第6話 誰か、いるよ


 その人影に気づいたのは、中二の新学期が始まって、まだ間もない頃だった。

 中学の生活にも慣れて、まだ受験も遠くて、多分一番のんびりした新学期。

 つまり、春だ。

 登校中、友達のモリちゃんと踏切で遮断機が上がるのを待っていた私は、近くの雑草が生えている辺りから、つくしの穂が伸びているのに気づいた。

「ほら見て、モリちゃん。つくしだよ!」

 私がつくしを摘んで見せると、周りで同じように持っていた大人が数人、苦笑した。中学生は気楽でいいな、と思われたようだ。

 恥ずかしくなったが、気分は複雑だった。本当は、中学生にも中学生なりの大変なことはたくさんある、と思うのだけど……

「もう、リホってば遊んでないで。次に遮断機上がったら、ダッシュで行くからね。ここの遮断機、すぐに下りちゃうんだから」

 モリちゃんがブツブツ言いながら私を引っ張る。それはその通りだったので、私は彼女と一緒に踏切の最前列に並んだ。

 ここは開かずの踏切とまではいかないが、開いている時間が毎回短いので、渡り切るのがものすごく大変なのだ。

 何本も電車が通り過ぎた後、ようやく耳障りな音が止み遮断機が上がった。一斉に踏切の両側で待っていた人たちが前に進みだす。私とモリちゃんも急いで踏切を渡る。

 妙なことに気づいた。

 向かい側の踏切の脇に、立ったきり、歩き出さない人がいるのだ。背は高い。逆光で黒っぽい影のように見え、細かい容姿までは分からないが。

「ね、モリちゃん。変だよ、あの人。せっかく遮断機上がったのに、なぜ渡らないんだろう」

 私は言ったが、モリちゃんは、は、と言っただけだった。

「そんな、人のことはいいから。早く渡らないと、また遮断機下りちゃうよ」

 そうモリちゃんが言い終わらないうちに、本当にカンカンと高い音が鳴りだし、遮断機が再び下り始めた。私たちも、他の渡っていた人たちも走り出す。まだ両側からは、下りかけた遮断機の下をくぐって、踏切に滑り込む人もいる。その人たちも走っている。

 それでも、すれ違う人々の間から見える黒い人影は動かなかった。

 でも、何か理由があって立っているだけなのかもしれない。誰かを待っているとか。

 そう思って私は視線をその人から外し、モリちゃんと降りかけた遮断機の下をくぐって、踏切の外に出た。

「毎朝、ここだけ緊張する……」

 モリちゃんは大きく肩で息をしながら、ブツブツ文句を言っている。私は、そうだね、と同意しながら、なんとなく気になって、あの動かない人影が立っていた踏切の端の辺りを見た。

 もう、誰もいなかった。


 それから時々、私は踏切の辺りでその黒い人影を見かけるようになった。位置はいろいろで、踏切のすぐそばのこともあれば、結構離れたビルの横のこともあった。相変わらず、遠くから見るので明確な姿かたちはよく分からず、踏切を渡ることはない。

 しかし私は徐々に、気にしなくなった。確かに全く関係のない他人のことを気にしても意味はないし、いつの間に姿は見えなくなるし、つまりは、慣れてしまったのだ。

 でも本当は、全く関係がないと、私が思いたかっただけかもしれない。

 数週間たった、美術の授業でのことだった。

 午後の美術室には春の陽光が降り注いで、石膏像を囲んでデッサンしている生徒の中には、あくびをしている者もちらほらいた。私は絵を描くのは苦手だが、隣のモリちゃんと小声で話をしていても注意されないので、美術の授業は好きだ。

 ひとしきりモリちゃんと話した後、何気なくそばの窓から見える校門に目をやった私は、鉛筆を持った指先が、ひやりと冷たくなるのを感じた。

 校門のそばに、あの人影が立っていた。

 なぜ。

 あの人は踏切のそばで、誰かと待ち合わせしているのではなかったのか。それとも何か用があって学校に来ただけなのか。

 それなら、何の用で?

