第13話 誰かの足音



 いつか、こんなことになるんじゃないかと思っていた。

 暗い山の中で枯葉を踏みしめて美織と歩きながら、私は貧乏くじを引いた気分でいっぱいだった。

 今日は気楽な秋の遠足のはずだった。

 五年最後の学年行事。本当は冬にスケート教室もあるけれど、あれは四年と合同だからカッコ悪いところは見せられないので、結構気が重い。それに比べると学年遠足は近くの登山道が整備された山の麓までバスで行って、さらにロープウェイで中腹まで移動してから一時間ほど登れば、もう頂上。そこで班ごとに昼食をとってから少し遊んで、またのんびり下山するだけ、というお手軽コースなので、皆楽しみにしていたのに。

 唯一の不安は、同じ二班の美織だった。

 美織はまあまあ可愛いし、体育は苦手だけれど成績も普通。ただ不思議ちゃんというのか、ぼんやりしていることが多く、友達や先生が話していても、気がつくと全然別の方向を見ていたりして、大事な話を聞き逃していることが多い。先月の校外学習で牧場を見に行った時も、途中で姿が見えなくなって慌てて先生と探したら、牧場の端に座りこみ、飼われている犬を撫でていた。

 悪い子ではないのだけど。

 だから遠足に出発する時も、担任の先生に言われてしまった。

「沙紀さん、美織さんには注意してね。一人でふらっと列を離れて、迷子になったりしないように」

 二班の女子は私と美織だけなので、先生は私を勝手に美織のお目付け役に定めたらしい。ただ、意外にも遠足で先生や私が心配するようなことは何も起きなかった。

 下山の時までは。

「ねえ、沙紀ちゃん」

 午後になっても続いていた晴天の空の下、班ごとに列になって登山道を下っていると、真後ろにいた美織が珍しく私にしか聞こえないような小さな声で言ってきた。

「トイレ行きたくなっちゃった。ついて来て」

 えー、と叫びたくなった。下山を始めてから、まだ十分も経っていない。だから先生が頂上で、下山する前にトイレは済ませておきましょう、と言っていたのに。きっと美織はまた紅葉か何かを見て、聞いていなかったに違いない。

「あと四十分くらい歩いたら、ロープウェイに着くよ。あそこにトイレあるでしょ」

 少し意地悪だが、私はそう言ってみた。

「無理、そこまで待てない」

 言いながらさっさと美織は道を外れて、茂みをかき分けて、奥に入って行く。おい、と美織の行動に気づいた同じ班の男子が振り返り、迷惑そうに私を見た。

「ごめん、すぐ追いつくから」

 私は思わずそう言い、急いで美織の後を追った。

 美織が木陰で用を足している間、私は列のところどころにいる先生に見つかって怒られないかとヒヤヒヤしながら、茂みに身を低くして隠れていた。少し情けない。

 だいたい私が謝る必要なんかないのに……

 戻ってきたら思いっきり文句を言ってやろうと思っていたが、なかなか美織は戻って来なかった。嫌な予感がして振り向く。

美織はもう木陰を離れていた。少し離れた場所で、何かを探すように屈みこんで地面を眺め、時々何かを拾っているのが見えた。

「美織、何やってんの?」

 近づいて少しきつい声で言うと、美織はニコニコして顔を上げる。

「沙紀ちゃん、栗。栗が落ちてる!」

 確かに美織は片手を皿にしてたくさんの栗を拾っている。

「もう、何やってんの。早く列に戻ろうよ。先生が気づいたら怒られるし、このままみんなと離れたら迷子になっちゃうよ」

「大丈夫だよ、登山道は一本道なんだよ。あ、あっちにもたくさん落ちてる」

 美織は栗のことで頭がいっぱいな様子で、どんどん山の斜面を下っていく。

「ちょっと、美織!」

 私は慌てて後を追った。こういう時の美織は、普段のぼんやりさが嘘のように行動が素早い。追う途中で一瞬見上げた登山道は、もう曲がり角のところに最後尾の数人が小さく見えるだけだった。まずい。このままでは本当に置いて行かれてしまう。

枯葉で滑りそうになりながら急いで斜面を下り、木の間を抜けてようやく追いつくと、背の高い広葉樹の下に立った美織は、満足そうに両手にこぼれんばかりの栗を拾って待っていた。

