第16話  パパはゲージュツ家

  




 パパがおかしくなり始めたのは、念願のマイホームを購入して二か月ほど経った頃からだ。

「昨日会社を辞めてきた」

 いつもと同じ朝、いつもの時間に始まった陽光の降り注ぐ朝食のテーブルで、いつものように納豆ご飯をかき込みながら、パパは言った。

「はあ?」

「辞めた⁉」

 食パンをちぎっていたママも、クロワッサンをほおばっていた私も、普通の反応だと思うが、驚いて聞き返す。

 パパは納豆の糸を切るのに忙しいのか、答えない。

 バンッ、とテーブルを叩いてママが立ち上がった。

「辞めたって……だったら一体これからどうするのよ。この家のローンだってまだまだ残ってるのよ。美紗だって」

 とクロワッサンを口に入れたまま硬直している私を、ママはチラ見する。

「美紗だってまだ中三なのよ。高校も大学もこれから一番お金がかかるのに。第一、うちの生活費をこれからどうするの⁉」

 ちなみにママは専業主婦だ。ママに収入はない。しかしパパは納豆の糸を切り終わると、さえない牛乳瓶の底のような眼鏡の奥から私たちを不思議そうに見ただけだった。

「退職金が出るから、それでしばらくローンは払えるだろう。生活費はママがパートにでも出て稼げばいいじゃないか。美紗の学費は奨学金でも取りなさい」

「そ……」

「そ……っ」

 私は(たぶんママも)、そんな、と言いたかったのだが、驚き過ぎて声が続かなかった。それに主婦がパートをするのは珍しくもないが、まだ十五の私がこの先高校も大学も奨学金頼みなんて……可哀そうすぎる。なぜパパはいきなりこんな酷いことを言い出すのだろう。しかし当のパパは淡々とそう言うと、いつもの順番で落とし卵の味噌汁を飲み始めただけだ。

「じゃ……じゃあ……」

 しばらく立ち上がったまま目を見開き、口をパクパクさせていたママが、パパを指さした。

「じゃあ、パパはこれから一体何をするのよ!」

 パパは飲んでいた汁の椀をテーブルに置き、ようやくその質問が来たか、というように椅子に座り直してママと私を眺め、ゆっくりと答えた。

「僕は、ゲージュツ家になる」


 ゲージュツ家……?

 は? 何それ。

 ゲージュツ家って、宣言したら誰でもなれるものなの?

「ねえ、美紗。今日美紗の家に遊びに行っていい?」

 その日、六時間目の授業が終わると、親友の友美が肩を叩いて聞いてきた。

「最近行ってないしさ。美紗の家は中古って言ってたけど、確かにちょっと昭和っぽいけど、家も部屋も広くていいよね」

 私は今の家に引っ越した頃に遊びに来た友美が、うらやましそうに私の畳敷きの八畳部屋で、ゴロゴロ寝っ転がっていたのを思い出した。本当は遊びに来てほしかった。今日は一日中パパの爆弾発言が頭の中で回っていて、授業も何を聞いたのか、全然覚えていない。このまま家に帰って、一人で険悪な雰囲気のパパとママに囲まれるのも、想像するだけで気が重い。しかし、そういう家の状況を友美に知られるのも嫌だった。というより、恥ずかしい。

「ごめん。あたしはいいんだけど、今日はお客様が来ることになってるの」

「えー」

 友美はまさか断られるとは思っていなかったようだ。

「じゃあ、美紗がうちに来るのは? 美紗も家にいないとダメなの?」

 家にいたくなかった私は飛びつくように友美の提案に乗り、帰ったらすぐ遊びに行くからと言って、下校の途中で別れた。

 最初は楽しみだったが、家に近づくにつれ、また気が重くなってきた。パパが会社を辞めたということは、我が家はビンボーになったということだ。友美の家に遊びに行く時はいつも近所のコンビニで買ったスイーツを持っていくことにしているけれど、今後もそれが続けられるかどうかは、分からない。

 ビンボーって、友達付き合いにも影響するんだ……

 落ち込んだまま家に着いてしまい、仕方なく玄関の引き戸を引く。

「ぎゃあああああああああっ!」

 その場に固まったまま、絶叫した。玄関とそれに続く一階の廊下がすべて黄色地に赤のまだら模様に塗りたくられていた。玄関のたたきだけでなく、靴箱も壁も天井も、照明も、全部赤と黄!

