第66話「先手必勝ってやつよ」



「き、緊張してきた……」


 ざわざわとした声が漏れ聞こえる教室の前。扉の上に表記された文字は『1-A』と見える。

 担任に先導されて辿り着いた廊下の果て。マスターが属することになるクラスのドアの前で、彼女は一人少々顔を強張らせて深呼吸を繰り返していた。


「ねぇ、何か緊張をほぐすようなものない?」

『人間の風習では、手に『人』と書いてそれを飲み込むというものがある』

「へぇ……それで何で緊張が和らぐの?」

『……美味しいものを食べて落ち着け、ということではないか?』

「絶対違うでしょ……そもそも、それじゃ人間の風習にならないじゃない」


 ジト目で俺を睨みながらも、しかしマスターは律儀に掌に人と書いてそれを飲み込んだ。やるのか……。

 藁にも縋る思いでまじないを試すマスターだが、俺を握る手からはいまだ緊張が伝わってくる。どれ、何が不安なのか探ってみるか。


『なになに……?』


『流暢な日本語で喋ったら引かれないかな?』

『英語で自己紹介すべき? でもイキってるって思われたら……』

『そもそも何話せばいいのかわかんない!』


 俺を握る手からそんな思念が伝わってくる。

 何度も掌に『人』と書いて飲み込み、食人鬼と化してしまったマスターに向け、俺は嘆息した。


『ふん、下らんことを……まったく何を緊張することがある。相手は齢二十にも満たぬ餓鬼どもだぞ』

「ちょっと、勝手に人の心読まないでよ。バカ、変態、ロリコン」

『待て、聞き捨てならん』


 バカや変態はまだいい。

 だがなぜ俺がロリコンの汚名を着せられねばならんのだ。知っているぞ。最近では差別語として使う言葉だろうそれは。


「だってあなた私のこと、す、好きでしょう?」

『言い淀むくらいならば言わなければいいだろう』

「う、うっさいわね……それで私はあなたで言うところの餓鬼と同じ年よ。平安生まれのあなたがそんな私に手を出してるんだから、ロリコンでしょ」

『む、いやしかし……ん……そう、なるのか……?』


 確かにそう言える、のか……?

 いやしかし、確たる自我を持ったのは十年前で……だが確かに平安の頃にはぼんやりとはいえ意識があったわけで……


「ブルームフィールドさーん、入ってきてくださーい」

「は、はい。……もう、バカなこと言ってるせいでセリフ飛んじゃったじゃないの」

『ロリコン……? 俺が、この無双の戦鬼がロリコン……?』


 ブツブツと自分がロリコンか否かの審議を呟く俺を他所に、マスターはゴクリと唾を飲んで教室へと入っていく。いかん、切り替えねば。


 ガラッと横開きの扉を開ければ、そこには三十人ほどの人間。その数十の好奇の視線が今、彼女に向けて注がれていた。


(……くっ、我慢だ)


 今すぐ彼女に注がれる視線を刳り抜きたい。

 しかし、事前に俺はマスターから『大人しくしてなさい』と厳命されているのだった。


『ご主人様を信じて見守るのも、眷属の務めよ。それとも、私はあなたの信頼する者足り得ないのかしら……?』


 まったく。

 そんなことを言われてしまえば、俺は大人しくしているほかない。それが、俺が彼女に捧げる信頼となるならば。


「実家の意向で、見聞を広めるためにイギリスから留学してきました。リゼット=ブルームフィールドです。よろしくお願いします」


 黒板に綺麗なカタカナで自分の名を刻み、ペコリと礼をする。

 鈴の音のように澄んだ声。彼女の動作に伴って揺れる、日の光を受けて輝く金髪。

 それら全てが、教室内の人間に威光として届けられる。

 そんな輝かんばかりの彼女が視線を上げた先には、感嘆の息を漏らして口を間抜けに開ける人間達がいた。まあ後ろの窓際に座る刀花は変わらずニコニコとして、小さくこちらに手を振っているのだが。ああ癒やされる……。


「はい、皆さん仲良くしてあげてくださいね。それじゃあ席は……酒上さんとお友達と聞きましたので、ごめんなさい田中君、隣代わってあげてね?」

「は、はい……」


 担任に言われた田中なる男が、未練がましそうに隣の刀花をチラチラ見ている。はよ移動しろやおぉん?


