第20話  案山子女


  




 近所に住むチサから変な電話がかかってきたのは、もう空が赤くなって、日も暮れそうな時刻になってからだった。


 え? チサの担任のアユコ先生?

 どう思うって……優しい先生じゃん。給食で嫌いなもの残しても、無理に食べろなんて言わないしさ。アユコ先生は落とし物係もしてるでしょ。あたし廊下に落ちてたハンカチ届けたことあるけど、にっこり笑って『ありがとう、ハルミさん』て言ってくれたんだよ。あんなの去年の先生だったら、ありえない。面倒くさそうに、俺の仕事増やすな、みたいな顔されるだけ。ま、それはいいけど、とにかくアユコ先生の四年三組に入れた子は、みんな羨ましがられてるんだよ。あたしもチサのこと羨ましいもん。

 え? 

先週夕方に公園で見かけたアユコ先生の顔がおかしかった? ……公園って、あの公園? 確かにあそこは最近遊んでた子が消えたりして、なんか怖いし、お母さんもしばらく近づくなって言ってるけど……アユコ先生、どうしてあの公園にいたんだろう。

……ええっ? アユコ先生の顔が布みたいにザラザラしていて、口の端が耳まで裂けて、それを糸で縫い留めてあった? ……ハハハ、チサ。それはいくら冗談でもアユコ先生が可愛そうだよ。ああ……ごめん。チサは真面目だから、こんなことで冗談言わないよね。知ってるよ。知ってるけど……うーん、とにかく夢でも見たか、何か見間違えたんだと思うよ。ほら、夕暮れ時っていろんなものの色合いが変わって見えたりするから、危ないって言うじゃん?

 あ、それでチサの用事って……


―うん、もう大丈夫。……自分で何とかする。


 チサがそう答えて、電話は切れた。

 その後チサは一人で、夕暮れの学校に向かったそうだ。翌日までに記入して提出しなければならない理科ノートを、学校に忘れたことに気づいて……



 ハアッ、ハアッ、ハアッ

階段を上りながら、耳の中で自分の荒い息の音が響ている。早く学校に着こうと走ってきたせいだ。とにかく急いで階段を上がって教室に行かないと。でも足音は立てちゃダメ。絶対ダメ!

 そう思うと余計に息が苦しくなって、私は仕方なく階段の途中で止まり、肩で息をしながら耳を澄ました。もう誰の姿もないしんとした夕暮れの学校の中で、あの靴音が近づいてこないか確かめる。

 アユコ先生の靴音が。

 スマホで話しているときは、ハルミの言うとおりだと思った。見間違いに決まってる。それにまだ暗いわけでもないのに、学校に忘れ物をしたからって、一緒に取りに行って、などと友達に頼むのは、やはり図々しいと考え直して、やめた。

 それでもやはり、ついて来てもらえばよかったと思った。両親の帰宅は遅いし、一人はなんとなく嫌だからと頼めば、ハルミは溜め息をつきながらも、たぶん付き合ってくれただろう。だって……もしアユコ先生がまだ学校にいたら……

 最悪だった。

 正面玄関横の、まだ開いていた児童用昇降口から校舎に入り、廊下から戸の開いていた職員室を覗くと、アユコ先生が自分の席から立ち上がるのが見えたのだ。他の先生の姿はない。今日の最終戸締りの当番はアユコ先生なのだと初めて気づいた。よりによって、今日!

 コッ……コッ……コッ……

 遠くから先生の靴音が微かに響いて来て息を呑む。

 大丈夫。大丈夫だ。まだ先生は西校舎の施錠を確認しているところ。その後職員室の前を通ってこちらの東校舎に来るまでに、理科ノートを取って校舎を出たら、何とかなる。幸い3組の教室は二階への階段を上ったすぐ先だ。私は再び階段を駆け上がると、戸が開いたままだった教室へ飛び込んだ。

あった!

机の中からノートがはみ出している。急いでそれをつかんだ。

 でも……やはり変だ。確かに理科の実験が終わった後、理科ノートは教科書と一緒にランドセルに戻したのに、どうして……

 しかし考えている時間はなかった。ノートがあったのだから、後はとにかくすぐに学校を出なければならない。

 教室を急いで出ようとして息を呑んだ。

コッ……コッ……コッ……

 すぐ下から階段を上ってくる音がする!