 ゲージュツ?

 これがパパの言うゲージュツ? 部屋にこもって絵を描くとか、木彫りの仏像を作るとかじゃないの?

 見ているうちに黄色と赤で目がチカチカしてくる。こんなものを長く見ていたら頭がおかしくなる、と思った時、廊下の向こうからひょいとパパが顔をのぞかせた。

「大丈夫だ、美紗。速乾性の塗料を使ったから、もう乾いてるぞ」

 そういう問題じゃないんだけど!

「パパ、すぐにこの塗料剥がしてよ。何このチカチカ。これじゃあ、もう友美を家に呼べないよ!」

 私が半泣きになって抗議すると、パパはきょとんとした顔で私を眺め、それからうっとりした顔で廊下と玄関を見つめた。

「何を言ってるんだ。ようやく我が家らしくなってきたじゃないか。美紗は赤や黄色が嫌いなのか」

 ……だから、そういう問題じゃないってば。

 とにかく話がかみ合わないので、私は溜め息をつき、玄関脇の、まだまともな木目が残る階段を上がって、さっさと自分の部屋に入った。階段と二階は、とりあえずまだ、普通だった。

 部屋のベッドに座って、頭を抱えた。

いったいパパはどうしてしまったのだろう。我が家らしさって言うけど、ここに引っ越すまではずっとありきたりな賃貸マンションに住んでいた。特に我が家らしさとか個性みたいなものに拘ったことはなかった。それにこんな目がチカチカするような家の中、私は嫌だし、もちろんママも認めないに違ない。

「きゃあああああっ!」

 一階の玄関の戸を引き開ける音がして、ママの悲鳴が響き渡った。ママはどこかに出かけていて、その出かけていた間に一階の塗装―ゲージュツは行われたようだ。


 翌日、学校から帰って恐る恐る玄関の戸を引くと、やはりもう階段の木目は消えていた。今度は緑の地に黒のストライプ。どう考えても階段に使っていい色ではない。廊下の赤や黄色とあいまって、毒々しいことこの上ない。二階の廊下は、なんと深紅だった。ところどころにこげ茶の線が走っている。自分の部屋の中が普通のまま残っているのが奇跡に思える。

 ママはこの日もどこかに出かけていたようだが、もう玄関を入って来ても悲鳴は上げなかった。ただ半開きの目で家の惨状を無表情に見ていただけだ。

 これは……ゲージュツだけでなく、別の意味でも、なんだか良くない気がする。

「ママ。味噌汁の卵が硬すぎるんだけど」

 それなのにパパは翌朝、いつものように落とし卵の味噌汁を飲み、卵の火の通り具合に文句まで言った。確かに味噌汁の卵は半熟が一番おいしいと思うが、パパは今ママにそれを言ってもいい状況かどうか、分からないのだろうか。

 ママはパンをかじりながら無表情にパパをちらっと見ただけだった。

「そう。でもうちはあなたが会社を辞めたおかげで貧乏になったのだから、朝食が食べられるだけありがたいと思わないと。卵だって今は値上がりして高いんだから」

 そう言いながらもママは新しい卵を冷蔵庫から持ってきて割り、パパが持っていた、わずかに汁の残る汁椀にポチャリと中身を落とした。生卵だ。ママはパパの要望に応えたのではなく、ただ嫌がらせをしたのだと思う。

