第7話 やっちゃったね
お姉ちゃんというのは大変なの。
下が年の離れた妹だったりすると、もっと大変。いきなりお母さんもお父さんもあたしのことなんかそっちのけで、一日中妹のことばかり。寝たり泣いたりしているだけで、言葉もろくにしゃべれない赤ちゃんを必死であやして、ご機嫌を取ろうとする。あたしはいつも、ちょっと待ってね、なのに。あたしだって色々お母さんに相談したり、お父さんに買ってほしいものだってあるのに。
ついこの間まで三人で楽しく食事に出かけたり、遊園地で私が大きなクマのぬいぐるみを見て、可愛いけど値段が高過ぎるからいらないって言ったのに、いいよって買ってくれたことも、忘れたの?
よく電話してくるおじいちゃんもおばあちゃんも、以前はあたしと話したがったのに、今は妹の片言を聞きたがる。最後につけ加えみたいに、アヤももうお姉ちゃんだね、頑張らないとね、と私に言うけど、なぜあたしが妹のために頑張らないといけないの?
こんなこと言うと、あたしは妹ができるまで両親を独り占めできたのだからいいじゃない、と言われそうだけど、妹は奪う側だ。あたしは奪われる側。全然違う。奪われる気持ちは、絶対に妹には分からない。
でも、あたしもバカじゃないから、こんな気持ちをそのまま外にだしたら、良くないことくらいは分かっているの。意地悪なお姉ちゃんなんて思われたくないし、お母さんやお父さんだって、そんな私を知ったら、がっかりする。私はいつもいい子の、優等生でいたいの。
だから私は、にこにこ笑って妹の頭を撫でたり、あやしたり、時にはおむつ替えの手伝いまでして、いいお姉ちゃんを演じている。そうすると、お母さんも、さすがおねえちゃんだね、偉いねって、褒めてくれる。
あー、でもやっぱりうんざり。イライラする。
でも、あたしは優等生だから、そのストレスの発散法も発見した。
あたしが小さなころから遊んでいた三体の着せ替え人形。あれって首の接続部は、力を入れて引っ張ると抜けるようにできてるんだよね。
最初に腹立ちまぎれに引っ張って、抜けてしまった時は驚いたけど、ポンッ、て抜けたのが凄く気持ちよくて。そのまま胴体も頭も部屋の壁に向かって、バンバンッて投げつけたら、もっと気持ち良かった。
もちろんこんなストレス発散、人には見せられないけれど、人形の首は押し込めば元に戻るし、人前では絶対にやらないから大丈夫。
それにこんな乱暴なストレス発散、いつまでもやっていたわけではないの。
妹が少し大きくなると、お母さんはあたしと妹を連れてよく買い物に出るようになった。お揃いの服、とか、同じ種類のオモチャとか。
そしてお母さんは、どんなものを買う時でも、あたしの方に少し高価なものを選んでくれたので、あたしのイライラは少し収まって、人形を投げる必要はなくなった。
人形はどうしたかって?
知らない。人形遊びなんてもう卒業したし、たぶん、お母さんが適当に処分してくれたんじゃないかな。
「アヤさん、凄い。また百点!」
小六の2学期最初のテストで、クラスでただ一人百点を取った私のテスト用紙を先生が壁に貼り出すと、すかさず隣の席になった田中さんが褒めてくれた。
百点なのは当然なので嬉しくもないが、一応謙遜はしておく。
「そんなことないよ。練習した問題がたまたま出ただけ」
「でも一学期もほとんど百点だったじゃない。こんなに完璧な人は滅多にいないと思うよ」
この田中さんという人は、いつもニコニコしていることだけが取り柄の、成績も顔も他も特に目立つところのない、地味で小柄な女の子だ。
「そう言えば田中さんの妹。転んで大怪我したって聞いたけど、良くなったの?」
先生が教壇に戻り授業が始まると、近くの席の子が尋ねるのが聞こえた。田中さんが頷く。
「うん、大丈夫。もう膝の所にかさぶたがあるだけ」
「田中さん、妹がいるの?」
あたしは思わず聞いた。田中さんは嬉しそうに笑った。
「いるよ。今、一年生」
それならあたしの妹とほとんど同じだ。妹のサキは、来年小1になる。
「田中の妹は、いつも田中の後を追っかけてるよな。お姉ちゃーん、お姉ちゃーんって」
近くの男子が言い、数人が笑って先生に睨まれた。
確かにあたしもサキと仲がいい。そうした方が両親への受けがいいからだ。一緒にサキの人形で人形遊びをすることもよくある。しかし後ろをついて来ることはない。
「妹、かわいい?」
先生が黒板に向かうのを待って、あたしはなんとなく尋ねた。田中さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「うん、かわいいよ」