「?」


 ばいばい、と笑顔で手を振る刀花に、その男子生徒はガックリと肩を落とし、すごすごと去っていった。

 なるほどな……む、というか田中といえば刀花に告白した者ではなかったか? 顔覚えたからな。


「ふぅ、よろしくトーカ」

「ふふ、お疲れ様です。……兄さーん♪」


 視線を浴びる中で刀花の隣に座り、一息吐くマスター。そんな彼女に笑みを浮かべ、刀花は労をねぎらった。机の上に置かれた俺をこっそり呼び、小さくタッチしながら。


「はーい、今は先生に注目してくださいね。新学期の連絡とかもしますから、聞き逃すと大変なことになりますよー?」


 教壇に立つ担任の声で、二人に注目していた視線は霧散した。


(ほう、多少は自制がきく餓鬼どものようだ。感心感心)


 夏休みの過ごし方や、新しい宿題を配られて不満の声を上げる生徒の叫びを聞きながら、俺は静かに頷く。

 当初はとんだ動物園を想像していた俺だったが、担任も穏やか、餓鬼も自制がきく様子。これならば、我が少女達を学園に預けてもよいと思える。まあ、及第点程度だがな? ある程度仕方なくだがな?

 クーラーの効いた明るい教室の中、滞りなく時間が過ぎていく。太陽は天高く、蝉の声が遠く鼓膜を揺らし少しばかり俺の気分も落ち着いてくる。穏やかな時間だ。


「はい、じゃあ少し早いけれど今日はこれまでにしておきましょうか。皆さん残りの夏休み、有意義に過ごしてくださいね」

「あ、兄さんはこっちに来てくださいねー」

『む?』


 そんな中で担任が締めの挨拶に入った頃、隣の刀花がなぜか俺へと腕を伸ばして机上からひょいっと持ち上げその胸に抱いた。

 担任の「それじゃあ号令~」という声を聞きながら疑問の声を上げる。なぜだ? あとは帰るだけだろう。


「兄さん、大人しくしててくださいね?」


 マスターと同じことを言いながら『ありがとうございました』と担任に礼をする。

 着席し、担任が退席したと思った瞬間……俺の疑問は氷解した。


 担任が去ったと思うやいなや、わぁっと今まで大人しくしていた生徒たちがマスターを取り囲んだのだ。


「ねえねえ! イギリスってどんなところ!?」

「うわ、綺麗な髪……シャンプーとか何使ってるの!?」

「どこ住み? ってかラ○ンやってる!?」

「え、え!?」


 きゃあきゃあと黄色い声を上げながらマスターを質問攻めにする女生徒達。いや女生徒だけではない、男子生徒も中には果敢に攻め込んでいる。


 ブチッ


『あーやっぱりダメだ、滅ぼす』

「はーい、兄さんどうどう」


 離してくれ妹よ! こいつら殺せない!!

 本性を現わしたなクソガキ共……これではまるで砂糖菓子に群がるアリンコではないか!

 なにが穏やかな時間だ、ふざけおって。

 怒りにプルプル震える俺を、刀花は優しく撫でる。そんな俺達に注目する者など誰もおらず、教室内の熱気は全てマスターに向いていた。


「えっと、郊外の森のお屋敷で、シャンプーは取り寄せたものを……ラ○ンはやってるわ」

『おぉ~』


 彼女の一挙手一投足、たった一言でも子ども達は歓声を上げて騒いだ。こいつら何でもいいのではないか?

