第15話 まだ、いる
だから田舎の学校に転校なんて、イヤだったんだ。
住宅地の外れを曲がりながら、僕は急に痒くなってきた腕を掻きながら、長い溜め息をついた。
土が剥き出しになった路面の両脇には夏草が生い茂り、風にザワザワと揺れている。
雑草。雑木林。四方を囲む山。降るような蝉の声。
父さんは自然に囲まれていいじゃないかと言うけど、本心じゃないのは顔を見れば分かる。父さんが本心じゃないことを言う時はいつも、笑っていても目が僕以外のところを見ているんだ。でも転勤は会社の命令だから仕方ない。それはまあ僕も分かる。分かるけど……
今朝になって父さんは、急に会社からの呼出しがあったから、学校には付き添えなくなったと言い出した。
大丈夫だよ、匡。昨夜もう学校には挨拶に行ってるんだから。校長先生も親切そうだったじゃないか。母さんが死んでから、俺と匡はこれまでずっと、男同士助け合って頑張ってきた。今回だってがんばれるよな。
そう言う父さんは、やはり笑っていたけれど目は天井の方を向いていた。それに校長先生には会ったけれど、担任の先生は出張で留守だった。まだ三年生なのに、転校初日なのに、一人で学校に行って、職員室に行って、初対面の担任の先生に会うなんて……
ますます痒くなってきた腕を見ると、見たこともないほど大きな白っぽい盛り上がりが皮膚にできていた。
蚊に刺されたと思っていたけれど、本当かな。このままどんどん痒くなって、どんどん広がっていったらどうしよう……
情けない気持ちで顔を上げたところに、今日から僕が通う小学校の門があった。
昨日は暗くなってから学校に行ったので気づかなかったが、かなり古くて小さな小学校だ。コンクリートの校舎はあちこちがひび割れていて、塗られたペンキも剥げかかっている。
そして、静かだった。朝なのに妙にしんとしていて人気がない。学校なのに。
ひょっとして今日は休校日? 僕と父さんが知らなかっただけ? それとも以前の学校とは登校時間がそんなに違うのか?
そう思った時、いきなり肩を叩かれた。
「わっ!」
飛び上がって振り返ると、きれいな若い女の人がにこにこ笑って立っていた。
「おはよう。ね、キミじゃない? 今日から来る転校生」
彼女は一重の澄んだ目を見開いて、僕の腕をのぞきこむ。
「うわぁ、噛まれちゃったねえ。やぶ蚊だよ。メチャクチャ痒いでしょ。後でスース―するの塗ってあげるから」
そこまで一方的に言った後、彼女はアッと言いながら自分の胸に手を当てて、僕にもう一度微笑んだ。
「そうそう。私がクラス担任の宇津井です。よろしくね。じゃあ、一緒に教室に行きましょ。みんなも待ってるから」
「みんなも……?」
でもこの静かな学校の、どこに……
言いかけて僕は気づいた。急に声が聞こえた。騒がしい。
「先生、早く来てー」
「ショウタとカズヤがまたケンカしてるー」
「あ、転校生だ」
教室の窓から身を乗り出すやつ。昇降口に走って行く子どもたち。
それは僕が見慣れた、登校時の風景だった。僕はなぜ静かなのだろうと不思議に思っていたが、どうやらこの学校の登校時間より、ほんの少し早めに来てしまっただけだったらしい。
廊下を走る子どもを注意しながら歩く宇津井先生に連れられて、校舎二階の教室に入ると、すぐに複数の男子が僕に話しかけてきた。
「俺、ユウキ。おまえは?」
「――の新曲、知っとる?」
「昨日の―――すんげえカッコよかったよな。おまえも見た?」
正直何のことを言っているかよく分からなくて、僕に答えられたのは最初の名前の質問だけだった。
「匡。木村匡」
