとわたし自身も深紅のふんわりとしたひざ丈のドレスを着て立っていた。
さすが、夢。
「あの……でもあたし、招待状なんて持ってないけど」
わたしが言うと、少年が不思議そうに首を傾げる。
「でも……お客様はすでにお持ちではありませんか」
「え?」
少年はわたしのドレスに手を伸ばし、いつの間にか肩についていた黒い羽根をつまんだ。少年が羽根にふっと息を吹きかける。羽根はふわりと浮き上がり、アーチの内側にある木製扉の格子をくぐり抜けた。
音もなく扉が開く。
「うわあ……」
アーチを抜けると、夢のような景色が一気に目の前に広がった。
白い尖塔のある城。小人の家のようなカプセルが回る七色の観覧車。くるくる回るピンクのティーカップ。風船売りのピエロ。ピエロの持つ風船が一つ、紐が切れて夜空に舞い上がる。その夜空を、機関車型のジェットコースターが煙を吐きながら轟音を響かせ駆け抜けた。園内にはアコーディオンの軽快な曲が流れ、わけもなくわくわくしてくる。
確かにここは、わたしの大好きな遊園地だ。
人はそれほど多くなかった。大人も子供もいるが、乗り物の席はたくさん空いていて、どれも並ばずに乗れそうだ。
「どれに乗ってもいいの?」
思わず駆け出したくなるのをこらえて、わたしは少年に尋ねた。
少年は微笑み、頷いた。
「もちろんでございます。でも……そうですね。私どもの遊園地で一番自慢の乗り物は、メリーゴーランドでございます。それはぜひ一度試していただきたく存じます」
メリーゴーランド……
わたしはもう一度園内に視線をめぐらした。
あった。それは様々な乗り物の一番奥の森に、光り輝いて見えた。二階建ての豪華なメリーゴーランドだ。金色の馬車の座席やポールのついた白馬に、次々と客が乗り込んでいく。
わたしはその金色の光に導かれるように、メリーゴーランドの方に歩き出した。
「……で、胡桃はそのメリーゴーランドには乗ったの?」
奈緒はソフトクリームにトッピングしたキャラメルソースをなめながら、わたしに聞いた。
わたしはティーラテを飲みながら、首を横に振る。
「ううん。だってもともとメリーゴーランド、あんまり好きじゃないんだもん。確かに見た目は本当に、夢のようにきれいだったけど」
奈緒の隣に座る冬海が、メロンクリームソーダを飲みながら吹き出した。
「夢で夢のようにって、夢なんだから当たり前じゃん」
「もーやだ、冬海。こっちにも掛かってきたよ」
吹き出したメロンソーダがかかった冬海の制服を指さしながら、奈緒は呆れた声で言う。
「うわ、ヤバい。ちょっと拭いてくる」
冬海はポーチを片手に、近くのトイレに走って行った。
平日のショッピングモールは、曇りのせいもあって、思ったより空いていた。いるのは子連れの主婦や高齢者、それにテストの最終日が終わって早めに下校できた、わたしたちのような子供ばかりだ。
「ね……大丈夫?」
トイレに向かった冬海を見送っていた奈緒が、急にわたしに顔を寄せて小声で言った。
「何が?」
わたしが聞き返すと、奈緒は大げさにため息をついた。
「冬海だよ。樋口君のことで何か嫌がらせされたりしてない?」
わたしはなぜそんな話になるのか、まだ分からなかった。
「別に……どうして?」
樋口君というのは、1か月ほど前わたしたちの二年2組に転校してきた、樋口譲のことだ。明るくて気さくな感じで、最初は男子に人気があったのだが、そのうち冬海も、樋口君いいよね、と言うようになった。
確かにそれは私も、何度も聞いていた。ただ当の樋口譲は席が近くて、彼の好きなアニメキャラのキーホルダーを使っていたわたしによく話しかけてくるようになった。たぶん今クラスで一番樋口譲と仲がいい女子は、わたしだ。
でもただの仲のいい友達だ。別に告白したわけでも、されたわけでもない。