 ところがパパはいきなり喜色満面で生卵を見つめ、一口で呑み込んでしまったのだ。

「うまい! ママ、ありがとう!」

 ……確かに生卵をそのままコップに入れて飲む人が世の中にいるのは、テレビで見たこともあるので知っている。しかしパパがこれまでこんな食べ方をしたことは一度もない。いつもスーツを着ていたパパは、会社を辞めてから、塗装―じゃなくてゲージュツのためか、Tシャツにジーンズのオーバーオールという軽装に変わったが、食べ物の好みまで変わってしまったのだろうか。

 ママは目を見開いて満面の笑みのパパを見下ろしていたが、やがて口を大きく開いた。

「ふざけるんじゃないわよ‼」

 怒鳴られて驚いたパパが、椅子ごとひっくり返りそうになる。

「何がゲージュツよ。何が卵よ。もうこれ以上家の中を塗りたくるのは許さないからね。ママや美紗の部屋も、もちろんキッチンもリビングも、全部禁止‼ 絶対禁止‼」

 禁止、とママは断言したが、その日下校すると、家の外壁と車がゲージュツされていた。外壁は赤とオレンジのまだら模様。車は黄緑と緑のシマシマ。ママが家の中は全部禁止と言ったので、パパは家の外ならいいと解釈したらしい。そういう意味ではなかったと思うが……

 とにかく、これで我が家がどういうことになっているか、近所に知れ渡ってしまった。これまでは家の中だけだったので秘密にできたが、もう隠せない。家から少し離れた道端にも、近所の家の窓にも、たくさんの人がいて、こちらを見ながらヒソヒソ話しているのが分かる。通りがかりの車が急停車して、身を乗り出した男の人が、うわ、マジか、と呟きながらスマホで撮影している。早晩、友美にもバレるだろう。

 もし友美やほかの友達に、距離を置かれたら……

 私はその場にくずおれてしまいそうなほど、絶望した。自分の家なのに、このまま通り過ぎたい衝動に駆られる。他人になって気楽に噂話できる方に回れたら、どんなに気楽か……

 ただ、そういう他人の気持ちになって、改めて広い壁面のゲージュツを見て、気づいたことがあった。よく見るとまだら模様にはなんとなく流れがあるのだ。ぐるぐる……ぐるぐる……。そう気づいてから、黄緑の曲線で覆われた家の車を見ると、やはり流れを感じた。うねうね……うねうね……

 何か……知っているもののような……決して楽しいものではないが……

 とにかく自宅を素通りしても、どうせ戻らなければならないのは分かっていたので、私はなるべく周囲の状況を見ないように下を向いて玄関の戸を引き、急いで中に入った。

 やはりそうだ。

 一回廊下の赤と黄のまだら模様も、よく見るとぐにょぐにょ。階段のストライプも少しずつずれていて、シュルシュル……

ちなみに、なんとなく予感はしていたのだが、トイレはレモンイエローと灰色のまだら模様に変わっていた。バスルームは黒と紫のストライプ。どちらもママが絶対禁止の例として挙げていなかった部屋だ。そしてこの二部屋の模様も流れ、うねり、渦を巻いていた。

 パパは、いったい何をゲージュツで表現したかったのだろう……

「パートの仕事を決めてきたわ」

 二階の自室でぼんやりしていると、いつの間にか帰宅していたママが、部屋に来て静かに言った。どうやらママはそのために、毎日外出していたらしい。

「あなたも早く担任の先生に奨学金の相談をしなさい。パパが無職なんだから、きっと貰えるはずよ。そして、なるべく早くこの家を出て、隣町のママの実家に移りましょう。この家にいたら頭がおかしくなっちゃうわ……」

「え……」

 ママの言っていることが正しいのは分かっていたし、こんな家の住人と思われるのが嫌なのは、私も同じだった。しかし実際に出て行こうと言われると、本当にそれでいいのか、迷っている自分にも気づいた。パパはある日突然おかしくなったというだけで、別に犯罪とか、他人に迷惑を掛けるようなことをしているわけではない。……近所の景観や落ち着きを、妨害しているかもしれないが。

