目が覚める、怖い話
@AMI2001
第1話 行ってはいけない
「ねえ、やっぱりやめた方がいいんじゃない?」
薄暗い階段を上って教室に戻ろうとするヒナに、勇気を出して再度あたしは言った。でも予想どおりヒナは制服のスカートのすそをひるがえし、あたしの方にほんの一瞬向き直って、苦笑いしただけだった。
「ホント怖がりなんだから、ハルカは。だから校門で待ってていいよって言ったじゃない」
だって心配なんだもん。そう心の中で呟いて、あたしは仕方なくまたヒナの後を追った。
あたしたちの中学―というよりあたしたちの2年D組の教室は、陰で事故物件と囁かれている。もう十年以上も前だが、一人の女子生徒が教室内で亡くなった。それこそ、事故で。多分事故だと思う。ほんのふざけから起きた事故。ウソだ。イジメに決まっている。
その女子生徒は掃除時間に、遊びで細く狭い掃除用具入れのロッカーに押し込められ、出られないように扉の前に机をいくつも積み上げられ……閉じ込めた生徒たちは、そのまま彼女のことを忘れて帰ってしまった。
死因は窒息ではなく圧迫―圧死だった。相当強い力で狭い場所に押し込まれたのだろう。発見され、引っ張り出されて床に倒れた彼女の扉側にあった腕には紫色の打ち身の後が幾つもあったという。
もちろん学校は、事故後に対策をとった。掃除用具入れをもっと狭く、箒が二、三本しか入らないようにして、こんな事故が二度と起きないようにした。
でも、いつの間にかこの教室には、こんな話がささやかれるようになった。
―この教室に、放課後一人で行ってはいけないよ。あの子に連れて行かれてしまうから。二度とこちらに戻って来れなくなるから。
「でも本当に連れて行かれてしまって行方不明です、なんていう生徒、この十年、一人もいないじゃない。ただの面白半分の噂話だよ。それにあたしたちが彼女を閉じ込めたわけじゃないし」
そう言いながら階段を上り切ったヒナは、ヤバイ、ホント日が暮れちゃう、と言いながら廊下を2年D組の教室へと走って行く。
それはそうなんだけど、とあたしも思った。ヒナは陸上部だから走るのが速い。後を追って階段を上り切ったところで、あたしは息をついた。
そうだ。確かにいなくなった生徒なんて一人もいない。あれはただの、噂だ。数学の宿題は指定のノートにやっておかないと、先生は本当にマイナス点をつけるし、目をつけられると、ことあるごとに嫌みを言われるようになる。そっちの方が確かに大問題だ。
私は一人で教室に入ろうとするヒナの、癖毛の髪が揺れる後ろ姿を眺めた。
でも、とあたしは素朴な疑問を覚えた。誰が閉じ込めたとか、そんなの関係あるのかな。その子がもし、寂しくてただ仲間が欲しいだけだとしたら、相手は誰でもいいんじゃないかな……
「待って、ヒナ。あたしも……!」
そう言いかけた時、ヒナの姿が薄暗い廊下から教室へと吸い込まれた。
あたしは慌てて教室へと走った。
ヒナは、いた。廊下よりさらに暗い教室の中央辺りにある自分の机を覗き込み、忘れたノートを引っ張り出しながら、あったあった、良かったぁ、と独り言を言っている。それからヒナは、やっと教室の入り口まで追いついたあたしに顔を向け、後で答え合わせしようね、と笑った。
うん、とあたしは返事をした。それから教室に入ろうとした。
バンッ!
いきなり目の前で、ものすごい音を立てて教室の引き戸が閉まった。暗い教室が見えなくなった。ヒナの笑顔も見えなくなった。
一瞬、動けなかった。ヒナは教室の中央にいる。
じゃあ、誰が引き戸を閉めたの?
