第18話「これが母性か……!」



「ねーえ、ジン?」


 ご主人様の甘い声が俺の鼓膜を揺らす。


「簡単な質問をしてあげる」


 開け放たれた窓から朝日が差し込み、セミの合唱がなんとも風情を誘う爽やかな夏のヒトコマ。きっと今頃朝の涼しい風を浴びて、向日葵は可憐に揺れていることだろう。

 そしてそんな清々しい朝に、我が敬愛するご主人様はベッドの縁に腰掛け、綺麗に咲いた朝顔にも負けぬにっこりとした笑みを浮かべながらこちらを見下ろしていた。


「――なんで私が怒ってるか、当ててみて?」

「……」


 ……おかしい。

 任務は完璧にこなしたはずだ。それなのになぜ俺はカーペットの上に正座でいる?


 昨夜の寝る前の出来事を思い出す。

 明日は朝食を外食とし、その後生活に必要そうな物の買い出しをすると決め、解散となった。その際、リゼットからぽしょりと耳打ちされたのだ。


「ジン、私実は朝は弱いの。だから明日の朝、あなたがしっかりと私を起こして?」


 ちょっぴり恥ずかしそうに言うマスターに承知したと返し、それぞれ自室へと入り色々あったその日は無事幕を下ろした。


 そして今朝。

 刀花を起こし、身だしなみを整えてあげた後、俺は任務を遂行するべくリゼットの自室へと向かい、「しっかりと」彼女を起こすことに成功した。


「ねぇジン、確かに私は昨日『しっかりと起こして』ってあなたに言ったわ。だけどね――」


 優しい声音がだんだんと熱さを帯びていく。

 そうしてその熱さに身を委ね、プルプルと握り拳を震わせてリゼットは叫んだ。


「だけどそれは『私に向けてバズーカを撃っていい』ってことにはならないのよ!!」


 震える拳を柔らかいベッドに振り下ろす。それに伴い彼女に纏わりついた色とりどりの紙吹雪が舞い、頭に乗った白い鳩がクルックーと一声鳴いて窓から飛び去っていった。


 ――我流・酒上流宴会芸『おはようバズーカ』


 リゼットをしっかりと起こすこと。つまり一発で眠気が吹き飛ぶよう命ぜられた俺には、生半可な手段など許されない。俺の持てる全力を朝から彼女に轟音と共にプレゼントした。

 カラフルな紙吹雪や紙テープ、おまけに鳩の詰まった円筒状の機器を可愛らしい寝顔に向けるのは忍びないとは思ったが、俺は心を鬼にして、作り出したバズーカの引き金を引いたのだ。ちなみに小さい声で「おはようございまーす」と言いながら撃つのがマナーだ。


「気に入ってもらえたかな?」

「そう見える?」


 ツリ目気味の紅い瞳をさらに吊り上げて彼女はこちらからもよく見えるように両手を広げる。色とりどりの紙テープを纏うその姿は、見た目的にはカラフルなパーティ野郎にしか見えない。


「目は覚めただろう?」

「怒ってるって言ってるでしょ?」


 眉をひくひくさせて彼女はイラついたような声を上げる。


「我儘なお姫様だ、テレビで見た芸人は喜んで起きてたぞ」

「あら言ってなかったかしら、私芸人じゃありませんの」

「普通に起こしてほしいならそう言ってくれ、この俺に念を押すからこうなるのだ」

「なに私が悪いみたいな流れにしようとしてるの? おかしいわよね?」

「刀花は喜んでくれたのだが……」

「特殊な妹の感性と一緒にしないで?」

「難しいものだな」


 やれやれと首を振りながら隣に座り、彼女に絡まったテープや紙吹雪を取り除いていく。

 彼女は熱を吐き出すように疲れと共に溜め息をつき、ブツブツと文句を言っている。


「まったくもう、眷属に優しく起こしてもらうって結構憧れのシチュエーションなのに……香水だってお気に入りのもの使ってたのに火薬の匂いで台無しだし……」

「香水?」


 そう言えばリゼットの部屋に入った時に、いやに良い香りがするなとは思ったが、そんなものまで使っていたのか。


「……夏だから汗とか気になるじゃない」

「別に俺は気にせんが」

「私が気にするのよデリカシーないんだから」


 言って彼女は枕元からスティック状のキラキラした物を取り出してこちらに見えるよう振る。


「ほう、てっきり吹き掛けるものかと思ったが。塗るのか」

「えぇ、耳の後ろとかうなじとか」

「どれ」

「うひゃわぁ!?」


 近寄り、彼女の長い金髪をかきあげ、後れ毛の残るうなじに鼻を近付ける。

 香水によるラベンダーの華やかな香りが仄かに香る。そしてそれは彼女自身の甘い体臭と溶け合い、決して下品でない、より気品のある上質な香りへと昇華されていた。


「ふむ……さすがにお嬢様か、仕上げ方が上手いな」


 電車内のコロンを付けたおっさんなど足元にも及ばん。いやそもそも比較することがおこがましい。日常的に使用しているからこその高等な技術、まさに天晴れである。


「……なんかそう真顔で言われると恥ずかしさも失せるわね」


 鼻を近付けた瞬間こそ真っ赤になって吐息を漏らしていた彼女だったが、今は虚ろな目で乾いた笑いを漏らしている。


「なんだか大型犬を相手にしてる気分」

「おい、俺は犬では――犬みたいなものだったか」

「私が躾けた犬はバズーカなんか撃たないわ」


 さいで。


「……て、手を出しなさい、罰を与えるわ」

「手?」


 彼女の要望に沿わなかったことは事実なので素直に右手を出す。


「何をする気だ?」

「……直接血を吸うわ」

「……しかし」

「いいの! それにちゃんと罰としてやってる吸血鬼もいるんだから」


 まぁ噛み付かれて血を抜かれるというのだから罰と言えば罰にはなるか。眷属ができたらやってみたかったことの一つなのだろう。問題は味だが。


「マスターの罰ゲームになりそうだ」

「……そこは我慢するわ」


 少し口惜しげにリゼットは唸る。

 手から吸うことに拘り持ちすぎじゃないか?