「パパが一人になっちゃうよ」

 私は一応言ってみた。ママはふふっと寂しそうに笑った。

「パパはわたしや美紗のことより、ゲージュツの方が大事なんだって」

 ……そうかもしれない。

 天井を見上げながら私は認めた。今はどうやら屋根を塗っているらしく、キシ……キシ……と、パパの気配を上方に感じる。それがどんな色のどんな模様になるかは知らないが、私やママがどれだけそのゲージュツとやらで肩身の狭い思いをしているか、パパは想像することもなく、そもそも全く関心がないようなのだ。

 ただ、これでもう家の内外でママがダメと明確に言った部分以外は、ほとんど塗り潰されてしまった。もしかしたら……と私は考えた。これでパパは満足して、ゲージュツは終わるかもしれない。そうしたら、もしかしたらパパはどこかに再就職して、もとの地味だけど普通な生活に戻れるかもしれない。

 ほとんどない確率だと分かっていたが、その時の私はまだ、その可能性を捨てたくなかったのだと思う。


 それが私のただの願望であり妄想に過ぎなかったことは、すぐに分かった。家の内外と敷地を囲む塀まで極彩色に塗り終えたパパは、今度は家の改造を始めたのだ。

ある日帰宅すると、屋根の上に金色と黒の螺旋模様の煙突ができていた。翌日は紫。その翌日は、お風呂屋さんのような細い灰色の煙突。3本の煙突がそびえ立つさまは遠くからも目立つらしく、朝、集団登校中の小学生とすれ違った時、あの煙突キンキラハウスさー、と話題にしているのを聞いてしまった。

 パパの新たなテーマは円筒のようだった。煙突3本を作り上げると、今度は二階の外壁と一階の外壁へ穴を開け、プールのウォータースライダーのような形の、くねくねしたチューブを取り付けてしまった。チューブは二階の父の書斎を貫き天井から、どうも屋根の煙突に続いているようだ。確かに3本の煙突もよく見ると真っすぐではなく、微妙にうねうねと曲がっている。何のための煙突やチューブなのかは、もちろん分からない。

 一番困ったのは、家の内側の私やママが使う部分にまで、パパが穴を開け始めたことだった。

「ぎゃっ!」

 煙突とチューブが取り付けられた翌日、恐る恐る帰宅して二階の深紅の廊下を歩いていた私は、床にぽっかり空いていた直径三十センチほどの穴に危うく落ちそうになり、久々に悲鳴を上げた。

「なな、なんで。何でこんなところに穴があるの⁉」

 思わず一人で叫ぶと、穴の奥から体を滑らすようにパパの顔が現れる。

「やあ、美紗。おかえり」

「きゃあああああああああっ!」

 今度の悲鳴は危険や恐怖からではなかった。制服のスカートの真下になるところに、パパの顔があったのだ。

「ドスケベ! エッチ! 変態!」

私は叫びながらスカートの端を押さえ、慌てて横に飛び退いた。

「な、なんでこんなところに穴を作るの。おかしいでしょ。さっき危うく穴に落ちて骨折するところだったんだよ!」

 私は本当に今度こそ激怒したが、パパは心外だという様子で、メガネの奥から私を見た。

「大丈夫だよ。骨折なんかしない。ここにも一階に直結するチューブを取り付けるんだ。そうしたら階段なんか使わなくても、すぐにシュル~ッと一階まで降りられる。便利だろう?」