 もう片足を廊下に踏み出していた私は、慌てて引っ込め、教室の引き戸の裏に身を隠した。

コッ……コッ……コッ……コッ……

 音が近づき、上へと遠ざかる。二階から回られたらどうしようと思っていたが、どうやらアユコ先生は、三階の教室から施錠を確認していくつもりのようだ。音が十分遠ざかってから私はそっと廊下に出て、三階への階段を仰ぎ見た。

 アユコ先生の姿は既にない。赤い夕暮れの光に引き伸ばされた先生の影が、階段の壁にゆらりゆらりと映るだけだ。腰まである長い髪の揺れる、長い影。

 何がそんなに怖かったのか、何が今もこんなに怖いのか、分からなかった。ハルミも見間違いだと言っていたのに……

 それでもアユコ先生と鉢合わせたくなかったので、私は音を立てないよう急いで一階に下りて、児童用の昇降口に向かった。

 靴を履き替える。やった! あとはもう外に出るだけだ。閉まっていた全面ガラスの引き戸に手を掛ける。

「あら、チサさん。どうしたの?」

 背後から……優しい声が聞こえた。

 息が止まった気がした。

 恐る恐る振り返ると、アユコ先生が廊下に立って、微笑みながらじっと私を見ていた。廊下の西側から差す赤い夕日に照らされて、アユコ先生の長い影が東に延びている。サラサラの長い髪の影。

どうして? 先生は三階に行ったんじゃなかったの?

「あの……忘れ物をして……」

 私はカラカラに乾いた喉から、なんとか声を押し出した。

「ああ……」

 アユコ先生はわたしが手に持っているノートに目を移してうなずく。

「明日が提出だものね」

 そう。明日提出できなかった人は、放課後残すと言われている。アユコ先生と居残り。それも絶対にイヤだった。

「じゃ、じゃあ私、急いで帰らなければならないので失礼します。さようなら」

 とにかく外に出たかった。アユコ先生の返事も聞かずに、引き戸に手を掛ける。

 ガチッ、ガチッ

 開かない。なんで?

「ああ……ごめんなさい」

 アユコ先生が優しい声で言った。

「もう校内に残っている子供はいないと思ったから、さっき閉めてしまったの。今開けるわね」

 ゆっくりとわたしの横に歩いて来たアユコ先生が、持っていた鍵を鍵穴に差し込んだ。ガチャリ。それから足元の補助錠も解除しようと、しゃがみ込んだ。

 ガラス越しの夕日が、アユコ先生の横顔をオレンジ色に染めていた。あの時と同じだ。誰もいない夕暮れの公園。住みついていた野良猫がいつの間にかいなくなって、小さな男の子が、母親がほんの数分目を離した間に消えて、そしてよく散歩の途中でベンチに座っていたおじいさんもハイカイとかで行方不明になって、なんとなく誰も来なくなった公園。そこになぜかアユコ先生が一人で立っていたのだ。赤い夕陽を浴びて。

 通りがかりに先生の姿に気づいて、なぜかぞっとした。それは例えてみれば、生身の人形を見たような違和感だった。

 生身の人形?

 そんなものあるはずがない。それに、そんな丁寧な作りではなかった。むしろ、案山子。適当に藁を丸めて安い布をかぶせ、顔を描いたような……

 違和感は強くなるばかりだった。特に先生の口元がおかしい気がした。いつもより口の端が左右に長いような、どんどん両耳に向かって裂けていくような……

 本当ハネ、先生ノ顔ハ、藁ニ布ヲカブセテ縫イ合ワセテアルダケナノ。ボロ布ダカラ、破レテ顔ガ半分ニ割レソウナノ。ホラ、アノ口ノ両端、見エルデショ。アノ大キ過ギル口ノ、両端……