「気をつけた方がいいよ。胡桃は人がいいから」
奈緒はまたため息をついて言った。
「胡桃は一年の時、冬海とは別クラスだったから知らないだろうけど、あたしは一緒だったから知ってるの。あんなに明るい感じにしてるけどさ、冬海と同じクラスの別の女の子が同じ男の子に告白した時、その子が別の女の子の方を選んだの。そうしたら女の子が体育で着ようとした体操服の中に、いつの間にかカッターの替え刃が何枚も入っていたとか」
「え……」
犯人は見つからなかった、と奈緒は言ったが、確かにその状況では、冬海が一番犯人の可能性が高いに違いない。
「それに……あたし冬海と小学校も同じだったんだけどさ……」
奈緒は口ごもりながらも言った。
「六年の時に、別の女の子と劇の主役を争って、クラスの投票で、やはり冬海が負けたことがあったの。翌日その子が学校に登校したらさ。上靴の両方にドロドロの土が入っていて履けなくなってたことも。その後冬海は担任の先生から職員室に呼ばれてたよ」
……うそ。
ちょうどそこに冬海が戻ってきたので、奈緒は話をやめ椅子に座り直した。
「でも胡桃が遊園地好きなのは知ってたけど、夢にまで出てくるなんて、ホント大好きなんだね」
さっきまでの会話を何も知らない冬海は、椅子に座りながらニコニコ笑って言う。こんな無邪気な笑みを浮かべる冬海が、裏でそんな人だなんて信じられない。せっかく二年になってすぐ二人も仲良しができて、喜んでいたのに。
でも、人は見かけによらないって言うから……
「そうだよ、胡桃。そのイケメンの案内人クンがそんなにメリーゴーランド勧めるなら、次は一度乗ってあげたらいいのに」
奈緒がうまく話を合わせる。わたしも急いで笑顔を作った。
「う……うん。でも次はないと思うよ。あたし、同じ夢二度見たことないもん」
ウソ……
漆黒の夜空の下に立ち、わたしは驚いていた。
夢の中でまたあの高層ビルの谷間に立っていたのだ。
目の前には黒い鉄製のアーチ。掲げられた名前はあい変わらず読めない。門の前にはやはり小柄な美しい少年。
不思議だった。これまで、面白い夢だったから続きを見たいと願っても、本当に続きが見られたことは一度もなかったのに。
わたしはドレスの肩を見た。やはり黒い羽根。ふと思う。これが招待状なら、招待状をくれたのは……誰?
しかし少年が微笑みながら手を差し出したので、わたしは考える間もなく、急いでその羽根をつまんで渡した。
「またお会いできてうれしいです。今夜も一晩、この夢の遊園地をお楽しみください」
言われるまでもなく、少年が黒い羽根を吹き、遊園地の門が開くのと同時に、わたしは中に走り込んだ。
わたしが一番気に入ったのは、機関車型のジェットコースターだった。漆黒の空には星も月もなかったが、ジェットコースターは煙を吐きながら、まばゆい高層ビルの摩天楼を走り抜けた。城の中の探検も面白かった。城の一階と尖塔の間を高速で上下するゴンドラがあちこちにあり、わたしはぐんぐん小さくなる一階の美しいタイルのフロアや、尖塔の一番上から見える遊園地のキラキラした眺めを楽しんだ。
甘いドーナツや七色のポップコーンも食べ放題だった。ティーカップの目の回るような回転も気持ちよかった。
ただ、わたしは今回もメリーゴーランドには乗らなかった。
「メリーゴーランドはお気に召しませんか?」
ポップコーンを頬張る私を眺めながら、少年は少し残念そうに言った。この遊園地の唯一ほかと全く違うところは、遊んでいる一人ひとりに付き添う、少年のような案内人がいるところだった。案内人は少年のこともあれば少女のこともあったが、どの客にも必ずいて、常に連れ添っていた。
その案内人たちは必ずこう言っていた。
―メリーゴーランドはいかがですか?