 もう意味が分からなかった。私はスカートの中を覗かれないよう距離を取ってから、両手を腰に当ててパパを見下ろした。

「とにかく床に穴を開けることは絶対禁止。今度こんなことしたら、あたしパパとは一生口きかないからね!」

 だんだんママに言い方が似てきたと思いつつも、私はパパに言い放った。パパは、うう、と悲しそうに唸ったが、そのまま再び床下の暗がりに消えていった。

 少し……痩せたかな……

 そう思ったのは自分の部屋に戻り、しばらく一人で腹を立てた後のことだ。とはいえ私は本当に口をきかないつもりでいたのだが、その後、私が部屋にいる間に何度か騒音が響いて、ママがパートから帰ってくる夕刻までには廊下の穴は塞がれ、かわりにすぐ横の壁に新たな穴が開いた。私が一生口をきかないと言い放ったのが効いたらしいが、もう喜んでいいのか悪いのかよく分からない。壁を覗き込むと、確かに青いにゅるっとしたチューブが繋がれていた。しかし幅はかなり狭い。小柄な私でもすぐ引っかかって、下に降りるのは無理そうだ。パパは一階に降りられると言っていたが、煙突と同じで、ただのオブジェだ。

 と、その時は思っていた。

「ねえ……パパ」

 数日後の夕食。

 この頃のパパは家の改造に夢中で食事に姿を見せることも少なくなっていたが、数日ぶりに見るパパはさらに痩せ、廊下の穴から見た時ともかなり変わっているように見えた。

「パパ、皮膚がパリパリしてるよ。生卵以外のご飯もちゃんと食べて寝ないと、病気になっちゃうよ」

 本当だった。肌荒れというのか、パパの顔や首元、手など服から見えるところの皮膚がすべて白く浮き、めくれ上がってる。まるで白い鱗だ。原因は偏食だと思った。最近のパパはおかずも、毎朝欠かさなかった納豆かけご飯も全く食べなくなり、ただ汁椀の生卵をごっくんと呑み込むだけなのだ。栄養が足りているはずがない。

 しかしパパは、こけた頬を両手でパンパンと叩いただけだった。

「そんなことはない。パパはとても元気だよ。前より調子がいいくらいだ」

「そりゃあ毎日、自分の好きなことだけしてるものね」

 ママは冷ややかな口調で言った。ママは以前にもまして機嫌が悪い。パパが二階の廊下の天井に穴を開けて、うねうねと曲がったチューブを通し、横壁の穴のチューブにつないでしまったので、廊下がとてつもなく通りにくくなってしまったからだ。ママはパートをしながら着々と家を出る準備を進めていたが、最近は、出て行く前に行き過ぎた改造で家ごと潰されてしまうに違いないと、いつも呪われたような表情で呟いている。

 ママがドンッ、とパパの前に大きな椀を置いた、

「そんなに生卵がいいなら、もうご飯もおかずもなしで卵だけでいいんじゃない?」

 パパは目の前の椀をじっと覗き込んだ。私も思わず身を乗り出して中を覗く。生卵が3個……だけ。嫌味だとしてもさすがに酷い。パパは目を見開き大きく息を吸い込んだ。

「ありがとう、ママ。やはり僕のことを一番分かってくれるのはママだ!」

 そう言ってパパは、喜色満面で生卵3個を一気に呑み込んだのだ。

 この時のママの表情を、私はよく覚えている。喜んでいいのか悪いのか分からないような、私にも覚えのある表情。

 パパは生卵を飲み下した後も、しばらくその味を噛みしめるように瞑目していた。私や母の受けている大迷惑も知らず、幸せそうな笑みを浮かべて。

 それが、私がパパを見た最後だった。


「ぎゃああああーっ!」

 翌朝、私はママの絶叫で飛び起きた。絶叫自体は、すでにこの家では珍しくもない。今度は何をゲージュツされたのか、と思うくらいだ。しかし二階廊下の奥を見てぶるぶる震えているママの後ろ姿を見て、今回は何か特別なことが起きたらしいと、なんとなく分かった。

「パパが……」

 ママは私の足音に振り返り、すがりつくような表情と声で言った。ママの指さす廊下の突き当りの壁には、穴が開いていた。それも驚くことではない。その手前の床。

床に、不思議なものが落ちていた。

 人の形のような……正確に言えば、パパが着ていたTシャツとサロペット付きのジーンズ、そしてその衣服からパパが頭と両手両足を伸ばしたような形の、半透明の乾いたカサカサの皮膚……のようなものが伸びている。

