第634話「こちらには六百もの用意がある」



「ふわ……おはよ、ジン」

「既に十一時を回っているが、午前中ではあるな。おはよう、我がマスター」


 欠伸を漏らしながら、まだ少々寝ぼけ眼で食堂に入ってくるリゼット。今日は外出する気がないのか、服装も簡素な黒いシャツとスカートのみ。後頭部の金髪が少し跳ねてしまっているのは黙っておこう。


「日曜なんだから別にいいじゃないの……」


 覇気なくそう言いながら、俺の引いた椅子に着席するお嬢様。

 俺や刀花、姉上は既に数時間ほど前に朝食を済ませたが、貴族様におかれては休日の起床時間や食事の時間さえも優雅だ。

 とはいえ、俺も彼女の眷属として長い。俺ほどの眷属ともなれば、かすかに聞こえるご主人様の寝息の強弱からその起床時間を逆算し、ちょうど起きてくるであろう頃合いを見計らって、温め直した朝食を提供することができるのだ。

 また一つ、困難な日常に打ち勝ってしまったな……コツは眠るご主人様の傍らで跪き、ゆっくりと上下するその柔らかそうな胸を無言のまま凝視し、数センチ単位で差異を見極めることだ。我がご主人様のバストは本日も美しく、豊かであった……そして参考になる。この後の予定のためのな。


「いただきます……もぐ……」


 そんな一幕があったとは露知らず、リゼットはバターがたっぷり塗られたトーストをモソモソとかじる。

 そんな年相応な表情を見せるお嬢様を微笑ましく思いながら、その横でポットから温かい紅茶を注いだ。

 上品な造りのカップに揺蕩う、琥珀色の液体。俺はすかさずそれに向け、魔術用の杖を構えた。


「では……僭越ながらこの無双の戦鬼が、紅茶の美味しくなる呪文を唱えよう」

「そんなメイド喫茶みたいなサービスいらないから……またおバカになられても困るし。使いこなせるまで、その呪文禁止ね」


 術技というものは使うほどに洗練されるというのに、難しいことを言う。


「して、昼食はどうする」

「ん~……飲み物だけもらおうかしら」

「承知。姉上にそう伝えておこう」

「あら」


 言外に、昼食の席に俺がいないことを伝えれば、リゼットはスープをふーふーと冷ましながら軽い調子で聞く。


「買い物? それとも、また怪しげな集まりの所にでも行くのかしら」

「今日は買い物だ。前々より、約束していたものがあってな」

「ふぅん……?」


 猫舌なご主人様が上目遣いで「で、誰と?」と目線のみで聞いてくる。今日はマスターの知らぬ女ではないぞ? 安心して聞いてくれ。


「綾女とな」

「ふ~ん……そ?」

「──綾女の下着選びをしてくる」

「………………あぁ……」


 どうしたマスター、痛ましげに天を仰いで。スープから立ち上る湯気でも追っているのか?

 こちらの疑問の視線も意に介さず、リゼットはそのまま遠い目をして「そっかぁ……」と吐息多めにそう漏らしている。


「そっかぁ……」

「お、おう」

「はぁ……また私、卒業していく女の子をこうして見送る側なのね……まぁ、アヤメにしては遅いくらいだったけれど……」

「卒業……?」


 何を言っている?

 首を捻る眷属に、ご主人様はなぜか生暖かい視線を向けた。菩薩の心地のような……しかしどこかこちらを哀れむかのような……。


「ジン……まぁ、頑張りなさいな……」

「どういうことだ……?」


 なぜ『今は元気だけれど、この後屠殺場に送られて食卓に並ぶのね……』というような目で見られねばならんのだ……?

