第14話 遊びに来たよ
帰宅してランドセルを置いた途端に、キッチンの電話が鳴った。
私は普段、固定電話が鳴っても受話器を取らない。両親も取らなくていいと言っているし、学校でも不審な電話も多いので気をつけるよう注意されている。
それでもなんとなく取ってしまったのは、その日私は母と一緒に歯医者に行く予定があったからだ。
ただの健診だが憂鬱だった。できれば行きたくない。もし虫歯でも見つかったら、あのキーンという治療がいやおうなく始まるだろう。だからもしかしたら母が残業で、検診は仕方ないから来週にするね、という電話だったらいいなと思い、受話器を取ってしまった。取らなくていいと言いながら、スマホへの電話に私が気づかなければ、母は固定電話に掛けてくる。それは以前にも何度かあったことだった。
「はい、もしもし」
〈もしもし、カナエ? あたし、あたし。これから遊びに行っていい?〉
あたし?
声に覚えがなかった。しかし私の名前も自宅の電話番号も知っているのだから、友達には違いない。電話だから声が少し変わって聞こえるのだろう。
ごめん、誰だっけ、と言おうとしたが、その時にはもう相手は次の話を始めていた。
〈ホント、金森先生の話って、長いよね。あれがなければ終わりの会も早く終わって、もっと長く遊べたのに〉
やはり同じクラスの子のようだ。担任の金森先生の話が長いのは、クラスの全員の共通した不満だった。確かに今日のお説教も、かなり長かった。
「ホントだよね」
思わず相槌を打つ。
〈そう言えばカナエはバレンタインに作る友チョコ、どんなのにするかもう決めたの?〉
「え? う、うん……」
そう答えながら、私はもう、これはもう誰かと聞けるような状況ではないなと思った。
友チョコをみんなでバレンタインの日に持って集まり楽しもうという話は、仲のいい六人くらいのグループの中でしか、していない。つまりその中の一人ということだ。誰かなんて聞いたら呆れられる。最悪、口をきいてもらえなくなるかもしれない。
「アーモンド入りの丸いチョコを作って、まわりにホワイトチョコを削ってかけようと思ってるの」
〈わあ、いいな。おいしそう〉
褒められたので、少し警戒心が薄れた。ふと、この電話相手にもどんなチョコを作るのか聞けば、誰なのか特定しやすくなるかもしれないと思った。それに褒められたら、褒め返さなくてはならない。グループになんとなくあるルールだ。
「そっちはどんなチョコ作るの?」
名前が分からないので、そっち、とさりげなく言ってみた。
〈えーと、ね……〉
少し考え込む息遣いが聞こえた。まだ決めていなかったらしい。私は少しだけ、自分が作るチョコを先に言ってしまったことを後悔した。似たチョコを作ると言われたら嫌だなと思ったのだ。しかしすぐに、弾んだ声が聞こえた。
〈あたしが作るなら、黒や白や赤とか、いろんな色のチョコを溶かして、ぐじゃぐじゃにして固めたチョコレートかな〉
……マーブルチョコのことかな。
表現は分かりにくいが、そのようなものだと私は理解した。ただ、グループの誰がそんなものを作りたがるのか、思い浮かぶ顔はなかった。
「いいんじゃない。色々な味がして、面白そう」
褒めるとやはり受話器の向こうで、嬉しそうに小さく笑う声がした。
〈じゃあ、これからカナエの家で一緒に作ろうよ。カナエのチョコは、削って飾りつけするんでしょ。包丁もいるよね。あたし、包丁持っていくから〉
包丁⁉
そんなものを持ってくる必要があるはずがない。
「い、いいよ。チョコはスライサーで削るから大丈夫……」
やはり、何かがおかしい気がした。友達の家に包丁を持っていくなどという発想のできる子は、グループには一人もいない。包丁を持って遊びに行った話なんて、グループ以外でも聞いたことがない。
あんた、誰。
思わずそう言いそうになった時、受話器から再び声が聞こえた。
〈うん、分かった。……でもさ、カナエは本当に藤村君にはあげないの?〉
え……
囁くような、でもやはり少し面白がるような声だった。
「あ、あげないよ。そ、そんな事したら、迷惑だと思うし……」
私はしどろもどろにそう言うのが精一杯だった。受話器の向こうからは、そんなことないよ、と言いながらクスクス笑っているのが聞こえる。やはりからかわれたらしい。
でも、だからこそ、やはりグループの誰かだと私は確信した。私が同じクラスの藤村君をいいなと思っているのは、グループでも数人しか知らない。
ハルだろうか。ハルはこういう人がドキッとするようなうわさ話をするのが大好きだ。
しかしすぐに違うと思った。グループの他の子は、特に低学年の時は固定電話にかけてきたこともあるが、ハルは、大人が出たら嫌だから絶対に固定電話にはかけないと言っていた。それにハルは手先が器用だ。チョコを溶かしてぐちゃぐちゃにするようなものは作らない。もっと凝った美しいチョコを作る。
マドカ。違う。マドカは大人しくて、こんな相手を慌てさせるような話し方はしない。
カオルも違う。活発なカオルはスポーツができる男の子が好きだから、藤村君みたいなおっとりした優等生、どこがいいの、と以前からはっきり言っている。こんな思わせぶりなことは、言ってはこないのだ。
誰、誰、だれ!
