第19話 ブッキーに見られるな!(3)
アーッハハハハアッハハハハハハーアハハーハー!
職員室中に、あの狂気の笑い声が響き渡った。それとほぼ同時に、割れた窓とカーテンを突き破って、あの赤いカメレオンの舌が廊下側の壁まで貫いて俺たちを襲った。俺が男を引っ張り職員室を出たので、やられはしなかったが、圧倒的な破壊力に生きた心地もしない。
「もうダメだ。見られた。もうダメだ!」
泣きながら叫ぶ男の腕をつかみ、俺は廊下を走り続けた。
「とにかく走るんだ。俺に考えがある。絶対逃げられるから、とにかく全力で走れ!」
アーッハハハハハハハハッアーッハハーハハハハハハハハハー!
廊下の窓がいきなり暗くなったかと思うと、顔を真横にしたヤツが俺たちを見て笑った。ギョロギョロした巨大な目玉の赤い虹彩や血管まで見えて吐き気がする。巨大な舌が目の前の壁をぶち抜き、大穴が開くたび、俺たちは吹き飛ばされ、這って壁際を進み、また走った。校舎の出口の向こうに、まだ深谷の手はひらひらしている。あと少しだ。深谷、諦めて手を引っ込めたりしないでくれ。あと少しだから!
校舎を出た瞬間、目の前にイースター島のモアイ像かと思うようなヤツの顔がそびえ立って、俺を見下ろした。俺は絶叫しながら夢中で深谷の手をつかんだ。
「深谷、そっち側に引っ張れ。今すぐ、早く!」
まるでプールの水中から、水面に抜けるような感覚だった。
気がつくと俺は深谷と一緒に校舎の外壁に向かって倒れこみ、続いて俺が握っていた加賀の腕と顔が何もない空間から顔を出した。
しかし、そこまでだった。外壁にぶつかった瞬間、俺は思わず握っていた手の力を緩めてしまった。加賀の顔が硬直する。そしてすごい勢いで加賀の体は後ろに引きずられ、目の前から消えた。慌てて俺は、壁と鉄柱に挟まれた細い空間に手を差し入れた。しかし……
そこに見えるのはもう、何かを掴もうと動く俺の手だけだった。
「たぶん……もう無理だよ」
背後で気の毒そうに深谷が言うのが聞こえた。
「僕さ、もう五時間目が始まっちゃうから本当に何とかしなきゃと思って、恐る恐るこの空間に手を入れてみたんだ。そうしたら手が見えなくなって、だから相馬が行った向こうの空間と繋がってると分かったんだよ。でも、今は手が見えるだろう。だからもう、繋がってないと思う……」
繋がっていたとしても、あの引きずられ方の勢いは……間違いなく男は、ヤツの舌に捕まったのだ。だとしたら、もう助けるすべはない。
人間があのバケモノに喰われるのを見てパニックになりかけていた俺が、何とか深谷の手を見つけて戻ってくることができたのは、あのヘタレ教師の男―という別の生存者を見つけて話ができたからだろう。あのままずっと一人だったら、冷静に考え続けることなどできていたかどうか、自信がない。事情が分かっていた彼でさえ、おかしくなりかけていたのだ。
一人生き残ってしまったことを悔いていた彼は、自分も食べられてしまって、今はもう孤独ではないのだろうか。そんなはずはない。あの赤黒い内臓に浮き出た人間の顔は皆、苦悶に引き歪んでいた。だからもう今となってはストレートにこう言うほかないのだ。
ありがとう。そして、ごめん……
一週間ほど経って頭の中が整理できてから、俺は向こうで見たことを、体育館の外壁にもたれてスペシャルバーガーを食べながら深谷に説明してみた。十年後にあんな衝撃的な結末を日本が迎えるなんて、そんな不条理な未来を知っている重さを、到底一人では抱えきれなかったからだ。
意外にも深谷は、俺が予想したほどには驚かなかった。
「うん……。それはもしかしたら僕たちの世界の将来かもしれないけど、もしかしたら、そうじゃないかもしれない」
深谷は噛み続けていたスペシャルバーガーの最後の一口を飲み込んで言った。
「確かに物凄く僕たちの世界に似てるけど……。僕は小学生の頃から古代史大好きで研究会に所属したり、いろいろ本も読んだけど、その……石棺伝説って、聞いたことないんだよね」
あ……
俺は持っていた紙パックのコーヒーの方を落としそうになった。それは気づかなかった。確かに俺も聞いたことはない。でもそれは単に、俺に古代史の知識がないせいだと思い込んでいた。
「ブリザードが吹き荒れてたり、ゾンビが大量に歩いてたら別の世界だと分かりやすいけど、すべてがほぼ一緒という世界―パラレルワールドみたいなのも結構あると言うから、そういうのかもしれない……。でも、もしかしたら今は知られていないけど、これから有名になる古代史のエピソード、という可能性もなきにしもあらず、かな。そしてもし十年後に東北で大きな土地開発計画が始まって巨石が見つかり、この高校に若い化学の男性教師がいたり、あのポプラの先が二股になって校舎より高く成長していたりしたら、かなりヤバいということになるけど」
「なるほど……」
もし本当に俺が見たものが、今いるこの世界の未来だったら……いや、困る。
「いや、ダメだ。本当に別の世界であってほしい。とにかく凄まじい破壊力だったんだよ。校舎も電柱も都庁や自衛隊の戦闘機までバンバン破壊して、人間をカメレオンみたいに舌で捕えて食うんだぜ。しかもその喰った人間が首から垂れた内臓に現れて」
深谷は興味深げに首を傾げた。
「何なんだろうな。地球外から送り込まれたものなのか、それともいわゆる超古代文明とかの頃の遺物なのか……。いずれにせよ面白すぎる。次に行く時は絶対一緒に僕も連れて行ってくれ」
「嫌だよ」
五時間目のチャイムが鳴り始めたので、俺たちは渡り廊下を通って校舎に向かい始めた。先週俺も深谷も五時間目の化学基礎に遅れたので、担当教師に睨まれているのだ。化学はまあ好きだし、今週は遅れるわけにはいかない。
「で、結局その先生の名前は聞かなかったの?」
渡り廊下を歩きながら、残念そうな顔をして深谷が聞いてきた。
「あー……うん。なんで?」
「だってさ、その教師の性格とか、子供の頃の話とか……ま、いいけど」
何がいいのかよく分からないが、深谷は笑ってそれ以上は言わなかった。校舎に入る時に、例の隙間空間と最接近する。でも俺はもう絶対にこの空間にはかかわらない。もちろんスペシャルバーガーも中空で受け取ったりしない。
それでも、もし先々あれが本当にこの世界の未来だと分かったら……
俺は少しだけ振り返り、あの空間を眺める。
俺はどうするんだろう。なけなしの金でうまいこと海外逃避するのか。大量の食糧を抱え込んで、地下に逃げ込むのか……
いや。たぶん、何も出来なくても信じてもらえなくても、深谷と一緒にジタバタあがくんだろうな。自分や家族や友達や、もっと言えば今度こそあの男性教師とか、今ある世界をなんとか保つために。あの誰もいない絶望的な喪失感を二度と味わわないために。
そうそう。とりあえず、そんなことになったら絶対あの言葉は早期に拡散することが必要だ。
―ブッキーに見られるな!
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