「パパが……だ……だ……脱皮した……」

 ママはそう言ったきり、その場に座り込んだ。

 それは確かに、脱皮としか表現しようのないものだった。カサカサした腕らしい皮膚の先は五本指に分かれていて、人間の手の形にしか見えない。しかし人間はもちろん脱皮などしない。脱皮するのは昆虫とか甲殻類とか爬虫類とか……いや、そもそも脱皮したとするなら、脱皮した新生パパは一体どこに行ったのか……

 その日、パパは朝食の時も夕食の時もキッチンに現れなかった。その翌日も。その翌日も。

 パパの姿を見なくなって三日目の夜、ママは夕食の時にテーブルに置いていた三つの卵を割り入れた椀を、寝る前に二階の廊下の突き当りに置いた。パパの服と脱皮した皮膚らしきものが落ちていた場所であり、パパが最後に開けた壁の穴の前だ。

「昨夜ね……気のせいかもしれないけど、パパが家にいた気がするの。シュル~ってチューブを通り抜けるような音が、何度か聞こえたような……」

 ママは椀の前にしゃがみ込んで、壁の穴を覗きながら言った。実は、私もその音を聞いていた。パパだ、と私も思った。しかしチューブは、本当に子どもも通り抜けられないくらいの直径しかないのだ。私もママもあり得ないことを考えている。

それでも私はママの横にしゃがみ込んで、一緒に壁の穴を覗いた。そして暗い穴の奥に呼び掛けた。

「パパ。卵は生だからねー。聞こえてるなら腐る前に早く食べてねー」


「美紗ああああああああああああっ!」

 またママの絶叫で飛び起きた。翌朝のことだ。今度は、ママは私の部屋までやって来て、まだ寝ぼけている私を強引に廊下に引っ張り出した。

「美紗、早く、はやく!」

 速く歩きたいが、廊下のチューブを乗り越えたり下を潜ったりしなければならないので、ママも私もそう速くは進めない。

 椀の卵が、なくなっていた。

「食べてる……」

 私はママと椀の前にしゃがみ込んだまま、顔を見合わせた。

「ね!」

それから二人でふふっと笑った。クスクス笑い、それからアハハハと大笑いした。泣きそうなほど笑った。ママの笑顔を見たのは本当に久しぶりな気がする。

 ひとしきり笑った後、ママは機嫌よさそうに立ち上がった。

「さ、朝ごはん食べよ、美紗」

 なんとなく、ママは前に進むことに決めたのだと、その時私は感じた。

 

 それでもパパが私たちの前から姿を消したのは事実だったので、数日後、ママは警察にパパの失踪届を出した。パパがいないのに私たちが平気で暮らしていたら変だし、ましてパパが脱皮して今でも気配を感じるなどと誰かに説明したら、もっと面倒なことになるに違いない。

 私も前に進もうと思った。ママがパパの失踪届を出したのに合わせて、私も担任の先生に、ずっと保留にしていた奨学金の相談をしたのだ。今年初めて三年を担任した、まだ二十代の先生は、もちろん驚いた。

「お、お父さんが無職になって……し、失踪?」

 先生はたっぷり十秒、目を丸くして私の顔を見ていたが、とにかく奨学金の申し込みはまだ間に合うから安心しろ、と慌てた様子ながらも請け合ってくれた。申し込みの案内書を探しながらも、先生は首を傾げた。

「それにしても、あの変わった家……ああ、すまん、ゲージュツ的な家の噂は俺も知っていたが……どうしてお父さんは会社を辞めてまで、いきなりゲージュツ家になろうなんて思ったんだろう。もともと絵を描いたりとか、美術関連のことが好きだったのかい?」

