第21話 案山子女 その2①
河原にあるキャンプ場から、かなり離れてしまったのは分かっていた。
「ダメだ。川の音が全然聞こえない」
ヒロトが大きな溜め息とともに言う。
「もう疲れた。ねえ、お兄ちゃん、早く帰りたいよ」
ヒロトの妹のミクが松の枯葉が溜まった斜面にしゃがみ込み、泣きそうな声で訴える。
帰りたいのは私もヒロトも同じだった。
しかし方向が分からないのだ。
どれほど見回しても周囲は延々と松が群生する切り立った山で、木々の間に見え隠れする青空さえ、空なのか、海なのか、一瞬不思議に思うほど位置感覚がおかしくなっていた。とにかく上を目指せば、見晴らしがよくなってキャンプ地の位置も分かると思ったのだが、その途中に幾つも下りの斜面があり、今となっては自分たちがいるのが、キャンプ場より上なのか、下なのかさえ分からない。
「アサミ、スマホ持ってきた?」
ヒロトがダメもと、という顔で聞いてくる。
持っているはずがなかった。キャンプに参加する時に、日常とは違った生活を味わってほしいと、子供のスマホは夏休みキャンプを企画した子供会が預かったので、持っているのは保護者の大人だけだ。
「だよな……」
首を横に振る私を見ながら、ヒロトが肩を落とす。
―この山の上の方では、以前古墳が見つかってね。
そんな地元の人の話を聞き、川遊びにも退屈してきた午後になって、古墳を見に行こうとヒロトが言い出したのだ。子供を見ているはずの主婦数人は世間話に夢中で、全くこちらを見ていない。地元の人が指さした山頂は片道三十分もかからないように見え、古墳を見てすぐ帰ってきたら、もし気づかれてもそれほど怒られない気がした。
それに、確かに私も退屈していた。
だからお決まりのように、歩き始めたヒロトの後を追う妹のミクの姿を見て、ミク一人に後を追わせるのは可哀そうだなと思い、なんとなく続いて歩き始めた。ヒロトも私も小六だが、ミクはまだ小二だ。ヒロトは強引なところがあるから、ミクが疲れてもう帰りたいと言っても、許さないかもしれない。その時は私がミクと一緒に引き返せばいいと思った。家が近所でミクとは仲がいいから、楽しい下山になるだろう。それ以上に山に一人残されることになって慌てるヒロトの顔を思い浮かべると、ちょっとワクワクした。
今さらながら、そんな理由で一緒に来たことを、私は後悔した。それほど古墳に興味はなかったのに。すぐ登れると思った頂上に着くまでには三十分以上かかり、しかも古墳はなく、しかしその先に、またすぐ登れそうな次の頂が見えた。
ヒロトはむきになって絶対あそこだと言い張り、予想以上の強引さでどんどん先に進んだ。しかしその手前の谷に下りると、頂は見えなくなってしまった。闇雲に登ってみたものの、いつの間にか方向も、次の頂がどこだったかも分からなくなり、ずっと聞こえていたはずの川音も途切れていたのだ。
気がつけば私たちは、スマホどころか水も食べものも持たないまま、山の中で迷子になっていた。
川辺は涼しかったが、山の斜面は直射日光が当たって焼けるほど暑い。なんとか木陰を見つけて一息ついたが、徐々に高度を下げていく午後の日差しの中で、これからどうしたらいいのか、私も、そして間違いなくヒロトも、途方に暮れていた。
「あっ!」
ずっとしゃがみ込んでいたミクが、いきなり声を上げた。私もヒロトも顔を向けたが、ミクは目を見開いたまま次を言わない。
「どうしたの、ミクちゃん」
キャンプ地に戻れる方法をミクが思いつくとは思わなかったが、一応私は聞いてみた。
「……人がいる」
「えっ!」
今度こそ、私もヒロトもあわててミクの横にしゃがみ込んだ。
「ど、どこ……!」
なんとか身を低くして、ミクの目線の高さでミクの見ている方向を見る。
目を凝らすと木々の間に、確かに何か田畑のように仕切りのある土地が見えてきた。
山あいの小さな村、という感じだ。狭い田畑が細々と連なり、そして田畑の中にもあぜ道にも、複数の人の姿が確かに見える。
