第69話「いや動くなよわけわからん」
「テストの時間よ!」
バァンと俺の部屋のドアを勢いよく開けたマスターは声も高々にそう宣言した。
その後ろに続く妹はよっこいしょと空いたスペースに抱えていたものをテキパキと設置している。
「はい、兄さん。机と座布団です」
「なんだなんだ唐突な」
夕食と風呂も済ませ、月明かりを浴びてボーッとワインをラッパ飲みでカパカパしていた俺は二人の勢いに面食らう。
息つく間もなく勉強の環境を整えられた俺は訝しげに寝間着姿の二人に視線をやった。
「唐突なものですか、学園にも連絡したのよ? 来週にはあなたの編入試験をするっていうんだから、とりあえず今のあなたの学力を把握しておかないと」
どっさりと参考書の山を並べるご主人様は忙しなくそう言う。参考書の山の中にはところどころ手作りとおぼしきプリントやノートが見受けられた。
帰ってから二人して部屋に引きこもって何をしているのかと思えば、これを作っていたのか。
俺は机の上に置かれた参考書をパラパラ捲りながらふむ、と頷いた。
「学力ときたか……グビグビ」
「これから高校生になろうって子がワインラッパ飲みしてんじゃないわよ。トーカ、没収」
「ごめんなさい兄さん」
「あー……」
まだ半分も飲んでいないのだが……しかしそれを言えば目の前で瞳を三角にするマスターから叱責が飛んできそうなので自重する。
決めるまでは迷っていたくせに、いざ学園に通わせると決めた後はかなり乗り気になっているご主人様だった。
「それで、あなたって勉強はどれくらい出来るのかしら?」
「兄さんって私に勉強教えてくれてましたよね」
「あらっ、いいじゃない。なんだ不安だったけど案外――」
「小学生の頃の話ですけど」
「ふー……オーケー、落ち着いて落ち着いて……」
刀花の言葉を聞き、マスターは「まだ慌てる時間じゃないわ」とでもいうように静かに息を吐いている。
「い、いえ……いえまだ分からないわ。試してみたら案外いけるかもしれないもの。どう、ジン?」
縋るような目付きでこちらを見るマスターに、俺は腕を組んで鼻を鳴らした。
「ふん、所詮クソガキ程度が理解できるような内容なのだろう? ならばこの俺に出来ぬ道理はない」
「うわこれ出来ないやつ」
失礼な。舐めるな無双の力。
俺は机上に積まれた参考書を適当に取って眺めてみた。どれ、これは……数学か。なになに。
問1 X-8=0を解きなさい。
「ハン」
一つ目の問題を見た瞬間笑ってしまった。
まったく、なんだこのふざけた問題は。出題者の怠慢が見受けられるな。
俺は目の前で座るマスターに余裕綽々で指摘した。
「おいマスター」
「な、なに? さすがにこれくらいは――」
「なんだこの問題は、文字化けしているではないか」
「うっそでしょあなた」
「お労しや兄さん……」
俺が指摘した瞬間お通夜みたいな雰囲気が流れた。
なぜそんなお先真っ暗みたいな顔で俯く。
まったく、数学だろう? 英語でもあるまいし、なぜ数字の中にアルファベットが出てくるのだ? 誤植以外あり得まい。
どや、と自慢気に胸を反らす俺にご主人様はふるふると震えながら次々と問題を投げ掛ける。
「じゃ、じゃあこっちは? 『1気圧は何hPa?』」
「1っつってんだから1だろ」
「『アフリカで生まれた初期の人類は?』」
「アウ……えー……アウシュビッツ?」
「『この文を書いたときの作者の心境を答えなさい』」
「締め切り明日ですよね」
「『How are you?』」
「は?」
「こんの小学生レベル戦鬼がーーーーー!!」
「!?」
金髪を振り乱して参考書の山を机の上にぶちまける我が主はご乱心あそばされた。き、キレる十代……。
そんな荒ぶる乙女を、刀花は冷や汗を流しながら宥めている。
「ま、まあまあリゼットさん。人には向き不向きというものがですね……」
「そんなレベルじゃないでしょ!? 中学生レベルも分からないなんて! 普段あれだけ偉そうにしといてオツムがパッパラパーよ!?」
「私もビックリですけど仕方ありませんよ、出自的に多分そういう機能ついてないんですって」
「そうやって甘やかさないの。トーカこのままでいいの?」
「私は兄さんを甘やかす方針なので」
「このままだったら中庭で一緒にお昼ごはん食べたり、放課後制服デートも出来ないのよ?」
「兄さん! 勉強しましょう!!」
「裏切ったな刀花」
見事な掌返しに目を回しつつも、さてどうしたものかと眉を寄せる。どうも俺は基準値に達していないらしい。まあ言われてもどの程度の危機感を持つべきなのかも判断がつかないわけだが。四則計算なら出来るぞ?
