第490話「白い聖女と黒い鬼」



「つん、つんっ♪」

「……」


 学生服越しに、背へ二度ほど。

 いや……先程から一定の間隔で何度も、俺の背に指先で刺激を加える者がいる。

 その軽い刺激はまるで、子犬が「構って!」と主張すべく肉球で飼い主をテシテシと叩いているかのようだ。いや、実際似たようなものなのだろう。


「つんつん、つ~ん♪ ……ふふ、いいですねぇ。この青春っぽさ。共学の空気感は初めてですが、実に良いものです」

「……うるさいぞ」


 仮にも既に始業の鈴が鳴り、一時間目が始まっているというのに。綾女も心配してこちらを横目でチラチラと見ているというのに。

 こちらの聴覚の良さを当てにし、後ろの席に座るティアはほぼ吐息しか聞こえぬ声量で言葉を紡ぐ。この女の声は、たとえ小さな声でも清涼な川のせせらぎのように鼓膜に沁み入るため、なかなか無視というのもできない。


「ふふ……♪」


 肩越し振り返って睨めば、ティアは「やっとこっちを向いてくれた」とでも言うかのようにだらしのない笑みを浮かべる。しまった、思惑通りの行動を取ってしまったか。


「……ちっ」


 もうよい、授業に集中できん。そもそも無手とはいえ、バチカンの剣姫に背後を取られたままでは早弁するのにも気が散る。

 まったく。今朝に「これからはもう少し勉強に力を入れよう」と誓ったばかりだというのに。

 俺は早くも己の誓いを破ってしまったことに小さく舌打ちをして、黒板と教壇に立つ教員から意識を切り離した。すまないな、数学教諭小野……新任の若い女教諭とお近づきになり、最近結婚にまで漕ぎ着けたと噂の三十路たる小野……。

 勝ち組人生を歩む三十路教諭に心の内で詫びる。そうして俺はティアの相手をすべく目でのみ振り返り、小声で話し始めた。


「して、『共学が初めて』と言っていたが、女子校にでも通っていたのか。それとも、聖剣の担い手として修行に明け暮れていたか」

「あ、いえいえ。私、ずっと修道院暮らしで教育機関には通ってなかったんですよぉ」


 それゆえ、そんな自分の目には眼前の全てが新鮮に映るのだと。

 青く透き通る瑠璃色の瞳にじんわりと温かいものを宿らせるのを見て、俺は静かに目を細めた。


「ほう……」


 いくら上司からの命令とはいえ、年甲斐もなく学生の真似事をしているのは……もしや、そういったことへの憧れが多少あったからなのかもしれん。

 むしろ、ティアのことを知るそのヨハンナとやらが、その意を汲んだというのもあり得る……が、どうだろうな。よりにもよって無双の戦鬼が潜む場に、替えのきかぬ戦力を投入するものか……ヨハンナとやらの人柄を知らぬゆえ、分からんな。

 俺がその思惑の程を考えている間にも、ティアは視線を軽く教室に巡らせ、頬に手など当ててため息を吐いている。


「はぁ~、いいですねぇ~。この、教室に充満するのほほんとした空気。子どもが子どもらしくいられるだなんて、こんなに平和なことないではありませんか?」

「ん……まぁ、そうだな」

「これも偏に、私達が平和を守っているがゆえの陽だまりというわけですね!」

「俺は守ってなどいないがな」


 ふんと不愉快げに鼻を鳴らせば、しかしティアはおかしそうに笑う。


「またまたぁ、お人が悪い~。先生が暴れるのを我慢してくれているからこそ……いえ、大切な人と生を歩みたいと願ってくれているからこそ、この日、この場所は今日もまた、普通の日常を過ごせているのではないですか」

「む……」


 思わず唸れば、ティアはその優しげな瞳のまま、柔らかく唇を動かした。まるでこちらを慮るかのように。


「きっと大変でしょう。いいえ、大変ですよね。"私達のような種"にとって、"普通"という概念はあまりに遠いものなのですから」

「……」


 『私達』と、周囲の人間とは異なる種族であると言いきり、こちらへ理解を示すティアの言葉に俺も黙り込む。その通りだからだ。

 思うのは俺の家族、酒上刀花と酒上鞘花である。彼女達にとって、"普通"というものは命を落とすほどに遠く、得難い宝であった。

 きっと目の前の聖女も、そういった経験を多く抱えてきているのだろう。でなければ『教育機関に通わず、修道院でずっと暮らしていた』などとは言うまい。特異な者というのは、生まれながらにして孤独を強いられるものだ。

