第30話「兄さんの家事は壁をも壊す@一回目」



 ほとんど冷水に近い温度の水流が頭から降り注ぐ。

 初めての国で感じる夏の気候は、私の身体を熱くさせるのに充分で、その水流は火照った身体の上を心地よく滑っていく。


「――」


 だけど。

 ……だけど、さっきから私の鼓動は早鐘を打つようにして全然落ち着いてくれない。


「う、うぅ~……!」


 私は唸りながらも念入りにボディソープを含ませたタオルで身体を洗う。

 だって仕方ないじゃない。だって――


 これから私……好きな男の人に、キスをされるのだから。


「~~っ」


 そう考えるたびに、シャワーで洗い流した肌がしっとりと汗ばんでくる。そしてそれをまたタオルでゴシゴシと擦って綺麗にしては、また数分後のことを想像し煩悶として汗が――この繰り返しだった。


「ジン……」


 今頃、私に口付けするために草刈りをしているであろう眷属の名を呟く。

 それにしても意外だった。まさかあの時、苦し紛れで提案したご褒美の案がここまで尾を引き、しかも気に入られてしまうとは。


「こ、これから私……何かあるたびにキスされちゃうのかしら?」


 それは……困る。

 嫌とかじゃなくて、心臓が保ちそうにないから……困る。でもこれから一緒に生活していく中、そういう場面は多々出てくるのだろう。


「そっか……私これから、好きな人と同棲していくんだ……」


 その事実がまた胸を甘く締め付ける。キュッと息が苦しくなり、呼吸が乱れる。でも――悪くない。


「ふ、ふふ」


 目の前の鏡にふと目をやると、そこにはこれまで見たことがないような、だらしない顔をした自分が映っていた。まるでどこぞの妹が浮かべる表情によく似ている。

 い、いけないいけない。

 私はリゼット=ブルームフィールド。いかなる時でも高貴で、貴族に相応しい態度を纏っていなければ。

 だから……万一のことも考えて、他の部分も念入りに洗っておきましょうか。


「というか足って、つま先の事よね……?」


 彼は足にキスをすると予告し、草刈りに移っていった。しかし、足のどこにキスをするとは言っていない。「忠誠の足」とは言っていたのでつま先だとは思うが……。


「ふくらはぎとか、もしかしたら太股とかの可能性も……?」


 想像するだけで際どい絵面に、私はわぁっと身体を熱くした。い、いけない……これはいけないわ。でも、もしかしたらそういう可能性も?

 それに今はないとしても、これからの生活の中でいつかされてしまう可能性は充分にある。彼が報酬で様々な部分への口付けを要求し……足や手、頬。そして、いつかは――


「っ」


 この……唇にも?


「~~~っ!!」


 だめ……さっきから私、ダメになってる。

 私はコルクを捻り、完全に冷水にしたシャワーを浴びながら熱くなった顔を押さえた。


「……ジンのばか」


 小さく呟いた声がバスルームに反響する。

 ご主人様をここまで困らせる眷属なんて聞いたことがない。

 これは……お仕置きが必要ね。いざとなったら私には『オーダー』があるのだから。

 そう。『オーダー』で彼の自由を奪って、そのまま私が彼の唇に……って。


「は、はしたない……!」


 自分がしそうになった想像に思わずブンブンと首を振る。いつも夢想する内容もアレだけど、それは彼から奪われるものであって、私が奪う内容ではない。貴族のお嬢様が自分からそうするだなんてはしたないんじゃないかしら!?

 で、でも、やられっぱなしというのも癪よね。それにトーカだってぐいぐいとジンに仕掛けている。このままでは先に彼の唇は妹のものになるかもしれない。それはご主人様のプライドとしても避けたい。

 ――自分から彼にキスを仕掛ける。

 そう思うだけで心臓が破裂しそうだった。でも、いつかは――


「こ、こんな感じ……?」


 キスの経験なんてあるはずもない。

 私は鏡に向かってツンと顎を少し上げ、自分が正面からどう見えるのかを確認する。ど、どう? これで目を瞑れば無双の戦鬼も虜に出来る可愛さになるかしら?

 少し角度を変えたり、どこに手を置くかを工夫したりする。

 そうして自分が納得できるキス顔を鏡相手に研究し「はい可愛い!」と自分に合格点を出したところで……唐突に現実感が押し寄せ私はまた羞恥に身を染めた。


「なにやってるの私……」


 さすがに浮かれすぎよ私何やっているの……。

 リセットするように息を吐き出し、とりあえず喫緊の足をもう一度洗い流してシャワーを止めた。

 だ、大丈夫。唇は今後の課題として、今は今を対処しないと。とにかく髪を乾かして……えと、ストッキングは履いておいた方がいいのかしら?