次の時間は学級活動。休み明けの常で、班分けと班長決めをした。私は田中さんと一緒の班になったが、班長決めになると、誰ともなく田中さんがいいという雰囲気になった。
ところが田中さんは、自分よりずっと優秀なあたしにするべきだと言い出したのだ。
他の子たちが困った表情で私を見る。
班長なんて、くだらない。
「あたしも田中さんがいいな」
にっこり笑ってあたしが言うと、田中さんはもっと困った表情になったが、アヤさんが言うなら、と承諾した。
みんながほっとした顔になる。
何その顔。ムカつく。
それはそれとして、一人だけ百点を取って貼りだされたのは、六年になって初めてだった。
お母さんは私が百点を取ったことを報告すると、必ず大袈裟なくらいに褒めてくれる。一人だけ百点なら、もっと褒めてくれるに違いない。これは幼稚園児のサキにはまねできない、あたしだけの特権だ。
ところが夕食の時にそれを言おうとすると、お母さんはたまたまテレビに映っていたCMを見て、身を乗り出した。
「あら、もうランドセルの宣伝が流れてる」
「アヤには好きなデザインのを買ってやったから、サキにもそうしないとな」
お父さんもご飯を食べながら言う。
サキのなんて、あたしのお古で十分なのに。
でもあたしはにっこり笑った。
「楽しみだね、サキ」
隣でスープを飲んでいたサキは、慌てた様子で口の中の物を飲み込んだ。
「うん」
「後で一緒に人形で遊ぼ」
あたしが続けて言うと、サキはにっこり笑った。
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
百点のことを言うのは、翌日回しにした。これではランドセルの話題のついでになりそうだし、ついでなんて絶対に許せない。
しかし翌日、いつもは行く塾の日取りが変更になっていたので、学校からまっすぐ帰ってみると、家には誰もいなかった。いつもはお母さんも、幼稚園から帰ってきたサキもいるはずなのに。
―お母さん、今どこにいるの?
仕方なく自分のカギで家に入り、スマホでメッセージを送ると、今買い物から帰るところ、と返事がきた。
三十分ほどたった頃、車の音がして確かにお母さんは帰ってきた。大きな四角の箱を抱えたサキと一緒に。
「アヤ、早かったのね。今日は塾があるんじゃなかったの?」
お母さんが慌てた様子で、しかし笑いながら言った。
「今日の塾が週末に変更になったことは、先週言ったよ」
あたしが少し怒って言うと、お母さんは、そう言えば、と言いながら口を押えた。
「ごめんね。黙って出かけたわけじゃないのよ。早めにランドセル買った方が、色々選べると思って、ちょっと買いに行ってただけ。帰りにケーキ屋さんでアヤの好きなタルトも買ってきたから、一緒に食べましょ」
そう言ってお母さんはテーブルに白い箱を置いた。サキはその後ろでランドセルの入った大きな箱を抱えた、黙っている。
「……じゃあ服、着替えてくる」
これ以上怒るのはみっともないので、私は怒った表情を引っ込め、廊下に出た。
でも本当は、怒りは収まっていなかった。お母さんは私が気づかないと思って、サキとこっそり二人で買い物に出かけたのだ。
あたしは何年も二人で出かけたことはない。いつもサキが一緒だった。
もしかしたらこれまでにも、あたしが気づかない間に、二人で出かけていたのかもしれない。サキだけ好きなものを買ってもらっていたのかもしれない。
そう考えると悔しくて悔しくて、吐き気がした。
部屋がある二階への階段を上ろうとして、自分のランドセルをまだキッチンの椅子に置いたままだったことに気づいた。仕方なく取りに戻る。
「ねえ、お母さん。次は必ずお姉ちゃんと二人で出かけてね」
キッチンから心配そうなサキの声が聞こえた。
「それは、そうね。卒業式の衣装も揃えないといけないし」
テーブルにケーキ皿を並べながら、お母さんが言う。
「じゃあ、なるべく早くね」
お母さんが手を止め、サキの方に向き直るのが見えた。
「どうしたの。そんなに泣きそうな顔して」
サキは数秒答えなかった。
「だって……お姉ちゃん、時々怖いんだもの」
何それ。
あんなにあやして、勉強時間を削ってつまらない人形遊びに付き合ってあげたのに、その言い方は何なの。
お母さんが小さな溜め息をつくのが聞こえた。
「大丈夫よ、サキ。お姉ちゃんはお母さんが機嫌を取るから。機嫌さえ良ければ、そんなに悪い子じゃないのよ」
それ、どういう意味?
それじゃあまるで、普段のあたしは悪い子みたいじゃない。こんなにいい子にしているのに。いい成績も取っているのに!
怒りで体が震えたまま、あたしは静かに廊下を引き返した。
確かにあたしは赤ちゃんの頃のサキが寝ている時、思い切り耳を引っ張ってやったことはある。サキが泣き出してお母さんも来たので、すぐにあやしたけど。でもそんなのほんの数回だし、血が出るほどじゃない。
そういえば、サキがもっと小さかった頃、ずっとあたしの前を歩いて、お母さんと話し続けていたから、足を引っ掛けて転ばせたこともある。でも一回だけだし、すぐ謝った。
―あ、ごめんね、サキ。足が引っかかっちゃった。
たったそれだけのことを根に持って、怖いとお母さんに訴えるなんて、ひど過ぎる。
本当は、今日はもっと傷つくこともあった。
同じ班になった男子が廊下で話しているのを、聞いてしまったのだ。
―確かにあいつは成績もいいし、まあ美人かもしれないけどさ。俺うっかりあいつにぶつかった時、すんごい目で睨まれて怖かったもん。
―あいつは笑顔でも目が笑ってないんだよな。田中はお人好しなんだよ。ま、そこが田中のいいとこだけど。
田中さんを褒めた子は、あたしが結構いいなと思っていた男子だった。
でも、もういい。あたしがこんなに努力して、頑張っていい子にしているのに、誰も認めてくれないんだ。田中さんみたいに、ただにこにこしているだけの子がいいんだ。お母さんまで、サキの味方なんだ。
ふと見た和室に、サキが置き忘れたらしい人形が一体、座卓にあるのが見えた。
あたしはそっとその人形を持って、音をたてないように二階に上がった。自分の部屋に入ってドアを閉め、胴体と頭を左右の手で持ち、思い切り逆方向に引っ張った。
ポンッ
数年ぶりに引っ張った動体と首は、意外に簡単に離れた。成長した分、力も強くなったのだろう。大きな音が出ないように、壁ではなくベッドの上に向かって叩きつける。でも音がしないので、あまりすっきりしない。床に子供の頃の大きな絵本を置き、その上に叩きつけてみた。
パシッ、パシッ
少しだけ、すっきりした。あたしは叩きつけた胴体と頭を持ち上げて首を繋げ、また引っ張って外し、本の上にま叩きつけた。何度も、何度も。
ポン、パシッパシッ、ポン、パシッパシッ
十回くらい繰り返したら、ようやく少しだけ気持ちが晴れてきた。
大丈夫。また首と胴体を繋いで、和室の座卓に戻しておいたら、誰にも分からないから。少し首の接続部が緩くなったけど、そんなの、どうでもいいことだ。それからあたしはキッチンに行って、いつも通りにっこり笑って、大好きなイチゴのタルトを食べるの。
あたしは、いい子なんだから。
〈あーあ、やっちゃったね……〉
人形を手に持って部屋を出ようとした時、今まで聞いたこともない、おばあさんの嗄れ声のような声が、どこからか聞こえた気がした。
あたしは振り返って部屋を見回した。部屋はしんとしている。空耳か、窓の外から聞こえたのだろう。
あたしはさっさと部屋を出て、ドアを閉めた。
イㇶㇶ……ウㇶㇶㇶㇶ……
何かの声がうるさくて、目が覚めた。
笑い声のようだが、まるで魔法使いが悪だくみした時のような耳障りな声だ。
イㇶ……キㇶㇶ……ウㇶㇶㇶ……
嫌々目を開けると、薄暗い部屋の天井が見えた。あたしは真っ暗な部屋が嫌いなので、いつも小さな明かりはつけたままで寝る。
夢か、と思い再び目を閉じようとした時、その声はした。
〈バカだね。こっちだよ!〉
あの嗄れ声の、魔法使いのような声だ。第一、バカとはなんなの。あたしはカッとして目を開き、辺りに視線を巡らした。
誰もいない。もちろん、いるはずがない。
なのに、誰かの息遣いが聞こえる。
なぜ。
あたしは聞こえる方に、ベッドの左端の方に、恐る恐る視線を向ける。
ベッドの端に、右目に黒い穴が開いた小さな人形の首が載っていて、じっとあたしの方を見ていた。
ぎゃあっ、と大声を上げたつもりだった。
しかし実際には、あたしの体はベッドに貼りついたように全く動かず、口も開かなかった。顔の向きや目線を少し動かすのがせいぜいだ。
「う……ぐぅ……」
動かない口から声を絞り出そうとするあたしの横で、人形の首は頭を揺らしながらギャハハ、ギャハハと大笑いしている。
よく見ると人形の頭の毛は、半分は長い髪だが、半分は地のピンク色が見えるほど刈り込まれていた。
そうだ。あたしがやった。まだ一年生か二年生の頃。新しい服を着てきた子が、みんなに可愛いと褒められてムカついたことがあった。その後、持っていたペンで白い袖に赤い線をつけてしまったのだ。もちろん、うっかり。でもその子は大人しい子で、大丈夫だよ、洗えば落ちると思うから、と言ってあたしに謝らせなかった。実際、次にその子が着てきた時は、袖の汚れは消えていた。
思い出した。それであたしはイライラして、人形の髪をハサミで刈り込んだのだ。でも、そのくらい誰でもやっていると思う。人形の髪を、切るくらい。
〈でもあんたはそのハサミで、アタシの右目を突き刺し、穴を開けた。そこまでする子はそうはいないと思うけどね。痛かったよ。ああ、痛かった!〉
そう言って人形の首はまた、老婆の嗄れ声で、ギャハハハ、と大笑いした。
うるさい、うるさい、うるさい!