 足元の補助錠を上げようとする、アユコ先生の手が止まった。

「夕日って、いやよね……」

「え?」

 アユコ先生がすっと立ち上がったので、私は一、二歩後ずさりしながら聞き返した。アユコ先生は小首を傾げた。

「ねえ、夕日が赤い理由、知ってる? 空の太陽の位置が低くなって、太陽光線が地上に届くまでに通過する大気の層が厚くなるせいなのよ。昼間に優勢だった青い光が厚い大気の層を通る間に散乱して、散乱しにくい赤系の光が、相対的に多く地上に届くってわけ。ま、小学四年生には、こんな説明どーでもいっか。……ただね、それが関係しているかどうかは分からないけど、夕日は、昼間は見えない余計なものもいろいろ映し出すの。……ねえ、何そんなに震えてるの? 先週もそうだったよね。先生、公園からチサさんに声を掛けたのに、走って行ってしまって」

 先生は目を細め、不自然なほど左右に口を引っぱり、にぃー、と笑った。

「あの公園にいるのが変だと思ったの? でも、いい公園じゃない。あんまり人が来なくて。夕暮れも、夜になっても、人や動物がぽつぽつといるだけ。木陰も多くて、ふいに誰かが消えても、すぐには誰も気づかない。……ねえ、あの時どうして逃げたの? 何を見たの?……そんなに怯えて……ねえ……あたしの顔、何か変?」

 私が二歩引いた分、アユコ先生が身を乗り出してきた。顔がよく見えるように、長い髪を耳に掛け、優しい笑みを浮かべた顔をぐうっと近づけてくる。

 赤い夕陽に照らされた、ひどくざらざらしたアユコ先生の顔。まるで古くて安い布で作ったような……布の合わせ目からはみ出しているのは……あれは、枯草? 藁?

「いえ、あの……急いでたから……」

 私はもう二歩下がりながら答えた。歯がカチカチ鳴って、何度も舌を噛みそうになった。

「へえ……そうなんだ……」

 いつの間にか先生のにっと笑った唇の両端は裂けて、もうすぐ耳の付け根に届きそうになっていた。あの時と同じ。でもこんなに口が裂けたら、顔が二つに割れてしまう。割れたら口が……!

 よく見ると、アユコ先生の割れそうな口の両端に、縫い目のようなものが浮き出てきていた。でもそれほどきちんとした縫い目じゃない。むしろいい加減。ちょっと動いたらすぐ切れそう。ダメだよ、きちんと縫わないと。解けたら、口が開いてしまう。

 藁ノ口ガ開イテシマウ!

「先生。アユコ先生!」

 ドンドンドン、という音とともに、いきなり誰かが外側から戸を叩いた。

 ガラス越しに最近臨時講師として学校に来たばかりの、井原先生という若い男の先生の姿が見えた。あせった表情で口をパクパク開けて、戸を開けるよう催促している。何か用事があって学校に引き返してきたらしい。アユコ先生が小さく舌打ちするのが聞こえる。でも私は心の中で叫んでいた。

 助けて井原先生!

「どうしたんですか、井原先生」

 アユコ先生は補助錠をはずして戸を開け、いつもの笑みに迷惑さを滲ませながら尋ねた。

「いやあ、アユコ先生がまだいてくれて助かりました。忘れ物をしてしまって。ああ、君もか」

 井原先生は仲間を見つけたように、私の方に向き直って笑った。

「お互い忘れ物には気をつけような。そうだ、もう暗くなってきたから、帰る時は先生と一緒に」

 その時、井原先生の背後にいたアユコ先生の口が、ぱっくりと割れた。顔や耳どころか、首から肩にかけて裂けるように広がった。その裂け目の中には、藁、藁、藁! ぎゅうぎゅうに、ただ吐き気がするほどの藁が詰まっていた。

 悲鳴どころか息をすることもできず、私はその場に尻もちをついた。

 井原先生、逃げて、逃げてぇっ!


 バンッ!


