第18話 ブッキーに見られるな!(2)

 学校の敷地を囲むフェンスの向こうを、全力疾走する中年の男の姿が見えた。手には何かを抱えている。たぶん、食料。想像通りなら、この男はずっと隠れていたが、とうとう食料が尽きたので探しに出たところを……

 何かに、見つかった。

 男の顔は遠くから見てもすぐ分かるほど、恐怖に引きつっていた。目も口も裂けそうなほど大きく開かれ、そして歪んでいる。

「ひっ、ひぎゃあああぁっ!」

 男は泣き声を上げながら走り続ける。

 ズン…ッという鈍い衝撃音とともに、男の遥か後方にあるビルが崩れ落ち、唐突に〈それ〉は現れた。

 巨大な人の顔。男とも女とも判別のつかない、細面に細い目、そして入れ墨らしい三角や丸の幾何学模様を額や目尻に入れた……ビルの五階分はあろうかという巨顔のバケモノが、笑いながら現れたのだ。

 それが張りぼてや3D映像でないことは、ホテルを破壊したことからも明らかだった。しかもこの首は、浮いていた。地上数メートルのところを首から下に何か凹凸のある赤黒い内臓のようなものをぶら下げたまま、直毛の長い黒髪をなびかせて浮いていたのだ。

 まるで小学生の時に見た世界妖怪事典にあった〈ポンディアナ〉だった。違うのはその顔の圧倒的な巨大さだ。

 高所から見れば、男が必死で逃げるその様子も手に取るようにわかるのだろう、バケモノはまるで人間が地面を動く蟻を見るように、数秒興味深げに男が泣きながら走る姿を眺めた。

 それから歯をむき出しにして残酷に笑い始めた。

「アハハーハー、アーハハハ、ハーハハー、アハハーアハハーハハハハハーハハハ、アハハアハハーアハハーアハハアーハハハハハハハハハハハハ!!!」

 笑い声はまるで雷鳴のように轟く。いきなりそれの笑う口から信じられないほど長く細い舌が伸びた。絶叫する男はあっという間に舌先に巻き取られ、笑い続ける巨顔の口の中に消えた。

 何だ……これは……

 巨顔が再び笑い声を発しながら電信柱をなぎ倒し、悠々と学校のフェンスの向こうを流れていく姿から、俺は目を離せなかった。一番近くを通った時、首から垂れる内臓のようなものの正体を見てしまった。何重にも折り重なり、溶けかけて混ざり合った大量の人々の体の塊だ。胴体の一部が溶けながらも、まだ手足は痙攣して動いていた。無数の顔は溶けながら苦悶に引き歪んでいた。そうして溶けてしまった顔や体は、まるで消化完了したように表から内側に沈み、新たな顔や手足が浮き出してくる。

 ようやく誰もいない、死体さえ見当たらない理由がわかった。一瞬巨顔の目がこちらを見たような気がして、俺は慌ててまた壁際に身を低くする。


 アハハーハーッ


 ァ―ァァ―……


 巨顔の笑い声が徐々に小さくなっていく。声が聞こえなくなってしばらくしてから、ようやく俺は立ち上がることができた。足がカクカク震えてうまく歩けなかったが、何とか壁伝いに再び職員室に向かう。

 もしこの世界に成長した俺がいても、もう生きてはいない気がした。俺の家族も友達も、誰もいない気がした。今聞こえている俺自身の不規則な息の音さえ……とても遠い。

 本当は、俺ももう死んでいるのではないか……


 やっと職員室にたどり着き、ドアを開ける。

 人がいた!

 俺は文字通り飛び上がり、声も出ないまま開けたドアに背中を押しつけて相手を見た。

「だ……誰ですか?」

 と言ったのは俺だ。相手も眼鏡の奥から落ち窪んだ眼をギョロギョロさせて俺を見ている。顔はかなり汚れて髪もボサボサだが、まだ三十前くらいの若い男に見えた。薄汚れた白衣を着ているところを見ると、化学あたりの教師なのだろう。

「まだ……無事な生徒がいたんだな……」

 そう呟いて男は持っていたペットボトルのジュースを一口飲んだが、すぐに俺の持っている黄色い包みに気づいて、目を裂けるほど見開いた。

「お前……なぜスペシャルバーガー……こんなものがまだ売られているはずがない!」

 奪い取りそうな勢いで男が近づいてきたので、俺は急いで背中に隠した。

「な、なんでこんなことになったのか、教えてください。教えてくれたら……は、半分はあげてもいいですよ」

 本当はやりたくなかったが、俺は言った。知っても仕方がないことかもしれないが、なぜあんな異様なものが現れたのか、世界は一体どうなったのか、知りたかった。

「なぜって……なぜ知らないんだ?」

 男は眉をひそめ、当然の疑問を言う。説明は難しかった。ただ、この学校に勤めている教師なら、あの噂は知っているかもしれない。知らなかったら正気を疑われるとは思ったが、仕方なく俺は聞いてみた。