あたしは心の中で叫ぶ。
お姉ちゃんは大変なんだから。いつも妹の手本になるようないい子でいなきゃいけないし、我慢もしたし、成績も良くなきゃいけないの。だから少しはストレス解消も必要なの。仕方がないの!
〈嘘つくんじゃないよ!〉
いきなり人形の首は笑いを止め、潰していない方の左目と口を三日月の形に歪めて、あたしを睨んだ。
〈お姉ちゃんなんか関係あるもんか。おまえはただ女王様になりたかっただけだ。いつでも自分が一番じゃないと気が済まない。自分以外の誰かが優先されたり、注目されるのが許せない。思い通りにならなきゃ意地悪をする。いい子が聞いて呆れるね。みんな、本当におまえをいい子だと信じてる、とでも思ってたのかい。バカだね。お前が本当はどれほど意地悪で、身勝手で、ウソつきで、残酷で、根性がねじ曲がってるか、みんな知ってるに決まってるだろう。こんな張りぼてみたいな女王様、誰が信じたりするもんか!〉
それからまた人形の首は、大きな口を開けてゲラゲラ笑った。
酷い。何でこんな大昔に捨てた人形なんかに、好き勝手言われなきゃならないの。
あたしは涙が出るほど腹を立て、そして思い出した。捨てたのではなかった。お母さんが処分したのでもない。髪を切ったり目を潰した後、こんなものを両親に見られたらまずいと思って、部屋のロッカーの一番奥に隠したのだ。完全に忘れていた。
なぜ忘れていたかって?
だって、人形なんてどうでもよかったから。
そうだ。あたしは気づいた。これはどうでもいい人形なんだ。
どうでもいい人形に、今さら文句を言われる筋合いはない。夢だとしてもふざけている。
黙れ、とあたしは心の中で言い放った。
大昔にロッカーの暗がりに押し込まれて、ずっと何もできないでいたくせに、今頃のこのこ現れる、おまえの方が大間抜けだ。今さら出番があるはずがない。おまえは用済みのゴミ人形だ。今度こそゴミとして捨ててやる!
いつの間にか、人形の高笑いは止まっていた。身動きできないあたしの視界の左端で、人形の首は半月型に釣り上げた口の両端に皺を寄せて、ニヤニヤ笑っていた。
嬉しそうに。
〈なぜ今頃現れたのかって?〉
潰していない左の目を細め、囁くように、そいつは言った。
〈ずうっと待っていたんだよ。もう一体、揃うのを……〉
ロッカーの方から、何かがコトンと落ちる小さな音がした。続いて床を転がる音。また、コトン、と落ちる音。転がる音。
あたしは目を見開き、なんとかロッカーの方を見る。扉が少し開いていた。数センチ、黒い筋が入っている。そこから丸い何かが二つ転がり出てきた。
あたしが持っていた三体の人形の、残りの二体の首だった。二つは転がり、息を詰めるあたしの視線の先で、一度大きく床で弾んだかと思うと、最初の首と同じように、ベッドの上に乗ってきた。そして三体とも顔を歪ませて笑い出した。
「ヒ……ヒィ……ヒィィィ……!」
気持ち悪さで全身から汗が噴き出す。
一つは顔が全部緑に塗られている。何かで腹が立った時に、手近にあった緑のマジックペンで塗ってやった。もう一つは髪がほとんどなく、頬に幾つかシャーペンの芯を突き立てた跡がある。理由はもう覚えていない。
でもあたしが本当に恐怖を覚えたのは、別の音に気づいてからだった。
コツン……コツン……コツン…………
小さな靴音のようなような音だ。ロッカーの黒い隙間から、首のない人形の胴体が三体現れた。首がないまま、歩いていた。
「ヒ……ィィ……ッ」
三体ともカラーマジックで表面を塗りたくられている。一体は腕が片方取れていた。それでも、三体とも器用にベッドの側面をよじ登り、二体は、あたしの夏布団から出た両足首に、片腕のないもう一体は、あたしの顔のすぐ横まで寄ってくる。
「ヒ……ヒ……ヒ……」
冷たい人形の手が、あたしのそれぞれの足首と顎に触る。冷たい。そのまま、ぎゅうっとつかんで引っ張った。
痛いぃっ!