「見て、沙紀ちゃん。ここの栗は珍しいよ。ほら、栗の真ん中がへこんで、ちょっとひょうたんみたいな形。新種かも。すごいよね!」

 美織が目の前に摘まみ上げた栗は、確かに普通の栗とは少し形が違っていたが、私にはただの突然変異にしか見えなかった。

「あのね、栗拾いに来たんじゃないんだから」

「はい、これ沙紀ちゃんの分」

 怒ってやろうと大口を開けた私の手に、美織は拾った栗の半分を載せた。

「これだけあったら、栗ご飯食べれるよ」

 そう言う美織は、やはりニコニコ笑っている。

 確かに……悪い子じゃないんだけど……

 トイレを済ませた後洗っていない手で拾われた栗だが、捨てるわけにもいかないので、私は急いで上着のポケットに栗を押し込んだ。

「とにかく急ごう。もうみんな行っちゃったよ。早く追いつかないと……」

 私は言いながら上を見上げ、目を凝らし、それから周囲を見回した。見上げる斜面は登るのにはきつく、枝を広げる木々の下は思ったよりも暗く、その中で私たちはもう下山する皆の姿も登山道もすべて見失っていることに、ようやく気づいたのだ。


「と……とにかく上に登れば、必ず登山道に出るんだから」

 そう美織に声をかけ、私は木の幹に手をかけながら斜面を登り始めた。美織も私にならって栗をポケットに入れ、後について登り始める。

 すぐに息が上がってきた。

「沙紀ちゃん、疲れた……」

 後ろで美織が情けない声で言う。でも勝手に斜面を下ったのは美織自身なのだから、文句は言えないはずだ。

「登山道に戻らないで、このまま山を下っていけば、下山するみんなと登山道の下の方で合流できるんじゃない?」

 よほど疲れたのか美織がとんでもないことを言い出す。

 さすがにカチンときた。

「そんなの合流できるかどうか、分からないじゃない。それに案内のおじさんも最初に言ってたでしょ。こんな低い山でも過去に遭難事件は何件もあったから、絶対に勝手な行動はしないで下さいって」

「そうだったかなぁ……」

 あいかわらず美織の返事は頼りない。ただそうは言ったが、私もかなり息が苦しくなってはいた。美織に答えながらも、何度も息切れして言葉が途切れる。

「あっ!」

 叫び声に振り返ると、美織が枯葉で滑って、斜面をずり落ちそうになっていた。慌てて木の幹につかまり、もう一方の手で美織の手をつかむ。しかし美織の滑る勢いが強く、無理だと思った時にはもうザッという音が耳元で聞こえて、二人一緒に斜面を滑り落ちていた。

「い……痛たた……っ」

 すぐに滑るのは止まったが、両手にも顔にも擦り傷が出来ていた。それでも頭や上着についた枯葉を払いながら、なんとか立ち上がると、滑るのが止まった理由が分かった。私たちは斜面を滑り落ちて、その下の平らな道に出ていたのだ。

 ただ、そこは整備された登山道ではなかった。枯葉のたまった細い山道だ。両脇には雑木やシダが生い茂り、時々道を覆ってしまっている。

「沙紀ちゃん……」

 立ち上がった美織が辛そうな声で言いながら、右足首を押さえた。ひねってしまったらしい。歩けないほどではないが、動くたび痛そうに顔をしかめる。もう上の登山道まで戻るのが無理なのは、私にも分かった。

「……そうだよね。これも人が作った道なんだから、下りて行けば麓の村とか、そういうところに出るよね。それから学校に連絡してもらえばいいよね」

 私は溜め息をつき、美織に肩を貸して、仕方なくその山道を歩き始めた。

 それにしても暗い。

 いくら背の高い木々に囲まれているからといって、この暗さは異常ではないか、と思った時、ポツッと頬に冷たいものが当たった。

 雨?