タスク、とユウキたちは確認し合い、後は普通にどこから来たのか、どうして転校することになったのか、という話になった。ただ僕がこれまで住んでいたところも、ここよりは町中だが、言ってみればただの地方都市だ。すげー、都会じゃん、とユウキは感心した顔で言ったが、ちょっと複雑な気分だった。
とにかくみんな優しそうで、僕は安心した。転校生はいじめにあうかもしれない、と前の学校の友達に忠告されていたので少し気にしていたのだ。相変わらずユウキたちのするアイドルやテレビ番組の話は誰のことなのか何の番組なのかよく分からなかったが、たぶん……そのうちここの流行りも分かるようになるだろう。
「ねえ、タスク君逆上がりできる?」
「あたしもユキちゃんもできないから、いつも先生に放課後残されるの」
恐る恐る、という声で女子も話しかけてきた。
「僕はできるけど、できない子も前の学校ではたくさんいたよ。放課後残すなんてひどいね」
「だよね」
「ね」
僕の答えにほっとした様子で女の子たちはうなずき、顔を見合わせて笑った。確かに女子も前の学校より、ずっと大人しくて素直そうだ。
僕はたぶん、この学校でやっていける。そう思った。
後から考えるとなんだかおかしいな、というところも、もしかしたらもう見えていたのかもしれないけど、そういうのはきっと気づかないように、考えないようにしていた。だって僕は転校初日で、なんとかこの学校に馴染まないといけない、馴染まなければ後がないと、自分なりに必死だったから……
2時間目の算数の時だった。
宇津井先生が黒板に書いた問題をノートに写し間違えた僕は、消しゴムで消そうとして、指でつまんだ消しゴムを机から落としてしまった。消しゴムはちょうど隣の机に座っている男子の足元まで転がった。
「ごめん、その足元の消しゴム拾ってくれない?」
僕はその子に小声で頼んだ。しかし彼は取ってくれなかった。それどころかこちらを見もしない。完全に無視だ。別に問題を解くのに集中していて声が聞こえない、というわけでもなさそうなのに。
「足元の消しゴム、拾ってくれない?」
もう一度少し大きな声で頼んだ。ふいにその男子は顔を上げた。取ってくれるのかと思う間もなく、彼は黒板を見ながらノートの計算を消し、もう一度解き始めた。
「どうしたの、木村君?」
宇津井先生がチョークを持ったまま、僕に尋ねる。
「あの……消しゴム拾っていいですか」
仕方なくそう言うと、もう一つ隣の席にいたユウキが気づいて、素早く床の消しゴムを拾い、手をのばして僕に渡してくれた。
「ありがと……」
僕が礼を言うと、ユウキは目をくしゃっと細くして笑う。人懐こい笑顔にほっとする。
それにしても、ヘンな奴だ。
僕は隣の男子を見て、再び嫌な気分になってしまった。彼は僕と先生とユウキのやり取りにもまったく無関心で、黒板とノートを交互に眺めているだけだった。
「一体何なの、あいつ」
2時間目が終わった後の長休憩に、僕はユウキに言ってみた。
ああ……と僕の見る男子を眺め、ユウキは口ごもった。しかしすぐに笑った。
「ま、いいじゃん、別に。気にしない方がいいよ。それより早く校庭行って遊ぼ」
無理に話を変えるように、ユウキが僕の腕を引っぱる。僕はまだ納得できる気分ではなかったが、ユウキにつられて笑い、彼と一緒に話しかけてきた二人―ショウタとカズヤが手を振る校庭に走って出た。
しかし少しずつ、気にしないでいるのは無理だということが分かってきた。
サッカーボールで遊んでいるうち、フェンスの方にボールが転がってしまった。ボールが止まったところに男の先生がいたので、僕は今度こそ、と思って言ってみた。
「先生、ボール取ってください」