 私は答えられなかった。

 私は多分、パパのことを何も知らない。 

 パパはとても無口な人だった。食事中に私とママがおしゃべりしていても、その横で黙々と納豆を混ぜていたようなタイプ。悪い人ではないけれど、喜怒哀楽も、印象も、すべてが薄いというか……。私もママも、先のことで頭がいっぱいで、なぜパパがこんなことをしたのか理由を聞いたことがなかった。

 それでもとにかくパパが何かを描いたり作ったりしている姿は見たことがなかったし、卒業した大学も美術系ではないのは知っていた。

 その日の夕食の後、ママに聞いてみた。

「全然。美術に興味があるなんて聞いたこともなかったわ。……ただ……そういえば……」

 ママは日課となっている、パパ用の椀に卵を割り入れる手を止めた。

「会社を辞める数日前。妙に身を乗り出してテレビ番組を見てたわ」

「テレビ番組?」

 不気味なことでも思い出したように、ママは不穏な表情の顔を私に向けた。

「そう。人生の途中で急に目覚めて全然違った仕事に飛び込んだ人特集、みたいな番組。サラリーマンを辞めて漁師になったとか、学校の先生を辞めて大道芸人に弟子入りしたとか、有名ホテルの料理長だったのに、両親のために介護福祉士に転職したとか……その中に、大会社の重役だったけれど絵が好きで定年退職後に美大に入り直した、というのも確かにあったわ」

 しかしそこまで言って、すぐにママは不満そうな顔になった。

「でも、それぞれちゃんと理由があったわよ。もともと釣りが好きとか、教室でも大勢の子供の前で芸を見せるのが好きだったとか、親の介護が必要になったとか、本当はずっと美術をやりたかったとか。でもパパはそうじゃないでしょ。定年退職する年でもないし。今のパパが一番すべきだったのは家族を……わたしと美紗を守ることよ。それを放棄してしまったことは、今でも全然納得していないんですからね!」

 ママはどこかでパパが聞いていると考えているらしく、キッチンの天井や壁に向かって、少し声を大きくした。

 とはいえ、寝る時間になるとママはいつものように卵の入った椀を二階廊下の突き当りに置き、壁の穴の奥を心配そうに眺めた。最近のママはいつもこんなふうに、寝る前には心配そうな顔になり、起きて椀が空になっているのを確認すると元気になる、ということを繰り返している。そしてごくありきたりなパートの仕事だが、鼻歌を歌いながら出かけて行く。

 引っ越しの準備は、止めたようだ。

 私は友美にも本当のことを言って自宅に招待することにした。

 実は、家がとんでもないことになり始めてからずっと、私は「今日もお客様があるから」と言って、友美が遊びに来るのを断っていたのだ。でも、本当は友達に嘘をつくのは嫌だったし、苦しかった。以前のようにお互いの家を行き来したいと、ずっと思っていた。

 友美は興味津々の表情で私の家に入り込み、遊園地のアトラクションのようにチューブの張り巡らされた極彩色の家の中を面白がり、私の部屋にたどり着いて「フツーだ!」と、また面白がった。もっと早く言えばよかった。

 多分友美は、私の家のことをずっと前から知っていて、私の方から言い出すのを待ってくれていたのだと思う。

 ちなみにパパのゲージュツが施されたこの家だが、情報番組で何度か紹介されたことはある。「街の小さな異世界さん」とか、「日本全国、ナンデスカ、コレ」などだ。わずかだが取材の謝礼を貰ったこともある。残念ながら、パパがゲージュツで稼いだお金は、このわずかな謝礼のみだ。

 私は奨学金を受け、高校と大学を卒業した。卒業した頃、裁判所から失踪宣告というものが出て、ついにパパは死んだことになってしまった。つまり生命保険の保険金が下りたのだ。奨学金は返済しなければならなかったので、保険金で返せたのはありがたかった。こんなことになったのもパパのせいなのだが、なんとなく、パパありがとうと思ってしまう。

