第488話「若さとは心意気である!」



「……とんだ目に遭ったな」

「ご、ごめんね刃君……」


 下級生組と別れ、俺と綾女は三年教室へと向かう。

 三階へ続く階段の途中で俺が思わず漏らした声に、綾女が申し訳なさそうに手を合わせた。


「今度色々お店でサービスするから……」

「ああいや、責めているのではない。ただの所感だ。折も悪かったことだからな」


 よりにもよって、というタイミングであった。

 お天道様は見ていると言うが、やはりこういったことには常々気を配っておかねば悪いことなどできんな。


「まぁ、この連休の半ばに『気を引き締めよ』という教職員陣からのお達しなのだろう。実際に、目で見て分かるほど生徒達の気が抜けておる。これを見れば、そう言いたくなるのも理解できる」

「あはは……まぁ羽目とかつい外しちゃうよね」


 通りすがりに、三階に並ぶ教室の一つを覗き込めば多くの者が机に突っ伏し、お喋りする者もどこか眠そうに目蓋を擦っている。若さに任せた夜更かしの結果だろう。


「おはよう、橘」

「おはよっ、橘さん」

「…………」


 そしてここにも、そんな乙女が一人。

 我等の所属する3-A教室、その窓際後部にひっそりと座る儚げな少女……橘愛もまた、少しぼんやりとした手付きで言葉代わりのスケッチブックを手繰る。その水底のように深い色をした瞳も、常より眠そうだ。


『おはようございます』

「ああ。なんだ、寝不足か?」


 その後ろの席に俺、そして俺の隣に綾女が座ればいつも通りの布陣が完成する。

 そうして机の横に鞄と弁当袋をかけながら問えば、橘は己を恥じるような苦笑で顔を彩った。どうやら当たりらしい。


「ふふ、橘さんも連休についついはしゃいじゃってるのかな?」

「年上の彼氏と遅くまでヨロシクしているのではないか」


 珍しく子どもっぽい仕草を前面に出す橘に、つい俺と綾女も彼女をからかう。


「……」


 だが、橘はその苦笑に少々異なる色を乗せ、深めるのみであった。どうやらこちらは外れてしまったらしい。


「ふむ? 愉快な理由ではないのか」

「……」


 寝不足の理由について聞けば、橘は腕を組んで頭をうんうんと揺らす。随分と悩ましげだ。それほど口に出すのも憚られる内容なのであろうか?


「……特段、言いたくないのならば構わぬぞ」

「うんうん。でも私達で力になれることがあったら、いつでも言ってね?」

「っ!」


 俺と綾女の言葉に、光の少ない橘の瞳が思わず潤む。これが友情か……。


「っ」


 そうして思わず和んでいると、橘はぐっと拳を握り、ついでにペンも握り直す。どうやら話をしてくれるらしい。

 しばらく橘がスケッチブックを睨むのを眺めつつ、綾女が「はい、どうぞ♪」と大きな水筒から人数分配膳してくれた紅茶を啜る。

 甘めの味付けと"かふぇいん"によって脳が覚醒していくのを感じていれば、橘は今一度スケッチブックに記した文章を推敲し……クルリと裏返してそれを見せてくれた。


『最近、"彼"の帰りが遅くて……』

「浮気だな」

「刃君……」

「っっっ!!!」


 反射で出てしまった言葉に綾女は非難がましく俺を呼び、橘はパンパンに頬を膨らませてこちらの頭をハリセンで叩き始めた。ちなみにハリセンの表面にはには『仕事と私どっちが大事なの』と書かれている。なるほどな。

 俺は「分かった分かった」とハリセンの連打を手で払いつつ、橘の寝不足の理由について看破した。


「仕事の帰りが遅く、恋人の時間が取りにくい。ゆえ遅くまで待ち、その結果寝不足というわけだな」

「健気だなぁ、橘さんは……」

「///」


 綾女のしみじみとした言葉に、橘はテレテレとする。このような少女が恋人となってくれるのであれば、それはかなりの果報者だろうよ。

 とはいえ、こうして少女にこぼしにくい不満を抱かせているのであれば世話ないが。


「そう言ったのか? 『仕事と私どっちが大事なのか』と」

「~~~っっ」


 橘が「まさか」と言いたげに首を大きく横に振った。綾女もまた、悩ましげに唸っている。

 確かに、これは難しい問題ではある。使い古された文句であるが、その不満のほどは理解できる。なんならバイト時代に、刀花から何度か言われたことがある。

 俺はそのことを思い出しながら、うむうむと頷いた。


「如何ともし難いものよ。仕事をせねば大切な者との生活が立ち行かず。さりとて大切な者との時間が取れねば本末転倒。とはいえ俺はむそ……世界最高の兄を自負する者。妹にそう言われれば、俺はすぐさま仕事を辞めて家族旅行を始めるだろう」

「辞めちゃうんだ……」


 実際辞めた。そして貯金も尽きた。そうして戦鬼は再び"はろーわーく"をさまようのだ……よりよい職場を求めて。

 俺がドヤ顔で宣言すれば、橘はなにやら緊張した面持ちでペンを走らせる。


『実際……妹さんからそう言われて、どう思いました?』

「どう、とは?」

『やはりこの文句は、面倒くさい言葉として認知されていると思いますので』

「はんっ」


 モジモジと身体を揺らす橘に、鼻で笑ってしまった。まったく何を恐れているというのか!


