第272話「ケンカと呼ぶには甘すぎる」
「それじゃあ、私はこの紅茶のケーキを頼もうかしら。ジン? "今は"チョコ系は頼まないでおいてあげるわね」
「ふ、さて。なんのことだかな」
輝かしいパティスリー内の飲食スペースにて。
右隣の椅子にちょこんと座るリゼットが、悪戯っぽく笑ってそんなことを言う。どうやらこの場では気付かないふりをしてくれるらしい。
「……」
近付くバレンタインに備え、美味いチョコ菓子を提供する店の下見に来たなど……この下僕、とてもではないが面映ゆくて言えんよ。ご主人様の慈悲、まことこの胸に痛み入る。
「うん? なぁに?」
そんな、己の眷属を慮る可愛いご主人様の顔をじっと見つめる。
俺のあとをつけていた時には随分と懐疑的な態度の彼女だったが、今ではすっかりご機嫌なご様子である。常ではツリ目がちなその紅い瞳も、どこか柔らかく細められこちらを観察していた。
その端正な顔立ちには女性らしい美しさが浮かび、だが同時に華奢な体躯と瞳の奥に見えるこちらへの好意が、年頃の少女らしいいとけなさを演出する。
百人に聞けば百人から「可愛い」と返ってくるであろう美貌。このような美しい少女にお仕えできるなど、幸せ以外の何物でもない。とはいえ……、
「まさか、人妻まで嫉妬の対象になるとは思わなかったがな」
「う……だ、だって……」
こちらの言葉に少し気まずげにした後、リゼットは頬を染めてゴニョゴニョと口を動かす。
「あなた、なんかたまに『人妻か……』なんて意味深に呟くんだもの……」
「確かに、"人妻"というのは良いものだ。世の酸いも甘いも噛み分け、その上で自我を確立させている者の心は、この戦鬼には少し目映い。どこか完成した宝のように見えるのだ」
……“他人のものである”、という部分もまた良いのだがこれは言わなくてもいいだろう。
「だが、さすがに俺も弁えている。優先すべきは主と妹であるとな」
チラリと左隣を見れば、夢中になってメニューに目を通す妹がいる。その笑みからして、最初から兄の不貞など疑っていなかったことが一目で分かる。さすがは俺の妹だ。
「……うぅ。あ、謝った方が、いい?」
「む?」
妹の笑顔に癒されていると、申し訳なさそうに上目遣いをするリゼットがそんなことを言ってきた。
思うに、眷属にあらぬ疑いをかけたことを反省しようとしているのだろうが……それこそまさかだ。
「いいや、謝るのは俺の方だ」
「え……?」
彼女の髪へ手を伸ばし、ゆっくりと梳く。我が胸中に沸き上がる愛おしさが伝わることを願って。
「嫉妬の大きさ、それは即ち愛情の大きさだ。俺としては今日の下見など、ただの作業のつもりだった」
しかし、ご主人様の目から見ればそうは映らなかった。他の女性と街を歩く俺を見て、彼女は激しい嫉妬をその身に宿したのだ。
その事実の、情動の……なんと甘美なことか。
「侮っていたのは俺の方だ。愛しいご主人様の、眷属へ向ける愛の大きさを。他の女性が隣にいるだけで身を焦がすほどの、乙女の恋情を」
「そ、そんなんじゃ……」
俯いた彼女から否定の言葉が返ってくるが、字面ほどその声に力が籠っていない。彼女の態度が全てを証明している。
「だからこそ、俺はここに謝罪しよう。主を不安にさせてすまなかった、と」
「そんな……」
「それに、この轍を踏むのは二度目だ。俺としたことが」
「え?……あ」
彼女も思い至ったらしい。
そう、俺は以前にも連絡不行き届きで、リゼットを不安にさせてしまっていた。あれは振袖の購入を隠していた時のことだ。
あの時に『コソコソするのは無し』と言われていたというのに、このザマだ。大切な少女にいらぬ不安を与えてしまうなど、我がことながら情けないにもほどがある。
「眷属を解雇されても文句は言えぬこの所業。どうか許して欲しい」
「べ、別にそこまで言うほどじゃないと思うけど……」
彼女のすべすべした手を握りながら乞えば、苦笑が返ってくる。
だが俺の考えは違う。言うことを聞かぬ道具になど、いったい何の価値があろうか! これは、我が矜持にもとることなのだ。
「罰してくれて構わない。いかなる罰も受けよう」
「う、うーん……でも、私が先に勘違いしたことだし……」
「いいや、主にそのような疑いを持たせた俺にこそ非がある。俺がその責を負うべきだ」
「それこそ自分の勘違いで眷属を罰したら、ご主人様としての器が問われるというか……」
「俺が悪い。俺が謝る」
「私がそうすべきじゃ……?」
「いいや俺が」
「いいえ、私が……」
「……」
「……」
……ああ、いかんな。
言い合っている内に、互いの距離がかなり近付いている。彼女の長い睫毛がよく見えるほどには。