なんて面倒くさいのだろうと思った。スマホのメッセージのやり取りなら、すぐ誰か分かるのに……
私は持っていた受話器を落としそうになった。
そうだ。スマホだ!
「あの……ご、ごめん。ちょっと待って……」
私は慌てて近くのテーブルにあった自分のスマホを引き寄せ、グループでメッセージのやり取りをしている画面を開いた。
すでに三人、入室していた。グループのリーダー的存在のナオ。それからマドカ、カオル。やはり担任の先生への文句とチョコの話をしている。
いないのはハルと、今日はピアノ教室のレッスン日のミサ。
じゃあやはり……ハルなの?
もしかしてスマホが壊れて、私のスマホの番号も覚えてなくて、ずいぶん前に電話番号を教えた固定電話にかけてくるしかなかった……とか……?
〈どうかしたの?〉
待たせた時間が長かったせいか、少し不安そうな声が尋ねてくる。
確かめないと。本当にハルかどうか……
受話器を首元に挟んだまま、急いで三人に聞いてみる。
―ミサは今日ピアノだよね ハルは何してるのかな
すぐにナオから返事が返ってきた。
―店の手伝い 帰ったその場でお母さんに引っぱられてた
スッと冷たいものが背中に流れたのが分かった。
ハルの家は中華料理店だ。ハルは手先が器用で料理も上手。だから時々店の仕込みに駆り出されるの、と以前から迷惑そうに言うのを何度か聞いた。ナオはハルと帰り道が同じ方向だから、ハルの家の前で別れる時、ハルがお母さんに引っぱられるのを直接見たに違いない。ナオはしっかり者で信用できる子だ。いい加減なことを言ったりしない。
つまり、この電話の相手は、グループの誰でもない!
私は慌てて受話器を首元から離した。
考えてみれば最初から変だった。全部、変だった。それなのに私はグループの子に違いないと勘違いして、変に気をつかって、誰とも分からない子と、長々と話してしまったのだ。
でも……
それなら、どうしてこの子はこんなに、私のこと知ってるの……?
〈ねえ、カナエ。どうかしたの?〉
私があまりに長く何も言わないので、受話器の向こうの声は少しイラついている。
「……あなた、誰?」
私は気分が悪かったが、勇気を出して言った。不愉快な声を出したつもりだったが、少し震えてしまっているのが分かった。
「友達みたいなふりして、誰なの。名前を言いなさいよ」
もしかしたら同じクラスの誰かかもしれない。誰か私たちの話を立ち聞きしていた子が、私をからかったのかもしれない。それだけでは説明がつかない気もしたが、それ以外に考えようがなかった。だんだん腹が立ってきた。私はあんなに気をつかって話していたのに、この子は受話器の向こうできっと笑っていたんだ。
しかし、数秒の沈黙の後に受話器の向こうから聞こえてきたのは、予想外の声だった。
〈ひどい、ひどいよ、カナエ!〉
震える声でそう叫んだかと思うと、いきなりわっと大声で泣き出した。
〈どうしてそんなひどいこと言うの。いつも一緒にいたじゃない。日曜日には一緒に新しくできたお店で服を選んだでしょ。水色のスカート、すごくよく似合ってたよ。その前にはマックで期間限定のハンバーガーも食べたでしょ。一緒に頼んだコーラがカナエのお気に入りのポーチにこぼれちゃって、大騒ぎしたじゃない。他にも公園でゲームしたり、映画館でも、お揃いのキャラがついたキャラメルポップコーンのボックス買って見たじゃない。いつも楽しかったねって、優しく笑ってたじゃない。カナエは笑顔がすてきなのに。それなのにそんなひどいこと言うなんて。名前言わないと分からないなんて!〉
泣きわめいていた。最後は絶叫だった。もちろん私はひるんだが、同時に、確かにこの子はグループの子ではないことも分かった。
仲良しグループの中に、こんなに感情的になって一方的に泣き叫ぶ子は一人もいない。
そんなことをしたらグループの中で浮いてしまうと知っている。
ただ……もっと分からなくなった。
確かに私は水色のスカートを買った。コーラもこぼした。キャラが印刷されたポップコーンのボックスも買った。でもその時に私のまわりにはグループの子しかいなかった。
いなかった……と、思う……
まわり……には……
―ちょっと、またいるよ、あの人。
そう呆れた口調で囁いたのは、やはりハルだった、気がする。