それを何度も他の客とすれ違う時に聞いて、少し嫌になってしまったというのもある。わたしはもっとスリル満点のアトラクションが好きだった。んびり上下して回るだけのメリーゴーランドを、あんなに勧めるなんて。
「うん、そのうち……」
わたしが曖昧に答えると、少年はクスッと笑った。
「いいんですよ。お客様の好きなようにお楽しみ下されば。ただ」
少年は漆黒の夜空を仰いだ。
「この遊園地はいつまでもあるわけではありません。次の満月が昇る時、この遊園地は必ず壊れて消えてしまうんです」
「え、どうして?」
わたしは驚いて尋ねたが、少年は小さく笑っただけだった。
「ですから壊れてしまう前にぜひ一度、メリーゴーランドをお試し下さい」
そう少年は言ったが、わたしは次も、その次も、夢の中の遊園地で気の進まないメリーゴーランドを試すことはなかった。
ある日の朝、登校の準備をしていると、つけっぱなしの家のテレビから天気情報が聞こえてきた。
〈今夜は晴れなので、満月がよく見えるでしょう。今月の満月は、アメリカではフラワームーンと呼ばれ……〉
「え、まだあの夢見てるの?」
その日給食を食べ終わった後、満月なのでそろそろあの夢の遊園地は壊れるらしいという話をすると、さすがに驚いた様子で冬海が言った。
「うん。もう……4回くらいかな」
「それはいくら何でも、ちょっと変じゃない? なんか怖い。遊園地が壊れるなんて、何かの予知夢とか、虫の知らせとか」
「あたしは別に変な夢とは思わないけど」
奈緒が反論する。
「それより、その案内人クンがそんなにメリーゴーランドを勧めてくるのに、絶対乗らない胡桃の方に引くかな。一度くらい乗って、案内人クンの顔を立ててあげたらいいのに。胡桃ってもしかして結構イジワル?」
「そ、そんなつもりはないけど……」
しかし意地悪ではないという自信もなかった。心の中では、そんなに言うなら一度くらい彼のために乗ってあげようかな、という気持ちもあったのだ。しかし乗ろうとすると、何かが足を止めた。何かは分からないが……
「何なに? どこの遊園地の話?」
いきなり後ろから樋口譲が身を乗り出して聞いてきた。もともと大きな目なのだが、それをさらに丸くして興味津々の表情なのが……面白い。わたしがつい笑うと、それまで怖いと顔をしかめていた冬海も笑い出す。
「ダメダメ、これは女子トークだから、男子には教えないよ」
「えー、なんで。俺も遊園地好きなのに」
譲は一応文句を言ったが、すぐにわたしの方に向き直った。
「次の五時間目の英語、俺当てられそうなんだけど予習した? 単語だけでも見せてほしいんだけど」
あ……。わたしは予習していなかった。前の英語の時間に当てられたので、当分大丈夫だろうと、今回は予習していなかったのだ。
「単語だけでいいなら、あたしの見せてあげるよ」
そう言い出したのは冬海だった。
「あたしも席順で当たりそうだったから、今日はやって来たんだ」
そう言いながら立ち上がって、教科書を譲に差し出す。
「わ、日本語訳も、練習問題までやってある。助かるー」
心底ありがたそうに譲が声を上げたので、周りの男子も集まってきて俺にも見せろと言い出し、大騒ぎになった。
「ちょっとー、今回だけだからねー。次からはちゃんと自分でやってよねー」
人だかりに向かって冬海は口をとがらせ、文句を言っている。わたしはさらにその後ろから、樋口譲の笑顔と冬海の横顔を、ただ眺めていた。
「ほら……」
隣にいた奈緒が、溜め息をついて言った。
「胡桃がちゃんと彼氏宣言しとかないから。樋口君、冬海に取られちゃうよ。でも樋口君も樋口君だよね。自分の役に立つ人なら、誰でもいいんだ」
そんなことではない、と思うけど……
まだ口を尖らせたまま席に座り直した冬海は、しかしすぐに真顔になり、わたしの方に向き直った。
「あのさ……胡桃。その遊園地の夢の話だけど、やっぱり変だよ。もう遊園地には入らない方がいい気がする」
冬海はわたしの顔をじっと見ている。でも、わたしは何と答えてよいのか分からなかった。上辺だけでも「そうだよね」と言うべきだが、心の中では、別に冬海には関係ないでしょ、と言いたくてたまらない。
「大げさだよ。たかが夢でしょ」
わたしの代わりに奈緒が、溜め息をついて答えた。
その日の午後は、授業も何も頭に入らなかった。
確かに樋口譲はただの友達だ。たまたま席が近くて、彼の好きなアニメキャラのグッズをわたしが使っていたから、話しやすかっただけ。だから樋口譲が誰と話そうと、誰に教科書を借りようと自由だ。わたしもただの友達なのだから、それを気にする必要もない。
なのに……なぜこんな悲しい、嫌な気持ちになってしまうのだろう。
学校から帰ろうと廊下を歩いていた時、窓から見渡せる校庭の隅で、楽しそうに笑っている樋口譲と冬海を見てしまった。
何を話しているのか、嫌になるほど気になる。どうしてこんなことになってしまったんだろう。あんなに楽しかったのに。わたしが英語の予習をしなかったから? 奈緒の言うように、彼氏宣言しておかなかったから? もともと冬海がいいねって言ってたのに、わたしの方が譲と親しくなったから……?