「は、は、早く行ってみようよ。頼んだらきっと電話くらい貸してくれるよね。あたし、お母さんのスマホの番号覚えてるから」
私が急かすと、ヒロトも立ち上がった。
「だよな。行ってみよう」
「ミクちゃん。もう少しだから頑張って」
ミクも急いで立ち上がる。
「あの村の人たち、冷たい麦茶くれるかな」
ミクの呟きを聞いた途端、私もひどく喉が渇いていることに気づいた。
「くれるかもね。だから頑張ろう」
その田畑のある場所に着く頃には、もう日は傾いて、空は薄いオレンジ色に染まっていた。村は比較的近くに見えたが、やはり山の木々をかき分けながら進むと、時間がかかってしまったのだ。しかし村の人たちはまだ田畑で作業したり、道端のベンチに座ったりしていて、たくさんいたのでほっとした。
「すみませーん!」
疲れてガクガクする足でなんとか歩きながら、一番近い十メートルほど先の木製のベンチに腰掛けている二人に向かって声を掛けた。
「あのー、私たち山で道に迷ってここに出たんですけど、電話を貸してもらえないでしょうか。家族が探していると思うので……ヒッ」
悲鳴を上げそうになった。
近づいて顔を覗き込んだその二人は、藁で出来た人形だったのだ。等身大の人形。
思わず後ずさりしようとして、地面に尻もちをついてしまう。
「どうしたんだよ、アサミ。うわっ!」
後ろから走ってきたヒロトが、やはり人形であることに気づいて、顔を引きつらせた。
慌てて周囲を見回した。
田畑の中で何か作業をしている女の人も、草の上に腰を下ろして休憩しているおじいさんも、近くの家の縁側に座ってお茶を飲んでいる女の人たちも、そしてもっと遠くに見える人々も、よく見れば全部藁人形だった。
しかし……
「アサミちゃん……何これ……」
最後に追いついてきたミクも、ようやく立ち上がった私の腰に貼りついて、怯えた声で聞いてくる。
首を傾げるほかなかった。一体なぜこんなにたくさんの藁人形が置いてあるのだろう。藁で作ると言ったら案山子だから、これももしかしたら、人間型の案山子なのかもしれないけれど。
それでも気持ち悪さが拭えなかった。
確かに人間型の案山子がたくさん置いてある村なら、私も以前テレビで見たことがあった。最初はドッキリするだろうが、顔を見ればすぐ作り物と分かる、可愛いぬいぐるみのような顔ばかりの、ほのぼのとした風景だった。
しかし、これは全く違った。
例えて言うなら、藁が筋肉組織のように流れを作って盛り上がり、まるで人体模型のように皮膚のない人体を形作ってしまったような、そんな気持ち悪さだった。
人体模型を思い出してしまったのは、その人型案山子の中で、目や歯、そして爪だけが、まるで本物のように普通の色形で嵌め込まれているせいもある。皆、目を見開いて歯をむき出していた。光沢のあるその目玉は、むしろ向こうから見られているような気さえして、ぞっとした。
一言でいえば、悪趣味だった。一体誰が作ったのだろう。いや、それより……一体この村に、生きている村人はいるのだろうか。
怖くなった。それに、寒い。
日が陰ると、深い山あいには雲が溜まり、冷たい夜風が吹き始めた。
「おいおい……こんな藁人形だらけの不気味な村で、天気も悪くなってきたし、食い物も飲み物もないし、一晩どうやって過ごすんだよ……」
ヒロトが肩を落として泣き言を言う。私に分かるわけがなかった。この案山子たちに助けを求めようと言ったのは確かに私だが、そもそも山に登ろうと誘ったのは、ヒロトだ。
うっ、うっ、とミクが私に抱きついたまま、べそをかき始める。
ゴリンッ
だからその時、遠くから聞こえてきた音に、私もヒロトもミクも飛び上がった。
「えっ!」
ゴリゴリゴリゴリ……
それは田畑の先に見える広い道を、車輪のついた荷台が移動する音だった。もちろん荷台は誰かが押している。押して歩いているのだから人形ではない。間違いなく人間だ!