「あの……先生は校舎を出たところの壁と、体育館への渡り廊下の鉄柱の間にできる細い空間……の噂、知ってますか?」

 職員室の椅子に座り、やっと口に入れることができたスペシャルバーガーは、(半分だが)胃の腑に染み渡る旨さだった。お茶も飲んで喉を潤すと、ようやくまだ自分は生きているという感覚が蘇ってくる。

「そうか……。ただの噂じゃないらしい、という話は知ってたけどな。まさか十年前の生徒が、よりによってこんな酷い時代に迷い込んでくるとは……」

 男は、俺の向かいでバーガーの半分を一口一口かみしめ、ゆっくり食べながら言った。こんなまともな食べ物を口にするのは、久しぶりだという。

 俺は職員室を見渡した。男の周囲には空のペットボトルと駄菓子の袋が山を作っていた。売店から取ってきたのだろう。窓にはカーテン。もちろんあの巨顔に「見られない」ために違いない。

 壁の予定表を眺める。

 2033 九月十二日

 あの巨顔が現れて、学校から帰れなくなった日の日付だ。 

 信じられなかった。あの巨顔が東北の遺跡で発見されたのは、ほんのひと月前だそうだ。本当にたったひと月で、いくらあんな異形の生物が現れたからと言って、こんな荒れ果てた場所に世界は変わるものなのか。

「本当に……一か月前までは、普通の日常生活が続いていたんですか?」

 思わず尋ねると、男は苦笑いして、どこからか地方新聞の束を持ってきた。八月の初めは確かに恒例の花火大会や盆の交通機関の込み具合の予想など、この季節によくある記事が掲載されている。

 状況が変わったのは八月十一日の新聞だった。

 一面トップで、今世紀最大の大発見、古代史ファン殺到、と白抜きの文字が躍る。―東北のある土地開発の現場で、かねてより実在の可能性を指摘されてきた古代史最大の謎の一つ、石棺伝説の元になったと見られる巨石が発見された。石には古代日本を知る第一級の資料となる多数の絵や文字が描かれ、発見現場では巨石を移動するため周辺の土を取り除く作業に取り掛かっていたが、工事を中断して大規模な現地調査が行われる予定。

 しかし古代史のロマン……という論調の記事は数日で呪いのミステリーに名前を変える。

 ―発見現場で再び人間消失。今度は現場を訪れた郷土史研究家と同行記者。行方不明者は大学研究員から工事作業員、見学者まで、計十二名に。地元では鬼の祟りとして大騒ぎになり、発掘調査計画は暗礁に。

「鬼の祟り?」

 俺がつぶやくと、男は壁を指さした。予定表のある壁には、先生たちも必死で生き延びる方法を模索したらしく、大量の関連資料が貼り付けられていた。

「石棺伝説というのは、なんでも昔突然現れた人喰い鬼が次々と村を襲って人を喰らうので困っていたが、一人の娘が鬼を谷底におびき寄せ、そこに大岩を落とすことで、なんとか退治することに成功した。鬼は三日三晩動き続けたが、やがて朽ちて消えた……というようなものらしいよ。おびき寄せるとは言うが、娘が死ぬのは分かっているのだから、つまりは人身御供だな」

「でも……とにかくそれで、その鬼は死んだんでしょう?」

 俺が恐る恐る尋ねると、男は苦笑した。

「死んだ……というか、弱って岩の下で休眠状態に入っていたというのが正しいんじゃないかな、少なくとも鬼の頭部は。現に十二人目が消えた日の夜、周辺地域に大きな笑い声のような音が響いて……翌日にはもう近くの町村の誰とも連絡が取れなくなった。警察にも相談が殺到して、出かけて行った警察官二人が地元の警察署に送った映像には、あちこち破壊された家屋だけが残っていて、どの村にも人影はなく、その二人の警察官も結局音信不通に。そのあとは連絡が取れなくなった市町村がどんどん増えていって、……それでも最初は何が起きているのか、全然分からなかった。やっとあの巨大な鬼の顔が犯人の画像としてネット上に出回ったのも、何日も経ってからさ」

 苦笑した男の目つきが、どんどん危ういものになっていく。

「撮った奴は命がけだったと思うが、それでも最初は誰も本気にしなかった。フェイクニュースとか、顔が不気味だからブッキーと名付けて面白がった。実際にヤツがアリクイみたいに長い舌先で人間をまとめ食いする映像を、一斉にテレビやネットが報じるまではな」

 足元のプリントアウトされた記事には、渋谷の交差点で逃げ惑う群衆の背景に、ビルより巨大なあれの笑い顔が映っていた。崩れて人気のない都庁。廃墟と化した横浜駅。逃げようとする人々が殺到したのだろう、大量の車で身動きが取れなくなった高速道路。こんな渋滞、あのバケモノにとっては絶好の狩場に違いない。