最初にイジワルしたのは……わたし?
遊園地は、静まり返っていた。
あの賑やかな遊園地らしい音楽も、ジェットコースターが走り抜ける音も、客たちの歓声も、聞こえない。
全て止まっていた。ジェットコースターのレールが千切れて、垂れ下がっていた。ティーカップもひび割れ、城の尖塔は崩れて形が変わっている。なにより妙に夜空が明るかった。夜空にまばゆく瞬く高層ビルの摩天楼さえ色あせるほどの明るい白光が、ビルの陰から差し始めている。
満月の光だ。
本当に、崩壊するんだ……
傾いた黒いアーチの前には、いつもの少年が立っていた。しかしいつもほどには美しく感じない。ビロードのスーツには灰色の汚れが目立ち、長い睫毛もよじれて、疲れた感じだ。
「ようこそ……おいで下さいました。最後の夜に再びお会いできてうれしいです」
「でも、もう何も遊べないのね」
わたしは動きを止めてしまった遊園地を眺め、少年の姿を少し気の毒に思いながら言った。
「いいえ。まだ間に合いますよ」
少年は無理に浮かべたような笑みとともに言った。手を伸ばしてわたしの肩口にある黒い羽根をつまみ、傾いた黒いアーチに吹きかける。半分しか開かない扉をこじ開け、少年は指さした。
「ほら、まだ動いているじゃありませんか」
息が詰まるのを感じた。もはや廃墟としか見えない遊園地の一番奥で、たった一つだけ、まだ夢のようにキラキラ光り輝いているメリーゴーランド。むしろ金と宝飾の輝きで、最初に見た時よりも、もっと豪華になっているように見える。
「さあ、急ぎましょう。満月が顔を出す前に乗らないと。遊園地の全てが崩壊してしまう前に!」
少年はわたしの手を引いて走り始めた。
皆メリーゴーランドに向かって走っていた。もう乗れるものはメリーゴーランドしかない上に、そのメリーゴーランドさえ、満月が顔を出せば崩壊してしまうというのだから、急ぐのは当然だ。
それでも、わたしはやはり気が進まなかった。でも少年がここまでわたしを乗せたいと言うのだから、奈緒の言うように一度くらいはやはり乗ってあげるべきだという気もした。
たぶんわたしは……自分がイジワルじゃない、という証が欲しかったのだと思う。
メリーゴーランドは、もう大勢の客であふれていた。
「ああ、ここにまだ席が空いてますよ。良かった!」
少年はおとぎ話に出てくる馬車のようなシートを指さす。わたしは仕方なくメリーゴーランドの台に登り、そのピンクのシートに座ったが、柔らかなソファのように見えたそのシートは思いのほか固く、何かの骨のようにゴツゴツした感触だった。
嫌だ。やはりこんなもの乗りたくない。
「ねえ、あたしやっぱり……」
そう言いながらシートから腰を浮かしたときだ。
「え……」
馬車の向かいのシートに私は信じられないものを見た。
いるはずのない人間。いや、これは夢なのだから誰がいても不思議はないのかもしれないが……
「奈緒……」
向かいのシートに腰掛けた奈緒は、無表情に前を見ている。
「どうして……」
スマホが鳴り始めた。わたしのスマホだ。スマホはドレスの脇ポケットの中で鳴っている。冬美からだ。なぜ?