「どれくらいヤバイんだ?」
「クソよ、クソ」
口悪いなこのお嬢様。
いや、淑女の品性すら裸足で逃げ出すヤバさなのだと判断するべきか。
「そう言うマスターは勉強出来るのか?」
ちなみに刀花は理系が少し苦手といった感じだが、毎回好成績は取っている。本当に手のかからない子で……。
俺がマスターにそう問うと、彼女はふふんと自慢気に金髪をかきあげた。
「当たり前じゃない。私がペラペラと日本語喋ってる時点で気付きなさいよ」
なるほど、相当できるらしい。まあ本国でも自分に出来ることは一生懸命やっていた子だ、さもありなんというやつだ。
俺は感心するように「おぉー」と息を漏らした。
「こーんななんの役にも立たなそうな知識をなぁ」
「リゼットさん、グーは! 乙女的にグーはダメですって!」
プルプルと拳を振り上げるマスターを刀花が抑える。言い方が悪かった、すまん。
「あなたねえ、学園に通いたくないわけ?」
不満げに、そして少し拗ねたように彼女はそう問い掛けてくる。
学園か。正直、昼頃に言った『人間と関わるための場』としてならば願い下げである。未成熟な人間がわんさかいる場に放り込まれるなど身の毛がよだつ思いだ。今朝の喧騒を見ただろう。
だが――
「あなたは……私達と一緒に、学園に通いたくないの?」
「……いいや、無論通いたいとも」
だからそんな悲しそうな顔をしないで欲しい。
そう、俺は俺のためではなく。彼女達のために学園に通うと、そう決めているのだ。当初のように守護のため、というだけでなく。
彼女達とより長く、共に時間を過ごせるのなら。
「むー……だったらっ、勉強っ」
「わかったわかった、観念する。だから俺に色々教えてくれないか」
「……分かればいいのよ」
「兄さん、ファイトです! 私も頑張って教えますからね!」
「頼りにしている」
お茶を淹れてくれた刀花に感謝しながら、俺は今一度参考書に向き合う。おそらく、俺には一筋縄ではいかない分野だろうが……俺は一人ではないのでな。
そうして俺はまず一次方程式とやらを理解すべく、二人の先生に教えを乞うのであった。
「すー……すー……この、おバカ眷属……」
「……兄さん、この点P動くんですよ……すやすや……」
夜も更け、頭を酷使した二人は夢の中へ。
二人の少女を自分のベッドへ運び、布団をかける。
難しげに唸りながら並んで眠る少女達に苦笑しながら、さすがに苦労をかけたと反省した。
「……勉強というのもなかなか侮れんな」
疲れたように息を吐きながら、参考書をパラパラ捲る。
正直俺のアルバイト経験と照らし合わせても、ここに書いてある知識が役に立つとは思えん。棚卸しの途中で、アウストラロピテクスの知識や方程式などを覚えていてよかったという事態など一度もなかった。
「……くだらん知識だ」
所詮は猿知恵よ。
自分に適した形が早々に見極められないから、このように雑多な知識を詰め込むことになる。人間はやはり未熟に過ぎる。
一笑に付し、監視の目もないため気分転換に少し酒でも呷るかと思い立つ。
「……ん?」
しかし今まで格闘していた参考書とは別の……マスターが持っていたプリントやノートが目に入る。
「そういえば使わなかったな、これは……」
試しに手に取ってみる。そこには――
「……」
これはおそらく、高校生レベルの問題。
手書きの問題文も、一つ上の難しさを示しているように感じる。
だが、それよりも目についたのは……ところせましと赤ペンで書かれた、俺の愛する少女達の書き込みだった。
『ここは前の公式を参考にするのよ!』
『語呂にして覚えてみましょうね』
『あと少しよ、頑張って』
『兄さん、よくできました!』
俺が不甲斐ないばかりに、まだこのレベルに達していないため使われなかったもの。二人が頑張って、昼頃に部屋にこもって書き込んだもの。
俺と共に学園に通うために。
……俺の、ために。
「……」
くだらん知識だと、その認識は変わらない。無双の戦鬼に猿知恵は不要である。だが……
「っ……」
俺は立ち上がり、備え付けの冷蔵庫を静かに開けて手を伸ばす。
そうして取り出した、よく冷えた『水』を一息に飲み干した。
「……もう少し、頑張ってみるか」
意識も明瞭。
どっかりと腰を座布団に沈め、草木も眠る丑三つ時に。
可愛らしい寝顔を晒す少女達に報いるためにもう一度、俺は中学生用の参考書とにらめっこするのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます