第4話 学校までは五分間


「マユ、早く支度しなさーい。学校に遅れるわよー」

 階段の下でお母さんが怒鳴っている。

ハイハイ。起きればいいんでしょ。起きれば。

私はベッド上にのんびり起き上がり、大あくびをした。

早く早く、は母の口癖だ。小学生の頃も、ほぼ毎日聞かされてきた。早めの行動が心に余裕を生むのだという。余裕が生まれれば、うっかりミスもしないし、状況をよく確認できるし、焦って無茶な判断をすることもない、ということらしい。

仕方なく私は起き上がり、カーテンを開く。

住んでいるマンションの前は今年から通う中学校の通学路だ。確かにもうちらほら、制服姿で歩いている子たちもいる。しかしこういう子たちは、そのほとんどが運動部の朝練などで、ちゃんと早めに行く理由がある。書道部のあたしには関係ない。

しかも小学校と違って、中学校はこのマンションの目の前なのだ。校門が窓から見えるほど近い。歩いても五分は掛からない。焦らなくても絶対に大丈夫。

そもそもこの焦らないことが、本当の心の余裕じゃない?

私のこの自分の論理に満足したが、朝から母と口論したくもなかったので、取りあえず下に降りて、母の用意したパンとサラダを食べ、お手製のポタージュスープを飲み、母の「早く早く」をかわしながらゆっくり身支度をして、家を出た。

登校時間までは、あと六分くらい。余裕だ。まだ私の前をのんびり歩いている生徒もちらほらいる。

近所の蕎麦屋のおばさんが水打ちをしていたので、おはようございますと挨拶をして、通り過ぎた。おばさんは笑って、気をつけて、と返してくれた。

校門まで直線コースに入った時、少しだけ予想外のことが起きた。

 校門の手前にある十字路の信号機が黄色に変わったのだ。ここの信号機は青になっている時間が長いので、これまで私は登校時に、運良く赤や黄色の信号を見たことがなかった。

 見ると校舎の中央に取り付けられている大時計の長針が、登校時間である八時半ぎりぎりを指している。私は思ったよりも少し遅く家を出たらしい。

前を行く生徒たちが次々走り始めた。私もなんとなく走った。青の時間が長いということは、赤の時間も長いのかもしれない。だとしたら、待っている間に遅刻になってしまう。

走りながら思い出した。そう言えば、今日は一時間目から英語の小テストがある。始まる前に出題範囲を、友達のエリと一緒に復習しておかないと。


珍しく目覚ましより早く目が覚めた。

私はベッドの中で思い切り伸びをしてから身を起こした。カーテンの隙間からキラキラと陽光が漏れている。今日は余裕だ。母の口癖の「早く早く」を聞くこともないに違いない。

二階の部屋から下のキッチンに降りると、母が溶き卵をフライパンに流し入れながら、大袈裟に驚いた表情を作って一瞬だけ私を見た。

「あら、マユがこんなに早く起きてくるなんて、何か起きるんじゃないの?」

 私は、ふふんと笑って椅子に座り、パンを食べ始めた。テレビでは昨日優勝したテニス選手のインタビューを伝えている。

 昨日? 一昨日じゃなかったかな。

 あ、という母の声がして、私はテレビから目を離した。母がフライパン上でひっくり返そうとしていたらしい卵の塊が、ずれてガスコンロの横に落ちていた。

「卵もう新しいのがないの。ごめんね」

 母はそう言いながら、私にオムレツのないサラダだけの皿とスープのカップを差し出した。

 家を出て歩いていると、店先の掃除をしている蕎麦屋のおばさんと目が合った。挨拶だけで済ませようと思ったのに、おばさんは目を丸くして、話しかけてきた。

「昨夜の雷は凄かったわねえ。雨はたいして降らなかったけど」

 雷? それ鳴ったの一昨日だよ。

 面倒なので適当に頷いていると、おばさんは続けて世間話を始め、思わぬ時間を取られてしまった。再び歩き始めた時は、もう登校中の生徒の姿は、ずいぶん少なくなっていた。がっかりだ。せっかく早起きして、早く家を出たのに。中学は近いから間に合うだろうが、これがもっと遠くに学校があった小学生の時なら、絶対遅刻している。

 角を曲がって、中学校の校門が見える道に出た。校舎の時計を確認すると、もう遅刻ギリギリの八時三十分まえだ。手前の交差点の信号は青だ。私は遅刻しないように仕方なく走り出した。走れば十分間に合う。

 あ、と思った。信号が黄色に変わった。

 急がないと。


 目覚まし時計の音に飛び起きた。

 やばい、遅刻する。私は時計の時刻を確認し、ベッドから飛び起き、急いで服を着替え始めた。いつも「早く早く」と急かす母が、どうして起こしてくれなかったのかと、少しイライラする。

「あら起こしたわよ、三度も」

 キッチンに行くと、もっと不機嫌そうな顔をした母が言い、パンをかじる私の前にサラダとスープをドンと音を立てて置いた。それにしても最近の母は変だ。三日続けて同じような朝食のメニューなんて、以前はなかったのに。

 食事もそこそこに家を出て、小走りに学校へと急いでいると、蕎麦屋の前でおばさんが呑気に空を見上げているのが見えた。一応挨拶をしたが、おばさんは小さく頷いてくれただけで、すぐにまたまた空を見上げた。