先生はゆっくりと僕の方に顔を向けた。しかしボールには近づこうともしなかった。僕も見てない。たまたま僕の方に顔を向けただけ、という感じだ。先生はボールにも僕にも目もくれず、すぐにすたすた歩いて行ってしまった。
また、無視。しかしそれだけでは終わらなかった。下級生に廊下でぶつかって、あ、ごめんと言った時も、校庭で転んでひざに血を滲ませている上級生に、大丈夫ですかと尋ねた時も、誰も僕の方に顔を向けず、何も答えなかったのだ。
おかしい、おかしいと思いながら3時間目まで授業を受けてやっと分かってきた。この学校で僕に声をかけ、返事をしてくれるのはユウキたち三人と女子二人、そして宇津井先生の六人だけだった。それ以外の先生も子どもも、まるで僕を空気のように無視する。もっと正確に言えば、六人も無視されていた。誰も六人に話しかけない。誰もユウキたちと遊ばない。2時間目に僕を無視した隣の男子も、他の友達とは普通に何か話しているのに、隣に座る僕やユウキは目もくれない。宇津井先生もまるでそれが分かっているように、僕やユウキたちには授業中に話しかけるが、他の子どもを呼んだり、指さすことはなかった。
いじめ? でも僕が知っているいじめとは、全然雰囲気が違っている気がした。例えれば、まるで僕と六人以外はテレビ画面の画像のような感じなのだ。テレビ画面の人々に話しかけてもこちらを見ないのは当然だし、画面を見ている僕に彼らが返事をすることもない……
でもそんなの絶対おかしい!
ただ、僕はどうしてもその疑問を宇津井先生やユウキたちに言うことができなかった。言ったらまた消しゴムの時みたいに、ユウキも、たぶん宇津井先生や他のみんなも困った顔をするに違いない。僕はユウキたちを困らせたくなかった。
なぜなら……
「そうだ、木村君。もう痒みは消えた?」
四時間目のチャイムがなって席に着くと、宇津井先生が虫刺され用の薬を持って席までやって来た。そう言えばもう痒くない。しかし先生に見せた腕にはまだ白い盛り上がりが薄く残っていた。
「念のため塗っておこうか」
そう言いながら、先生が薬の容器の先を腕に押しつけて動かす。
ザリリッ
硬くてザラザラした紙と皮膚が擦れるような痛みに、僕は慌てて腕を引いた。
「先生。これもう薬がなくなって乾いてるよ」
ユウキが身を乗り出し、呆れた声で言った。宇津井先生も容器を振って目を丸くする。
「本当だ。ごめんごめん」
「先生、しっかりしろよ」
ショウタが言い、カズヤや女子二人が笑い出す。宇津井先生はもう一度、心底申し訳なさそうに僕に謝ってから、頭を自分でコンとつつき教壇に戻った。
……そうだ。なぜなら六人といると、とても穏やかで優しい気分になるのだ。前の学校も楽しかったけれど、これほど穏やかではなかった。それなりに気をつかわないといけない友達もいたし、先生も厳しかった。蚊に刺されたくらいで薬を塗ってくれるなんてありえなかった。
だから僕は変だ、変だと思いながらも、もう少し、あと少し、この和やかな場所にいたかったのだろう。
「ああ、いい匂い。そういえば今日の給食はクリームシチューだった」
「四時間目になると毎日メチャクチャ腹減ってくるよな。この給食作る匂いのせいで」
斜め前に座るショウタとカズヤが話し出す。どうやらこの学校は校内で給食を作っているらしい。ただ僕自身は何度鼻をクンクン鳴らしても、何も匂うものはなかった。鼻が詰まっているのだろうか。そんな感じはしないけれど。
「デザートはゼリーだよ」
ユウキが机の前の方に顔を出して、僕に小声で言う。とても嬉しそうに言うので、きっと大好物なのだろう。その後は給食のメニューで何が一番好きか、という話になった。
