第10話 校庭にて(1)
その日、運動会の校庭であったことを書いておこうと思う。
きっと誰も信じてくれないから。
本当は、一度だけ勇気を出してお母さんに言ってみたけど笑われて、その後、冗談でもそんなこと言うのは良くないことだと、ひどく叱られた。
でもそれは本当にあったことだし、絶対に忘れてはならないことなのだ。
なぜなら、それを知っているのは、覚えているのは、私と、あと一人くらいしかいないのだから。
その子の名前は、優梨愛といった。
書くと時間がかかるので、その子もテストでは〝ゆりあ〟と書いていたし、同じ六年のクラスの私たちも、ユリアでいいのに、と思っていた。
見とれてしまうほどの美人だった。
もちろんテレビをつければ、美人な女優やアイドルは、幾らでも見ることができる。しかしユリアはそういうタイプの美人ではなかった。たぶん女優やアイドルやモデルとかの中に彼女を入れたら、全く目立たないだろう。ユリアはそういうオーラのある、華やかな美人ではなかった。淡く、線の細い、近くで見て初めて、こんな小さな公立の小学校に、こんな女神のように美しい子がいたなんて、とびっくりするような、そんな美しさだった。
午後の退屈な授業中に、窓から入る日の光に逆光で照らされる彼女の横顔は、ひときわ美しかった。長い睫毛、薄い色の瞳、日本人離れした鼻筋の通った稜線、いつも微笑んでいるような口元、そして抜けるように白い肌。それらをふんわりと巻いた茶色の髪が囲み、見ているだけで、妖精と一緒に授業を受けているような、不思議な気分になれた。
でも現実に戻れば、彼女は時々漢字や計算問題を間違えたし、書く文字は癖字だし、好きな食べ物は、と尋ねると、おでん、と答えるような、普通の女の子でもあったのだ。
彼女は六年になってから転校してきた。
最初から人当たりがよく人気者で、取り巻きは何人もいた。ごく普通の、何の取柄もない庶民として育った私は、最初はその取り巻きにさえ入れなくて、惨めな気分を味わったものだ。
だからある日、図書館で小説を読みながらいつものように空想に浸っていたら、隣の椅子にいつの間にか彼女が座っているのに気づいた時は、声も出ないほど驚いた。
私が気づかないように、こっそり隣に座ったらしい。彼女にはそんな茶目っ気もあった。
「比奈ちゃんも読んでるんだ。この本、面白いよね」
彼女はいたずらっぽく笑って言った。その手に載っている本も、私が読んでいるのと同じシリーズの本だった。
その日から私たちはすっかり仲良くなった。
もちろん彼女が他の子たちと遊ばなくなったわけではない。特にその中の一人―梨華は、私以上の読書家で、成績も良く、近隣で一番広い邸宅に住んでいる、大きなライバルだった。
彼女は私やユリアが読んでいるような本は、もう全て読破していたし、書いた作家の他の著作や書かれた背景についても、信じられないほど詳しかった。
「うちにはそのシリーズも、他の本も、全部そろえてあるよ」
と当然のように梨華が言うので、ユリアと一緒に噂の邸宅を尋ねたこともある。
学校の図書館より広々とした書庫には、ふかふかの絨毯が敷き詰められていて、読みたい本は何でもあるのでは、と思うくらいの本や画集が、壁一面に並んでいた。
梨華のお母さんは、ユリアにはかなわないものの上品な美人で、まだ小学生の私たちに、綺麗な食器に載ったケーキと、紅茶をごちそうしてくれた。
とても太刀打ちできない。
私は口の中で溶けていくケーキをほろ苦い思いで味わいながら、心の中で早々に白旗を上げた。
ただ、それでもユリアが私と梨華との付き合いで、差をつけることはなかった。私や梨華だけではない。ユリアは誰にでも優しく、親切で、誠実で、絶対に嘘を言うことはなく、誰かに遊ぼうと誘われて、断ることもなかった。その中には、私や梨華から見れば、近づかない方がいいのでは、と思う素行の子たちも混じっていたが、ユリアは区別しなかった。
しょうがない。
最終的に私や梨華はその結論に達した。それがユリアの、ユリアらしい、いいところなのだから。みんな、ユリアのそういうところが好きなのだから。大好きだったのだから。
その頃までは……
ユリアの家のことを書かねばならない。
梨華の家が邸宅であるのとは反対に、ユリアの家はとても小さな古い家だった。
私の家も両隣の家に挟まれた、築数十年の古くて狭い家だが、それよりもさらに古くて狭かった。
台所の他には一部屋しかない。そこに近くのスーパーでパートをしているお母さんと、三人の小さな弟妹と、五人で暮らしていた。
お父さんは、と何気なく聞いたら、遠くにいるとユリアは、少し困った様子で答えた。後で母に、ユリアのお母さんは離婚して、親戚の敷地にあるあの小さな家に、安い家賃で住まわせてもらっているのだと聞き、余計なことを聞かなければよかったと、ひどく後悔した。
不思議なものを見たのは、夏休みだった。
