第3話 敵は、アパートの前にあり!


 僕には一つ、悩みがある。

 先生にも、母さんにも、相談できない悩みだ。

 先生に相談したら、そんなことかと笑われそうだし、僕の家は母子家庭だから、いつも仕事で疲れて帰って来る母さんに、僕の悩みまで聞いてもらうのは、やはりいけない気がする。

 しかしこれは僕にとって切実な悩みだ。

 同じ四年三組の同級生、通称ブルは、毎日放課後になると僕の家にやって来て、家じゅうのお菓子を食べていく。酷い時は、ブルが来る前に急いで食べてしまおうと僕が手に持っていたどら焼きの残り半分まで、もぎ取って食べる。

 ブルはものすごく体格がいい。腕力もある。しかもクラス一のいばり屋だ。

「へえ。山田の家は母ちゃんが帰ってくるまで、おまえ一人なのか。じゃあ退屈だろう」

 春に初めて同じ組になり、そしていきなり同じ班になってしまったブルにそう言われて、同意しないと絶対不機嫌になると気をまわした僕は、思わず「うん」と言ってしまった。本当は宿題もやらなきゃいけないし、仲のいい子と遊ぶ約束もあるし、特に退屈は感じないのに。

 ブルの目が、きらりと光るのが分かった。その日から毎日学校から帰宅すると間もなく、彼が来るようになった。用事があったり同じ方向の友達とゲームの話で盛り上がったりして帰宅が遅れると、既にアパートの門の前に立って、イライラした様子で待っていることもあった。

「せっかくおまえが退屈だって言うから、来てやってるのにさあ。それが迎える側の態度なのかよ」

 来てくれなんて頼んだことは一度もないが、僕は言い返せない。

 ブルはまだブツブツ言いながら、僕がドアのカギを開けるが早いか、さっさと部屋に上がり込み、戸棚や冷蔵庫を勝手に開けて、おやつの物色を始める。

「いいなあ、おまえは自由で。俺んちなんかよお」

本当は学校から直接僕の部屋に来たいらしいのだが、彼の家はかなりしつけが厳しいらしく、それはできないのだと残念そうに言った。しかも彼の家ではおやつの量や種類も決まっていて、手作りのものを一個だけ。添加物が入っている市販の駄菓子などは「体に良くない」ので許されないそうだ。

 と言いながら、彼は僕の為に置いてあった市販のポテトチップを食べ、冷蔵庫に残っていたキャラクターもののソーセージも食べ、僕のベッドに寝転がり、僕のマンガを読み、ジュースないのかよ、と呟きながら、また台所に行って冷蔵庫を開く。

 もう、最悪だ。

 ブルが来るようになってから、元からいた友達はすっかり僕の部屋には寄りつかなくなった。去年ブルと同じクラスだった友達が言っていた。

「あいつ体格いいだろう。前からあちこちの家に強引に上がり込んでは、食べたり飲んだりを繰り返してるんだ。でなきゃ、あんなに大きくなれないよ。あいつの母ちゃんはシンプルなナチュラル派で、料理教室も主宰していて、一部の人には教祖様っぽい存在。夕食も手作りの味噌や漬物を使った一汁一菜だけって聞いて、うちの母さんもびっくりしてたもん。それであいつの体型、維持できるわけないのに。でもそこが教祖様でさ。あいつの母ちゃんは自分のシンプルでナチュラルな食事が息子をここまで大きく育てたと信じてるらしいよ。あいつも母ちゃんにだけは頭が上がらないらしくて、ご飯が足りないとは言えないらしい。そこは笑っちゃうけど。とにかく、気をつけろよ。あいつが前に入り浸ってたやつの家、春先に引っ越しちゃったんだ。次のターゲットを探してたんだよ。絶対」

 ぞっとした。もしかしたらその引っ越しの理由って、ブルから逃れるためとか。でもうちに引っ越しできるようなお金はない。

 だから僕は、最近よく食べるようになったわね、と目を丸くして言う母さんに、頷くしかなかった。

「あると食べちゃうから、なるべくお菓子の買い置きはしないようにしてよ。一個でいいよ」

 全くないと、それはそれでブルを怒らせるから。すると母さんは僕が遠慮していると思ったのか、成長期なんだからどんどん食べなさいと、心配顔になった。そして僕の一番好きな食べ物を毎日冷蔵庫に置いていくようになった。例えばホットドッグとか、焼きトウモロコシとか。僕は縁日の屋台系のおやつが大好きなんだ。

 でもそれは絶対に、僕の口には入らない!