「やっぱり鶏のから揚げかな」
「ソフト麺」
「アイスクリーム」
ついつい声が大きめになってしまい、教科書を読んでいた宇津井先生ににらまれる。それでも、僕も給食は好きだし、三人につられてワクワクしてきた。しかしふいに、その楽しい会話を止めるような、寂しい声が後ろから聞こえた。
「でも……きっと今日も食べられないよ」
僕は振り向いた。言ったのは僕の二つ後ろの席に座っている女子、逆上がりのことを聞いてきたハルミという子だった。
「うん……たぶん無理だよね」
隣に座っていたもう一人の話しかけても大丈夫な女子、ユキも目を伏せてつぶやく。なぜ、食べられないのだろう。
「食べられるよ!」
むきになった声でユウキが言い返し、僕を指さした。
「だって今日は転校生がいるんだよ。昨日までとは違うんだ」
「そうよ、今日はきっと食べられるわ。だって転校生がいるんだもの」
黒板に板書していた宇津井先生まで、振り返って微笑みながら言い出す。またわけの分からない会話だ。どうして僕がいると昨日までと違って、給食が食べられることになる。
「一体何のこと?」
僕は勇気を出して尋ねたが、誰もはっとした様子で言葉を濁し、答えてはくれなかった。
四時間目が終わるチャイムが鳴った。
みんながガヤガヤと何か楽しそうに話しながら席を立ち、白いマスクをした給食当番が大きな鍋やトレーを教室に運び込んで、給食の準備を始める。
「給食だ」
「給食」
「ああ……また給食の時間が来た」
そうつぶやくユウジやカズヤたちの顔は引き歪んでいた。もうさっきまでの楽しそうな様子はない。むきになった様子もない。むしろ絶対手に入らないものを目の前に見せつけられているような絶望感を感じた。なぜ、手に入らないのだろう。なぜ、食べられない。なぜか、僕はぞっとする。
一体何が……始まる?
「ああ……いやだ。いやだ。給食の時間!」
ユウキが笑顔の似合う日焼けした顔を両手で覆って叫んだ。
「やはりダメだ。またあいつが来るんだ」
カズヤも頭を抱える。
あいつ……?
「給食の時間、来るな。あいつ、来るな。来るな!」
ショウタも泣きそうな顔で絶叫する。怖くて僕は、とにかく理由を聞こうと、女子二人の方に振り向いた。
「え……」
一瞬、何か黒い影のようなものが目の前を動いた。影は長い棒のようなものを持っていた。棒の先には鳥の鉤爪のような形の、大きな金属の刃がついている。まるで死神が持っているような大鎌の刃。それがゴウッと音を立てて教室を真横に切り裂いた!
スパン、と目の前にいるユキの首がちぎれて飛んだ。逃げようと立ち上がったハルミのTシャツの胸から刃とともに赤い糸が流れて、横の壁をビシャッと叩いた。
何かが僕の足元にドンと落ちる。血まみれのユキの首だ。見開いたままの目が僕を見ている。
「うわ……ぎゃあああああっ!」
僕は反射的に逃げようとして、机の脚に引っかかって転び、尻もちをついた。
何だ、これは。何だ、これは!
その頃にはもう教室にいた全員が泣き叫びながら逃げ回り、廊下に近い者は廊下に飛び出していた。床の血だまりの中で、顔を引きつらせながら這っている者。服の背中に血を滲ませながら、痛い痛いと泣いている者。
大鎌を振り回しながら子どもを追いかけているのが誰なのかは、よく見えなかった。大人なのは分かるが、黒くて顔も服装も分からない。大鎌が当たって給食のバケツ型の容器がひっくり返り、シチューが血まみれの床に広がる。パンも、ほうれん草のおひたしも、ゼリーも……その上をみんなの上靴が踏みつけて行った。すべてが混じってピンク色の汚物のようだ。もう……食べられない。
そうだ、先生は。宇津井先生は?