 リゼットに視線を注げば、彼女は諦観の滲む虚無の笑みを浮かべた。


「だって、ねぇ……絶対そういう雰囲気になるじゃない。はぁ……」

「そういうとは……もしや、卑猥な雰囲気のことを言っているのか?」

「『男が服を贈るのは、それを着せたいからだけじゃなく脱がせたいから』ってよく聞くし……ネットで」


 あまり予想していなかった展開を予測され、俺は「むむ?」と唸る。


「しかし、下着選びだぞ? 以前、俺の下着を綾女に選んでもらったこともあるが、その時には特に何もなかったはずだ」

「……まぁ、いいんじゃないの。あなたはそう思ってれば」

「マスター、しかし──」

「はぁ~……まぁ初めてでもないし……なんだかもう空しいだけね……一度してしまえば二度も三度も同じ、犯罪者の心理ってわけ? ふふ、ふふふふ……」

「マスター?」


 そうして我が麗しのご主人様は、春の日が差し込む窓辺を見やったまま、こちらに応答することはなかった。


「……なんなのだ」


 とはいえ、俺もそろそろ出る時間だ。

 隠居した老人のような雰囲気すら醸すリゼットに名残を惜しみながらも「ではな。食器は流しに出しておくのだぞ」と告げて食堂を出る。難しげに唸りながら。


「……うぅむ」


 そういった展開になることも、事前に考慮しておくべきなのか。もちろん彼女から誘われたのならば、断るどころか喜んで貪らせてもらうが……。

 と、そのまま玄関ホールを通り過ぎようとすれば、重い音色を奏でて玄関が開いた。


「あ、兄さん♪」

「刀花」


 俺の姿を見つけた途端、我が妹はパッと満開の笑顔になる。今日の妹も純真可憐で、元気いっぱいであるようだ。


「庭で何かしていたのか?」

「刀の素振りをして、シュギョーしてましたっ! でもリゼットさんの起きる気配がしたので、やめましたっ!」

「ふ、そうか。マスターは寝ぼけ眼で食堂にいる。会いに行ってやるといい」

「はーい♪」


 強さを追い求めるのも大事だが、親友との交流も欠かさない我が妹なのであった。きっとこの後も二人でじゃれあいながら、休日を過ごすのだろう。

 ルンルン気分で、兄の横をそのまま通り過ぎようとする刀花。

 しかし途中で「あっ」と笑顔のままこちらに振り向いた。


「ところで、兄さんはおでかけですか?」

「ああ、綾女との約束がな」

「ほうほう」

「──下着選びをしてくる」

「………………あぁ、そうですかぁ~……」


 わ、我が妹まで『この後、食べられちゃうんですね……』といった生ぬるい笑みを……!?


「おめでとうございます、綾女さん……兄さんも、頑張ってくださいね……」

「い、いや、しかし……」

「あ、そうです。でしたら、少々お待ちを~」

「刀花──」


 呼び止めるも、刀花はミニスカートの裾を揺らしてピョンピョンと跳ねるように大階段を登る。

 しばらくすると……どうやら自室から何か取ってきた様子の刀花はニッコリと笑って、サイズ感のある箱を兄へと手渡した。


「はい、兄さん。ど・う・ぞ♪」

「……これは」

「はいっ、お徳用コンドームです♡ 念のために用意しておいて正解でした!」

「随分と大きいが……」

「三百個入ってますからね」

「……」


 …………そうか。やはり、そうなのか。

 俺はそれを、静かに右の袖に収めた……。


「気遣い、痛み入る」

「むふー、デキる妹を持って兄さんは幸せ者ですね♪ あ、余ったらそのまま兄さんのポッケにないないってしていただいて大丈夫ですので。妹はいつでもお待ちしております!!」

「そうか……」

「いってらっしゃいませ~♡」


 笑顔の妹に見送られ、玄関を潜った。春の柔らかい日差しが、悪鬼の目に眩しい……。


「そうなのか……果たしてそうなのか……?」


 すっかり"そういうこと"をすると思われたまま送り出されたが、本当にそうなのか……?

 分からぬ……しかし俺の疑問とは裏腹に、着々と準備が完了していく。どうするのだ、もし綾女にその気が無かったら。和服の袖へ避妊具を数百個入れてデートに臨む男を、綾女はどう思うだろうか……。


「──おや」

「ああ、姉上」


 考え込みながら歩いていれば、屋敷と森の境界あたりに佇む姉上に出くわした。彼女はあまり外出しないため、意識的に日光を浴びる時間を設けているらしい。肌を美しく保つための"びたみん"を生成するのだとかなんとか……。

 そんな美しい姉上は、外出する様子の弟に向けクスリと優しい笑みを浮かべた。


「当ててあげましょうか。デートですね?」

「……その通りだ」

「クス♪ えぇえぇ、そうでしょうとも。そもそもお前の行動理念には、守護すべき少女のため以外のものが無いのですからね。お前が動くということは、それはつまりいずれかの少女のためである。幼稚園児でも分かる答えです」

「見事な推理だな。嫉妬してくれて構わんぞ」

「お姉ちゃんに嫉妬してほしいのですか? 贅沢な弟ですね……えい♪」


 イタズラっぽく、鼻先をツンと指で突かれてしまった。黄金週間の経験があってか、姉上には最近余裕が出てきたように思う。いいことだ。姉上にはこの後の人生、全てを謳歌してもらいたい。

 少し背伸びしていた姉上は踵を土に着け、深淵の瞳でこちらを見通す。


「して、出向く方角からして綾女ちゃんですか。喫茶店の下見にでも?」

「いや……」


 ……聡明なる姉上も、同じ反応をするだろうか。

 ここまでくれば、と思い。俺は先と同じ文言を繰り返した。


「──綾女の下着をな、一緒に選ぶ約束なのだ」

「…………あぁ、そうですか……それはそれは……」


 あ、あの眼だ……!

 痛ましさと切なさと、一種の憐憫をも含んだあの眼だ──!!