 しかし……そうして生きてきてなお色褪せぬ清らかな笑みを浮かべる聖女。そんな美を湛える女性へ、俺もまた頷きを返した。


「然り。我等にとっての“普通”、それは確かに大変なことだ。だが俺には共に歩んでいきたいと思える大切な者達がいる。いてくれる。殺戮兵器とはいえども、鏖殺などという非生産的なことなどいちいちやってはいられんだけのことだ」

「強く、そして立派なことだと思います。『そう在れ』と創られたモノが、その使命に抗うこと。それのどれだけ難しいことでしょう」

「"強さ"とは、力のみを指す言葉ではない。それは生まれ持った力を、何の為に出力するかによって決定される道のようなもの。それを俺に教えてくれる家族が、俺にはいた。幸運なことにな」

「えぇ。そして十年前、私にもそれを教えてくれた……一匹の悪鬼がいたものです」


 強者にとって、孤独とは常に隣にある。

 当然だろう。触れれば簡単に他を傷付け、離れれば疎まれそのまま排斥される。我等は所詮、そういった種族よ。


「……」


 ──そんな存在にとって、傍にいてくれる温もりのなんと得難いことか。

 ゆえにこそ、我々強者は常に他者の温もりを守ろうとする。求めてしまう。より深く、より濃く。

 俺が五人の少女を求めるように。聖女が聖剣や綾女、俺を求めるように。

 ──“我々”は基本的に、寂しがりな存在なのだ。


「……」

「……」


 何とはなしに、視線を交錯させる。

 同じ力ある強者といえど、その宿した色については異なる。

 俺が黒なら、この聖女は白。それは何のために力を振るうか、己の手によって決定づけたことで宿る色だ。

 俺は俺のために。俺が仕えるべき少女達だけのために。これは他者を踏みにじる覇道である。

 そして彼女は周りのために。その温もりを周囲から際限なく得んがために。これは他者を愛する求道だ。


「……ふん」

「ふふ♪」


 宿す色は全く異なる。

 だが──それゆえ相手を尊重せぬ理由にはならない。

 十年前。小さな女の子を守る悪鬼を見て、この聖女が俺を尊重したように。


「……ふむ」


 ……まぁ、この語らいで俺も多少は歩み寄る気にはなった。同類相憐れむというわけではないがな。

 そんな俺の少々弛緩した雰囲気を肌で感じ取ったのか、ティアはまたも頬をだらしなく弛ませた。


「好感度、上がりました?」

「それを言わなければ、上がっていたかもな」

「えぇ~? ねぇねぇ、先生? 背中に文字書いていいですか? 日本のアニメで見たんですけど、互いを想い合う異性はそんなからかい上手なスキンシップを取って仲を深めるらしいですから! 青春っぽいですね!」

「聞いたこともない。む、えぇい、俺に気安く触るなっ」

「私がなんて書いたか当てられたら、先生は私に好きなこと命令していいですよ♪」

「ほう? ならば今すぐバチカンに送り返してくれる」

「じゃあ私が勝ったら、先生にこの制服姿を『可愛い』って褒めてもらいましょう。それも具体的に。まだ言ってもらえてないので♪」

「この俺に勝負を挑む愚かさを、再びその身に刻んでやる」

「じゃあいきますね~?」


 …………負けた。

 彼女の名の由来であるラテン語で書かれてしまっては、俺に勝ち目など最初から無かったのだ。

 ゆえに──、


「……いやまぁ、なんだ。年嵩について思うところもあった。がなぁ、いや、これはこれで味わい深いものもある……と。うむ、感動した」

「それ褒めてませんよね!?」


 言葉を濁しただけ優しさがあると思ってもらいたいものだ。

 だいたい、その上司の意地悪ゆえか丈が小さいのだ丈が。おかげでその豊かな乳房がパツパツにセーラー服を押し上げ、より仮装感を強める結果となっているのだと自覚するがいい。生地が伸びに伸び、透けてすらいるぞ。


「……」


 ちなみに──その清らかさに反し、その色は黒であった。

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