あたしは動くこともできず、声も出ないまま、絶叫した。信じられない握力だった。
やめて、やめて。そんな冷たい手であたしに触らないで。そんな強い力で引っ張らないで。顎が砕ける。足が抜けちゃう!
それなのに、まだ別の小さな音が聞こえてきたのだ。
パン……ズズ……パン……ズズズ……
今度は部屋の外から聞こえた。まるで階段を小さな何かが手をついて、よじ登ってくるような音が、だんだん近づいてくる。
コツン……コツン……
歩く音に変わった。二階の廊下を近づいてくる。あたしの部屋の前で止まる。
ガチッ
心臓が跳ね上がった。何かが外から部屋のドアレバーを握った。ゆっくりと内側のドアレバーが下がり、音もなく開く。
昼間、散々叩きつけたサキの人形が、こちらをじっと見ながら、レバーにぶら下がっていた。その首は胴体から外れて落ちそうだ。あたしが何度も外したから緩くなっている。だんだん顔が逆さになり、とうとう外れてゴロンと床に転がった。転がったまま、首は若い女の声でゲラゲラ笑った。
〈やっと揃ったよ。面白いねえ。面白いねえ。やはり二手に分かれて同じ力で引っ張らないと、バランスが悪いからねえ!〉
右目が穴になった首が、残った左目を輝かせ、ワクワクした声で言う。
あたしの力任せに引き上げられている顎に、顔の反対側から、サキの人形の冷たい手も加わった。全身に脂汗が浮くのが分かる。
やめて、やめて、やめて!
〈それみんな、力を合わせて、せえの、で引くんだよ!〉
右目のない首が言い、四つ並んだ首が、笑いながら声を揃えて、せえの、と叫んだ。
グィィィーッ
思い切り、両足首は下に、顎は上に向かって引っ張られた。
「ぐががぁっ……ぐぃいぃぃ………っ!」
喉の奥から声にならない声が漏れた。
グィィーッ
もっと引っ張られた。
痛い、痛い、痛い!
見開いた両目に涙が浮いてくる。
そんなはずはなかった。これは変な夢のはずだ。たかが人形にこんなことができるはずがない。こんな怪力があるはずがない!
それなのに激痛だった。顎は軋み、両足は引き抜けそうだ。
中でも一番苦しいのは、首だった。頭と足を上下に引かれ、顎の下には二つの手が食い込み、首が絞られて息ができない。
このままではあたしは……あたしは……!
「ぐがぁ…ぐ…げぇ……っ」
四つの首が、興味深げにあたしの顔を覗き込んだ。一つの首は緑のマジックペンを口にくわえ、もう一つはシャーペンを、サキの人形の首は重い辞書をくわえている。
唯一何もくわえていない右目の潰れた首が、残った左目を細めてにんまりと笑った。
〈大きくなったねえ。でもあたしたちも待ってる間に年齢を重ねた。こんな嗄れ声になっちまったけどね。でも年とっても、まだ分からないこともあるんだよ。人間の首は、引っ張ったらどうなるんだろう。やはり抜けるのかね。それとも餅みたいに長く伸びるのかね〉
「がぐ……ぐぁ……!」
離せ、と言いたかったが、息さえできなかった。人形の顔はぞっとするほど歪んでいる。それでも目を背けることができなかった。その左目が嬉しそうにじっと見ているのが、あたしの目だと分かったからだ。
人形の首の横には、ハサミが落ちていた。
首は優しそうに笑った。
〈選ばせてあげるよ。本でぶたれて、マジックで塗りたくられて、シャーペンを突き立てられて、目玉をくりぬかれるのは……首が離れた後がいい? それとも、前がいい?〉
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