謝罪すべき場であるというのに、それ以外の気持ちが鎌首をもたげようとしている。これはいかん……そう思いつつも、泉のように湧く愛おしさを止められん。
「じゃ、じゃあ……」
熱に潤む彼女の瞳に魅入っている間に、ポツリと彼女が言葉を漏らす。恥じらいに視線を背けて。
「な、仲直り、しましょう?」
「ほう……?」
言うほど仲違いはしていなかったと思うが、乙女の純情の前では些細なことだ。
目で『どうすれば?』と促せば、リゼットはいつも俺がするようにパチンと一つ指を鳴らす。主人として、戦鬼の力を行使したのだ。
その音が響けば……こちらに向く視線の数が減っていき、十秒ほども経てばそれは零になった。先にしていたように、"存在感を斬った"のだろう。これで、我々はこの世界に二人だけというわけだ。いまだメニューに釘付けな刀花も、すぐには気付くまい。
「ん……そういえば、どうして尾行に気付いてたの?」
既にこちらの額に、コツンと自分の小さな額を甘えるように押しつけながら、彼女が問う。簡単なことだ。
「俺は常にこの星全土の生命を殺害圏内に置いている。そのような環境下で大切な少女達の気配が消えれば、そこにはぽっかりと空白ができる。穴のようなものだ。むしろ『自分達はここにいる』と教えているようなものだったぞ」
「……そういうこと。難しいのね」
「ああ。この悪鬼から逃れようなど、百年早い」
言いながらすりすりと、互いのおでこや鼻を擦り合わせる。柔らかく、愛おしい体温。僅かに漏れる吐息からすら、上品で甘い香りを感じる。
「して、仲直りの手法とは?」
「……分かってるくせに」
このような距離で触れ合っておきながら、手法も何もない。
リゼットが不服そうに唇を曲げ……そのまま瞳を閉じ、顎を少しだけ上げた。
「は、はい──仲直りの、キス……」
「──」
言葉ではなく、行為で示すやり方もある。それを身を以て体現する彼女に頭が沸騰しそうだ。
耳の先まで真っ赤に染まり、それでもなお顎を上げたままの少女。そんな可憐な少女の頬に手を添え……唇を重ねる。
「ん……」
鼻にかかった吐息が漏れ、恥じらいからか身体が揺れる。しかし、合わせた唇が離れることはない。
啄むように、一つ、二つ。互いに唇の形をなぞり、じっくりと時間を掛けて愛情を交換し合う。
「ちゅ……ん……は、はい。これで、仲直り……ね?」
最後に強く唇を押し当て、彼女は俺の身体を押す。これくらいでいいだろう、と。
だが……熱に潤み、蕩けた瞳を見てしまえば止まれるものではない。
「あっ、ちょ、ちょっとぉ……んっ♪」
無言で彼女に顔を近付ければ、文句を言いつつも受け入れてくれる。おいたをした下僕に、なんとも寛容なご主人様だ。
「ん、ぅん……ちゅっ……もう。これは、なんのキス?」
「そうだな……『これからもよろしく』のキス、というのはどうだ?」
「ふぅん?……じゃあ、『愛してる』のキスは……?」
「これだ──」
「あ……ちゅ──ふふ♪ じゃあ、『ずっと一緒にいる』のキスはぁ……?」
「これだな──」
「ちゅっ♪ んー……♡」
そうして何度も何度も、忠誠を誓う彼女に口付けを捧げる。たった一度の口付けでは、とてもではないが足りることはない。
「っ……」
とはいえ、時間を止めてもいないここは衆目の場だ。
いつの間にかこちらの首に腕を巻き付け、しな垂れかかるようにしていたリゼットだったが、口付けの数が十を超えようかというところで我に返ってしまった。
「こ、コホン……じゃ、じゃあこれで仲直りってことでいいわね?」
「もちろんだ」
俺としてはもっと伝えたい想いがあったのだが、これ以上すると止まれなくなる自信があったので素直に頷いておく。
「よ、よろしい……」
よろしいらしい。先程の自分の痴態を思い返しているのか、モゴモゴと言う彼女も愛らしい。
そんな彼女が咳払いと共に、もう一度パチンと指を鳴らせば、断ち切れていた存在感が戻っていく。それにいの一番に気付くのはもちろん、刀花だった。
「あ、兄さんとリゼットさん。存在感消して何してたんですか?」
「ちょ、ちょっとケンカしてただけよ。えぇ。あまりそういうお見苦しいものは、外に見せたくないから、ね?」
「ん……」
ケンカ、か。
確かに、ご主人様としての器と、道具としての矜持の話であったため、そのぶつかり合いは“ケンカ”と称してもいいのかもしれない。
……そう呼ぶには、些か甘すぎるきらいがあったがな。
「えー! 兄さんとケンカしたんですか!? いいなぁ!」
生涯で一度も兄とケンカなどしたことのない刀花が羨ましそうに言う。兄妹らしいやり取りにも憧れを持つ刀花だが、こればかりはできぬ兄を許せ。