「あまり羽目を外してはなりませんよ……」

「あ、あぁ」

「と、綾女ちゃんに伝えておいてください」


 俺じゃないのか……。


「……あぁ、ふむ、そうですね。そういうことでしたら……うぅむ……いえ、はい。少々お待ちを」

「姉上──」


 どこか逡巡を見せた姉上が、パタパタと和服の袖を揺らして屋敷内へと姿を消す。

 そうして再び姿を見せた姉上は、ちょっぴり恥ずかしそうに頬を染めながら……まさか……。


「刃や? お前にこれを持たせましょう」

「……これは」

「お徳用避妊具です。わた──こほん、刀花ちゃんのために用意しておいたものですが。お前達は学生なのですから、そういった意識はキチンと持たねばなりませんよ? 本来であれば殿方が用意して、女性を安心させねばならないのですから」

「随分と大きいが……」

「三百個入ってますからね」


 つまり六百……!!


「ああ、それとこちらも」

「……"びでおかめら"?」


 なぜと視線で聞けば、姉上は袖で口許を隠し、上目遣いで言う。


「……綾女ちゃんには、ご自分の映像でご満足していただければと……」

「…………」


 ……姉上。


「綾女が欲しいのはあくまで"酒上刃の初体験映像"であるため、初体験でもない映像を撮っても満足は──」

「とにかくっ。それで満足していただけるよう働きかけるのも弟の務めと心得るようにっ。いいですか? いいですね? やれやれ。優しいお姉ちゃんを持てて、お前は本当に幸せな弟ですね?」

「…………」

「お返事。『お姉ちゃん、ありがとう』は?」

「お姉ちゃん、ありがとう……」

「はい、よろしい」


 聡明な姉に見守られながら、俺はそれらをゆっくりと左袖に収めた……。


「では、いってらっしゃい。おゆはんが要らなくなるようならば、早めに連絡をくださいね」

「……承知した」


 楚々とした仕草で手を振られ、俺はなんとも言えぬ心地でブルームフィールド邸を後にするのだった。


「そうなのか……」


 森を抜けながら、俺は重く頷いた。

 いよいよ、そういった心積もりをしておいた方がよいのかもしれない。いや、既に準備はこれ以上ないほど仕上がってはいるのだが。なにせ俺の両袖には避妊具を六百個も忍ばせてあるのだからな。忍ばせすぎだろう。


「いや……!」


 いや、実際はまだ分からない!

 どうするのだ! 俺だけその気で、綾女には寸毫ともそのような気が無かった場合は! デートに避妊具を六百個と記録用"びでおかめら"を携帯してくる男を、果たして一般的な女の子はどう思うのだろうか!? 恐怖か、一種の妖怪かと思われるのではなかろうか!?


(くっ、逸るな我が自意識……!)


 この動揺を、決して悟られてはならない。

 なぜならば俺は無双の戦鬼。キチンと『待て』のできる忠犬なのだ!

 綾女は普段、クラス委員長として風紀にも気を配っている。そんな彼女の隣に立つ者ならば、俺もまたそれに相応しい態度を心掛けねば!

 思わず早足になってしまい、待ち合わせの時間より数十分早く着きそうだ。だが構うまい。集合場所はいつも通り、駅前の噴水広場だ。水を見て頭を冷やす時間にちょうどよい。

 そうして俺は角を曲がり、人通り盛んな休日の駅前へと身を踊らせ──、


「あっ♡ 刃君……こ、こんにちは……えへ……♡」


 キメキメでフリフリフワフワな白ワンピを着て来た可愛い彼女だ──!!

 み、見るからに手触りのよさそうな、スベスベの白ワンピだ……光の当て加減によっては身体の陰影さえ透けて見えてしまうほどの、薄手で上品な白ワンピだ……腰あたりにベルトを巻き、その豊満な乳房によって着膨れして見えぬようにもしている徹底された純白ワンピだ……!!


「えと、じゃあ……まずは、ご飯から?」

「う、む、ああ……」


 はにかむ綾女に見惚れていれば、彼女はちょこんと隣に寄り添い……ぎゅ。


「じゃあ、行こっか……えへ……♡」

「う、む……」


 情熱的に熱い指の一本一本を、甘い力加減で絡ませ。そうして蕩ける笑みで見上げる綾女。

 い、いかん。先程から相槌しか打てておらん。いつもの空気に戻すためにも、ここは攻勢に出ねば!


「おほん……その服、似合っているな。深窓の令嬢かに見えた」

「そ、そう……?」


 酒上家家訓『デートの最初にはまず服を褒めよ』

 それに従って落ち着きを取り戻そうとすれば、綾女はテレテレと笑ってスカートを指で摘まんだ。


「あ、ありがと……♡ その……今日は、特に……ね♡」


 特に……!? ね……!?


「特別な日に、なっちゃうかも……?♡」


 特別な日になっちゃうかもしれないのか……!?


「なんちゃって……ね……♡」


 どっちなのだ──!?


「えへ……♡」


 ……よいのだな?

 最終的にはそういうことをするという心積もりで、よろしいのだな!?

 あまり舐めるなよ薄野綾女ぇ……こちらには今、六百もの避妊具の用意があるのだぞ!!??


「──ッッッ」


 その"覚悟"、しかと受け取ったぞ……!

 綾女ぇ……薄野、綾女ぇ──!!

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