「週末の花火大会、雨になるって。残念だねえ。今日はこんなによく晴れてるのに」

 私も花火大会は楽しみにしていたので、思わず空を見上げた。

 でも花火大会は……週末は……今日だ。

 私は思わず足を止めた。

 今日は土曜日だ。なぜなら英語の小テストがあったのが木曜日、お母さんがオムレツづくりに失敗したのがその翌日の金曜日、そして今日は、その翌日だからだ。しかし……

私は立ち止ったまま、辺りを見渡した。立っている私のそばを、大勢の同じ制服姿の生徒たちが通り過ぎていく。当たり前のように笑いながら、あるいは不機嫌そうに下を向いて。

 今日は、登校日だったかもしれない。私はそう思うことにした。そう思わないと、何か不都合なことに気づくような気がして、嫌だった。

 角を曲がって中学校の校舎の大時計を確認すると、まだ登校時間まで、三分の余裕があった。慌てて支度をしたので、意外に早く家を出たらしい。これなら信号が一度赤になっても大丈夫だ。

 十メートルほど先を、友達のエリが歩いているのが見えた。私は追いつこうと走り出した。エリと話せば、このよく分からない不安も消えるだろう。

 しかし私はいつまでたってもエリに追いつけなかった。時間はどんどん過ぎていく。学校の時計は遅刻ギリギリの時間になり、エリは交差点を渡ってしまった。

「エリ!」

 私は叫んだが、エリは振り向かなかった。まるで私の声が届いていないかのように。

 私は分かっていた。今日が本当は何曜日なのか。私はエリに追いつけない。学校に行き着けない。たった五分の道のりだけれど。

だって、きっとまた……

 信号が黄色に変わった。


 一昨日、英語の小テストは何点だったかな。

 昨日はどんなふうに、学校で過ごしたかな。

 何も思い出せなかった。

 何も……


 目が覚めた。

 静かな朝だった。私は一人でベッドから降り、身支度をして階下に向かう。キッチンでは何かをトントンと切る調理の音がしている。私は椅子に座り、調理するその背中に話しかける。

「お母さんは?」

 お父さんは振り向き、寂しそうに笑った。

「何言ってるんだ。お母さんは五年も前に病気で亡くなったじゃないか。変なこと言うなよ」

 今度はそういう状況の世界にいるらしかった。

 どうしたらこのおかしなループから抜けられるのだろう。私はパンをかじり、父が作ったトマトと胡瓜の簡単なサラダとインスタントのスープを受け取りながら考えた。

 家を出て歩いて行くと、蕎麦屋があるはずの場所にはコンビニがあって、おばさんがロゴの入った制服を着て、忙しそうに働いているのが見えた。ここは確かに別の世界だ。

 ふと、考えた。

 別の世界だと言うなら、私もいつもとは別の道を通って、学校に向かってみたらどうだろう。

 そうしたら、もしかしたら学校に行き着けるのではないか。

 私はいつもの角で曲がらず、学校の正門に向かう道を横目で見て通り過ぎ、もう一つ先の角で曲がった。狭い住宅地の裏道だ。ここから学校に向かう道に信号機はない。車の切れ間を確認して、私はいつもは渡れないあの道路を走って渡る。

 渡れた!

 心臓が跳ね上がるのが分かるほど、私は狂喜した。ここから学校まではすぐだ。走れ。とにかく走れ。私は走り続け、横道から学校の塀沿いに正門に向かう。

 あの交差点が逆方向から見え始めた。

 潰れた車と大型トレーラーが、交差点の中央に止まっていた。歩道には人だかりが出来ている。その中にエリがいて、見たことがないほど取り乱して、泣き叫んでいた。

「助けて! 誰か――を助けて!」

 泣かないで、エリ。――はここにいるよ。私はここにいるよ。すぐに学校に着くよ。もうすぐ校門をくぐるよ。

 しかし校門はどんどん遠く、暗い穴の向こうに小さくなっていく。私は追いつかなければならない。暗い穴を走って。エリのために。私が死なない未来のために。


 この世界は似たような、でもちょっとずつ違う世界が無限に折り重なった、多層現実のほんの一つに過ぎない、という説があるそうだ。だったら母も元気で、私も普通に学校に通い続けている世界も、どこかにあるはずだ。

 次に起きた時は、母がいた。私は母に事情を話し、母は最終的にそれを信じ、じゃあ今日は登校しなければいいと言ってくれた。しかし八時三十分前になるとキッチンにガス漏れ警報器の音が響いて、爆発。私も母もそれに巻き込まれ……

 それぞれの世界にも変化しやすい部分と、そう簡単には変化しない部分があるのかもしれない。人の寿命はそう簡単には変更されないのかもしれない。私は不運にも、何かの拍子にそのおかしな多層現実の隙間に落ちてしまい、同じ朝の時間を無限に繰り返しているのかもしれない。何をどうしても、泣き叫んでも、抜けられないのかもしれない。


 ただ、一つだけ良いことにも気づいた。私の周りの人は、皆いい人だ。両親も、友達も。だから私は、やはりそれぞれの世界を精一杯生きてみようと思う。たとえ朝八時三十分までしかいられなくても。


「マユー、起きてー。遅刻するわよー」

 階下から母の急かす声が聞こえて、私は目を覚ました。

 これは元の世界なのか、それともまた……

 それでも私は伸びをして起き上がり、なるべく元気に声を上げた。

「ハイハイ、起きてまーす。今日こそはオムレツ作ってね」


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