「さて、そうしている間に注文は決まったか?」
「あ、はい! これとこれとこれとぉ♪」
詳細を尋ねられる前に、妹の意識を甘味に割く。そうしなければ、ご主人様が恥じらいで爆発してしまうからな。
「──と、こんな感じです!」
「うむ、では……あぁ」
刀花の注文を聞き終え、オーダーを頼もうかと思ったが、その前に……俺はようやく正面に座る親子に向けて声をかけた。
「貴様らはどうする」
「お母さんはもう役割を果たしたのでいいわよぉ~」
「どうするもこうするも、どうしてくれんねんこの身体をよぉ!」
机を挟んだ向こう。
先日に会った時より若い姿を保つ吉良坂母は、ゆったりと笑みを深めており……しかし、その“膝の上に乗る女児”は対照的な顔を見せる。
罪人に相応しい姿を晒す、小学生くらいの身の丈の女児は、こちらを指差しキャンキャンと喚いていた。
「なに身体は子ども、頭脳は大人にしてくれてんのさ! どこぞの探偵じゃないんだがぁ!?」
「実験だ」
鼻息を鳴らしつつ告げる。
そう、この見た目小学生の女児は紛れもなく、吉良坂ガーネットである。罰を与えがてら、俺がそうなるよう姿を変えさせたのだ。
「よくも我が愛しい少女達へ邪気を向けたな。殺されぬだけありがたいと思え」
「これもこれでどうかと思うんだがー?……普通に刀で斬られたし……ちょっと漏らしたぞおい」
若かりし頃の母の膝の上に乗り、小さくなった己の拳を確かめるように握ったり開いたりしている。
「兄さん、実験ってなんです?」
「ああ。吉良坂母から、若返りは無理でも、その頃への変身ならばできると聞いたものでな。この店の紹介ついでに、それを見学させてもらっていた」
「ふーん、それでその結果をこの子の身体で試してるってわけね」
リゼットが纏めてくれる。
俺が目指すべきは不老不死だが、若さを保つことがその鍵になりはしないかと思ったのだ。
だが、これもまた若い頃への変化とそう変わりない。俺の霊力が尽きてしまえばこの変身も解けるだろう。難しいものだな。
「まぁ目的はそれだけではないが」
「ほーん? 他に何──うぉい、なに事務所の許可なく写真撮ってるんじゃい! しかもこの姿、アイドル全盛期ぞ!? あたしの若い頃の髪の毛とか残ってないし、もはや失われた輝き──」
「それだ」
「はぁ?」
疑わしげな顔をする吉良坂に頷く。どうでもいいことだが、小学生にしてはふてぶてしい顔であることだ。
「貴様の母を呼び出したのは、なにもこのためだけではない。次の段階へ進む算段をつけていたのだ」
「それとあたしの写真になんの関係が……」
「これは……エサだ」
口の端を上げる。
元トップアイドルだったのであろう? それならば、いまだ世に出ていないプライベートの写真など、貴様を慕う者共ならば喉から手が出るほど欲しかろう。
「次の段階へ進む。魔法の練習を、貴様のファン相手にする時期だ」
「うげっ、あたしのファンを巻き込むって? な、何を勝手にそんな……うちの生徒だけならともかく、ファン相手にするなら事務所の許可とか……」
「だから貴様の母を呼んだのだろうが?」
「ごめんねぇ、ガーネット」
「え、あ! 買収されとる!!」
おほほと笑いながら、吉良坂母は赤い液体の入った試験管をこれ見よがしに振る。入っているのは無論、俺の血だ。常に珍しい触媒を欲している魔法使いにとって、最強の鬼の血など値段が付けられるものではない。
この場において、吉良坂母は鬼の血を得、俺は店舗の紹介と若返りの観察。そして写真、事務所への働きかけを得た。
「ククク……」
これはデートの現場などではなく……取引の場だったのだ。己の身が取引材料にされているなど思いもせずノコノコと現れよってからに。手間が省けたぞ。
「それでは、次の段階へと移行する」
「マジか……じ、じゃあ実際にファンと?」
「いいや、それはまだ早かろう」
突発的に、たとえばライブを開いたところで客など集まるまい。長らく活動休止していた者ならなおさらだ。場所も無い。
だが今の時代はまこと、便利になったものだな?
「以前にも聞いたが、貴様の魔法の効果範囲は、中継によりかなり効果が弱まると言っていただろう」
「え、うん……あ、まさか……」
話が早くて助かる。
「写真を現像し次第、これにサインをしろ。これをエサに旧ファンを集める。そしてそれを渡すための交流の場は……」
ああ、最近ではそういった“こんてんつ”が流行っているのだろう?
「──ネットの生放送を通じ、ファンと交流するぞ」
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