僕は必死で身を伏せて、宇津井先生のいる教室の前の方に移動しながら顔を上向けた。
宇津井先生は、僕に微笑みかけた時の笑顔のままで、まるで人形のように黒板の前に立っていた。一重の美しい目を見開いて、血だらけで泣き叫ぶ子どもたちにも表情を変えることなく、助けようとすることも逃げなさいと大声で言うこともなく、本当に人形のようだった。
人形のような先生の顔の頬に、ピリッと赤い横線ができる。額にも、胸にも、腕にも、足にも、まるで先生に赤い縞模様ができたように、たくさんの赤い線が走った。赤い線に小さな赤い球が浮いてきたかと思うと、一斉に血が噴き出した。
「ぎゃああああああ!」
今度こそ絶叫する僕の前で先生はゆっくり横向きに倒れ込み、ダンッと音を立てて教壇に転がった。分解された人形のパーツのように、バラバラになって。
「ヒッ……ヒィィ……」
逃げたいのに、体が動かない。
〟ああ……やはりまた今日も給食は食べられなかったね……〟
残念そうなユウキの声が聞こえた。ユウキの机があった辺りに恐る恐る目を向けると、床に仰向けに転がった彼の腹に、大きな赤い花が咲いているのが見えた。
〝転校生が来ても、やはりダメなんだ〟
カズヤの声もがっかりしていた。机にうつぶせた彼の頭は、血だまりの中に沈んで見えた。
〝やっぱりダメなんだよ。あいつの顔を見ないと。犯人を捕まえないと〟
ショウタの声も聞こえた。彼がどんな状態なのかはよく分からなかった。ショウタが履いていたズボンの足は見えたが、その上の胴体があるべき場所には、何も見えなかったからだ。
〝でも誰も顔を見ていないし、名前も知らないんだよ〟
ユキの諦めたような声も聞こえた。ユキの首はじっと僕を見たままだった。
〝ああ……どうしたら給食を食べられるんだろうね〟
胸を真っ赤に染めたハルミの、溜め息まじりの声。
宇津井先生は何も言わなかった。人形のパーツのように。
気がつくと、教室に残っているのは僕と六人だけになっていた。
風が窓から吹き込んでくる。
風……?
僕は周囲を見回した。
ここは……
今の今までそこにあった教室が、変わっていた。
目の前に広がる光景が信じられなかった。下が見えないほど分厚く埃やゴミがたまった床や机。壁の掲示物は全て茶色に変色して、破れている。教室の後ろにある黒板もボロボロに腐り、天井の照明は蛍光管が外れて、もうすぐ落ちそうだ。窓ガラスも全部割れて、破片が窓際に散らばっていた。壁に残ったままの黒く糸を引く染み。そしてその染みも見えなくなるほど大量に描かれた、マジックやスプレー缶を使ったらしい落書き。
ここは、どこだ……
こんなの、僕がさっきまでいた小学校じゃない。いや、これがこの小学校の本当の姿だとしたら、一体今まで……僕はどこにいたんだ!
腐った黒板の文字が少しだけ見えるところがあった。
昭和――年六月―日
今日のこんだて クリームシチュー ほうれん草のお――
パン 牛― ゼリー
〝でも、やっぱり給食食べたいよ……〟
ユウキの声がまた聞こえた。腹に大きな赤い花を咲かせたまま、ユウキは何度かビクンビクンと体を震わせ、やがてむっくりと起き上がった。
〝そうだね。どうしたら食べられるか、またみんなで考えないと〟
カズヤもぱっくり割れた額から血を流しながら、机から頭を起こす。
〝うん。考えないと〟
そう言うショウタの足は、床をズズ……、ズズ……と動いて、離れたところにあった胴体とつながり、くねくねと立ち上がった。
〝あたしは逆上がりの練習もしないといけないの〟
ハルミは沈んだ声で言い、切り裂かれた胸を閉じるように手で押さえて身を起こした。
〝ああ……いつになったらあたしたち、給食食べられるんだろうね〟
ユキの首も悲しそうに言った。その声に反応するように、ユキの胴体が起き上がった。机や椅子にぶつかりながらユキの首の方に近づき、両手を声のしたあたりに突き出し、首を捕まえると胴体の上に載せた。何度か顔の位置を調整し正しく胴体とつながると、ようやくユキの顔は満足した様子でにっこり笑った。
「あ……あ……」
逃げないと……
逃げなければいけないと僕は分かっていた。ここはたぶん、生きている人間がいていい場所じゃない。でも腰が抜けて動けなかった。
〝大丈…夫……だよ〟
背後から、途切れ途切れの声が聞こえた。
宇津井先生……?