これは……本当に夢?
「は、はい……」
〈あ、胡桃。まだ寝てなかったんだね。良かった!〉
冬海の声は悲鳴のように聞こえた。
〈胡桃、やっぱりあの遊園地には行っちゃダメだよ。特にメリーゴーランドは絶対ダメ。あたし胡桃の言ってた夢のことが夜になっても頭から離れなくて、調べてみたの。胡桃の行ってる遊園地は、ただの夢の中の遊園地じゃないよ。誰かが誰かを呪うと、その呪われた人が夢の中で遊園地に招待されるの。そして呪われた人が次の満月の夜までに、うっかりメリーゴーランドに乗ると、二人とも遊園地から永遠に出られなくなってしまう、呪いの遊園地なんだよ!〉
何、それ……
信じられるわけない。
「ウソ。そんなのおかしいよ。遊園地から永遠にでられないなら、誰も呪いのことも遊園地のことも、誰かに伝えるなんてできるはずないもん」
〈でもこの夢を見たと言っていた人の多くが、その後行方不明になっているんだよ。その人の身近な人と一緒にね。それに、まれに呪いを途中で中止する人もいて、そういう人から伝わってくるそうだよ。でも中止なんて滅多になくて……〉
それでもウソだと思った。
わたしはそんな、人に呪われるほどのことはしていない。もしどうしても一人上げるとするなら、それは冬海自身ではないか。
でも、目の前には……確かに別の身近な人が座っている。
これが本当に呪いだとしたら、本当にわたしをこの遊園地に招待したのは……
まばゆい白光が、世界を照らし始めた。
皆あまりの眩しさに顔を覆った。メリーゴーランドの輝きも摩天楼の眩さもかなわない、凄まじい閃光。
満月だ。恐怖を覚えるほどほど巨大な満月が夜空の半分を覆い、目も眩むような光が、あらゆるものの真の姿を容赦なく映し出す。
遊園地は、ゴミ捨て場だった。
あちこちから異臭が漂いだす。汚泥に沈みそうな廃材の山と割れた食器、汚れた衣服、首が折れ目玉の抜けた人形、その周りを巨大なドブネズミがジェットコースターのように走り回っている。
「ぎゃああーっ!」
近くに座っていた誰かが絶叫して席を立った。彼女が座っていたのはポールのついた馬ではなく、人間の干からびた骨が幾つも重なってできた、骨のポールと骨の馬だった。
わたしが座った場所も同じだった。ソファと思ったのはゴツゴツと肋骨の浮き出た人骨の上に被せられた汚れたピンクの布だった。慌てて立ち上がった。これは夢の豪華なメリーゴーランドではない。人間の骨で出来た骨のメリーゴーランドだ。
これだ、と思った。好みではないという以外に、メリーゴーランドに乗ってもいいけど、なんとなく乗りたくなかった理由。
メリーゴーランドから降りる客を見たことが、一度もないのだ。
メリーゴーランドが回っている間、回る円形の台の周囲は白い靄がかかったようになって、中の様子は全く見えなかった。ただキラキラと煌めく光の流れとともに、軽やかな音楽が大音響であたりに響き渡るだけで……
奈緒は立たなかった。骨の上に載せられたカビだらけのパンの上に座り、無表情に前を見たままだった。
メリーゴーランドに乗った大勢の客の半分ほどは泣き叫び、悲鳴を上げ、逃げようとしている。残りの半分は奈緒のように座ったままだった。どちらにしても、誰も逃げられなかった。メリーゴーランドの外側はいつの間にか柵のようなもので覆われ、出られなくなってしまっている。
柵の向こうには見覚えのある黒いスーツを着たドブネズミが立ち、じっとこちらを眺めていた。ドブネズミの目が細くなり、口の両端が笑うように吊り上がる。その後ろに黒いアーチのようなタイヤが転がった。そこにも月の白光が射し込む。何かがタイヤに書いてあった。ずっと読めなかった、あの文字。
『愚者の遊園地』