「す、すみませーん!」
「私たち道に迷って……!」
もう誰でもよかった。私たちは大声で言いながら、その黒い人影の方に疲れも忘れて全力で走った。
その人の名前は深見祥子さんと言った。
今、この村に住んでいる唯一の人だという。三十代くらいで、すらっと背の高い女性だ。左腕の手首から先がなかったが、仕事である古墳の調査中に腕を挟み、切断するほかなかったそうだ。今も巻かれた白い包帯が痛々しい。
「でも今も懲りずに大学で古墳の研究をしているのよ。そう、ここの古墳。かなり山の上の方にあるし、子供が遊びで登れる高さじゃないわ。私も毎回大学からこちらに来て山に登るのが大変なので、空き家になっていた家を借りて、そこで暮らしながら論文をまとめているのよ」
いかにも古い農家な感じの家に着くと、祥子さんは座敷に上がって明かりをパチンとつけ、土間にいる私たちにも上がるよう手招きした。
明るい。普通の電気の照明にほっとしていると、すぐに祥子さんは奥の台所にある冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、器用に片手で三人分コップに注いでくれた。
「う、うまい。生き返る……」
一気飲みしたヒロトが大真面目に言う。祥子さんは面白そうにクスクス笑った。
「でも良かったわ、ちょうど出会えて。今夜は風が強いし、少し冷えそうだもの」
八畳ほどの座敷のとなりにある台所の奥には勝手口があり、確かに風で戸がカタカタ鳴っている。
「あの……それで、親が心配していると思うので、電話を借りたいんですけど……」
私はこんな優しそうな人に偶然会えたことに感謝しつつも、やはりキャンプ地では大騒ぎになっているに違いないと思うと、そちらが気になってしょうがなかった。
「ああ、それね……」
笑顔だった祥子さんの表情が曇る。
「ここは、電気や水道はまだ使えるんだけど、携帯は圏外で使えないの。車はあるから下の町まで送ってあげたいけど、夜はこのとおり街灯もなくて外は真っ暗になるので、崖もある細い山道は脱輪が怖くて走れないわ。だから明日の朝明るくなってから送ってあげるわね。町まで行ったらキャンプ地はすぐよ」
「そ……そうですか。お願いします……」
明日の朝まで連絡が取れない。そのことに私たちはショックを受けたが、ヒロトと顔を見合わせ、しょうがないと頷きあうしかなかった。夜になると祥子さんはお腹がすいたでしょうと言って、夕食まで作ってご馳走してくれたのだ。ただのインスタント麺だが、ほんの一時間前まで、不気味な案山子を見て絶望していたことを思えば、天国のような状況だった。
案山子……
「ねえ、祥子さん。たった一人でこの村にいて、あの藁人形みたいな案山子、怖くないですか?」
私が尋ねると、祥子さんは鍋の中で麺をほぐしながら苦笑いした。
「確かにねえ。気持ち悪いけど……でも作った人も、寂しかったんじゃないかな。だんだん同じ村の人が出て行ったり、亡くなったり、少なくなって。ずっとこの村でみんなと暮らしたかったのに……そういう思いがあれを作らせたんじゃないかな」
祥子さんは、あ、と呟き私の方に顔を向けた。
「でもあの案山子、触ってないよね。そんなに丈夫な作りじゃないみたいだから、そっとしておいてあげて欲しいんだけど」
あんな気持ち悪いものに触るわけがなかった。私が頷くと、祥子さんはほっとした様子で、また笑った。
「本当は、私も最初は怖かったけどね。でも大好きな古墳の調査のために来ているので、すぐにそんなこと、気にならなくなったの」
祥子さんはよほど古墳が好きらしい。
「古墳って、そんなに面白いですか?」
私が聞くと、祥子さんは満面の笑みで頷いた。
「もちろん。古墳の発掘は、つまりは古代のタイムカプセルを開くようなものなの。大昔の人が何を考えて、どんな文化を持っていたか、実物を見て知ることができるんだもの。その中には、もう今は忘れられて現代人には使えないような高度な技術や知識も、もしかしたらあったかもしれない。本当に興味は尽きないわ」
「……はあ」
そう言われても、私には今一つ理解できなかった。麺を食べながら、隣でヒロトが小声で言う。