 撮影……自衛隊。

「そうだ、自衛隊。自衛隊が何とかしてくれないんですか?」

 俺は思わず男に尋ねた。これはどう見ても、民間では対処できない大規模災害だ。しかし男はまた笑っただけだった。

「自衛隊もまあ……頑張ったよ。ほら、そこの記事にあるだろう」

 男が指さした紙を俺は拾い上げた。

「本州を中心に出没する危険生物に対して国会が攻撃を許可。既に攻撃計画を定めていた陸海空自衛隊は、午後にも総攻撃を開始……」

「ところがヤツの居場所を特定できなかった」

 男はほとんど面白がっているように見えた。

「あの顔は巨体だが、移動スピードが猛烈に速い。だからエネルギー消費量も高くて大量の人間を喰らう必要があるんだろうが……しかも、校舎の壊れ具合を見てわかるとおり、破壊力もハンパない。やっとヤツの姿を捉えても、攻撃する前に逆にヤツに例のカメレオン攻撃を受けて機体は大破。脱出した隊員はヤツに喰われておしまいさ。そのうえ首の下に垂れさがった内臓みたいなものに喰われた人間が浮き出して、まだ生きてるみたいに動くだろう。あれも攻撃しづらくなる一因だったらしいな。あっという間に全滅して、参加した隊員はヤツの餌食。その頃からだよ。ヤツに見られたら終わり、と言われ始めたのは」

 男はカーテンを引いた窓を見た。

「さっきの奴、俺も声だけ聞いたよ。かわいそうにな。もっとも誰が本当にかわいそうかは分からない。他にもまだじっと隠れて生き延びている奴はいるだろうけど……通信や電気が止まる前には、周辺国が飛び火を恐れ、日本がほぼ壊滅状態になるのを待って核を使用する、なんていう噂もネットで流れていたからな。この先生きていたって……」

「確かに、よく生き延びましたね」

 本当にそう思ったので俺は言った。この学校には、俺の時代と同じなら生徒教師含めて七百人近くいる。その中でただ一人、生き残るなんて……

男はハハハと、また嫌な声で笑った。

「俺は子供の頃から運だけは結構いいんだ。じゃんけんとかよく勝ってたし、ドッジボールだって適当に逃げていても結構生き残って、でも……気がつくと俺一人だけになって、結局一番痛い球当てられる。一人は怖いよ。でも死ぬのも怖い。今だってほかの生徒や教師に交じって必死で逃げて隠れて、気がついたらなぜか自分一人生き残っちまった。誰の役にも立たず、誰も救えなかった。もう一週間以上、毎日気が狂いそうになるほど一人だ。でも、これも運命なのかな……」

 久々に人と話せたのが嬉しかったのか、男は嬉々として自虐話を続けた。誰も男を責められないが、いい気休めの言葉も見つからなかったので、俺は黙って聞いていた。周囲に視線を泳がせていると、近くの棚にあるデジタル時計がまだ動いているのに気づく。

 1:32 PM

 もう昼休憩が終わって五時間目が始まっている時刻だ。

 深谷はどうしてるんだろう。

 ややぽっちゃりした深谷の顔が浮かんだ。俺がスペシャルバーガーを追って、こっちに吸い込まれてしまったから、もしかしたら責任を感じて落ち込んでるかもしれない。それともただびっくりして、ほかの生徒と一緒に腰を抜かしているくらいか。

 帰りたい。今すぐ逃げ帰りたかった。しかし戻るべき空間を特定することさえ、今は難しいのだ。

 俺の座っている位置からは、開けたままの戸の向こうに廊下と、そして廊下の切れる校舎の端から、渡り廊下の鉄柱が倒れた校舎の外まで眺めることができた。

 え……?

 俺は身を乗り出して、目を凝らした。

 何か小さなものが校舎の外にひらひらと泳いでいるような……

 俺は思わず立ち上がって、職員室の入口まで走った。視力2.0の目で凝視する。やはり人の手だ。少々丸っこいあの手は、間違いなく深谷の手。深谷の手が、あの校舎の端と、本来なら渡り廊下の鉄柱があった辺りの中間から唐突に現れて、こちらの空間で何かを掴みたいように上下に動いている。深谷はなんとか元の世界とこちらとの繫がりを作ろうと、恐る恐るあの細い空間に腕を入れてみたに違いない。

 あの手が消えないうちに、元の世界に戻らないと!

 思わず走り出そうとして、俺は立ち止った。

 待て。この男は、どうする。一人残しておけば間違いなく飢えるか、あのバケモノにやられて死ぬ。それなら一緒に元の世界に連れて行って、記憶喪失とでもいうことにして、向こうで生きていった方がいいのではないか。それでも十年後にどうなるかは分からないが、今置いて行けば、俺は間違いなく後悔を引きずるに違いない。

 腹を決めて俺は振り返った。

「聞いてください。今なら逃げられる。俺と一緒に……」

 静かだった。

 いつの間にか男は自虐話を止め、ぽかんとした顔で窓側を見ていた。なぜ……

 理由もなく体が震えてきた。なぜ震えるのか分からない。なぜ男が窓を見ているのか分からない。とにかく今すぐ全力で職員室を走り出て、深谷の手が見える場所に走るべきだと分かっていた。それなのに男につられて、俺はつい窓側に目を向けてしまう。

 窓を覆うカーテンに、いつの間にか巨大な影ができているのを見てしまった。カーテンとカーテンのわずかな隙間に、何かが見える。何なのかは陰になってよく分からない。分かるのはたった一つだけだった。

 こいつは笑っている!


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