〝みんな……で力、を、合わせれば……きっといつ、か食べ……られるよ〟
僕は恐る恐る振り返った。
教壇の上で、人形のパーツのようにバラバラになっていた宇津井先生の体が、なんとかつながろうともがいていた。たぶん、宇津井先生の体は傷が多過ぎて、元通りになるのに時間がかかっているのだろう。足が腕のところに、首が腹の上につながろうとして、うまくいかず、焦っている。
〝違うよ、先生。足はこっち〟
ユキとハルミが呆れた声でそう言いながら、カクカクと不自然な足取りで宇津井先生のところまで歩き、首と足を正しい位置に置き直した。首と片足がつながった先生は、まだぎこちない動き方で人形のように上体を起こした。
〝ね。こんなふう……に、みんなで協力し……たら、なんでもでき、るよ。みんなで考えて、明日こそ給食を食べられるように、がんばろう〟
先生の大きな瞳が、ぎょろんと僕を見た。
〝ね、タスク君〟
〝そうだよ、タスク。一緒に考えよう〟
〝一緒にがんばろう〟
〝だってもうタスクも、俺たちの仲間じゃないか〟
ユウキも、ショウタもカズヤも、そう言いながらぎこちない足取りで僕の方に寄ってくる。
違う。違う!
僕はこいつらの仲間じゃない。こいつらは転校生という新たな人間を入れたら給食が食べられるのではないかと思い、僕を誘っただけだ。引き寄せただけだ。ここは僕の学校じゃない。ここは僕の居場所じゃない!
〝タスク君〟
宇津井先生が優しく微笑みかける。
「う……うわ……ぎゃああああああ!」
やっと声が出た。体が動いた。僕は夢中で廊下に走り出て、窓の壊れた、ゴミと落書きだらけの廊下を走って校舎を飛び出し、雑草がはびこる校庭を悲鳴をあげながら走り続けた。一度も振り返らず走り続けた。
「おい、坊主!」
誰かの声が聞こえたが、僕は必死で走った。おい、おい、という男の声が大きくなって、いきなり肩をグイッとつかまれ、ようやく僕は引きずり倒されそうなって止まった。
「おまえこんな時間に、どうしてこんな所で遊んでるんだ」
遊ぶ……?
「あ、遊んでるんじゃありません。僕は転校生で、今日からこっちの小学校に通うことになっていたから……だけど」
言いながら声の方に振り返った僕は、見下ろす老人の腰の後ろに見える鎌に気づいて、ギャッと悲鳴をあげた。思わず逃げようとして、僕は舗装されたアスファルトの道路の上に転んでしまった。
「あ、ああこれか。驚かせてすまんな。ただの草刈り鎌だよ。おまえさんを取って食ったりはせん」
老人は腰の後ろでシャツとズボンの間に差し込んでいた鎌を抜き取り、困った様子で僕に見せながら謝った。確かによく見れば、あの大鎌とは全然違う、細く小さな鎌だ。
「おまえさんが、あんな何にもないところから一人で走ってるから、一体どうしたんだろうと思ってな」
何もないところから……?
何を言っているんだろうと思いつつ、老人が顎をしゃくった方向に目を向けて、僕は自分の目を疑った。
え……
そこには、何もなかった。
僕は慌てて立ち上がった。
本当に何もない。僕が走り逃げてきた雑草だらけの運動場も、古くてガラスの割れた校舎も、もちろんそれ以前に見えていた、古いだけの小学校も、僕を見えないもののように動いていた大勢の子どもや先生も。
そこにはただの赤土の空き地が広がっていて、その真ん中あたりに僕のランドセルが、ぽつんと置きっぱなしになっていた。
「そんなバカな……。本当にここに学校があったんだ。それで僕はここに……」
老人は溜め息をつきながら空き地に入ってランドセルを取り、持ってきてくれた。
「何を言ってるんだ。学校はあっちだろう。寝ぼけてるのか、坊主」
老人の指さす方を見て、僕は息をのんだ。舗装した道路が続く住宅地の先に、白い校舎が見えた。そうだった。あれだ。確かにあっちが本当の学校だ。昨夜父さんと一緒に挨拶に行った……
じゃあ、僕は一体何を見たのだろう。夢? 幻?