「ちぇ!」

 僕は帰りの道で一人になると、立ち止まり、足元にあった石を思い切り蹴飛ばした。こんなふうにブルも蹴飛ばしてしまえたら、どんなにいいだろう。

〈いて!〉

 石が誰かに当たったらしかった。僕は慌てて石の飛んだ方向を見た。春の雑草が生えだした小さな神社の鳥居の辺りだ。でも、誰の姿も見えなかった。空耳かな。

 チクッ

 再び歩き出そうとした僕は、上げた右足の先に焼けつくような痛みを感じた。

「痛い!」

 叫びながら、その場にしゃがみ込む。右足の先に何かがいた。小さな武者姿の男だ。そいつが縫い針のような刀の先を僕の靴先に突き立て、どんなもんだと言わんばかりのいばった表情で、僕を見上げている。

「…………」

 なんだこれ。ヘンな人形。

僕は靴先のそれをつまみ上げた。身長5センチほどの、随分汚れた鎧兜を身につけた中年武者の人形だった。汚れているが、妙に生々しく作られている。ところどころに折れた矢が刺さったままで、無造作に肩に垂れている髪にも、血糊のようなものがついて固まっていた。いわゆる、落ち武者な感じだ。特に顔がリアルだった。頬の切り傷には血が滲み、眼光は僕を射抜くほどに鋭い。

 こんな人形、誰が作ったんだろう。

 そう思った時、いきなり人形が口を開いた。

〈おい。人をつまむとは無礼であろう!〉

 うわっ、と叫んで僕はそれを放り出した。伸びかけのスギナの上で弾んだそれは、空中で一回転して地面に降り立った。

〈やりおったな。おぬし、やはり敵方か。名を名乗れ!〉

 小石の上にすっくと立って、落ち武者人形が言う。僕はその場に尻餅をついたまま沈黙していた。理解の範囲を超えていた。あまりにも精巧過ぎる。もしかして最新型のミニロボットだろうか。それとも、小さな宇宙人とか。

 それ以上に信じられなかったのは、同じようなミニチュアの落ち武者が、次々草の間から現れ始めたことだった。その数、数十人。

〈やや、敵襲でござるか〉

〈いざ、尋常に勝負いたせ!〉

〈名を名乗れ!〉

〈名を名乗れ!〉

「名前を人に聞くときは……自分からまず言いなさいって……」

 そんなことを言う場合ではなかったが、もう何を言っていいのか分からなくなっていた。ところが僕の言葉に彼らはとても驚いた様子で、急に話し合いを始めた。後から出てきた者たちもまた傷を負い、折れた槍を大事そうに抱えている。しかし最初の落ち武者ほどの貫禄はなかった。黒笠に簡単な胸当てをつけているだけの、いわゆる足軽に見える。

 話し合いが終わると、最初の落ち武者が僕の前に来て咳払いした。

〈やあやあ我こそは白井の荘総領上田家一の家臣、熊井盛隆なるぞ!〉

「あー……僕、山田優太です……」

 言った途端、熊井とかいう落ち武者が目を見開き、後にいた足軽たちもどよめいた。

〈な、なんと柚姫様の嫁ぎ先、山田家の若君であったか!〉

〈若君様!〉

〈若様!〉

 山田という苗字なんてどこにでもあると思うが、彼らは騒然となり、熊井ナントカという落ち武者が、いきなり僕の前に膝をつき頭を下げたかと思うと、他の足軽たちもすぐに真似をして膝をついた。

 僕は殿様状態だった。確かに母さんの名前は柚子だけど……

〈では殿、ついに出陣でございますな。敵はいずこに!〉

驚くほど目を輝かせ、落ち武者が身を乗り出して言う。いずこ、は何かで聞いたことがある。どこ、ということだ。しかし僕はそろそろ、このおかしな武者たちの幻に、うんざりし始めていた。それどころではないのだ。今日も帰れば、もうブルがアパートの前にいるに違いない。きっといつも以上にイライラした顔で。

「出陣なんてしないよ。敵なんて……」

 敵なんて……

 僕はもう一度目の前の落ち武者たちを眺めた。

 彼らは本当に戦う気だった。一寸法師みたいな連中だが、足の先を刺された時は本当に痛かった。ふと、少しくらいやり返してやってもいいじゃないか、という気持ちが湧いた。ブルが少しでも泣いて痛がるところを見たかった。僕は本当に毎日泣きたいほど迷惑していたのだから。それで自分の家に逃げ帰ってくれたら、もっといい。二度と来なくなれば完璧だ。

