第11話 校庭にて (2)
その風は夜のうちに徐々に強まり、運動会当日の朝には、曇り空の下、本当に開催できるのか、と親も心配するほどの強い風が、時おり吹きつけるようになっていた。
それでも午前中はまだ日差しもあり、風のやみ間もあったので、そのまま運動会は行われた。担任の先生の説明で、もうクラスの全員が、ユリアが転校することは知っていたが、特別変わったことはなかった。
ただみんな、ユリアにとても親切だった。本当はずっと、みんなユリアに優しくしたい、仲良くなりたいと思っていたのだと思う。
ユリアはクラスの子に冷えた麦茶を分けてもらい、昼休憩には、梨華の家族や私と一緒に体育館で昼食を食べた。突風が吹くたびに校庭の埃が舞い上がるので、とても外で弁当を広げるのは無理だったのだ。
私の母もユリアのお母さんも、パートが忙しくて来られなかったが、梨華の家族と一緒に話しながら食べるうちに、あっという間に昼休憩は過ぎた。
ガタンガタンッ、と体育館の窓が強風に鳴る。
「こんなに風が強いと落ち着かないわね」
弁当の容器を仕舞いながら、梨華のお母さんが眉をひそめて言ったのを、ひどく鮮明に覚えている。
午後のリレー競技が始まって間もなくのことだった。
ゴーッという轟音とともに、それまでとは全く違う、唸るような渦巻きの風が、運動場全体を覆った。地面の砂埃を巻き上げながら、細長い茶色の渦ができ、上空へと伸びる。
「竜巻だ!」
誰かが叫び、保護者が座っていたシートが次々とめくれ上がり、朝、先生たちが苦労して建てたテントが、あっという間に倒壊した。白い線が引かれたトラックの内側では、順番を待っていた走者の先頭に立ててあった旗が、なぎ倒される。
悲鳴と何かが倒れる音が、あちこちで聞こえた。体育館に早く入れと先生たちが叫んでいるのが、激しい風音の中でわずかに聞き取れた。
私と梨華はリレーには出ていなかったので、クラスの椅子が並んだところから、そのまま体育館に走った。
ユリアは走者に選ばれていたが、他の走者と一緒に、トラックから体育館に走って行くのが見えた。
ザンッ!
私は思わず立ち止まった。ユリアを他の子たちから切り取るように、茶色の突風が走り抜けたのだ。ユリアは身を引き、その場で頭を抱え、しゃがみ込んだ。
いつの間にか、校庭に取り残されたユリアを中心に、巨大な暴風の渦ができていた。大量の砂やシートが舞っていて、私はその外側にいて、ユリアに近づくことも、目を開け続けることもできなかった。息をすることさえ困難だった。轟音で他の音はほぼ聞こえなかった。
それなのに、なぜその時、上を見上げようという気になったのか……
私は吹き飛ばされそうな風の中で、ユリアと同じように頭を抱え込みながら、なんとか目を開け、竜巻のような渦をたどって、上へ、上へと目を向けた。
空には既に、黒い雲海のように分厚い雲が垂れ込め、やはり大渦を巻いていた。あまりの圧迫感に恐怖を覚えた。その渦の中心から、黒い何かが地上に向けて落ちてくる。
迫って来る!
五本の指を大きく開いた巨大な手。黒い剛毛に覆われ、指先には魔物のような鋭い鉤爪までついた手が、轟音とともに目の前に迫り、校庭全体をつかみそうな勢いでユリアを覆ったのだ。
閉じられた檻のような指の隙間に、ユリアの顔が見えた。
―お父さま。あと少し、あと少しだけ……!