ユリアがテレビのCMに出ていた。と言っても、背景に映るその他大勢の子供たちの一人だ。地元の銘菓の宣伝なので、放送エリアも全国ではないだろう。その後も時々ローカルな感じのCMや、新聞に挟んである地元の服屋のチラシなどで、彼女を見た。
そこにいるユリアは、顔立ちはきれいだが、特別目立つところもない、普通の少女という感じだった。ユリアの美しさは間近で直接見ないと分からない。こんな使われ方は間違っている、とその時、私は子供ながらに違和感を覚えた。
「叔父さんが小さなタレント事務所に勤めていて、絶対仕事を回すって言うから、お母さんが契約したの」
久しぶりに会った夏休み中のプールで、CMを見たことを言うと、ユリアはまた困った笑みを浮かべて、そう説明した。
「仕事、楽しい?」
ユリアがさらに複雑そうな笑みを浮かべて口ごもったので、私はまた余計なことを聞いたことに気づいた。
しかしもう黙っていられなかった。
「嫌なら、やめたらいいのに」
そう言うと、ユリアは私と一緒にプールの縁に座り、歓声を上げて泳いでいく同級生たちを眺めながら、うん、と言いつつ首を傾げた。
「でも……あたしが嫌って言うと、お母さんが困るんだって。小さい頃から、嫌って言わないで、はい、と言いなさいと、いつもお母さんに言われてたから……」
決定的な話を聞いたのは、夏休みの終わりだ。
ユリアが何か大人向けの雑誌に、変な服を着て、変なポーズで載っているらしい。
同じ塾に通う男子が、そう噂しているのを聞いた。彼らが、え、マジ、と言いながら面白おかしく細かな話をするのを横で聞きながら、手が震えた。
絶対ウソだと思った。でなければ他人の空似だ。
しかし、直接ユリアにそれを聞くことはできなかった。聞けばまた余計なことを言って、ユリアを傷つけてしまうかもしれない。でも本当は、私はただ単に事実を知るのが怖かったのだろう。
梨華はちょうど、中学受験のための夏期講習から帰宅してきたところだった。
私はいまだに梨華の、秀才で、何でも知っていて、上から人を見下ろしているようなところが苦手だったが、信用して話せる相手は、彼女しかいなかったのだ。
邸宅の庭にある藤棚の下のベンチに座って、私は梨華に男子に聞いた噂の話をした。彼女は私の話を聞いても表情を変えなかった。つまり、噂はもう知っているのだ。
「ウソだよね。人違いだよね」
いつまでたっても梨華が何も言わないので、私はもう一度同意を求めて言った。
梨華は溜め息をついた。
「あたしに分かるわけないじゃない。あたしがその雑誌を見たわけじゃないんだから。比奈だってそうでしょ。でも……」
梨華は言葉を切り、私の目を見た。
「もし本当だったら、比奈はどうしたいの。やめさせるつもりなの? それであの家族は生活していけるの?」
考えてもみなかったことを梨華が言い出すので、私は口をつぐんだ。
梨華が目をそらす。
「あたしもユリアの家の収入なんて分からないけど、もしお母さんのパートの収入だけだとしたら……五人で生活していくのは大変だと思う」
「じゃあ……どうしたらいいの?」
私は途方に暮れて尋ねた。
「知らないよ。比奈が自分で決めれば?」
梨華は溜め息をつきながら、突き放すように言った。こういう時の梨華は、本当に冷たい。
「絶交したかったら、したらいいじゃない」
「し、しないよ!」
私は慌てて否定した。
「そう言う話をしてるんじゃないの!」
むきになる私の顔が変だったのか、梨華は人が真剣に相談しているのに、喉の奥で小さく笑った。
結局私は、ユリアには何も言わなかった。
ユリアも何も言わなかったし、夏休み明けの学校は、秋の運動会の準備で皆忙しく、思ったほどの酷い事態にはならなかった。
ユリアの取り巻きはかなり減ったが、その分私は毎日ユリアと一緒に話し、図書館で一緒に本を選び、一緒に帰り、一緒に遊べたので、おかしな話だが、とても幸せだった。ユリアがどれほど幸せだったのかは分からないが、少なくとも学校ではよく笑ったし、以前と同じように、見とれるほど美しく、優しかった。まあ梨華も一緒だったので、二人きりというわけにはいかなかったが。
しかし梨華の存在は大きかった。
妙な噂が付いてまわるようになったユリアを、夜遊びに誘おうとするグループも幾つかあったのだが、大人びた貫禄のある梨華がいつもそばにいたので、彼らは誰もユリアに声を掛けることができなかったのだ。
私はまだ梨華をライバル視していたが、このことだけは、今も彼女に感謝している。
私たちは三人で、幸せだった。
だからこそ。
運動会。
今でもこの言葉を聞くと、この日のことを思い出すと、気が狂うほどの後悔に襲われる。
なぜユリアを守れなかったのか。本当に救う手立てはなかったのか。
彼女は私の目の前に、ほんの少し走れば手の届くところに、その時いたのだ。
彼女も私を見ていたのに。
あの強風の中で。
なぜどうにもできなったのか。
なぜ、なぜ、なぜ!