〈だからとにかくその遊園地に入っちゃダメ。メリーゴーランドに乗ってはダメ!〉
スマホでは、まだ冬海が必死な声でしゃべり続けていた。
〈ねえ、聞いて。信じてよ、胡桃。その滅多にいない助かった人の手記が幾つか、チェーンメールみたいな感じで広がっているの。あたしもそれを読んだだけなら信じないけど、でも胡桃の夢の話は似過ぎていて〉
「ねえ……今日の放課後……冬海は校庭で樋口君と何話してたの?」
わたしは自分でも思ってもいなかったことを、口にしていた。
「はあ?」
冬海の声はもう泣きそうになっている。
〈何言ってるの。何って……教科書のお礼を言われたよ。それから今度一緒に遊園地に行こうって。俺も友達誘うから、胡桃や奈緒も一緒にって。胡桃はこういうの喜ぶかなって聞くから、そりゃ絶対喜ぶよって言っておいたよ。樋口君ってやっぱりいいヤツだよね。そんなことより胡桃……〉
わたしは体中の力が抜けて、スマホを持った手を下におろした。違う。冬海はいい子だ。すごくいい子。最初から分っていたはずなのに、私は奈緒の言うことをそのまま信じて……
虚しさでしばらくは声も出なかった。
「どうして……?」
それでもわたしはなんとか息を吸い込んで、尋ねた。
「どうしてこんなこと……」
「だって胡桃は、ずるいんだもの」
奈緒は、やはり無表情に前を見ながら答えた。
「ずるい?」
「だってそうでしょ。覚えてないの? 二年の始め。席が隣になって初めて話した時。胡桃が一年で仲良しだった子が転校しちゃってさみしいって言うから、じゃああたしと友達になろうよって言ったら、すごく喜んでた」
それは、もちろん覚えていた。それ以来奈緒とはずっと友達だ。ずるいと言われるようなことは一度もしていない……はずだ。
奈緒はふふっと笑った。
「それなのに胡桃は、翌日には席の近かった冬海とも仲良くなって、樋口君が転校して来たら、樋口君とも仲良くなって……。あたしがいるのに……失礼だよね」
「失礼……?」
わたしは耳を疑った。誰かと仲良くなったら、もう他の人とは親しくしてはいけないの?
たぶん、そうなのだ。少なくとも奈緒にとっては。
奈緒はきっと、自分一人が注目されないと許せない。わたしは愚かにも気づかなかった。あれは冬海ではなく、奈緒だ。男の子に告白して振られた時、カッターの替え刃を入れたのも、劇の主役に選ばれなかった時、泥水を上靴に入れたのも。
「でも、それはたぶん胡桃のせいじゃないと思うの」
奈緒はようやく私の方に顔を向けた。不思議なくらい幸せそうに微笑んでいた。
「だって教室にはたくさん人がいるから、目移りして、本当に大事な人が誰だったのか分らなくなることもあるよね。ほら、遊園地でどれに乗ろうか迷ってしまうのと同じ。やっと胡桃がメリーゴーランドに乗ってくれて良かった。この呪いを見つけて、こんな素敵な場所に二人で来ることができて、本当に良かった。もう大丈夫だよ、胡桃。もうよそ見しなくていいの。ここにはもう、あたししかいないんだから」
メリーゴーランドが、ごとり、ごとりと回り始めた。もう壊れかけている。激しく揺らぐ。天井から骨のシャンデリアが落ちてきて、逃げ遅れた人が下敷きになった。血が飛び散り、大勢が悲鳴を上げる。
奈緒は微笑み続けていた。
「心配しないで。あたしが胡桃を守ってあげる。メリーゴーランドと一緒に潰されて、ドブネズミのエサにならなくてなくて済む方法がちゃんとあるの。それは遊園地の案内人になって働くこと。つまり自分もドブネズミになることだけど、遊園地がある間は美少女になって、きれいなドレスも着られるよ。何人も騙してメリーゴーランドに導けば、元の世界にも戻れるらしい。でも胡桃はお人よしだから無理だよね。いいんだ、戻れなくても。あたしはこの遊園地で、ずっと胡桃と一緒にいたいから。胡桃の大好きな遊園地だよ。嬉しい? 嬉しいよね!」