「橘。極論を言うようで申し訳ないが、この世に面倒くさくない感情を抱えぬ人間などおりはせぬ。人間関係とは、そして恋人関係とは……その面倒くささをどこまで許容できるか、その範囲をどこまで相手に求めるかを互いに測りながら営まねばならんのよ」


 無双の戦鬼は、仕えるべき少女には全てを赦す。

 だが、たかが人間風情に全てを許し合うことなど到底無理な話だ。どだい、言葉に出せぬ感情など知りようもないのだからな。信頼関係の最奥の一つである恋人同士とて、話し合わねばならぬ時は必ずある。


「聞くが、橘。お前の信頼する恋人は、そう言われて腹を立てるような愚物なのか?」

「…………」


 ふるふる、と。橘は首を横に振る。この少女が見初めた相手であれば、当然だな。


「ならば言えばいい。存分に不満をぶつけてしまえ。相手は大人だろう? 可憐な少女から可愛い不満をぶつけられて、それを許容できぬような器の小ささはしておるまいよ」


 無論、仕事を辞めろなどとは言わぬ。俺は無双のバイト戦鬼のためいくらでも潰しが効くのであってな。この冷たい時代、いい歳で再就職は辛かろう。俺とは違ってな。俺ほどのバイト戦鬼になると、何度再就職したか分からぬわ!

 悩ましげに唸る橘。そんな可愛らしい悩みを抱える少女に、俺は含めるように言った。


「特に子どものワガママは、子どもである内に吐き出しておいた方がいい。言葉とは、同じ言葉であってもその者の立場によって重みが違ってくる。不思議なことに、年を経るごとに人間は言葉を覚えていくはずであるのに、実際に口に出せる言葉というのは反して少なくなっていくものだ」


 だから、と。俺は勇気づけるように橘の肩をポンと叩いた。唇は少々歪に曲がっていたかもしれんがな。


「よぉく、男には普段から言葉をぶつけ、早い内から尻に敷いておけ。それが恋人関係における、若者の特権である。なにせ相手は歳上なのだ、何も言い返せぬよ」


 そのような不満を抱かせしまうなど、大人として不甲斐ない……と、言われた相手が子どもならば尚更そう思って然るべきである。


「それに、恋人の嫉妬をぶつけられて嬉しがらぬ者などそうそうおらん。いいか、肝に銘じておけ橘。お前はもっとワガママを言ってもいい。『お前のせいで寝不足だ』とすら言ってしまえる立場にあるのだ」

「…………っ」


 こちらの強い言葉に、橘が苦笑する。無論、そのような口調を橘が使わぬことを分かっていての軽口だ。

 きっと優しい口調で、それとなく迂遠に、この儚げな少女は相手にそう伝えるだろう。求めるだろう。

 ああ、きっと。その姿は蕩けるほどにいじらしいに違いない。それを見られる相手方が、なんとも羨ましい限りだ。


「若者の言葉は軽く、大人の言葉は重い。それは歳の差、人生経験の長さによるものであり、そうそう埋められるものでもない」


 だが、ゆえ若者が愚かというわけでもない。


「軽い身であるからこそ、若者は失敗しても何度でも立ち上がることができるのだ。それをきっと、周囲は許してくれよう。いや、世界とは本来それを許さなければならん。無論……恋人関係であれば、特にな」


 若さとは若者の行使できる特権であり、大人が守るべき責務である。


「…………♪」


 最後にそう付け足せば、橘は瞳をパチクリとして……花が咲くように笑った。

 そうして互いにコツンと拳を突き合わせれば、橘はグッと意気軒昂にガッツを見せる。


『ほどほどに、ワガママになろうと思います』

「よいよい。時に男の甲斐性を試すのも、良い女の務めだ」

「もう、刃君ったら……」

「綾女も、俺にはどんどんワガママを言ってくれて構わぬのだからな」

「え? そう? じゃああれをお尻に──」


 今日はいい天気だな!!!!!!

 あの卑猥な器具のことを知らぬ橘はキョトンとしているが、俺は努めて無視をする。そうして遠い目をして、窓からのどかな景観を視界に収めつつ紅茶を味わった。


「桜は散ってしまったが、あの淡い色合いを追うように甘い味付けの紅茶は、心を豊かにしてくれるな……」

『……なんだか、酒上さんってたまに同年代なのか疑わしい時がありますよね』

「若いが? この酒上刃、ピチピチの十八歳だが?」

「刃君、ちょっと言葉のチョイスが……」


 橘の微笑ましそうな視線と、綾女の苦笑が刺さる。

 鍛造が千年前とはいえ、我が心はいつでも"ふれっしゅ"であるぞ! そう、若さとは心意気である!! 今戦鬼は良いことを言った!

 内心そう主張していれば、予鈴が鳴ると同時に担任である女性教諭が入ってきた。なにやら困惑気味な顔をして「今日は皆に新しいお友達……? を紹介します……?」などと語っている。眉間に皺が寄っているぞ。

 まったくまだ若手だろうに、そのような表情を浮かべていては小皺が増えるばかりだ。心の曇りは顔の曇り。そう、やはり若さとは心意気であ──、


「は、初めま──あ……き、きゃっぴ~☆ バチカンから留学して来ましたぁ、ユースティア=ペルフェクティオで、でぇ~す! こんな時期にまじ卍って感じだけど、許してちょんまげ! ど、どどどどうぞハッピーうれピーよろぴくね~~~っ!!」


 うぉ…それは流石に心意気が過ぎる……。

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