運動会の前日、給食はミートボール入りのスープと青菜のおひたし、プリン、そしていつものコッペパンだった。
私とユリアと梨華は、班替えで三人とも同じ班になり、その意味でもとても幸せだった。
だから給食の配膳が終わり、全員で「いただきます」を言った後に、まさかユリアがそんなことを言いだすとは想像もしていなかった。
「あたし運動会が終わったら、転校するの」
賑やかな給食時間なのに、私の班だけ静まり返った。
私はあまりにも突然で、声を出すこともできなかった。
「どう……して?」
梨華が珍しく呆然とした表情で尋ねる。
ユリアはやはり笑っていたような気がした。
「家の家賃を上げるって、叔父さんが言ってきたの。それでお母さんが、あたしたち四人全員を育てるのは無理だから、一人はお父さんのところに行ってほしいって……」
「それで、ユリアが行くことになったの?」
梨華は沈んだ声で、さらに尋ねた。
ユリアは頷いた。
「本当は弟を行かせる予定だったんだけど、お父さんが、手のかかる小さい弟より、家事ができるあたしの方がいいって。あたし行きたくなかったけど、しょうがないよね。……でもね」
急に満面の笑みを浮かべて、私を見た。
「比奈。あたしちゃんと、嫌だって言ったよ」
「え……」
まだショックでぼんやりしている私に、ユリアは薄い色の目を細め、微笑みかけた。
「本当に嫌だったから、叔父さんにこんな仕事は嫌だって言ったの。諦めてくれるまで、嫌だって言い続けた。比奈、あたし頑張ったよね」
その頑張って嫌だと言い続けたことが、結果的に家の家賃を上げ、ユリアを転校させてしまうことに繋がったのではないか……
それでも、やはりユリアに嫌なことはしてほしくなかった。私は頷き、彼女のふんわりした髪の頭頂部を、偉いね、と言いながら撫でた。
ユリアは少し肩をすくめ、やはり幸せそうに笑った。
「ただ……」
ユリアは笑ったまま視線を下に落とす。
「転校する前に、今までのお礼に何かプレゼントをあげたかったんだけど、何もあげられるものがないの。だからね」
ユリアは自分のトレイに載ったコッペパンを取り、一口分をちぎって私のトレイに置き、さらにもう一口分をちぎり、梨華のトレイに載せた。それから残りもちぎって、他に三人いる班員のトレイにも載せた。三人の中には、塾で面白おかしくユリアの噂をしていた男子も含まれていた。
「少しずつしかあげられなくて、ごめんね」
「だ、ダメだよ、ユリア。ユリアがお腹空くでしょ」
梨華が呆れた声で言い、自分の分のパンを半分ユリアのトレイに返す。私も慌てて自分のパンを半分ユリアに渡した。
「それに……」
少し嫌そうな顔をして、梨華が続ける。
「こんなの〝最後の晩餐〟みたいじゃない。またいつかきっと会えるでしょ?」
ユリアは頷き、そうだね、ごめんと言った。
「あの……」
例の男子が口ごもりながら、一番人気のデザートであるプリンをユリアに差し出した。
「え、本当にいいの?」
ユリアは二個になったプリンを覗き込み、嬉しそうに笑う。私はもう、そこの頃には涙が止まらなくなっていた。とうとう声を上げて泣き始めたので、クラス中が何事かと騒ぎ始める。
バンッ
突然、強い風が教室の窓を叩き、全員が静まり返った。
「なんだ、びっくりした。突風だよ」
誰かが言った。
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