―えー、やだ。あたしたちと同じキャラのボックス持ってる。まさか同じファンなのかな。あの人、この間みんなで行った服屋さんでも見かけたんだよ。背が高いのに、あんなかわいい服ばかりの店でサイズあるのかな、と不思議だったもん。そういえば先週、マックでも。ねえ……ふふ、なんだか似てない? この間、男子が作ってた、あれ。
ハルが言おうとしたのは、たぶんその数日前に、クラスの怖い話好きな男子数人が作っていた妖怪図鑑のことだと思う。いろいろな妖怪にイラストを添え、自分たちで面白おかしく特徴やプロフィールまで考えて書いていた。結構人気で、私も含め同じクラスの子の多くがそのノートを回し読みした。その中にあった。
【手長足長】
背が高く手足が異様に長い。体全体が細いので、どんな隙間でもすり抜けられる。顔はしわしわだが、声は子供。本当は声優になりたかったが、大人の声が出ないのでなれなかった。怒らせると手に包丁を持ち、すごいスピードで追ってくる……
イラストは黒いフード付きのマントを着た、背の高い死神のような絵だった。
やめなよ、と私はその時笑いながら言ったと思う。
ハルは噂好きなせいか、まわりの人を本当によく見て記憶している。よくそんなに全然自分と関係のない他人のことまで記憶できると、感心するくらいだ。でも私はそこまで他人に関心を持てない。映画の方がずっと気になった。
―いいじゃない、背が高くてもかわいい服が好きな人はたくさんいるよ。早く席に行こ。
ハルを急かしながら、ちらっとだけ見たその人は、確かに背が高かった。でも、記憶はそれだけだ。何色の服を着ていたのかも覚えていない。
でも、そういえば……
公園でも……見たような気はする。
ベンチに座って、うつむいて、ずっとスマホを見ていた、ような。
でもそんな人はたくさんいるし、私は気にもとめなかった。だって、他人だから。会話どころか、近づいたことさえなかったのだから。
そうだ、やはりおかしい。名前や簡単な情報は会話を聞いていれば分かるとしても、そんな他人に自宅の電話番号が分かるわけない。
電話番号……でも……どこかで話題にした……
そう、マドカだ。公園で遊んだ後、急にマドカが、ポーチと一緒にブランコに置いておいたはずのスケジュール帳がなくなったと言いだして、みんなで探した。すぐに公園の入り口で見つかったので、みんな、マドカが置いた場所を勘違いしたのだと思った。だってマドカは大人しくて、そしてうっかり屋だから。それでナオが、スケジュール帳には友達の住所や電話番号も書いてあるから、なくしちゃダメだよ、とマドカに説教して……
受話器を持つ手が震えてきた。もう一方の震える手に持つスマホの画面では、三人が今度は、放課後一人で遊びに出てはいけないという先月から始まった小学校のルールに、一体いつまでダメなのかと文句を言い始めていた。
『やっぱり犯人が見つかるまで?』
『だよね。隣町の殺された小学生の女の子』
このルールが始まったのは、先月あったその事件の犯人が、まだ捕まっていないからなのだ。以前見たニュースでは、その女の子は放課後一人で自宅にいたところを、何者かに侵入され殺されたが、どこにも侵入の形跡がなく、犯人は何かを装って被害者の女の子にドアを開けさせたのではないかと……
『ね それなんだけど』
カオルのメッセージ。
『その子が事件の前に、別の友達に伝えてたらしいよ』
―友達から電話があって、名前は知らないけど、これからうちに遊びに来るって。
受話器を持つ手が冷たくなった。全身も冷たくなった。それなのに、心臓は自分でも音が分かるほどドクドクと激しく打っているのが分かった。それはたぶん、恐怖だ。全身を冷たい針で刺されるような、生まれて初めて感じた、正真正銘の恐怖だった。
『名前を知らない? そんなの変だよ』
ナオのメッセージ。
『変だけど、でも自分のことすごくよく知ってるから、友達に違いないって言ったそうだよ』
と、カオル。
『それは人がよすぎるよね……』
マドカのメッセージ。
そうだ。人がよすぎる。私も同じだ。最初に誰か聞けばよかった。さっさと切ればよかった。変に気づかいして中途半端に受け答えしている間に、こんなわけの分からない状況になるなんて。
もう嫌だ。このまま切ってしまいたい!
