第5話 あの子がほしい


 あれはもうすぐ小学校も卒業という冬の初め。放課後、運動場で遊んでいた時のことだった。

 まだ校舎の時計は五時前だったが、日は暮れようとしていた。あたしたちはまだ遊び足りない気もしていたが、そろそろ帰らなければならないことも分かっていた。一緒に遊んでいた一人が、塾があるからと、抜けて行ったせいもある。

 中学受験する子はクラスに数人もいない地方ののんびりした学校だったが、あたしたち非受験組は、やはりなんとなく取り残されたような、漠然とした不安を感じてはいた。ただ、だからと言って特に何か変えたり、変えようと努力してみたわけでもない。

 なんとなくこのままでいいような、ずっとこのままでいられるような、そんな気もしていた。何の根拠もなかったけれど。

 遠くを見ればピンク色の夕焼けが鮮やかだが、足元は暗く夜が迫っているのが分かるような、そんな時間だった。

「もう帰る?」

 いつも一緒に遊ぶ近所のチカが聞いてくる。

「ええ! じゃああと一回だけ、一回だけ何かして遊ぼ!」

 ブランコを漕いでいたユウカが、慌てて言ってくる。ユウカの家では新しいお母さんが、歳の離れた妹の育児に忙しいのだという。早く家に帰るといい顔をされないらしい。

「じゃあ……あと一回だけ?」

 あたしはその場にいた子たちを見回して、尋ねた。一人でも反対する者がいたら、帰ろうと思っていた。ユウカの「あと一回」は、実は何回でも続く。彼女に付き合って遊ぶうち本当に暗くなって、慌てて家に帰って叱られたこともある。

 しかしまだ真っ暗ではないせいもあって、明確に反対する者はいなかった。

「何して遊ぶの?」

 数人いた五年生の女子の一人が尋ねた。全員顔を見合わせた。あたしはすぐに終わる遊びが良かった。しかしユウカはそうではないだろう。皆が一瞬押し黙り、ユウカが何か言おうとしたとき、その声は聞こえた。

「〝花いちもんめ〟にしない?」

 私も隣にいたチカも、驚いてそちらを見た。他の子たちもそうだ。ユウカもきょとんとして声の方を見ている。

 五年生らしいその女の子は、それまで一度も遊んだことがない子で、声を聞くのも初めてだった。それでもこの日なんとなく一緒に遊んでしまったのは、最初から近くにいて、見るといつもにこにこ笑っていて、とても愛想が良かったせいだろう。おかっぱに短めのスカートという、少し古臭い格好をしていたが、それにもすぐ慣れた。

 それにしても〝花いちもんめ〟は古過ぎないか。昔遊びの授業で体験したので遊び方を知らないわけではないが、普段はやらないし、他の子たちがやっているのを見たこともない。

 ただ、すぐ終わるのは魅力だった。

「じゃあ……やってみる?」

 チカも含め複数が頷いたので、あたしたちは適当に五人ずつに分かれ、手を繋いで向き合った。

 あれ、と思った。今日、あたしたちは五、六年の女子十人ほどで遊び始めたはずだった。途中で一人抜けたのに、なぜ今も十人いるのだろう。

 途中から来た子は、誰もいないはずなのに……

 しかしその疑問は、ちょうどあたしの向かいにいた、そのおかっぱの女の子の声に、かき消された。

―勝ってうれしい、花いちもんめ!

 驚くほどよく通る、甲高い声だった。あたしたちも慌てて言った。

―負けてくやしい、花いちもんめ!

―あの子が欲しい!

―あの子じゃ分からん!

―相談しましょ

―そうしましょ

 花いちもんめは、こんな掛け合いを向き合った二組が前に出たり下がったりをしながら言い合う。相談の後は相手側の誰かを指名して、じゃんけんで取り合う。どちらかの列に一人もいなくなったら終了だ。

 あたしは相手側に分かれてしまったチカが欲しかったので、チカに決めた。相手側も相談が終わったらしく、元の列に戻った。

―ユウカが欲しい!

 隣で手を繋いでいたユウカが、少し驚いた、でも嬉しそうな顔をする。

―チカが欲しい!

 ユウカとチカがじゃんけんをした。ユウカが勝ち、チカは私たちの列に加わった。

 次は、あたしたちの方から声を出す。

―勝ってうれしい、花いちもんめ!

私たちは五年生の女の子を指名し、相手側はまたユウカを指名した。この日のユウカはじゃんけんが強かった。また勝ったので、五年生の女の子もあたしたちの列に加わった。

 ユウカは順調に勝ち続け、とうとう相手側は例のおかっぱの女の子一人になってしまった。なぜそれまでこの子を指名しなかったかと言うと、名前を知らなかったからだ。私は名前を聞いてさっさと終わりにしようと、その子の方に一歩踏み出す。