懇願するような小さな叫びが、かすかに聞こえた気もする。私は何もできず、何も考えられず、ただそのそばに座り込んで、理解しがたい光景を見ていただけだった。ユリアもまた泣くこともなく、助けてと叫ぶこともなく、ただ風に散らされる髪の間から悲しげに私を見つめ、握り込まれた手の中で、やがて目を閉じた。
巨大な手は降りてきた時と同様、ユリアを握ったまま凄まじい勢いで上昇し、空の黒い雲海の中に吸い込まれていき、消えた。
風が止んだ。雲が流れた。
気がつくと私は、あらゆるものが散乱した薄日の差す校庭に、一人座り込んでいた。
「芽衣さん、芽衣さん!」
体育館から、担任の先生が走り寄ってくる。
「まああなた、体育館に避難してなかったの。大丈夫? ケガはない?」
私は無言で見慣れた高齢の女の先生を見上げ、それからようやく頭の中が動き始め、何が起こったのかを自覚した。
ユリアを助けなければならなかった。
「先生……ユリアが……ユリアが……」
私は先生の両手をつかんで言ったが、今、目の前で起こった荒唐無稽な出来事を、どう伝えたらいいのか見当もつかず、そこで言葉に詰まってしまった。
先生は私の目を見たまま、不思議そうに首を傾げた。
「え……。ユリアって……誰?」
みんなが私をだましているような気がした。
「誰って……」
私は先生が何を言っているのか、分からなかった。
先生にユリアのことを細かく伝えた。きれいで優しくて、みんなに人気があって、運動会の後で転校することになっていると、先生自身がクラスに説明した女の子だということも説明した。
しかし先生の答えは同じだった。
「そんな転校する予定の子は、うちのクラスにはいないわよ」
それから私の頭を撫で、あの風で何か頭に当たっておかしくなっちゃったのかな、と真顔で心配そうにつぶやいた。体育館から出てきた他の同級生も、同じ反応だった。誰もユリアを知らず、覚えていなかった。
全員で私をだまそうとしているのだと思った。
後でどこからかひょっこりユリアが現れて、ウソだよ、といたずらっぽく笑う。いつものように。
私は下足置き場を確かめに走った。全員が口裏を合わせても、下足置き場のユリアの場所には、ユリア自身が癖字で書いた名札が張り付けてある。それは剥がせないはずだ。
その場所には、何もなかった。名前の札も、剥がした跡も、もちろんユリアが登下校時に使っていた、古い運動靴も。
教室に走り、ユリアの机を探した。
教室に戻り、ユリアの机があった窓際の一番後ろの……何もない空間を私は眺めた。
「ねえ。ここの机は……」
前の席の男子に尋ねると、やはり首を傾げられた。
「ここって……この列は俺が一番後ろだろ」
家に帰り、仕事から帰ってきた母に聞いた。
「ねえ。梨華と一緒にうちに何度か遊びに来た女の子のこと、覚えてる?」
母は笑いながら答えた。
「梨華ちゃんはよく覚えてるよ。一緒に……誰か来たことあったかな……」
通りの外れにある古い家のことも尋ねた。
母は、当然のように頷いた。
「それは覚えてるよ。あそこはお母さんしかいないし、小さな子ばかり三人の面倒を見るのは大変だよね」
違うよ、お母さん。子供は四人だよ。一番上はユリアという女の子。お母さんも、なんてきれいな子なんだろうね、と言ってたじゃない。
でも、私はただもう悲しくて、母にそれを口に出して言うことができなかった。
「勝手に私まで、その変な妄想に巻き込まないでほしいんだけど」
週明けの放課後、これからピアノのレッスンに行くという梨華を、誰もいなくなった教室に引き止めると、彼女はいつものように私を見下ろしがら、冷たく言った。
「結構な噂になってるよ。あんたがいもしない友達のことを、あちこちで、先生にまで聞いてまわってるって。一緒にいると、あたしまで変な人に見られちゃうじゃない。芽衣って確かに本はよく読むけど、そんなに現実と妄想を区別できない人だったかな?」
「……ごめん」
私は取りあえず謝った。梨華は大きな溜め息をつき、耳にかけた前髪をかき上げた。
「私に聞いても同じだよ。そんな女の子、知らないもの」
「ここが、ユリアの席だったの」
私は窓際の後ろを指差した。梨華は首を横に振った。
「そこは元から空きスペースだったでしょ」
「髪の色はかなり薄い茶色で、睫毛が長くて、鼻筋が通っていて、色白でとにかく綺麗で、でも笑うと愛嬌もあって」
「そんなに美人で可愛いなら、忘れるはずないじゃない」
「ユリアと二人で梨華の家に遊びに行ったこともあるよ。同じ本のシリーズが好きで、読んでいたら、梨華のお母さんがお手製のケーキをごちそうしてくれた」
「あの時来たのは、芽衣一人だよ」
「運動会の日も、梨華のお母さんと四人でお弁当を食べたじゃない。ユリアは、梨華のお弁当からローストビーフを分けてもらって、こんなおいしいお肉は初めて食べたって」
「そう言ったのはあんたでしょ、芽衣」
梨華はもう一度溜め息をついて立ち上がり、ランドセルを無造作に肩にかけた。
「もうつき合えない」
それからさっさと教室を出ようとして、梨華は立ち止まった。たぶん、私が泣き出したからだと思う。
「お願い。思い出してよ、梨華」
私は泣きながら頭を下げて頼んだ。