「ねえ、モリちゃん」

 私は黙っていることができず、隣のモリちゃんに再び話しかけた。

「あの踏切の人が校門に……」

「はい、じゃあちょっと手を置いて、みんな黒板を見てください」

 いきなり美術の女の先生が、よく通る声で言い、みんながバタバタと画用紙を止めた画板を下ろす音が響いた。モリちゃんは、え、と言って私の方を見たが、そのまま他の生徒と同様に画用紙を置き、黒板に顔を向ける。

 私はもう見るのは嫌だったが、どうしても気になり、また校門の方に目を向けた。

 人影は、消えていた。

 それから時々、今度は学校の中であの人影を見るようになった。最初校門にいた人影は、気がつくと校舎横のイチョウの下に立ち、次に見た時は、下足置き場の隅に影を作り、じっと佇んでいた。

 だんだん、近づいてくるような気がした。子供の頃に遊んだ、だるまさんが転んだ、の鬼をしているようだ。振り返ると前よりも少し近くにいて、じっと動かない。

 しかも、これだけ近くに知らない人がいるのに、誰も気づかず、見もしないのだ。

 皆いつもと同じように靴を履き替え、下校していく。

 私にしか、見えていないのではないか。

 人影との距離は、もう十メートルもない。それだけ近くにいるのに、やはり姿かたちは定かではなかった。全体に黒っぽく、背が高いと言うだけだ。しかしなんとなく見えてきたものもあった。人影の顔もぼんやりと分からないが、それはどうも、顔全体を薄い一枚の黒い布のようなもので覆い隠しているから、らしいのだ。まるで芝居を黒装束で支える、黒子のように。

「そんな格好で、街中を歩いてる人がいるわけないじゃない」

 美術の授業から一週間。あまりに私の様子がおかしいと問い詰めてきたモリちゃんに、私は全部話したが、彼女は困った様子でそう言っただけだった。

「それは分かってるよ。分かってるけど」

「今も……いるの?」

 私が冗談を言っているのではないとは感じているらしいモリちゃんは、居心地悪そうにあたりを見回しながら、聞いてきた。私は二人で話していたトイレの手洗い場とその周辺を見回し、首を横に振った。

「ううん。今はいないみたいだけど……」

 モリちゃんは、ほっとした様子で溜め息をついた。

「でもとにかくストーカーみたいな人だったら、怖いから、今日も一緒に帰ろ。リホは委員会で少し遅くなるでしょ。待ってるからさ」

 うん、と私は頷き、心底ほっとした。次の時間のチャイムも鳴りだしたので、私は胸ポケットから取り出した櫛で軽く髪をとかし、鏡を見た。

 いた。

 私は息を呑んだ。

 鏡の端に映る廊下の窓際に、立っている。すぐそばだ。窓からは陽光が降り注いでいるのに、その人影だけは暗く、黒い布を顔に落とした姿はぼんやりとして見えにくい。

 そして、なんと禍々しいのだろう。私は初めて見た時からの違和感の正体に気づいた。

 禍々しいのだ。

 私は悲鳴を上げそうになり、口を押えた。そのまま恐る恐る振り返る。

 モリちゃんが先に歩いている廊下から、すでにその影は消えていた。私の震えは収まらない。しかし他の人には見えないものを、これ以上どう説明していいのか分からず、私は口を押えたままモリちゃんの後を追い、教室に駆け込んだ。


 家に帰ってからスマホで検索してみた。

 黒い人影が見えるというのは、やはりそれほどいいことではないようだ。だんだん近づいてくるのも、まずいらしい。ネットのこの種類の記事にどれほど信憑性があるのかは分からないが、それでも心臓がドキドキして、体中が冷たくなってくるのが分かる。

