第17話 ブッキーに見られるな!(1)
その間を通り抜けてはいけない、という噂を聞いたことはあった。
通っている高校の体育館に行く渡り廊下。その渡り始めにある校庭側の柱と校舎の壁に挟まれた細い空間。
そこをうっかり通り抜けると……妙なところに出てしまう、という噂だ。
噂なので、どれも見てきたような妙に細部の細かい、しかし荒唐無稽な話になっている。校庭にいる友達に呼ばれて、うっかり例の空間を通り抜けたら、まるで全球凍結時代の地球みたいな雪原にブリザードが吹き荒れていて、運よく午後のチャイムが聞こえたから戻って来ることができたが、たまたまダウンジャケットを着ていなかったら凍死していただろう、とか。ほんの冗談であの空間に頭を入れたら、なぜか荒れ果てた世界に大量のゾンビがうろついていて、その一人と目が合ってしまったので、慌てて頭を空間から引いたら、ゾンビの緑色の腕が一瞬こちらの空間に突き出てきた、とか。
ずいぶん前だが、空間に入って消えてしまったまま戻って来なかった生徒もいるらしい。ヤスエさんという女子生徒だ。つまずいてその細い空間に倒れ込み、そして姿を消した。『助けて、三時間目に間に合わなくなる!』という絶叫が、周囲にいた友人たちの聞いた彼女の最後の言葉だったので、〈三時間目のヤスエさん〉と呼ばれている。
警察も来て大騒ぎになったと言うので、行方不明になった生徒がいた、というのは確かなようだが、本当にこの空間と関係があるかどうかは分からない。
痩せた生徒が体を横にしてなんとか通り抜けられるくらいの、本当に細い空間なのだ。普通は通り抜ける気は起きない。
四時間目の体育が終わり、体育館から渡り廊下を校舎側に戻ってきた俺は、例の空間を眺めながらそう思った。
「相馬!」
友人の深谷の声が、空間の逆方向から聞こえてくる。いつもじゃんけんに弱い深谷は今日も昼食調達係のじゃんけんに負けて、俺も含め五人分くらいのパンを購入するため、体育が終わると速攻で着替えて、レストラン横の売店へ個数限定のスペシャルバーガーを買いに走った。近所の精肉店直営のパン屋が作るスペシャルバーガーはパテが肉厚でジューシー。特製ソースとの相性も抜群で、行列に並んでもなかなか買えない人気商品だ。
「おう!」
俺が手を差し出すと、深谷は黄色の紙に包まれたスペシャルバーガーを放ってよこした。ただ、深谷は近視だった。いつもメガネを掛けているが、それでもあまり視力のいい方ではない。バーガーの描く放物線が、俺の手より少し遠くまで延びた。バーガーは俺が伸ばした手の指先をはじき、まるで吸い込まれるように……そう、吸い込まれるように例の空間に向かって飛んでいったのだ。
俺はバーガーを逃すまいと思わず横向きの態勢のまま手をのばした。おわわっ、とバランスを崩す。そして見事にあの細い空間に……
そうだ。俺って痩せ型体型だった。
静かだった。
俺は乾いた地面に手をついてうつ伏せに転がったまま、しばらくその静けさに耳を澄ました。異常なのは分かっていた。四時間目が終わった後の昼休憩の学校なんて、騒音の発生装置みたいに賑やかなはずだ。現についさっきまで生徒たちが話す声が、あちこちから重なって全校に響き渡っていたのだ。
それが聞こえない。
目の前20センチのところに、黄色いスペシャルバーガーの包み紙。右手をのばすと、今度は簡単に掴むことができた。友達がで手に入れてくれたのだから、これは絶対に持って帰らなければならない。
そして俺は自分に言い聞かせた。大丈夫だ。ここがどこであろうと関係ない。目的物は拾ったのだから、あとはあの細い空間を引き返せば、万事もと通りだ。大丈夫、大丈夫。
そして振り返った。
え……
俺はその場に立ち尽くす。
細い空間が……消失していた。渡り廊下そのものが倒壊してしまっているせいだ。鉄骨部分がぐにゃりと曲がって、とてつもなく大きな力がかかったことが分かる。まさか竜巻?
