第2話 妖怪ガサガサ
ガサガサって知ってる?
そんなのいつでも聞いてるよって?
そう。誕生日のプレゼントだって、開ける時包み紙がガサガサいうし、お父さんが読んでる新聞紙だって、お母さんが買い物袋から食べもの取りだす時だって、ガサガサ。そうそう、夏の夜中の台所でガサガサ音がしたら……きっと黒いアイツがいるよね。それも結構怖いけど。
でも、そういうガサガサじゃなくて……
夏の終わりに林間学校で泊まることになった民宿は、深い山あいの村にあった。空気は街なかの高温がうそのように、ひんやりとしている。周囲はどこも迫ってくるような森林だ。
音がしない。そう思った途端、ざわっと山を揺らすような風が吹いた。風に乗って誰かの笑い声が聞こえたような気がして、あたしは周囲を見渡した。舗装されていない乾いた坂道にも、雑草に囲まれた段々畑にも、人影はない。目の前にあるのは、同じく見下ろしてくるような高い藁ぶき屋根を頂いた、大きな古民家の黒い姿だけだ。
ここへ来るまでのバス内での浮かれた気分が嘘のように、皆静まり返っていた。なんとなく緊張していた。林間学校は六十人ほどいる五年生にとって一番楽しみなイベントだったが、泊るところがこれほど深い山の中とは聞いていなかった。今年新しく来た校長先生が、田舎体験をさせたいからと、この古民家を選んだらしいのだが、そんな体験どうでもいいのにと思った。去年までの湖畔の研修施設でもよかったのに……
「彩ちゃん、一緒に寝ようね」
由佳があたしの手を握って言う。同じ班なので一緒の部屋に寝るのは決まっているのだが、あたしも頷き、手を握り返した。
足を踏み入れた古民家の天井は高く、暗かった。目を凝らすと、暗い屋根の下に大きな黒い梁が通っているのが、なんとか見分けられる程度だ。夜になれば真っ暗だろう。
「そんなに皆さん、緊張しないで。ぜひここの暮らしを楽しんでいってください」
管理人だという五十代くらいのおじさんとおばさんが、困った笑みを浮かべながら言う。それでもあたしたちは借りてきた猫のように黙ったまま、昼でも暗い障子の座敷や、かまどの残る台所、薪で炊いていたという風呂を、二人の案内で見て回った。昔は林業で栄えたという村の庄屋屋敷だったというこの古民家は、家屋も庭も驚くほど広かった。
「あら、あなた髪が長いのね」
列に並んで通り過ぎようとするあたしの髪を、ふいにおばさんが触った。確かにあたしの髪は長い。腰まである。サラサラだねと、よく褒められる。しかし今日会ったばかりの人にいきなり触られるのは嬉しくなかった。
あたしが首をすくめると、おばさんはクスクス笑った。
「びっくりさせたんだ。ごめんなさいね。でもそれほど長くて綺麗な髪をしていると…………」
おばさんはあたしをじっと見たまま何か言ったが、声が小さくて聞き取れなかった。おばさんは一度口を閉じ、それからまた笑って、冗談よ、と言った。
何が冗談だったのだろう。
自分たちで収穫した夏野菜を使ってカレーを作ったり、かまどでご飯を炊いたりする体験はそれなりに楽しく、夕食が終わる頃には、みんなこの状況にも慣れて、普段通りにぎやかに喋るようになっていた。
古い家だが、民宿として再利用するため新しく水洗トイレや大きなお風呂場も作られていて、確かに暗いが、それ以外はいつもと同じように過ごせることが分かってきたせいもある。
「さっき男子が変なこと言ってたよ」
お風呂から戻ってくると、先に部屋に戻っていた由佳があたしを手招きして言った。
「この民宿、妖怪ガサガサがでるんだって」
あたしは髪をタオルで拭きながら、ちょっと笑ってしまった。
「なにそれ。ちっとも怖くないんだけど」
由佳も、布団を敷きながら笑った。
「男子が風呂に入る時、おじさんから言われたんだって。この家には妖怪ガサガサがおるから、落とし物や忘れ物をしちゃいかんぞ。何でも持って行かれてしまうぞ。特に好きなのが……」
そこまで言って、由佳は口を開けたまま言葉を止めた。
「何だったっけ……忘れちゃったけど。でもこれ、きっとお客さんが忘れ物や落とし物するとおじさんたちの面倒が増えるから、そう言ってるんだよね」
なるほど、と思った。あたしと由佳は顔を見合わせて笑い、隣同士で横になった。男子は離れの大きな座敷で借りてきたマットを敷いてごろ寝するらしい。母屋に寝る女子の分は、布団があるのでラッキーだ。
布団を敷いた後もしばらくあたしたちは騒いでいたが、見回りに来た担任の先生に、さっさと寝なさいと怒られてしまった。あたしたちが急いで布団をかぶると班長が明かりを消し、部屋は真っ暗になった。
ぼんやり、目が覚めた。
辺りはやはり真っ暗だった。足を向けている障子戸の方向だけはぼんやりと明るいが、引き戸で仕切られた他の三方向は闇だ。ただ暗さに目が慣れてきているので、部屋の様子はなんとなく見えた。
暗い天井。暗い障子。暗い引き戸。
カサカサ……
はっきり目が覚めた。この小さな音で目が覚めたのだと分かった。
カサカサカサ……
庭木の揺れる音ではない。もっと近くの、家の中のような。
ガサガサガサガサ!