〈なーんてね、アハハ。ウソだよー!〉
いきなり受話器から信じられないほど明るい声がした。
え……?
〈本気にしないでよね。どう、演じるのうまいでしょ、あたし。びっくりした? 怒った? もー、冗談だから。でも、カナエも冗談でしょ。だって本当はカナエが優しくて思いやりがあって、酷いこと言ったり誰も傷つけたりできないこと、あたしはよく知ってるよ。友達だもん〉
そう言われても私の恐怖は引かなかったが、しかしいきなり電話を切るのも怖い気がしてきた。隣町の女の子は、きつい態度を取って犯人を怒らせて、殺されたのではないか。さっきみたいに。だとしたら、もう怒らせないようにしながら、とにかく遊ぶのは断るしかない。
「あの……ごめんね。今日はやはり遊べないの。宿題がたくさんあることを思い出して……それに、も、もう暗くなってきたし……」
本当だった。電話があるリビングはいつの間にか薄暗くなり、窓の向こうに見える隣の家の塀も暗く陰ってきている。
〈ホントだ、暗いね〉
受話器の向こうの声は、あっさり同意した。
〈でも大丈夫だよ。あたしもう、カナエの家の前にいるから〉
は⁉
私は慌てて受話器を置き、廊下に出て玄関を見た。
玄関ドアにはまっている暗いガラスの向こうに、街灯の明かりと一緒に、黒く細長い人影が動いているのが見えた。体がガクガク震えた。
嫌だ。来ないで、来ないで!
ピンポーン。
しんとした家の中に、呼び鈴の音が響く。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!
私は両耳を押さえて、リビングにかけ戻った。
どうしよう。どうしたらいいの?
とにかくスマホで友達に伝える。指が震えて何度も打ち間違えた。
『今 家の前にそその名前を知らない友達が来てる 怖いよ!』
一斉に返事が来た。
『ダメ! ドア開けないで』
『絶対開けちゃダメ!』
『警察に電話して!』
そうだ、警察。110番、しないと。私はすぐに電話の画面に切り替える。
ゴソッ……
背後で何かの音がした。凍りついた。
どうして。今、家の中には私しかいないはずなのに……
リビングの暗い窓に、、細い木の棒のような影が映っている。
そうだった。母が換気のために、いつもこの窓は少し開けたままにしているのだ。でもたった五センチ程度の細い隙間だ。小学生の私の腕でも入らない。しかもそれ以上開かないように。窓の上部にはちゃんと補助ロックが掛けてある。
その細い隙間から木の枝のような細いものが、にゅうっと室内に入ってきた。人の腕だった。小枝のように細く、そして驚くほど長い腕。
「ひ……ひ……ひぃ……」
腕の先の細い指が、何かを探している。窓の内側を這い、その端を探り当て下に降り、上に上がり、補助ロックを探り当てた。
ガチッ
ロックを解除する音。
「あ……あ……」
窓がズズ……ズズ……と開いていく。
「そっかぁ。カナエのお母さんが毎日ここを少しだけ開けてるのは、こっちから入って、ということだったんだ」
当たり前のようにそう言う声とともに、窓の開いたところにできた空間に、黒い人影が浮き上がる。声は相変わらずよく分からなかった。知っているような、知らないような、女の子のような、男の子のような、遠くから聞こえるような、すぐ近くのような。
まるでこの世のものではないかのような。
上着のフードを目深にかぶっているので、顔は分からない。乾いた薄い唇の口元が見えるだけだ。その口が、動いた。
「遊びに、来たよ」
言い終わった後、口の両端を吊り上げて、にまぁと笑った。口の両側に三重に皺ができた。しわしわの顔。
「ひ……ひぃ……ひぃーっ」
私は電話のそばの壁に貼りついたまま、動けなかった。その私の方に、細い指先に引っ掛けた袋が差し出される。
「一緒に作るチョコの材料、途中のコンビニで買ったの。黒いチョコと……白いチョコ……でも、いい赤色のチョコが見当たらなくて」
心底残念そうな声だ。でも、とそれはまた笑った。今度は四重、五重の皺が口の両端にできた。満面の笑みだった。
「でも聞いて、カナエ。がっかりしなくても大丈夫だったの。カナエは必要ないって言ったけど、やっぱり持ってきて良かった。そう、包丁だよ。包丁!」
「ひ……?」
包丁と赤色のチョコが、なぜ結びつくのか。
窓からズルリと黒い液体のようなものが床に流れる。足だった。手以上に細くて長い。
嫌だ。入って来ないで。入って来るな!!