 慌てて顔を上げると木々の隙間から見える空は、ほんの少し前までの晴天とは打って変わって、黒い雨雲に覆われていた。山の天気は変わりやすいとは言うが、あまりの急激な変化に怖さを覚える。足元の枯葉がパタパタと濡れ始め、私はリュックから携帯用のレインコート、美織はレインポンチョを取り出して着た。それからまた歩き始めたが、本格的に雨が降り出すとすぐに地面はぬかるみ、枯葉から染み出した泥水が、靴の中まで入って来るようになった。

 さすがにもう美織も文句は言わなくなった。美織も早く山を下りて、こんなひどい状況から逃れたいのだろう。黙々と歩き続ける。。


 びちゃっ、びちゃっ、びちゃっ

 靴に入った泥水がひどい音を立てる。

 ぐちょっ、ぐちょっ、ぐちょっ

 ぴちょ……ぴちょ…………

 びちゃっ、びちゃっ、びちゃっ

 ぴちゃ…………ぴちゃ…………

顔にも雨が当たるので、口を開いて話す気も失せた。ただ二人で黙々と土砂降りの雨の中を歩き続ける。

「あ……」

 思わず私と美織は声を上げた。

 ウソ……。道が途切れている。

 少し嫌な予感はあった。私は山道を下る方向に行けばいいと思っていたが、徐々にそのくだりは緩やかになり、今ではほぼ平坦になっていたのだ。お陰で歩きやすくなったが、もしかしたらこの先は上り坂になって、本当は少し下りの部分があるだけの上り道を歩いていたのではないかと心配していたのだ。

 しかしまさか道が途切れるとは思わなかった。この道はもう使われなくなった旧道か、でなければ人ではなく動物が踏み固めて作った、けもの道だったのに違いない。

「引き…返す……?」

 美織がぼんやりとした声で言う。

 引き返した方がいいのかもしれない。私も思った。しかしなんとなく、引き返したくなかった。疲れていたし、もう上り坂は嫌だった。それに、引き返すということは、後ろを向くということだ。後ろを見るということだ。

 それを、なんとなくしたくなかった。

 無言のまま雨に打たれて立ち尽くしていると、いきなり空が光り、稲妻とともに雷鳴が轟いた。

「きゃあっ!」

 思わず二人で抱き合って悲鳴を上げる。ドーン、という落雷の音とともに、一瞬周囲が真昼のように明るくなった。

「あっ!」

 今度の美織の声は少し嬉しそうだった。

「沙紀ちゃん、あそこに小屋がある。雨宿りできるよ!」

「え?」

 私は美織の指さす方向に目を凝らした。周囲はすぐに暗くなったが本物の夜ではないので、雨の先もぼんやりとは見える。

 本当だった。

少し斜面を下ったところにある平らな草地に、小さな小屋が立っている。中に入れるかどうかは分からないが軒下に立つだけでも、たぶん今よりはましだ。実際雨具の首元から雨が入り込んで服も下着も濡れ始め、冷たくて気持ち悪い。とにかくどこでもいいから駆け込みたかった。

「ホントだ。少し離れてるけど行ってみようよ」

 私と美織は木の幹につかまりながら慎重に斜面を下り、草地に着くと私は先に走って小屋に向かった。小屋の前に着く。

 閉まっていた扉を引くと、簡単に開いた。

「大丈夫。中に入れるよ!」

 私は思わず振り返り、後から右足を引きずりながら歩いてくる美織に声をかけた。

 また稲妻が走る。

 ずぶ濡れの美織の後方に、何かいるのを見てしまった。

 ちょうど山の斜面と草地の境目のあたりに立っている。

 黒い、影のような、人の形……

ようやく美織が小屋の前までやって来た。私は急いで美織を先に小屋の中に入れ、自分も中に入って扉を閉めた。

小屋は何かの作業小屋のようで、本当に狭く壁には窓もなかったが、真っ暗ではなかった。天井に一か所だけ正方形の天窓が作ってあって、この雨の中でもうっすらと屋内を照らしていたからだ。

「あー、助かったぁ」

 美織は心底ほっとした様子で言い、さっさとレインポンチョを脱いで工具類の載る棚の端に掛けると、リュックからタオルを出して頭や腕を拭き始める。

「沙紀ちゃんも拭いた方がいいよ。風邪ひくよ」

 閉めた扉に手を掛けたまま動かない私を不思議そうに見て、美織が言う。

「う……うん」

 私はなんとか頷いた。確かに私も早くレインコートを脱いで、体をタオルで拭きたかった。

 そうだ、見間違いだ。木の影が稲光で黒く見えただけ。

 きちんと閉まっているのを確かめてから、扉から手を離し、レインコートのボタンに手を掛ける。

 バンッ!