 唐突に避けた口が閉じて、井原先生を背後から呑み込んだ。口からはみ出た井原先生の手と足が不自然に跳ね上がる。手は当たったアユコ先生の長い髪を苦しげに掴み、引き抜いた。その手が、徐々に力を失ってだらんと垂れる。床に落ちた髪は、細長い藁に変わっていた。

 はみ出ていた井原先生の手と足をズルッと吸い込んだ口の裂け目から、赤黒いものが滲みだした。口だけではない。周辺のぼろ布からも、布からはみ出した藁の間からも、血が流れ始めた。

もう目も鼻もない、血だらけの案山子になったアユコ先生が、私の方にゆっくりと向き直る。

「ひぃ……い……いゃああああああああっ!」

 私は絶叫して逃げた。夢中で逃げた。

 やはりそうだ。

 私が公園で思わず逃げてしまったから、気づかれたと知った先生が、私を放課後の誰もいない学校におびき寄せた。六時間目は体育だったから教室には誰もいなかった。五時間目の理科の実験の後、私がランドセルに入れた実験ノートを机の中に戻すのは、とても簡単なことだったに違いない。ハルミについて来てもらったとしても、アユコ先生はためらいもなくハルミも呑み込んだだろう。

 コッ、コッ、コーッ、コーッ

 走る私の後から、あの音が追ってくる。あれは先生の靴音じゃない。木の棒が廊下を叩く音だ。案山子の棒が叩く音だ!

 思わず振り返って見てしまった。

 もう夕日も落ちて闇の迫る廊下を飛び跳ね、私を追ってくるのは、一体の案山子だった。血染めのボロ布を巻きつけ、その隙間から赤黒い藁をまき散らして、背の高い案山子が、飛び跳ねながら私を追ってくる!

 私は無我夢中で、すぐ横に見えた階段を駆け上った。飛び跳ねるだけの案山子なら、階段を上がるのは苦手かもしれないと思いついたのだ。

 コーッ、コーッ、コォォー……ッ!

 二階からさらに三階への階段を駆け上りながら下に目を向けると、階段の踊り場から一気に二階へと飛び上がる案山子を見てしまった。三階から別の階段を下りる時は、もっと酷かった。私が一段ずつ駆け下りた階段を、案山子はわずか二飛びで下り、私の真後ろにドンッ、と落下したのだ。

「いやぁあああああああっ!」

 私は泣きながらまた走った。戸を開けてどこかの教室に逃げ込みたかったが、案山子との距離が近過ぎて、止まることができなかった。どこか、どこかに戸が開いたままの部屋はないか。

 そうだ、職員室!

 職員室は、学校に来た時、確かに戸が開いていた。あそこに逃げ込んで戸を閉めれば、案山子には指がないから開けられないかもしれない。

 私は案山子に追いつかれないよう必死で走って職員室前の廊下にたどり着いた。

 戸が開いている!

 夢中で飛び込んで戸を閉めた。

 ガン、ガン、ガン、ガンッ!

 案山子がドアの外から激しくぶつかった。戸に嵌ったガラスが割れそうだ。割れたらどうしよう。そう思った時、ふっと音が途絶えた。

 ギシッ…………

 微かに戸が軋む。

 息を呑んだ。

 閉まった戸と戸口の隙間から、藁の細い穂先がくねくねと動きながら入り込んできたのだ。一本……また一本……そのたびに少しずつ隙間が大きくなった。ギギギ、と戸が開く。

 藁の顔が、赤く濡れた口を半開きにして、じーっと薄暗い職員室の中を覗き込んでいた。ヒッ、と声が漏れそうになって私は口を押える。

 コッ、コッ、コーッ

 職員室の中に入ってきた案山子が、またあの音を立てながら、歩き回り始めた。私を探している。時々立ち止まり、目もない顔で机の下やロッカーの陰を確認している。確認しながら、どんどん職員室の奥の方に入って行く。私は案山子と鉢合わせないように注意しながら床を這って、開いたままの入口の方に動いた。緊張と走ってきた疲れで息が苦しい。でも、もう少しだ。入り口にたどり着いたら、再び戸を閉めて廊下に出る。そうすればまた少しは時間が稼げるから、その間に私は校舎の外に出て逃げられる!

 案山子が奥の校長室に入って行った。

 今だ!

 私は出口に近い教頭先生の机の陰から走り出た。

 ドンッ!

 目の前に案山子がいた。飛んで来たのだ。大口を開けていた。肩まで裂けた口の中には、まだ井原先生の血だらけの肉や歯、内臓らしいぐにゃぐにゃしたものが赤い藁にびっしりとこびり付いていた。見上げれば上顎は私の頭上にある。藁に挟まれていた井原先生の目玉が、血の糸を引きながら、目の前をドロリと落ちていく。

「いやああああああああっ!」

 逃げようとした手に、何か硬いものが当たった。机の上にあったライターだった。学校内は禁煙なのだが、どこで吸うのか、何人かライターや煙草を持ち歩いている先生がいるのは知っていた。

 そうだ。火だ!