 ふいに、背後に人の気配を感じた。

「きゃあ!」

 私は大声を上げて、座っていたキッチンの椅子から飛び退いた。

 振り向いた場所には小4の弟が立っていて、大笑いしている。こっそり後ろから近づいて、おどかそうとしたらしい。

「そんな大声出して、びっくりさせないでよ」

 夕食の支度中だった母も、目を丸くして私を見る。

「だって……」

 私は怖かった。これまでのことが全部幻だとしたら、私は頭がおかしくなってしまったに違いない。

 でも私は正気だし、確かに見えたのだ。

 白黒の風景の中で、踏切の甲高い音が鳴っていた。

 モリちゃんが、早く早くと手を振っている。

―今ならまだ間に合うよ。渡れるよ。

―ダメだよ。電車が来るから。

 そう言う私を、何かが後ろから踏切内へと突き飛ばす。

 あ、と叫び、顔を上げた私の目の前に、あの黒い人影がいた。その向こうから轟音と共に電車の先頭車両が……

 私はベッドの上で飛び起きた。

ドクン、ドクン。心臓の音が耳を塞ぐ。汗でパジャマは体に貼りついていた。

 夢だ。

 私は荒い息を鎮めながら自分に言い聞かせた。部屋には明かりがついたままだった。昨夜はあまりに怖かったので、明かりをつけたまま寝た。

 夢だ……

 カーテンの隙間からは、もう薄日が差し始めている。

 でも、本当に夢だろうか……


 その朝の踏切は、静かだった。

 遮断機は上がり始めている。待ちかねていた大勢の人々が、一斉に踏切を渡りだす。

「早く、早く!」

 モリちゃんが、歩く私に気づいて手を振る。

 私はスクールバッグを抱えて走り出す。ようやく踏切にたどり着いた時、カンカンと警告音が鳴り出した。遮断機が下り始める。

「大丈夫だよ。走ればまだ遮断機が下りる前に渡れるよ!」

 そう言いながら、モリちゃんが私の制服の袖を引っ張る。確かに何度か遮断機が下り始めてから渡ったことはあったので、私も頷いて、また走りかけた。

 いた。

 今度は踏切の向こう側ではなかった。すぐそばに、私が以前つくしを摘んだ辺りに立って、じっとこちらを向いていた。

「ダメ……」

 私は呟いて、立ち止まった。

「次に遮断機が上がるまで待とう」

 モリちゃんがぽかんとして振り返る。

「でも渡れるよ。次に上がるのは何分後か分からないのに……」

 それからモリちゃんは私の耳に顔を近づけた。

「また、あの変な人がいるの?」

 私は頷いた。辺りを見回したモリちゃんには、その姿は見えないようだったが、最後にもう一度、私の両目に涙まで溜めた顔を見て、苦笑いした。

「じゃあ、待つか。もし遅刻してもリホと二人で叱られるなら、いいよね」

 私も少し笑い、ほっと溜め息をつく。当面の危機は回避した気がした。

 眺める踏切は、カンカンと甲高い音が鳴る中で、まだ大勢の人々が小走りに渡っている最中だった。下りる遮断機をかいくぐる人さえちらほらいるのも、いつもの風景だ。その人たちも走っている。

 その中で、こちらに渡ってくる人の中に、ひどく動きの遅い人がいた。

 高齢のお婆さんだ。もちろん走っている。しかし歩幅が狭いのか、後から渡り始めた人にどんどん追い越されている。

 転んだ。線路につまづいたのだ。

「危ない!」

 モリちゃんが叫ぶ。

 私は目を見開いた。

 モリちゃんが掴んだままだった私の袖を離し、下がった遮断機をくぐり、踏切に走り込んでいった。

 止めることができなかった。

「モリちゃん!」

 私は絶叫する。後を追おうと遮断機をくぐる私の目の前を、音もなく黒い影が横切る。あの黒い人影だった。初めて踏切の中に入って行った。風が吹き、顔を覆っていた黒い布が浮き上がる。

 下には、何もなかった。ただ、黒い空洞があるだけだ。

 死神。

 ようやく私は黒い人影の正体がそれなのだと気づく。

 私はずっとこの死神が、自分に近づいてくるのだと思っていた。

 違った。死神が近づいていたのは、モリちゃんだったのだ。どうして私にだけ見えたのかは分からないが、死神が狙っていたのは、ずっと子供の頃から親友だったモリちゃんだった。

 だからモリちゃんと離れて私が自宅にいる時は、一度も見なかったのだ。その間も、モリちゃんには見えなくても、死神は少しずつ距離を縮めていったに違いない。

 顔はないのに、なぜか通り過ぎる時、その死神は笑った気がした。

「モリちゃん!」

 おばあちゃんを助け起こそうと引っ張る彼女に、私は絶叫する。死神が黒いその姿をマントのように、二人に向かって広げた。一緒に助けようと私も、まわりにいた数人の大人も走り出す。

 でも、間に合わないことを私は知っていた。

「モリちゃーん!」

 泣き叫ぶ私の目に、急ブレーキの火花を散らしながら走り込んでくる電車の先頭車両と、引きつった運転手の顔が、止まった写真のように写った。


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