「もう、脅かさないでよ。びっくりしたよ」
教室から聞こえるヒナの声は、まだ半分笑っていた。あたしが脅かそうとして引き戸を閉めたと思っているらしい。
「違うよ。あたしじゃないよ!」
あたしはなんとかまだ声を出すことができた。気味悪かったけれど、とにかく戸を開けようと取っ手に手を掛けた。
ガチッ、ガチッ。動かない。何度力を込めても引き戸はびくともしない。誰かが戸を閉め、鍵を掛けたのか。
誰が。
「ちょっとハルカ、返事してよ。こんな時に脅かすなんて趣味悪いよ」
ヒナが言った。あたしはようやく、自分の声はヒナに届いていないことに気づいた。ヒナの声は普通に聞こえるのに。
「違うよ、ヒナ。あたしじゃない。変だよ、この教室。早くここから出て。どこからでもいいから、早く!」
あたしは戸を叩きながら大声で叫んだ。教室と廊下の間の壁面には、上下に風を通すための窓と引き戸が設けられている。足元の引き戸を開けようとした。開かなかった。ここは元々いつも鍵がかかっている。上のガラス窓には手が届かなかった。教室の後ろの戸は。少し開いている! 必死で走った。取っ手に手を掛けようとした、その目の前で、閉まった。
閉まる直前、何かが暗い教室の中で動いた気がした。ヒナではない、何かが。
「もー。ホントに怒るよ、ハルカ!」
そう言いながらヒナが歩く足音が聞こえて、前の戸が揺れた。自分で開けようとしたのだ。しかし開かなかった。
「ハルカ、イジワルしないで!」
イジワルなどできるはずがない。ヒナは美術部のあたしより、よほど腕力があるのだ。あたしが外から戸を押さえたとしても、ヒナはすぐ開けてしまうだろう。それはヒナも分かっているはずだ。
何度か戸を引こうと試してみて、ようやくヒナもおかしいと思い始めたようだった。壁面の下の戸が揺れ、後ろの戸も揺れる。ヒナも試しているのだ。しかしどの戸も開かなかった。
壁の向こうで机の上にヒナが乗る音がした。壁の上方にあるガラス窓を開けようとしている。ヒナの手がガラス越しに見えた。中指が伸びてロックを解除しようとした。
ぎゃああああああぁ!
聞いたこともない潰れた声の悲鳴が聞こえた。ヒナだった。それと共にヒナの手が消えた。机ごと床に引き倒されたような酷い騒音と、体を床に強く打ち付けた鈍い音が聞こえた。
「痛い、痛い。やめて、引っ張らないで!」
「ヒナ。ヒナ!」
あたしは叫びながら戸を叩き続けた。教室の中では抵抗しているらしいヒナが机を動かす、もしかしたら机につかまろうとする派手な音と、もう一つ、床を大きなものを引きずり動かすような、ズズズッ、ズズズッ、という音が混じって聞こえた。
「離して……離せ! 痛い、痛い! やめて。いや、いや、いや! 引きずらないで。こんな所に引きずり込まないで。あたしは……あたしは掃除道具じゃない! こんな所に押し込まないで! 無理だから。絶対無理! 嫌だ……離してえ……!腕が抜けちゃう。抜けちゃう! 痛い痛いっ……頭が潰れる……鼻が折れちゃう。痛いよううううやめてええええ……っ!」
絶叫に混じって、小枝が折れるようなポキポキという音が響いた。何の音。何の音!?