 ところで、この失踪宣告の少し後、会社でパパの部下だったという男の人が、突然家にやって来た。。

「ええっ、失踪?……そうなんですか。知りませんでした」

 その人は目をパチパチさせながら家の内外を眺め、中に入って仏壇のパパの写真に手を合わせてから、改めて私とママの方に向き直った。

「あのー、この家の外壁とか、廊下とか玄関とか……の色や模様。それから、あちこち通ってるチューブのうねうね感とか……モチーフは全部、ヘビですよね」

 ああ、言っちゃった。

 私とママは顔を見合わせた。それはなんとなく気づいていたのだが、ママも私も爬虫類は苦手だったので、ずっと口には出さないようにしていたのだ。しかしその人は、特にこちらの反応を気にする様子もなく、考え込む様子で何度も頷いた。

「やっぱり……と言うか、そのヘビのことが僕はずっと気になっていて、今なら課長も思い出話として答えてくれるかなと思って、住まいを探して来てみたんです」

 その、ヘビのこと……?

 その人の話は不思議に思っていいのかどうか、よく分からないものだった。

 パパが会社を辞める直前、二人で地方の工場に出張で出かけたそうだ。

 その帰り、駅への道を歩いていると、一匹のヘビが草むらに消えていくのが見えたのだという。

 パパは急に立ち止まって、その人に言った。

―俺も地方の生まれでね。実は子供の頃、友達と寄ってたかって、見つけた小さなヘビを殺してしまったことがあるんだよ。やっつける、みたいな気分でさ。

 その人は話を合わせるつもりで、まあ昔の子供なら結構やったんでしょうね、と言った。パパは苦笑いしたという。

―確かにね。ただ……最近そのことが妙に思い出されてならないんだ。あのヘビにも未来があったのに。大きくなった時の夢も希望もあっただろうに、と思うとね、なんであんな酷いことをしてしまったんだろうって……

「そんな大げさな、と思いましてね。そんな昔の、小さなヘビ一匹に、夢とか、希望とか……」

 だからその人は、どうしてヘビの未来とか希望とか、そんなこと考えるんですか、と尋ねた。しかしパパはまた苦笑いして、答えなかったそうだ。

 よく分からなかった。パパは、昔殺したヘビへの懺悔として、こんな家を作り、自らも脱皮してしまったのか。あるいは、昔殺したヘビが今頃になってパパに乗り移り、ゲージュツさせてしまったのか。それとも……パパは本当にゲージュツ家に憧れていたのに普通のサラリーマンになってしまって、そこに未来を断たれたヘビの記憶と、夢を後押しするようなテレビ番組を見たことが重なって……

 私は数日考えたが、やはり分からなかった。分かっているのは、今もパパは多分元気で生きているだろう、ということだけだ。なぜなら今でもママが置く椀の卵は翌朝には必ずなくなっているし、チューブや家の壁の内側で、シュル~と何かが動いていくような気配を感じることもある。時には明らかにパパのような声が聞こえることさえある。幻聴かもしれないが、それは「うほほ~いっ」という、なんとも上機嫌な声なのだ。少なくともパパにとって、今の姿や今の家は大満足の正しい状態であるらしい。

 そういえば近所で窃盗事件が何件か起きた頃、この煙突ハウスにも泥棒が入ってきたことがある。ママがキッチンの掃き出し窓の鍵を、うっかり閉め忘れてしまったのだ。

 ぎゃああああああああっ、という絶叫で目が覚めた。この家で絶叫は珍しくもないが、ママの声でも私の声でもないので、驚いて飛び起きた。

―うわっ、バケモノ! いや違います。ごめんなさい! もうしません! 助けてーっ!

 おかしな叫び声が続いた後、走り去る足音がして、私とママがキッチンに下りた時にはもう、開いたままの窓のカーテンがわずかに揺れているだけだった。

 泥棒は何を見たのだろう。もしかして、脱皮してからは二度と姿を見せなくなったパパの今の姿?

 そうだとしたら、パパは私やママを守っていない、とママは言っていたけれど、多少は守っていると言えなくもない……気もするのだ。





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