「古墳って大昔の王様とかのお墓だろ。人骨だってあるわけじゃん。それを大好きなんて、さすがこんな気味悪い村で一人暮らしできるだけのことはあるよな」
私は肘でヒロトを突いた。
「やめなよ。祥子さんに聞こえたらどうするの。こんなに親切にしてくれているのに」
祥子さんは本当に親切だった。泣きべそをかいていたミクのために、買い置きのアイスクリームまでご馳走してくれた。その後、祥子さんは風呂を焚くから、と言って外に出て行き、ミクはちゃぶ台に頭を載せてうたた寝を始め、テレビもない家の中は、しばらくしんと静かになった。
「うわっ」
ヒロトの変な声で、私は目を開いた。私もいつの間にかうたた寝していたらしい。
「ちょっと、何やってんの?」
ヒロトはいつの間にか、部屋の奥にある襖を開けて隣の小さな部屋に入り込み、そこにある机の上を眺めていた。
「勝手に入っちゃダメじゃん」
「でもさ、これ……」
ヒロトが動かないので、仕方なく私も祥子さんが戻って来ないか気にしつつ、隣の部屋を覗いてみる。
その部屋は、祥子さんが古墳の論文をまとめているという仕事部屋のようだった。机の両側には本棚があって、歴史書や資料らしい書類がぎっしりと詰まっている。
そしてヒロトの見る机の上。
「げっ……」
私も変な声を出してしまった。
小さな卓上ライトに照らされた机の上には、ノートパソコンが埋まるほど大量の写真が積み上げてあり、そのほとんどが、人骨だったのだ。
「うわ……キモチワル」
私は覗き込んでしまった写真から、慌てて顔を離した。
大量の人骨は、おそらく古墳の中にあったもののようだった。洞穴らしい土の上に幾重にも折り重なっている。苦しむように皆、身を縮め、あるいは背を折れるほど反らし、頭蓋骨は全部大口を開けて絶叫していた。確かに異様だ。それにこれは、とても王とか権力者の墓とは思えない。全然豪華ではないし、どう見ても心安らかな様子ではない。
一体誰の……
「アサミ……これちょっと、あの藁人形に似てないか?」
ヒロトが慣れてきたのか写真の一枚一枚を覗き込みながら、とんでもないことを言い出す。
「あの案山子? どこが」
私は写真を見ないようにしながら、聞き返した。ヒロトはさらに写真に顔を近づける。
「だって、この大きく開いた口とか……おそらくここに埋められた当初は、目玉も大きく見開いてたんじゃないかな。それに……どの写真もよく見ると、藁の黒い残骸みたいなものが骨に貼りついていたり、地面にも溜まってるような……」
何それ。どういうこと?
ヒロトの言うことを聞きながら、私はだんだん背筋が冷たくなるのを感じた。
それってつまり、大昔にもあの藁人形の案山子がたくさんあったということ?
あの案山子の中には、まさか本物の人の骨が隠れているということ? じゃあ、あの目玉も爪も歯も、本物っていうの? それならなぜ大昔の案山子になった人々は、まとめて埋葬されたの? 洞穴の中は広そうだけど、あれほど多くの骨があるということは、埋葬された当時は、とんでもなく密な状態だったのでは。
そう、まるで閉じ込められたみたいな……
「なんかメモがある」
ヒロトが写真の間から、何かを紙を引っぱりだす。
「ねえ、もうやめようよ。こんなこと知っても、どうしようもないじゃん」
本当にどうしようもないのかは分からなかったが、怖くてたまらず私はそう言った。でもヒロトは紙を眺めたまま首を傾げていて、私の声など聞こえていない様子だった。
「何だこれ。この……人間の組織のほとんどをイネ科の植物に酷似した植物繊維に変えてしまうウイルス説を証明するには、どうしても生身の人間で試さなければ……って」
パチン。
背後で何かがはじけるような音が聞こえた。焚火の火のついた薪が弾けるような音だ。
私とヒロトは飛び上がり、振り返った。手のない左腕に抱きかかえられたミクが、顔面に火のついた薪を向けられて、震えている。
薪を向けているのは、もちろん祥子さんだった。
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