「あーもう! どうしたらいいのよ私はー!?」


 次から次へと今まで考えたことのないことを考えさせられて頭がパンクしそうになり、頭を抱えた。


「――へ?」


 ――そんな時だった。唐突に視界の端で銀閃が煌めいたのは。





 片手に手頃なサイズの鎌を持ち、意気揚々と戦場に足を踏み入れた俺は……、


「うぅむ……地味だ」


 あまりに地味な作業に眉を寄せていた。斬るという行為は俺の専売特許であり、もう少し草を斬るというのも上手くできるかと思ったのだが……。

 確かに今の俺は尋常ではない速度で鎌を動かし、草を斬っている。常人ではまず目にも追えない速度だ。根元から草を断絶し、浮き上がった葉をさらに細切れに切り裂き、塵すら残さない。ゴミ袋に入れるのも面倒だからだ。

 しかしその動きは、しゃがんで草を刈り、立ち上がり、草のある場所に移動し、しゃがんで草を刈り……この繰り返しでなんとも地味な絵面だった。


「もう少し工夫できないものか……」


 このままでも任務は遂行できるだろう。

 しかし、出来るのならば効率的に終わらせたいのが戦鬼としての考えだ。それに戦鬼の美意識としてこういう地味な作業はどうもな……。


「むぅ……」


 一旦立ち上がり、一本だった鎌を両手の指に挟み込むようにして生成。計八本の鎌を手にした俺は、


「ふっ」


 両手を交差させるようにして上から投擲する。

 投げた鎌は独特の軌跡を描き、地面スレスレを狙い通りに飛んで草を刈る。

 そして屋敷を中心にグルリと回った鎌は役目を終え、俺をめがけて飛んできた。


「ふっ、はっ」


 それをまた受け取り、投げ、さらに数を増やしては投げ、受け取り、草を刈っていく。ブーメランと化した鎌が合計七十二本になったところで、屋敷の周辺は刃の渦に包まれるようになっていた。

 刃の暴風が吹き荒れる中で舞うように鎌を捌き続けるが、しかし俺の眉根が和らぐことはない。


「うぅむ……」


 確かに派手ではあるが、少々刈り残しが目立つな。所詮は線の太刀筋か。

 それに動きに華があってもそれを楽しむ客もいない。刀花が見ていてくれれば歓声を上げ、スマホをカシャカシャして喜んでくれるのだが。

 

「ちっ」


 舌打ちを一つして、飛び回る鎌を消す。

 えぇいまどろっこしい。やはり一撃だ。一撃で敵を屠ってこそ無双の戦鬼と言える。

 俺はゆらりと右腕を上げ、莫大な霊力を込める。硬質的な音とともに、黄昏に揺らめくようにして鎌が顕現した。

 しかし、その鎌は農業に使うような可愛らしい物ではなく、柄は俺の背ほどもあり、刀身は大人の男五人は収まるほどの刃渡り。まさに死神の鎌と言って差し支えない、敵を殺すための道具である。

 屋敷を背に、俺はそのどす黒いオーラを立ち上らせる鎌を大きく横に振りかぶった。


「我流・酒上流広域必滅剣技――」


 刈り残しすら許さん。

 一息にこの世からご退場願うとしよう。


「『――断罪・斬首刃』」


 首を刎ね、速やかな死を与える一撃を横一線の草に解き放つ。

 人間に触れれば、どのような防護を施そうが問答無用で首から上を消失させる概念的一閃。黒い残光がその効果を発揮し、庭全面の草を根元から儚く消失させていく。

 やはり暴力。圧倒的暴力は全てを解決する……!

 よし、これならば――


「にゃーん」

「っ!?」


 と、ほくそ笑み、その斬首の一撃を振り抜く手前に、どこからかいつの間に侵入していたのか、猫が!!


「いかん!」


 俺はその尊い命を守るために、咄嗟に振り抜きそうになっていた腕を無理矢理持ち上げる。

 死を見舞う刃はギリギリで猫を回避し、頭の上を通過していった。しかし、コントロールを失った刃はそのまま力のままに旋回し――


「む」


 逆袈裟のように、屋敷を斜め下から両断した。


「……」


 銀閃が煌めいてたっぷり五秒後。

 沈黙を保っていた屋敷の斜め上部分が重苦しい音を立てて、まるで積み木のようにズレていく。

 美しい断面を晒した下半分を残し、ズレていく上部分は屋敷の横に、ティーポットの蓋のようにして傾いて落ち着いた。

 そして濛々とした土埃が晴れていく中で――


「――へっ?」

「むっ……?」


 俺の眼前には、濡れた髪に、均整のとれた身体を惜しげも無く晒した我がご主人様が立っていた。そうか、ちょうど背後は浴場の区画だったか。


「……」

「……」


 ポカンとする全裸のリゼット。あまりの事態に思考が働いていないようだ。

 ちょうどシャワーを浴びていたのか、両手を頭にやり自然と扇情的に見えるポーズを取っている。張り付いた黄金の髪から水滴が顎を伝い、形のいい胸の谷間を通過し、可愛らしいおへそへと吸い込まれていった。


「な……なっ……」


 放心していたリゼットは、しかし段々とその赤みを首から上に順々と染めていく。頂点に達し爆発するまで残り三秒といったところか。

 俺はそんな彼女を目前に、「ほう……」と唸って顎に手をやった。

 そうか。なるほど、これが……。


「知っているぞ。いわゆるラッキースケベというやつだな?」

「こんな滅茶苦茶なラッキースケベあるわけないでしょうこのおバカ眷属ーーーーー!?」


 ご主人様の羞恥と怒りの声が、郊外の森に木霊するのだった。








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ここで大事なお知らせです。

この小説、なんと……Googleの検索バーに「orenomas」まで打つとタイトルがサジェストに出てきます!

……………………なんでさ?(現在もう出ません。何だったのでしょう……)


それと珍しく喋ってるついでに宣伝を。

20話で刀花がボソッと言っていた「元トップアイドルで実はリムジンで送迎されるほどお嬢様でもしかしたらヤのつく方々の跡取りで神様とお話できるという噂の女の子」が登場する前作もどうぞよろしく。

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