「……む」


 そういえば一昨日の夜に手フェチだと言っていた覚えがある。

 こちらの手を取りまじまじと眺めるリゼットを見る。なるほど、どことなく頬に赤みが差し、瞳に危ない光が宿っているように見える。大丈夫か? モナリザの手で興奮していないだろうな?


「……男の人の手ってやっぱり大きいわね」

「そういうマスターの手は少し冷たいな」


 ひんやりとしていてこの季節は心地よい。


「なによ、冷たい女とでも言いたいの?」

「俺は手が冷たい者は心が温かい派だ」


 朝からからかったお詫びにはならないだろうが、彼女の手を包み込む。


「マスターが冷たい者などありえん。我が主の内に秘めるその熱と貴い光に、俺は引き寄せられたのだからな」

「……そ、そう?」


 多少言葉はくさいが、彼女は満更でもなさそうな表情を浮かべている。チョロいな……。


「ほ、ほら……指出して」


 彼女は誤魔化すように催促する。俺はお姫様の要望に従い、大人しく人差し指を出した。

 差し出された指を前にし、リゼットはごくりと喉を鳴らした。


「んっ、おっきい……」


 指がな。


「太くてガチガチ……」


 関節がな。


「はっ……はっ……」


 ツリ目気味の紅い瞳が蕩け、息が荒くなってきている。す、凄みがあるな……。


「い、いただきます……」


 そしてとうとう彼女の小さなお口が俺の指を迎え入れた。


「っ」


 それと同時に指に痛みが走る。彼女が牙を突き立てたのだ。そしてそこから流れる俺の不味い血を、彼女は陶然とした面持ちで味わい始めた。


「んっ……ちゅ……ちゅる……」


 セミの鳴く声だけが聞こえる室内に、彼女の立てる水音のみが響く。たまにピチャピチャという音と共に、リゼットの鼻にかかったような声が漏れた。


「ん、ふっ……こく、こく……んっ、ちゅ……」


 垂れる横髪を指で耳にかきあげながら、時折上目遣いにチラチラとこちらの反応を見る。彼女の頬は上気し、瞳は潤んでいるように見えた。


「うっ……」


 彼女の口の中は蕩けそうなほど熱く、たまにぷっくりとした舌が指をなぞるように動くたび、なんとも言えない感覚が俺を襲う。

 なんだ、これは……?


「はっ、ん……え、おいひい……どうひて……?」


 一生懸命な様子で指から血を吸う彼女を見ていると、なんだか妙な熱さが胸から込み上げてくる。このような感覚は初めてだ。名前の知らない感覚に戸惑い、彼女にされるがままになってしまう。

 この胸を占める炎のように熱く、しかしどこか優しい温かさを持つこの感情はなんだ?

 俺はあらゆる経験を記憶から引き出し、該当する解答を探す。それはまるで死の際に見る走馬灯のようだった。今まで見たもの聞いたものが高速で流れていき、そして――


「はっ……!」


 わかったぞ……この感情の正体が!

 なんということだ、この俺が。無双の戦鬼であるこの俺が、まさかこのような感情を抱く日が来ようとは……。


「もっと……もっとぉ……」


 改めて指を吸う彼女を見る。相変わらずどこか熱っぽい顔で一生懸命に血を吸っている。

 そんな彼女の様子に俺はたまらなくなり、リゼットの頭に手を乗せて髪を撫でる。


「! ふふ……ん♪」


 少し驚いた様子で息を漏らしたが、くすぐったそうに笑って彼女はまた血を吸うことを再開する。

 そんな彼女の様子を見て、推測したこの感情が間違ったものではないと確信する。


 やはりこの感情は……。


 この胸から込み上げてくる熱い感情の名は……!


「これが――!」


 ――これが、母性か!!!


「なんということだ……」


 一生懸命な様子で指から血を吸う彼女。これはまさに乳飲み子が母に優しく授乳されているようではないか! これが母の気持ちか……!


「兄さーん、私お腹空きま……し、た……」

「刀花か」


 俺が真理に辿り着いた時、丁度我が妹がリゼットの私室のドアを開けた。ちなみにリゼットは血を吸うことに夢中で気付いていない。


「なっ、なっ――!!」


 なにやってるんですかー!!

 珍しく真っ赤になった刀花がそう大声で言い放つ前に、俺は刀花にジェスチャーで「静かに」と伝える。


「刀花、見てわからないか?」 

「なっ、なにがですか……こ、こんなの、ほぼフェ――」

「刀花……聞いてくれ」

「なんですか……」


 俺の神妙な面持ちに、刀花はゴクリと喉を鳴らす。


「刀花――俺は母になった」

「ちょっと何言ってるかわからないです」


 とーう! と勇ましい掛け声と共に、刀花は俺とリゼットにドロップキックをお見舞いし、強制的に引き剥がすのだった。

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