何かの黒い影が、ものすごい速さで障子の向こうを横切った。
心臓の音がいきなり大きく耳に響いた。
何? 何だった、さっきの。
あたしは動けず、息が詰まって喋ることもできず、かろうじて動かせた手の先で、隣の由佳を起こそうと背中を押したが、反応はなかった。
小さな影が横切っていった先には何があっただろう。
そうだ、土間だ。最初にみんなでこの古民家に入った場所の土間。暗くて何もない、この部屋と引き戸一つで隔てられている、土間だ!
見たくないのに、どうしてもそちらに目がいってしまう。
ぞっとした。引き戸の合わせ目に少し隙間があった。誰かがきちんと閉めなかったのだ。なんで。きちんと閉めてよ!
目を開けているとどうしても見てしまうので、あたしはぎゅっと目をつぶった。田舎の夜は涼しかったが、着ているTシャツに汗が滲んでくるのが分かった。息が苦しい。他の音が聞こえなくなるくらいに、心臓がドクドク鳴っている。
しかし、どれだけ待っても次のガサガサは聞こえてこなかった。
静かだ。まだ心臓の音が耳の中でうるさかったが、あたしはなんとか息を殺し、耳を澄まし、それを確認した。
もう、大丈夫なの?
行っちゃったの?
どうしても確かめたくなって、あたしは薄く目を開けた。天井も、障子も、変わりはなかった。その続きでほんの少しだけ、そっと土間との間の引き戸に、目だけを向けた。
少しだけ広がった隙間から、大きな子供の片目がじっとこちらを見ていた。大きすぎる、裂けそうな目だった。
あたしは悲鳴を呑みこんで、再びきつく目をつぶった。
音を立ててはダメだと思った。音を立てたら注意を引いてしまう。気づかれてしまう。多分、あたしの長い髪に。
おばさんはあたしの髪に触って、冗談よ、と言った。由佳は途中まで妖怪のことを言って、あたしの髪に気づいて言うのをやめた。
特に好きなのは、長い髪の毛なんだ。
でも、それに気づかれるのって時間の問題なんじゃないの……?
自分の中から絶望的な声が聞こえた。それでもあたしは身じろぎもせず、息さえ音をたてないように気をつけながら、きつく目をつぶり続けた。それしかできることを思いつかなかった。
カサ、ガサガサ……
再びあの音が聞こえた。座敷に入ってきた!
でもおかしくない? 見えたのは確かに人間の、子供の目なのに、この音はどこから出ているの?
ガサガサ、ガサガサ……
音は徐々にこちらに近づいてくる。
絶対おかしい。あんな目一つしか見えないような隙間から、どうやって部屋の中に入って来たの?
ガサガサガサガサガサガサガサガサ、ガサ。
あたしの頭の先で、止まった。
これがいい。これちょうだい。
小さな女の子の声が聞こえた。全身が冷たく震えた。布団から出ていたあたしの髪の一房を誰かが握るのが分かった。そのままぎゅーっと引っ張られた。
「痛い!」
あたしは目を閉じたまま叫んだ。
ちょうだいよ、ちょうだいよ!
髪はさらに情け容赦もなく、ぐいぐい引かれる。
「痛い、痛い、痛い!」
力任せに引っ張られ、あたしは目を閉じたまま布団から引き抜かれた。畳の上を引きずり回された。
泣き叫ぶあたしの耳元で、あのガサガサという音が鳴り続けている。あまりの痛さに一瞬だけあたしは目を開いてしまい、それを見てしまった。
黒い八本の産毛の生えた足を持ち、女の子の頭部を持った生き物が、あたしを引き回していた。女の子の頭には理由は分からないが、ほとんど髪がなかった。
女の子は笑いながら、あたしを凄い勢いで引き回し続けた。大笑いしながらあたしを引っ張り上げ、叩き落とし、それからまたぐるぐると引きずり、ゲラゲラ笑った。目が回って吐きそうだった。
ちょうだいよ、ちょうだいよ!
女の子は笑いながら言う。
「ダメ、あげない、ダメ!」
あたしは頭を抱え込んで叫んだ。いきなりあたしは畳の上に投げ出された。
それなら、こっちをちょうだい。
こっち……?
思わず薄目を開けたあたしの視界いっぱいに、黒い毛むくじゃらの手が迫ってくるのが見えた。
ぎゃああああああ、と叫んだつもりだった。でも息が苦しくて、声が出たかどうか分からなかった。息が苦しい。息が詰まる。息ができない。
苦しい。く……る……
「……ちゃん、彩ちゃん!」
由佳の叫び声で、あたしは目を開けた。由佳が目を見開き、あたしを上から覗き込んでいた。同じ班の女子たちも起き上がった姿のまま、身動きもせずこちらを見ている。
障子越しの陽光が眩しい。もう朝だ。
なんだ、やはり夢だったんだ。そう思った。普段と違うところで寝たから、きっと緊張したのだろう。寝る前に由佳もおかしな話をするし、それであんな変な夢を見てしまったんだ。
ただ、妙だった。息の苦しさが消えなかった。苦しい。やはり苦しい。
由佳が強張った表情のまま、あたしの首に手を伸ばし、その苦しさの元を緩めてくれた。
あたしの首には、なぜかあたし自身の長い髪が、ぐるぐるときつく巻きついていたのだった。
林間学校から帰ってくると、あたしはその日のうちに美容室に行き髪を切った。
美容師さんは、もったいない、本当に切るの、と何度も念を押したが、あたしは頷くことしかできなかった。
切ってしまえば、少なくともこの髪をちょうだいと言われることはないだろう。その先の命をとられることもないだろう。
美容師さんがハサミを入れる度、ばさり、ばさりとあたしの長い髪が落ちていく。その床に落ちた髪を、床と壁の間にある隙間から、期待に満ちた目がじっと眺めているのも分かったが、あたしは気づかないふりをした。
どうかこの髪だけで満足してくれるようにと、願いながら。
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