「マユちゃん、もう帰ろ」

 後ろから少し慌てた声で言いだしたのはチカだった。

「もういいじゃない。これ以上遅くなったら、あたしお母さんに叱られちゃう。それに寒くなってきちゃった」

 確かに寒い。見上げた空に、もう夕焼けの色はなかった。濃い青と暗い雲が夜を待っているだけだ。ユウカが慌てた様子で、えっ、と小さく言う。

「じゃああと一回、あと一回だけ」

 始まった。チカが聞こえよがしに大きな溜め息をつく。さすがに今度は、あと一回に頷く子は誰もいないようだった。

「じゃあ、うちで遊ばない?」

 甲高い声が聞こえた。あの子だ。やはりにこにこ笑っている。

 あたしとチカは顔を見合わせた。あたしもチカも、もう帰りたかった。他の子たちも皆首を横に振る。

「あたしたちはちょっと……。あんたの家は学校から近いの?」

 一応あたしが尋ねると、その子は笑ったまま頷き、学校の裏手を指差した。

「あっち」

 皆が沈黙した。その方向はあまりにも暗かった。街灯も何もない。舗装されていない竹藪沿いの道が続くだけだ。そこに民家がないのは知っていた。では、その先か。その先には深い谷間になった川に橋が一本掛かっている。その先は山だ。ただ山が延々と続いている。

 あんなところに家なんて、あったかな。

 人なんて、住んでいたかな。

 その子は人懐こい笑みを浮かべ、ユウカの方を見た。

「じゃあユウカちゃんだけでも、遊びに来ない?」

 驚いたのは、それを聞いたユウカが嬉しそうに頷いたことだった。

 私はユウカを後ろから突いて、小声で聞いた。

「本気なの? 帰る時は真っ暗だよ」

「うん。あたし暗いの慣れてるから」

 ユウカはその子の笑みが移ったように、笑いながら答える。そう言えば以前母が、仕事の帰りに夜の公園で一人ブランコを漕いでいるユウカを見かけ、びっくりして声を掛けたと言っていたことがあったのを思い出した。

 ユウカはためらいもなく、その子と手を繋ぎ、あたしたちが帰るのとは反対方向の暗い道へと向かっていく。

 本当にこのまま行かせていいのだろうか。心がざわついた。

だからと言って引き止めても、代わりにあたしの家で遊ぶことはできない。他の子も同じだ。いつもユウカは少しうっとうしい。少し面倒くさい。ユウカの〝あと一回〟を引き受けてくれる子がいるなら、それはラッキーなことではないか……

「マユちゃん」

 チカの不安そうな声で、我に返った。

ダメだ。それはやはりダメだ。帰りに橋から足を踏み外して川に落ちたりしたら、絶対助からない。絶対死ぬ。そうでなくても真っ暗な夜に小学生が一人で帰って来るなんて危険過ぎる。この子はきっと、一人でそんな方向に帰るのが嫌だから、誰でもいいから誘っているだけだ。

「ユウカ、おじいちゃんが心配するよ!」

 二人の姿が竹藪の向こうに消えてしまいそうになった時、ようやくあたしは大声を出すことができた。なぜかとても不安で、そして怖かった。

 ユウカが振り返った。おじいちゃん、という言葉を聞いて、ユウカもまた我に返ったのが分かった。ユウカは家では微妙な立場だが、同じ町内に住む彼女の祖父だけはいつも味方なのだと、以前ユウカ自身が言っていた。

「だから、もう一緒に帰ろ」

 ユウカはそれでも、少し躊躇していた。自分が一緒に行かなければ、今度はその女の子が一人で帰らなければならない。

 しかし結局ユウカはその子の手を離し、あたしたちの方に走ってきた。気をつけて帰ってね、とその子に手を振って。

 その子は薄暗い中でやはり笑っていた。そして、笑ったままあたしを見た。

 冷水を浴びせられた気がした。あたしは一生忘れないだろう。二つの真っ黒な空洞のような、その目を。

「ねえ、あの子六年の誰なの。転校生?」

 帰りに同じ方向になった五年生の子が、まだガクガク震えているあたしに聞いてきた。言われて初めて、五年生の子たちもまた、その子が誰なのか知らなかったことを知った。

その子は花いちもんめで遊ぶ間、ずっと「ユウカが欲しい」と言ってたという。


 それから二度と、学校でも校庭でも、その子を見ることはなかった。ユウカはその後、結局おじいちゃんと一緒に暮らすようになり、〝あと一回〟を言い出すことはなくなった。今はもう別々の高校に通い、話すことも滅多にない。

 それでも時々テレビで水難事故のニュースを見ると思い出す。

あの時、もしユウカを引き止めなかったら、彼女はどうなっていたのだろう。

あの後あたしは何度も母に確かめた。竹藪の道の先には誰も住んでいないこと。以前、豪雨の後に川に落ちて亡くなった人はいたが、それは子供ではなく大人だったこと。

 あれは何だったのだろう。一体何が、あの時あの子を校庭に呼び寄せたのだろう。

 ユウカの帰りたくないという気持ちか、逆にあたしたちがユウカを持て余し、もしかしたら、どこかに行ってくれとまで考えていたかもしれない、その悪意か。それとも小学校を卒業したら、きっともうこんなふうにのんびり遊べなくなる、というぼんやりした不安なのか……

 そして今でも通りかかった小学校の校庭で放課後に遊んでいる子供たちを見かけると、心の中で声を掛けてしまう。

みんな、暗くなる前に帰るんだよ。

いつの間にか遊んでいた人数が一人増えたりすると、いけないから。

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