「敵は……いるよ。アパートの前に……!」


 大変なことになってしまった。

 仕事から帰ってきた母さんが、夕飯ができたと僕を呼んでいる。でも、僕は自分の部屋で膝を抱えたまま動けなかった。

 昨日、目立つ落ち武者たちをランドセルに入れてアパートに帰ると、予想どおりブルはイライラした様子でアパートの柵を蹴りながら僕の帰りを待っていた。

〈あの大きいのでござるか〉

 僕のランドセルから顔だけ出して、落ち武者が言う。僕が頷くと、彼はひらりと地面に降り立ち、ウーム、確かに相手にとって不足はござらん、と呟いた。他の足軽たちも次々と降り立ち、五列縦隊に並ぶ。

〈大将はここでお待ちあれ〉

 落ち武者は一瞬だけ振り返って僕にそう言い、刀を抜いてブルの方にかざした。

〈皆の者、かかれーい!〉

 ブルが道端に立つ僕に気づき、怒った顔で口を開くのが見えた。

 その口の中に、ひらりと飛び上がった落ち武者が刀を突き出して、突っ込んでいった。

「ぎゃああああああぁ!」

 ブルが絶叫して、その場に転がった。首の後ろから細い刀の先が出ていた。足軽たちも一斉に襲いかかる。折れた槍で、錆びた刀で、目を突き、鼻を削ぎ、指を刎ね、腹を刺し、腿を打ち、泣いて転がりまわるブルの、ほとんど全身を串刺しにしてしまった。

「痛え、痛えよおおお!」

 通りかかったおばさんが、どうしたの、蜂にでも刺されたの、と大声で言いながら救急車を呼んだ。そのおばさんの目の前でも、さらに落ち武者たちは攻撃を続けたが、おばさんには全くその姿は見えていないようだ。

 ようやく気づいた。落ち武者たちの姿を見ることができるのは、僕だけだ。そして彼らが攻撃しても本当に切れたり、血が出るわけではない。しかしその痛みは本物なのだ。

 もういい。もういいよ!

 僕は隣の塀の陰に隠れながら、あまりのブルの絶叫に耳を塞ぎ、心の中で叫んだ。その叫びに答えるように、やっとブルの絶叫が止まった。

 救急車に気絶した状態で運び込まれるブルの前身に、青痣が浮いているのが見えた。何事かと近所の人たちも外に出ている。大事件だ。

 ただ、その時の僕はまだ事態を軽く見ていた。青痣はすぐ消えるだろうけど、少しは奴も痛い目にあったのだと思うと、スッキリした気分さえあった。

 ブルは入院した。

 そのことを、僕は今日登校して初めて知った。原因不明の高熱と、体中の痛み、そして紫斑が消えず、今も集中治療室で唸っているのだという。

「その友達、このアパートの前で倒れたんでしょ?」

 仕方なく台所に行って食事を始めると、さっそく母さんが言った。

「何の病気かも分からないなんて怖いよね。早く治るといいけど。あんたもよく一緒に遊んでたそうだけど、大丈夫?」

 僕は喉に何かがつっかえて、頷くことしかできなかった。

 夕ご飯の半分も食べられずに部屋に戻ると、彼らはのんびりとくつろいでいた。落ち武者は僕のベッドの上で瞑想。足軽たちはその横でサイコロを振ったり、僕のマンガを開いて、この戯画はまっこと面白い、と感心したり、優太とはあまりに素っ気ないお名前じゃ、優太丸と変えてはどうか、と提案してきたり、僕が机に置いていたコップから飲み残しのジュースを飲んで、甘い、とうっとりしている。

 これってブルが毎日居座っていた頃と、あまり変わらない気もするけど。

「ねえ、僕の足先の痛みはすぐ消えたのに、どうしてブルの青痣や痛みは消えないの?」

 僕は瞑想中の落ち武者に尋ねた。彼は片目を開け、ニヤリと笑った。

〈それは怨念の込め方が違うでござる〉

 どう違うのだろうとも思ったが、聞けなかった。落ち武者とは、敗走した武者だ。きっと彼らは負け死んだ武者たちの亡霊なのだろう。怖くはなかったが、やはり心に無念、怨念をたくさん抱えているに違いない。

〈優太様。我らのようになりたくなくば、やはり憂いは元から絶たねばなりませぬ。その場限りの逃げや思いつきではダメなのでござる。わが殿は、それがおできにならなかった……〉