「肋骨が……肋骨が……骨盤が……ゲッ……グゴッ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……上のガラス窓を拭こうとしただけなの。もう二度と机に乗ったりしない。だ……だからここから出して……痛い……痛いぃ……腕が……腕が潰れる……やめて……扉を閉めないで……ここは真っ暗なの……真っ暗でぐちゃぐちゃ……押さないで……潰さないでえぇ……あたしが四角に……四角に……な……ぎゅ……ぐ……」
「ヒナ、ヒナ……ヒナ!」
何を言っているのか分からなかったが、あたしは戸を叩き、叫び続けた。
いつの間にか、静かになっていた。
まだわずかに日の残った廊下に、あたしは一人で立っていた。
夢でも見ていたような気がした。長い夢。もちろん、悪夢だ。まだ心臓の音が耳の中で大きく響いている。
一歩下がり、目の前の戸を眺めた。なんとなく今なら、開く気がした。開けなけらばならない。あたしは友達のヒナがどうなったのか、見届けなければならない。手がガクガク震えるのが分かった。あたしは無理やり取っ手に手を掛け、力をこめようとした。
「広瀬?」
急に後ろからあたしの苗字を呼ばれた。担任の池田先生がほとんど黒いシルエットになって、階段の昇降口に立っていた。
「おまえ、こんな時間に何やってるんだ」
そう言いながら、中年の池田先生は丸い体をゆすりながら、あたしに近づいてくる。
「あの……忘れ物……」
「忘れ物?」
あたしの呟きを繰り返して、池田先生は面白そうに笑った。先生もこの教室の噂は知っている。
ガラッと音を立てて、先生はいとも簡単に、あたしの代わりに戸を開けた。
中は、普通だった。机もきれいに並んでいた。ただ暗いだけだ。
私は飛び上がりそうになった。後ろの掃除用具入れの扉が開いている!
しかし、目を凝らすと丈の違う箒が三本と塵取りが、きちんと収まっているだけなのが分かった。
「……ヒナは……」
あたしが思わず言うと、さらに先生は困惑した笑みを浮かべた。
「ヒナって……藤森日奈なら、さっき校門出て行くのを見かけたけどな。そう言えば、今日は一緒じゃなかったのか」
あたしとヒナは、部活の後いつも一緒に帰る。今日もそうだった。だから教室に忘れ物を取りに行くというヒナを、追いかけることができたのだ。
もう、帰った。
おまえも早く帰れ、と先生に促されるまま、あたしは校舎を後にした。
何をどう理解していいのか分からなかった。
でも多分、あたしはヒナにからかわれたのだと思う。
翌朝、ヒナは普通に学校に来ていた。
おはよう、と言った後、ねえ、とあたしは続けかけたが、ヒナの不思議そうに小首を傾げる姿に、何も言えなくなってしまった。
「ねえ……あ、数学の宿題やって来た?」
あたしが尋ねると、ヒナは笑って頷いた。
「答え合わせしようよ。あの先生、間違えるとしつこく理由を聞いてくるから」
そう言いながら、ヒナが自分のリュックを開けたので、あたしも斜め後ろの自分の席に座り、リュックを開けた。
ふと、ヒナがリュックの中に手を入れようと伸ばした腕に目がいった。夏服の白い半袖から伸びた腕。その全体に、うっすらと紫斑が浮いている。
……押さないでえ……痛い……痛い……!
……腕が……腕が潰れるううう……
「ヒナ、その腕どうしたの?」
思わずあたしが言うと、ヒナは困った様子で自分の腕を眺めた。
「よく分かんないの。ぶつけたのかなあ……」
小首を傾げるその表情にウソは読み取れない。じゃあ、昨日のあれは何なの? 本当にヒナにからかわれたのではないとしたら、だとしたら、一体……
あたしは教室中を見渡し、息を詰めた。他にもあたしの見える範囲だけで二人、同じように薄い紫斑を腕に浮かせている生徒がいた!
その内の一人と親友だった男子生徒が、あたしをじっと見ていた。今にも凍りつきそうな、恐怖に引きつった表情を浮かべて。きっとあたしも同じ表情をしているに違いない。
―でも本当に連れて行かれてしまって行方不明です、なんていう生徒、この十年、一人もいないじゃない。
確かにヒナの言うとおり、一人もいない。でも……
斜め前の席に座るヒナの横顔に、今まで見たこともない残酷な笑みが浮かんだ気がした。
あたしは何が起こっているのか理解できなかった。このヒナが本物かどうかも断言できなかった。だから言えるのは、この先この教室に来る生徒に残せる忠告は、一つだけだ。
―誰もいない教室に一人で行ってはいけないよ。あの子に連れて行かれてしまうから。二度とこちらに戻って来れなくなるから。
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