 いきなり音を立てて扉が外側に開いた。暴風とともに、一気に雨が屋内に吹き込んでくる。

「きゃああっ!」

 私と美織は悲鳴を上げ、急いで扉を引っぱって閉めた。

 閉める一瞬、また見てしまった。

 人のような黒い影は、今度は草地の中に立っていて、少しずつこちらに近づいて来ているように見えた。

「ねえ……」

 閉めたドアが再び風で開かないように、私が細い木の棒を見つけて扉の取っ手に通し、それを抜かなければ外から扉が開けられないようにしていると、背後で美織がか呟いた。

「さっき……外に……人が立ってなかった?」

「見間違いだよ。こんな山の中の、しかも大雨なのに、のんびり立ってる人なんているわけないじゃん」

 私は後ろを向いたまま答えた。否定したのは美織を不安にさせないため、というより既に動揺しかけている自分の為な気がした。

「あのね……さっき沙紀ちゃんと道を歩いていた時もね……ずっと……」

 振り返ると美織はタオルを握って立ったまま、じっと私を見ていた。

 そっか。じゃあ、美織も気づいてたんだ。

 雷や土砂降りの雨の音は小屋の中にも大きく響いているのに、妙に静かに感じる中で私は考えた。美織が口にしなかった、ずっと……の先を私は知っていた。山道を二人で歩いていた時、私たち二人分の足音以外に、ずっと背後からもう一つの足音がついて来た。

 ぴちゃ…………ぴちゃ…………ぴちゃ…………

「あ…あのね……」

 美織が意を決した様子で再び話し出しだす。しかしその内容はやはり美織らしい、私が仰天するようなものだった。

「もしかしたら、同じ遠足の子じゃないかな。あたしみたいにトイレに行きたくなって、そのまま後をついて来ちゃったとか。それなら小屋に入れてあげないと……」

 美織がそう言った途端、小屋の外のことなのに、豪雨の中であの黒い影がスーッと草の上を滑るように、こちらに近づいてくるのを感じた。

「ダメ!」

 雨に濡れたからだけではない冷たさを感じながら、私は叫んだ。

「それなら最初から声掛けてくるに決まってるじゃない。絶対ダメ!」

 外の動きが止まった。

 そうだ。これは遠足の子じゃない。何かの影でもない。動物でもない。そして今は小屋に入ってこないけれど、入れてあげる、と言えばたぶん入って来る。でも言わなければ……入れない。

 美織は私がいきなり怒鳴ったことに驚いたのだろう、目を丸くしたまま言葉を止めている。私は唇に指を当てて、これ以上話さないようにと美織に伝えながら、扉の向こうの様子をうかがった。豪雨と雷鳴の騒音の中なのに、なぜか息を吸う音を立てるのも危険な気がした。

 トン、トン、トン……

 どこかで音が聞こえた気がした。

 トン、トン、トン

 扉だ。誰かが扉をノックしている!

「ほら、やっぱり人だよ」

 美織が喜び勇んだ声でまた話し出した。

「もしかしたら私たちを探しに来たのかも。ね、入れてあげ……」

 黒い影が一気に、滑るように小屋に寄って来たのが分かった。

「美織、黙って!」

私は叫んだ。木の扉の内側に何か黒いものが染み出し、浮き上がった。黒くて緩い凹凸のあるもの……

人の顔……!

「ぎゃあああっ!」

 さすがに美織も絶叫して私にしがみつく。我ながら泣きそうな声で、私も叫んだ。

「ダメ! 入って来るな! 入って来るなあっ!」

 顔のように浮き上がっていた黒い染みが、引っ込んで消えた。美織も私も体の震えが収まらない。

 ドンドンドンドンドンドン!

 いきなり激しく扉が叩かれ始めた。

「ひいっ!」

 私たちは悲鳴を上げて後ろの壁際まで下がった。叩かれるたびに古そうな木製の扉は激しく揺れ、取っ手に通した細い棒も、扉を固定した蝶番もギシギシガチガチときしんだ。いつ扉が壊れるか、外れるかと気が気ではない。

 ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン!