「確かにあの小学校の校舎は、昔はこっちにあったそうだがな」
老人は気のすすまない様子で喋りだした。
「ただ、何十年も前だが、大きな事件があったらしい」
「え……?」
僕が顔を向けると、老人は眉間にしわを寄せ、さらに困った顔をした。
「俺も数年前にこっちに越してきて、一度話を聞いただけだがな。この辺りでは、昭和のあの事件、と言えば通じるらしい。なんでも給食を配膳中の教室に、男が刃物を持って乱入して、無差別に子供五人、それから担任の先生も……。特に先生は、それはひどい有様だったらしいよ。それで、もともと古かったから早めに建て替えようという話になって、あちらに移ったという話だ。そのあとも旧校舎は何かに利用しようとしたいらしいが、そんなことがあった校舎だし、出るとか出ないとか噂が立って、地元のガキどもが肝試しに勝手に入って落書きしたり、窓割ったり、どうにもならなくなったので、結局今みたいな空き地にしてしまったらしいな」
僕はもう、何も言えなくなった。ただ体がガクガク震えてきた。
そう言えばショウタが、犯人の顔が分からない、と言っていたが……
「は……犯人は捕まったんですよね。どうして、犯人はそんな酷いこと……」
僕が言うと、老人は再び肩を落とした。
「……それが、まだ捕まってねえんだよ」
「えっ」
僕はまた冷水を浴びせられたような気分になった。
そんな凶悪な犯人がまだ捕まっていないなんて……
老人は苦笑いした。
「まあ何十年も前の話だからな。犯人も、もうこの辺りにはいねえだろう。当時は親が付き添って登校したらしいが、今はそんなこともない。もう犯人も寿命で死んでるんじゃねえかな。ほら、チャイムが鳴ってるぞ。あれが鳴り終わるまでに登校しないとマズいんじゃねえのか」
耳を澄ますと、確かに白い校舎の方から、風に載ってチャイムの音が聞こえてきた。
「ホントだ。僕、行かなきゃ」
老人が渡してくれたランドセルを、ありがとうと言って受け取り、僕は急いで腕を通してランドセルを背負った。
ふっと老人がひどく冷たい声でつぶやくのが聞こえた。
「きれいな先生だったからな。……そうか。まだ、いるのか。ここに……」
走り出しながら、僕は変だなと思った。
この老人は数年前に引っ越して、学校の話は聞いたことがあるだけだと言っていた。それなら、きれいな先生だった、ではなく、きれいな先生だったそうだから、と言いそうなものだ。
それとも……数十年前にもこの老人が……
もしかして、ここに住んでいたとしたら……あのきれいな宇津井先生を見て好きになったとしたら……でも交際は断られ、それを逆恨みしたとしたら……
まだ、あの顔の見えない犯人が、ここにいるとしたら。
しかしもうそれ以上、僕は考えるのをやめた。こんなのは勝手な僕の妄想だし、僕は本当に急いでいたし、これ以上こんな奇妙で残酷なことに関わりたくなかった。それになんとなく、これ以上考えない方がいい気がした。そうだ。いつまでも学校に僕が行かなければ、父に連絡が行って、後で叱られるかもしれないし。
それでも僕は誘惑に勝てず、学校に向かって走りながら一度だけ老人の方を振り返った。
何もない空き地を眺める老人の横顔は、つばの広い麦わら帽子の陰になってよく見えなかった。ただ、口元はなんとなく笑っているような気がした。
それはとても、満足そうな笑みだった。
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