「他の人が誰も思い出してくれなくても、せめて梨華はユリアのことを思い出してよ。でないとユリアが……あんなに仲の良かったユリアが……かわいそうじゃない。運動会の前日だって、給食の時にパンを分けてくれたでしょ。自分は転校するけれど、これまでのお礼に何もあげられるものがないからって、私にも、梨華にも、他の班の人にも、平等に一口ずつ。そしたら梨華が、そんなのまるで……みたいだから良くないって。あの……」
梨華の言ったことが思い出せず、私は言葉に詰まった。
「……〈最後の晩餐〉?」
梨華が冷たく言う。私は身を乗り出して頷いた。
「そう、〈最後の晩餐〉みたいだから、永久にお別れみたいだから、ダメだって。それであたしと梨華が自分のパンを半分ユリアに返して、プリンをあげた子もいて。そしたらユリアは、嬉しそうに笑って、本当にいいのって……」
初めて梨華の突き放した表情に困惑がにじむのを、私は鼻をすすりながら眺めた。
梨華は額に手をやり、遥か遠い記憶を呼び覚ますように目を細めた。それから目を見開き、空きスペースだと断言していた、ユリアの机があった場所を眺めた。
「ユリア……?」
梨華はゆっくりと手を額から離した。
「ユリア……!」
彼女は私を見た。
「なぜあたしは……みんなは……ユリアのことを忘れたの……?」
「分からない」
私は泣きながら答えた。
梨華はまだ信じられない様子だった。
「どうして……」
翌年。
「まるで、竹取物語の逆バージョンだよね」
もう別々の中学に通うようになってから、ある時帰り道で一緒になった私に、梨華はそう言った。梨華の邸宅の庭では八重桜の花が盛りで、私はベンチに座ってそれを見上げながら、ユリアにも見せたいと思った。
梨華もまた桜を見上げた。
「竹取物語では、姫が月に帰ると、地上のことを忘れてしまうけど、ユリアの場合は、私たちの方が忘れてしまったの。……芽衣が忘れなかったのは、きっとその現場を見ていたせいだね」
梨華は私が話した校庭での出来事を、その後もずっと考え続けていたらしかった。
「空から伸びた手は……本当のお父さんの……神様の手だったのかな」
「あれが神様?」
さすがにそう考えたことはなかったので、私は驚いた。
「だって毛むくじゃらの鬼のような手で、爪も突き刺されたら死にそうな感じの鉤爪だったんだよ」
私が顔をしかめて反論すると、梨華は少し笑った。
「神様だっていろんな姿をしてるよ。動物とか、鳥や魚とか、岩や木とか……」
それは、確かにそうかもしれないけど。
私はあの悪夢のような校庭での出来事を思い返した。鬼よりは神の方がいいが、それでも悲しい出来事には違いない。
「じゃあ、ユリアも神様なの?」
「神様の娘……かな?」
梨華は首を傾げながら言った。
それならなぜ、神の娘が地上にいたのだろう。
ただ、その理由は分からなくてもよかった。
私の願いは一つだけだった。
ユリアに会いたい。もう一度。
また冗談を言って、一緒に笑いたい。
私の願いはただそれだけだった。
私がユリアに再会したのは彼女が消えてから六年後。学生になって一人旅を思い立ち、最終日に訪れた、遠い長崎の教会だった。
ユリアは白い像となり、教会を取り巻く樹木の木陰に隠れるように立ち、わずかな木漏れ日の中で両手を合わせ、祈っていた。ふんわりとした髪も、憂いを含んだ瞳も、細い鼻梁も、笑みをたたえた口元も、記憶のままだった。
「この像はいつから、ここにあるのですか?」
私は思わず教会から出てきた尼僧に尋ねた。
グレーのベールをまとった高齢の尼僧は少し首を傾げた。
「さあ、いつからかしら。随分前からあると思うけど。私が若い頃ここに来た時はもう、そこにあったから」
彼女はそのまま私の前を通り過ぎ、近くの国道へ通じる階段を下りようとして、ふいに立ち止まった。
「神様はね」
尼僧は振り返りながら、言った。
「神様は時々人に試練をお与えになるの。それはとても耐えられないような苦しみや、怒りや、悲しみであることもあるけれど……でもまだ私たちがこうして存在しているということは、多分なんとか皆が、その試練を乗り越えてきたからだと思うのよ。だから……もうあなたも、そんな悲しい顔をしなくてもいいのよ」
尼僧は笑って私に頷きかけ、階段を下りて行った。その笑みは、どこかユリアに似ているような気がした。
私は口の両端を指で押し上げ、笑った顔を作ってみた。
そうだ、笑わないと。ユリアに逢ったら笑おうって決めていたから。
たくさん話したいことがあるんだよ。本当にたくさんのことがあったから。
「ユリア、今日はもう帰らないといけないの。でも絶対また来るからね」
私がそう言うと、ユリアは木漏れ日の作る陰影で、頷いた気がした。
ユリアは消えていなかったのかもしれない。
図書館で気がついたら隣に座っていた時のように、ユリアはずっとそばにいたのかもしれない。ずっとこうして祈りながら、隣にいたのかもしれない。
これからも……
それでもなお、すぐにはその場を去りがたく、私は木漏れ日の下で一人祈るユリアのために、しばらくその場に佇み、穏やかな午後の木漏れ日を一緒に眺めていたのだった。
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