 はじめその迫力に驚いたマスターだったが、彼女は律儀に問われる質問に答えていく。その姿を俺は、唇を噛んで眺めることしかできない。


『くっ、俺のマスターを人間風情が……許せん……』

「まあまあ、最初だけですって。馴染んだら普通のクラスメイトになりますよ。お友達ができるのはいいことですよね?」

『それは、そうだが……!』


 コソコソと妹と話し合い、言い含められる。

 あぁ心配だ。その間にマスターがハブられたり、いじめに遭ったら……便所飯なるものを食べさせられたらどうするのだ!?


「ブルームフィールドさんって、好きなタイプは!? 故郷に残してきた彼氏とかいるの!?」

「え……」


 あん?

 その質問が飛んだ瞬間、男子生徒たちがわずかに身体を硬くし、身動ぎしたのを感じた。


「えっと、故郷に残してきた彼氏とかはいないけど――」

「「「おぉ……!」」」


 なにが、おぉだ。というかなぜ一部の女子までガッツポーズをしているのだ。


「好きなタイプは、そうね……なんだかんだ優しくて、不器用なくせに頑張って力になってくれたり、意外に可愛いところもあったりする人で、あとちょっぴり強面なのもいいかも……ふふっ……」


 まるで夢見るような様子で語るマスターの姿に、顔を覆って蹲る生徒が数人続出。しかし、彼女の言葉を聞き、我が妹は少し頬を膨らませた。


「いやに具体的……もしかして、こっちで彼氏ができたとか?」


 その質問にきゃあっと女生徒が叫び、男子生徒が顔を強張らせる。

 そうしてマスターはチラリと隣の刀花を見て……

 

 ――しかしニヤリと、意地悪そうな笑みを浮かべた。


「えぇ。トーカのお兄さんが、私の恋人なの」

「「「えー!」」」


 驚愕と落胆、どっちともつかない叫びが教室内に木霊する。そして再びわぁっと、女子生徒がマスターに群がった。先程よりも熱気を感じさえする勢いだった。


「国籍違いのカップル、素敵!」

「ねえねえ、馴れ初めは!?」

「どこまでいったの!?」


 ボルテージが最高潮に達した女子生徒達が再びマスターを質問攻めにする。

 そんな彼女達に気をよくしたのか、マスターは得意げに話し出そうとし――


「リ ゼ ッ ト さ ぁ ん ……?」

「「「ひっ」」」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


 そんな擬音が相応しい冷たいオーラを発しながら転校生の名を呼ぶ隣の少女の姿を見て、クラスメイト達は怯えたような声を出し、マスターは勝ち誇った顔で刀花を一瞥した。


「あら、なぁに? 将来の私の妹」

「イラっ……」


 煽っていくじゃないか。よほど今朝のことが腹に据えかねていたらしい。


「兄さんを明け渡した覚えはありませんよ」

「長年連れ添ってたんだから、今は少し私に譲りなさいな」

「それは兄さんが決めることです。ちなみに私は嫌です」

「あなたね」

「なんですか」

「「ぐぬぬぬぬぬぬ」」


 いつの間にか席を立ち、正面から睨み合う二人の少女。それをクラスメイト達は震えながら遠巻きに眺めている。


「本気だったんだ酒上さん……」

「酒上さん……キレた!」

「修羅場、修羅場よ……!」


 ざわざわとどよめく教室。

 バチバチと火花を散らせる二人に声を掛けるわけにもいかず、俺も静観せざるを得ない。仲裁に入りたいところだが……ここでは……。


「ここじゃ場所が悪いわね、とりあえず行きましょうか」

「そうですね、少しお話ししましょう」


 そんな彼女達は勢いよく鞄を引っさげ、呆気にとられるクラスメイト達を置いて教室を去って行く。


 なぜか一本の日傘を取り合いながら。

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