「ああ……あたし、本当にうれしい。今度こそ、やっと絶対にあたしを傷つけない、酷いこと言ったりしない優しい友達ができたんだもん。もう誰にも邪魔させない。絶対に邪魔させないよ。なのにさ……さっき帰ってきたカナエのお母さんが、よその家の呼び鈴でいたずらしちゃダメ、しつこいと警察呼ぶよ、なんて言うんだよ。せっかくこれから一緒に遊ぼうと二人で楽しみにしてたのに。ひどいよね。ホント、邪魔」
お母さん? 遅くなるんじゃなかったの?
それはやはり満面の笑みを浮かべて私に近づきながら、もう一方の細長い腕を私の前に突き出した。
「でもね、聞いて。本当はカナエのお母さん、邪魔じゃなかったの。ちゃんと役に立つの。ほら、この赤を足したら、絶対白も黒も赤もぐちゃぐちゃの素敵なチョコができるよ!」
包丁を握っていた。包丁にも、それを握る手にも、赤いものが纏わりつき、時おりポタ、ポタッと床に滴り落ちた。血だった。手も包丁も血まみれだった。
「いやあああああぁぁぁー!」
私は絶叫したが、それは私をなだめるように、また笑っただけだった。
「大丈夫。大事な友達のカナエのお母さんだもん。そんな酷いことはしてないよ。ちょっとムカッとして、刺してみただけ。まだ、ちゃんと車の陰で少し動いてたよ。少し息してたもん。買い物袋の中身が散らばったけど……でも聞いて、カナエ。あれはちょっとがっかり。買い物の中に甘いマカロンが入ってたの。これから二人でチョコを作るのに、重なるような甘いもの買うなんてセンスないよね。だから、踏みつけておいたよ」
「ぁ……あ……あああ……っ」
私は頭を抱えた。
―お母さん、でも早く帰れそうなら早く帰って来てね。だって学校から帰っても遊びに行けないから、退屈なんだもん。あ、そうだ、大好きなマカロンも買って帰ってくれたらうれしいな。
すぐに玄関を出て母のところに行きたかった。救急車も呼ばねばならなかった。しかしここで動いたら追ってくるに違いない。包丁を持って、すごい速さで!
それは部屋の中を、笑いながら近づいてくる。
「うれしい。こういうのずっと夢だったんだ。女の子同士で一緒にお菓子作りとか。ねえ、早くチョコ作ろう。何から始めようか。何でもいいよ。カナエの好きなやり方で作って。あたし合わせるよ。だって友達だもん」
私はそれ以上この訳の分からないものが自分に近づかないよう、一歩ずつ下がりながら、キッチンに移動していった。
するべきことは分かっていた。いや、もうそうするしかないと分かっていた。私はこのバケモノと戦うのだ。この訳の分からない状況を終わらせるために、キッチンの扉の内側に並んでいる包丁を取って戦うのだ。勝てるかどうかは分からないけど。
このバケモノは勘違いをしている。私は優しくなんかない。ただ人に嫌われないように気をつかい、その場が丸く収まるように適当になだめたり、合わせたりしてきただけだ。一方的に優しいなんて考える、そっちの方が身勝手なのだ。この訳の分からないものにだって、悲しいことや酷い経験がたくさんあったのかもしれないけど、だからって何をしても許されるなんて思わない。母を手に掛けるなんて、絶対に許さない。もし私の中途半端な上辺だけの優しさがこんなものを呼び寄せたというなら、やはり私は戦わなければならなかった。この身勝手なバケモノの勘違いを、正すためにも。
遠くからパトカーの音が微かに聞こえてくる。メッセージを読んだ三人の誰かが連絡してくれたのだろう。しかし到着してくれるのを待つ時間はなさそうだった。私はこのバケモノを倒して、急いで母のために救急車を呼ばねばならない。
だから……一撃で倒せるように、やはり選ぶのは一番大きくて鋭い包丁がいいよね。
冷たく震えていた体に、私は初めてカッと熱いものが湧くのを感じた。その高揚感に気づかれないように、両目に涙を浮かべたまま、私は後ろ手でキッチンの扉を少しだけ開く。握るべき刺身包丁を扉の裏側に確認する。
バケモノは嬉しそうにすぐそばまで寄ってきている。
今だ。今しかない。
私は一気に引き抜いた包丁を握り、全身の力を込めて前に突き出した。
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