校舎はまだ、ある。ただなぜか酷く荒廃していた。外から見ても、窓ガラスがほとんど割れているのが分かる。扉が開きっぱなしの校舎内を覗くと、壁にはいたるところに落書き。こんなこと先生たちが許すはずがないのに……
そこまで考えて、俺の感想は元にもどる。そうだ。ここは絶対元の世界じゃない。先生たちなんかいない。もちろん生徒もいない。いや、この世界にはそもそも誰か人がいるのか。学校にも、フェンスの向こうにも人っ子一人いない。自動車の一台も通らない。この異常な静寂。
乾いた風が校庭の砂埃を舞い上げ、荒れた校舎に吹きつける。唯一聞こえたザワザワという音に俺は顔を上げた。
虚しいほど白く晴れた空を背景に、校舎横にたった一本立っているポプラの木が揺れていた。三階建ての校舎より少し低いくらいの高さだったはずだが、ここのはなぜか校舎より一メートル程度高く、先端は二つに枝分かれして揺れている。
とすると……ここは未来? しかもポプラの成長速度がかなり早いことを考えれば、それほど遠くない未来。もしかしたら年取った俺もいる……かもしれない未来。しかし理由は分からないが、もう誰も、もしかしたら全人類が消えてしまったかもしれない……未来。
まさか。
恐怖が足元から這い上る。
俺は周囲を見回し、校舎の壁と鉄柱があった辺りを思い出し、あの細い空間があった辺りに手をのばし、体を横にして入れてみた。
何も起こらなかった。何度か位置をずらして繰り返したが、元の世界に戻ることはできなかった。どこかわずかにずれているのだろう。というより、元の世界に戻れた成功例を思い出してみると、チャイムの音が聞こえた、とか、体の一部は元の世界にあった、とか元の世界と何らかの繫がりがあった。今俺に聞こえる学校の音は何もない。もちろん深谷の声も聞こえない。
まずい。このままでは確実に、ヤスエさんコースだ。
ただ、と俺は思い直した。俺はいま夏服の半袖だが、ブリザードの中に出たわけではない。世の中には火星に一人取り残され数年を生き延びて助かった人もいるのだから(まあ映画の中の話だけど)、普通に呼吸のできる地球上にいるだけ、俺はましな方だ。
仕方がないので、元の学校に戻る方法を思いつくまで、一体この近未来に何が起きたのか、少し探検することにした。とはいえ元の世界と繫がる可能性のある場所とあまり離れたくはないので、探検するのは校内と学校の敷地内だけだ。
そうだ。
この先食料の確保ができるかどうかも分からない。俺は取り落としそうになっていたスペシャルバーガーを持ち直し、荒れた校舎内に足を踏み入れた。
廊下にはもっとガラスが散乱しているかと思ったが、どの廊下も隅に掃き寄せられて、歩くのに支障はなかった。つまり窓ガラスが割れた事件が発生した後も、しばらくは校内に人がいたということだ。
なぜ消えてしまったのだろう。何か大きな災害でも起きて、どこかに一斉避難でもしているのか。窓の外は青空なのに。
さらに不可解なのは、校舎の内壁に延々と続く、廃墟ホテルの屋内映像並みの落書きだった。落書きではあるが、内容は切実だ。特に教室のある二階、三階の廊下は、手紙か日記のような生徒の言葉で埋め尽くされていた。
お母さんに会いたい 家族のみんなに会いたい
もう無理 みんな今までありがとう さようなら
こんなもの発見したヤツ ぶん殴ってやりてえ
9月4日 まだ生きてます 外に出られない
自販機にジュース買いに行った子も戻ってこない
どうしてこんなことになったんだろう
9月6日 5人しか残ってない 食料も尽きたし
もう時間の問題
6月7日 またあの笑い声が聞こえてきた
気が変になりそう 助けて 誰か助けて!
ブッキー 来た!
発見? 笑い声? ブッキー……?
どうもこの日付のころ、そのブッキーというもののために生徒は家に帰れなくなり、かなり絶望的な状況に陥っていたらしい。それは教室を見れば一目瞭然だった。椅子も机もやはり竜巻にあったように壊れて散乱し、窓ガラスは全部割れてなくなっている。
ただ、ここにも人影はなかった。
廊下の突き当りには、書道の墨と筆を使ったらしい、真っ黒で巨大な文字が書き殴られていた。
ブッキーに見られるな!
絶叫のような文字だった。文字の下には「見られたら おわり」と、のたうつような鉛筆の字で書き添えられている。
何だこれは……
俺はごくりと唾を飲み込もうとして、喉がカラカラに乾いていることに気づいた。
そうだ、職員室に行けば何かわかるかもしれない。生徒がこれだけ学校にいたのなら、先生たちはとにかく情報を集めて、何か対策を立てようとしただろう。
とりあえず一階に戻って職員室に行くことにした。だが、階段を下りる途中で考えを変えた。とにかく飲み物が欲しかった。乾燥した空気のせいもあって本当に喉が痛い。これでは落ち着いて考えることもままならない。
自販機は同じ場所にあるなら、売店と同じレストラン横に並んでいるはずだ。落書きにあった「自販機にジュース買いに行った子も戻ってこない」の言葉が気になったが、今のところ俺以外、この世界に誰かがいる気配はないし(と考えて俺は再び孤独と絶望で打ちひしがれた)、そもそも自販機が動く保証もなかったので、ダメもとで行ってみることにした。
自販機はやはり動かなかった。電気が通っていないようだ。ただ、隣の売店の棚に日本茶のペットボトルが数本残っていた。そう古くはなさそうなので一本貰うことにする。念のため賞味期限を確認すると、2035・9。
ぞっとした。思った以上にこの世界は、俺のいた年代に近い。
一体この世界の正確な年月日はいつなんだ、と思い、それも職員室の予定表でも見れば、たぶん確認できるだろうと考え、急いで校舎に引き返した。
ァァ―ァ―……
俺は足を止めた。どこかで声が聞こえたような気がしたのだ。カラスの鳴き声のような……いや、どこか狂気を帯びた人間の笑い声のような……
ァーァァーァー……
また聞こえた。少し、近づいてきたような気がする。なぜか全身が冷たく震えてきて、俺は夢中で校舎に飛び込み、窓から見えないように壁際にしゃがみ込んで身を隠した。その直後聞こえてきたのは、全く予想しなかった声だった。
「うっ、うわぁぁぁぁー、あひぃぃぃぃぃぃーっ!」
明らかに人間の声だ。
「人がいる!」
俺は思わず叫び、窓の外を覗いた。
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