 ダンダンダンダンダンダン!

 今度は私たちが寄っていた真後ろの壁が叩かれ始めた。

「ぎゃあああっ!」

「ひいいっ!」

 私も美織もあわてて壁際を離れ、両耳を手で塞いで床の真ん中にしゃがみ込む。

 ダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンバンバンバンバンバンバンガンガンガンガンガンガンガンガンドンドンドンドンドンドンドン!

 左右の壁、後の壁、そしてまた扉と、それは小屋の周りをぐるぐる回りながら壁を、扉を、叩き続けた。とてつもない憎悪を感じた。

 入れろ、入れろ、入れろ、入れろ、入れろ、入れろ!、入れろ!!

 どれほど続いたのか分からない。

 ッ……

 音が、止まっていた。

 ずっと悲鳴を上げ続けていた私たちは、息が続かなくなってやっとそれに気づき、顔を見合わせ、恐る恐る塞いでいた耳から手を離した。

 屋内にはもう、激しい雨音が響いているだけだ。

「行っちゃった? 諦めたのかな……」

 美織が小さな声でつぶやいた。

「だといいけど……」

 私も小声で言う。でも、何かがおかしい気がした。まだ、消えていない。まだ、いる気がした。なぜなら……

 再び稲光が屋内を薄く照らし、雷鳴が轟く。

 何がおかしいのか、分かった。

暗いのだ。屋内が、暗い。これまで屋内は暗くても、稲光が光るたびに天窓からそれが差し込んで、屋内は昼間の明るさになっていた。

今はほんの少し明るくなるだけだ。

 ぽたり、と上からしずくが落ちる音がした。

また、ぽたり。

 雨漏り?

 でも、上を見るのが怖かった。

 また、稲光が光る。私たちは気づいてしまった。床に映る光が、天窓の四角の形じゃない。

「あ……ああ……」

 耐え切れず、上を見てしまった。

 雨漏りではなかった。天窓が壊れたのでもなかった。

 天窓のガラスから染み出すように、見たこともない女の濡れた顔と首が屋内に入り込んでいた。女は笑っていた。笑いながらじっと私たちを見下ろしていた。しずくは、その女が垂らす濡れた長い髪の先から、床に落ちていたものだった。


 入るな、といえば入れなかったはずなのに、なぜ天窓からは入ることができたのか。

 それは小屋の天窓が遮る蓋もない、常に光を「入れる」ために開かれていた場所だったからではないか、と考えたのは、それからずいぶん後のことだ。

 とにかく一度入ってきた女は、私たちがいくら「入るな! 来るな!」と叫んでも動きを止めることはなかった。女が息を吸い、そして私たちの上で大口を開ける。

 滝のような大雨が落ちてきた。すぐに小屋の中は雨水で一杯になり、私たちはその中で溺れた。必死で水面に顔を出そうとしたが、窒息し、意識を失った。

 先生や地元の人が来た時、私たちは小屋の中でずぶ濡れになって倒れていたという。もう少し発見が遅ければ、低体温症で本当に死んでいたかもしれないと、運び込まれた小さな病院で、医者の先生に怒られた。

 私たちが死なずに済んだのは、運よく同じ班の男子が登山道を外れる私と美織を見ていて、迷い込んだ場所が特定でき、それを聞いた地元の人が、比較的近くに小屋があるから、そこに避難しているかもしれないとすぐに雨の中を探しに来て、見つけてくれたからだ。

「この山は低いが、天気が変わりやすくて……」

 待合室で待っていた地元のおじいさんはそう言いかけ、美織の持っていた上着を見て表情を変えた。

「おい。おまえ、上着のポケットに何を入れてる!」

 おじいさんは手を伸ばし、美織の上着のポケットをひっくり返した。バラバラと音を立てて栗が床に転がる。それを拾い上げたおじいさんと地元の人たちは顔を見合わせて沈黙し、それからゆっくり私たちを見た。

「やはりこれだったか。おまえたち本当に運が良かったな。これは……取ってはいかん栗だ。首吊り栗といってな。ほら、ほんの少し栗の真ん中がくびれているだろう。これを拾って持って帰ろうとすると大雨になって……あれが憑いて来る。もう何人も亡くなっておるよ」



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