藁の案山子なら火に弱いに違いない。ライターを自分で使ったことはなかったが、何度か見たことがある記憶を頼りに、逃げながら案山子に向けてカチッ、カチッ、とやってみる。点かない! やり方が悪いのか、もうオイルがないのか。案山子の上顎が頭の上に落ちてくるのが分かった。逃げないと!


 バンッ!


「痛いいいいいひいいぃぃっ!」

 私は絶叫した。逃げ遅れて、両腕の肘から先を案山子に喰われたのだ。苦痛のあまり体中が痙攣する。

 ボッ 

小さな音が聞こえた気がした。

「ぐぎゃっ!」

 いきなり異様な声で叫び、案山子が口を開けて私の両腕を離した。

「ぎぃーっ、ががーっ!」

裂けた口をさらに開きながら、案山子が苦しげに叫んだ。上顎の内側の藁が黒く焼け焦げて、燃え始めている。後から考えると、口を閉じたままだったら、酸素がなくなってすぐ消えたと思うのだが、熱くて閉じたままではいられなかったのだろう。

「げ、ががーっ、がーっ……!」

 だんだん元の姿に戻ったアユコ先生は手で口を押え、よろめきながら職員室を出て行った。そのまま校舎も走り出て、そして……

 二度と戻ってくることはなかった。



 これがチサから聞いた、あの夕暮れに学校であったことの一部始終だ。

 確かにあの日から、アユコ先生も井原先生も行方不明のまま、見つからない。大人は、駆け落ちじゃないの、なんて言っているけど、全然仲良さそうじゃなかったし、あり得ないと思う。

 不思議なことに、翌日校舎内には数本、細い藁のようなものが落ちていたそうだ。場所は正面玄関の横にある児童用の昇降口。誰がそんなものを持ち込んだのかは、とうとう分からずじまいだった。

 そして何よりチサの両腕は案山子に喰われたせいで、肘から先が紫色に腫れ上がり、あちこちに藁が突き刺さったという赤黒く血が滲んだ傷跡が点々とできていた。

 でもそれさえも、チサによれば、大人には信じてもらえなかったそうだ。何に挟んだの? どこか危険な場所にでも、こっそり入り込んだんじゃないの? そうしつこく聞かれたらしい。

 でも、私は信じるかもしれない。

「まあね、案山子のオバケに井原先生が食べられちゃったとか、あたしも両手を食べられそうになった、なんて言っても……信じてくれるわけないよね」

 後日、家に遊びに来たチサは紫色の両手でジュースを飲みながらため息をついた。

「ああ、おいしい。最近喉が渇いちゃって」

 チサはジュースを飲み干してそう言い、両腕のようやく傷口が治りかけたところがカサブタになって痒いらしく、何度もその部分を掻いた。

「そういえばね、最近食べ物の好みも変わったの。以前はお刺身苦手だったのに、すごく好きになっちゃって。焼肉も表面を軽く焙るだけくらいが、おいしいと思うようになった。やっぱりショックなことがあると、いろいろ変わるのかな」

 帰り際に玄関でチサは振り返った。

「ねえ、ハルミはあたしの話、信じてくれる? それとも……やっぱり信じない?」

「信じるよ。だってあの時もアユコ先生が怖いって、ずっと言ってたじゃん」

 私が言うと、チサは少し安心した顔で笑い、じゃあまた明日ね、と手を振って玄関ドアを開けた。外の風が舞い込んで、彼女の栗色の髪を散らした。

「信じるよ……」

 私は閉じたドアを眺め、玄関の床を眺め、それから自分の部屋に戻って、呟いた。

 チサはまだ気づいていないようだが、チサがカサブタを掻いたところには、薄い茶色の枯草のようなゴミがパラパラと落ちていた。

 そしてチサの髪の毛が一本落ちた玄関の床には、明らかに稲穂としか思えない細長い植物の茎が一本、落ちていたのだ。

 チサが何者に変化しつつあるのか、示すように……

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