 落ち武者は再び目をつぶりながら、少し悲しそうに呟いた。


 落ち武者の言ったとおり、怨念を込められたブルの熱は下がらなかった。ブルの母さんは自慢の料理教室も休み、病室につきっきりで看病しているそうだ。しかしブルは日に日に痩せていき、毎日見舞いに行っている担任の先生も、病状を説明しながら暗い表情だった。

 これは本当に、憂いを元から絶ったことになるのかな。

 僕はどんどん大きくなる喉のつっかえを持て余しながら考えた。

 違う。僕はただもうブルに、うちに来て勝手に食べまくるのをやめてほしかっただけだ。自分がどれほど迷惑しているか、分かって欲しかっただけだ。ちょっと仕返ししてやりたかっただけだ。それに友達がこんな状態になっている原因が僕だと知ったら、きっと母さんは悲しむ。

 これはもう、僕がブルの襲撃に悩んでいた頃と同じか、あるいはそれ以上の大きな悩みになっている気がする。全然解決になっていない。

 ブルが入院して一週間後、僕が部屋に帰って溜め息をつくと、珍しく隊列を作った落ち武者たちが僕の前まで来て、胡坐を組んで座った。

〈殿、軍議でござる〉

「軍議?」

 僕も彼らの前に体育座りで座った。落ち武者は眼光鋭い眼差しで、僕を見上げた。

〈拙者、殿のためにここ数日考えたでござる。前の戦では、ブルとやらをやっつけたものの、もうよいという殿の声が聞こえたので、とどめを刺すことは思い止まり申した。しかし、やはりこれでは敵を完全に倒し、憂いの元を絶ったとまでは言えませぬ。改めて殿にご進言申し上げる。今すぐあの敵にとどめを刺し、憂いを元から断つべきでござる〉

「もういいよ」

 僕があっさりそう言ったので、身を乗り出して熱弁をふるっていた落ち武者は、口をポカンと開けたまま僕を眺めた。

〈し、しかしそれでは……敵はまた復活しますぞ。我らの怨念も永遠ではござらん〉

 そうだ。落ち武者は僕のことを一生懸命考えて、こう言っている。でもここでまた中途半端な返事をしたら、もっと面倒なことになる。とどめを刺すなんて絶対ダメだ。僕はもう、はっきり言わねばならない。落ち武者にも。ブルにも。

「いいんだ。確かに解決にならないけど……でも、もうやめてあげて。可哀そうだから……」

 僕は落ち武者のことは好きだったので、なるべく笑って言った。

 落ち武者はなおも何か言いたそうに僕を見ていたが、やがて大きな溜め息をついた。

「殿もまた……優しい方でございますなあ」

 自分を納得させるように落ち武者はもう一度頷き、ゆっくりと立ち上がった。

〈では、我らは退散するでござる〉

 慌てたのは僕だけではなく、足軽たちも同じだった。

〈も、もう行くのでございますか、熊井様〉

〈じゃあわしらが戦った恩賞はどうなるだ〉

 恩賞って多分、ご褒美のことだ。

〈おらやっぱり土地が欲しい。あの見晴らしの良い窓際の棚の上〉

〈おらは戯画のたんまりある二段目の棚がいい〉

〈そんならおらは、ふかふかの布団の上が〉

〈ならん!〉

 勝手に部屋の中で場所取りを始めた足軽たちに慌てる僕より早く、落ち武者が怒鳴った。

〈殿の部屋は殿のものじゃ。わしらの土地は……またいつか、わしら自身で勝ち取るのじゃ〉

 落ち武者が教え諭すように言うと、足軽たちはうなだれて悲しそうに頷いた。僕も悲しくなった。

 ごめんよ。希望通りにしてあげられなくて。

「ちょっと待って」

 そのまま落ち武者たちが行ってしまいそうだったので、僕は慌てて言った。いいことを思いついた。冷蔵庫におやつがある。今日は確か、僕が一番好きな焼きトウモロコシだったはずだ。

 僕が持ってきたトウモロコシを、恩賞代わりに一粒ずつ外して落ち武者たちに渡すと、みんなの顔色が変わった。

〈こ、これは……甘いでござる!〉

〈こんなに甘くて大粒のトウキビは、おら初めて見ただ〉

〈うまい、うまい〉

 おにぎりのように両手に持ったトウモロコシの粒を頬張って、落ち武者も足軽たちも、すっかり笑顔になった。僕も嬉しかったので、笑った。

 彼らにいつか、安心して住める土地ができますように。

 そして彼らの姿は徐々に薄くなり、見えなくなった。

 まだ半分粒が残ったトウモロコシを、僕の手に残して。


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