奈緒が笑顔で立ち上がり、ガタガタ揺れる中でゆっくりとわたしの方に近づいてきた。周囲ではすべてが崩壊に向かっていた。骨の馬が上下する骨のポールが折れ、骨の天井が崩れ落ち、その度に悲鳴が上がり、誰かが犠牲になった。
もっと危険なのは、あの巨大な満月の光だった。光が人に直接当たると、その人は空気が抜けた風船のように、一瞬でしぼんで塵になって消えてしまったのだ。呪われ、閉じ込められた人々は皆絶叫し、泣きながら逃げる場所を探していた。ここから出せと叫びながら柵の外側に手を伸ばす人もいた。伸ばした手をドブネズミが触ると、その人は見る間に体中灰色の毛に包まれ、ネズミの体型に縮み、ドブネズミになって柵をすり抜けた。
「さあ胡桃、急ごう。あたしたちもメリーゴーランドの下敷きになって肉をネズミに喰われる前に、ネズミになって外に出るの。楽しい遊園地は満月が沈めば、またすぐ復活するよ!」
奈緒がわたしの手をつかもうとする。わたしは身を引いて逃げた。イヤだ。ネズミになんてなりたくなかった。奈緒の思い通りになるのも絶対イヤだった。
わたしが望みをつないだのは、満月の光だった。奈緒が呪いを中止しなくても、あの光に照らされてこの悪夢の世界から消えたら、もしかしたら元の現実世界に戻れるかもしれない。夢から覚めることと夢から消えることは同じはずだ。もし戻れなくても、このままよりはずっとまし!
骨でできた天井が落ち、月光が直接降り注ぐ場所へ向かって私は走った。奈緒の絶叫が追ってくる。
「ダメ、胡桃、絶対ダメ! そんなの許さないからね、許さないよ、胡桃!」
光が全身を貫いた。
「こんなによく晴れてよかったね、胡桃」
風船が上っていく空を眺めながら冬海が言った。わたしもベンチに座って、うん、と答えた。
今日も遊園地はたくさんのお客さんで一杯だ。ジェットコースターが近くを走り抜ける度、歓声と悲鳴が上から降ってくる。その声を聴くだけでワクワクする。
「あ、樋口君たち戻ってきた」
冬海の指さす方を見ると、五人分のソフトクリームを危なっかしく持った男子三人が戻ってくるところだった。
男子三人に、女子二人。
普通に考えれば、女子が一人足りない。
あれ? もう一人女子が来る予定じゃなかったかな。
わたしは一瞬そんな気がしたが、誰も思い浮かぶ顔はなかった。そういえば、冬海は変なことを言っていた。
もう遊園地の夢は見ないの?
そんな夢を見た覚えはなかった。全然、と答えると、冬海はほっとした様子だったけど。
あれは……何だったんだろう。
「お待たせしましたー」
樋口譲が満面の笑みで言いながら、わたしと冬海にソフトクリームを渡してくれる。
「じゃあ、これ食べ終わったらまず何に乗る?」
冬海が溶けかかったところをペロンとなめて言う。
「ジェットコースター」
わたしはすかさず答えた。
「じゃあ食べながら、そっちに移動しようか」
樋口譲が言い、五人で歩き始めた。
楽しい。一年の時仲の良かった友達が転校してしまった後はどうしようと思っていたが、こんなに楽しい仲間ができて、本当に良かった。
ぽかぽかと天気も良くて、最高だ。
「あれ?」
振り返った樋口譲が、わたしの肩口を見て首を傾げた。
「胡桃、肩に何かついてるよ。黒い……カラスの羽根かな」
譲が手を伸ばし、その羽根を取ってくれる。
艶々とした黒い羽根。どこかで、見たような……
しかしそれを思い出す前に、羽根は風に吹かれて舞い上がり、人混みの奥へと消えていった。
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