3(ヒエラルキーと監守)
収容所暮らしも一週間ほどたつと、収容者のあいだでは様々なヒエラルキーが成立していた。人間が集団生活をはじめて以来の、古きよき習慣だ。
ヒエラルキーは、例えば食事のときの席順に現れる。
食堂には合計二台のテレビが設置されている。食事は基本的には班単位でまとまってとられるので、テレビ正面の一等席に二つの班、その左右に四つの班が位置を占めることになる。この位置どりは、これまた古きよき習慣によって早い者勝ちだ。
そのあとの各班十人前後の席順は、班への貢献度によって決定される。まず、班長がテレビ正面の上座に
このヒエラルキーを金科玉条のごとく徹底させる班もあるが、うちではそれが比較的ゆるい。寺原さんの人柄、というべきだろう。席順はやや流動的になる。
俺は大抵、中ほどに席をとるが、実際はどこでもいいと思っていた。食事時間は短いので、のんびりテレビを視聴しているような暇はないのだ。中途半端にテレビを見るよりは、できるだけゆっくり飯を食いたい。そもそも、政府専門の固定チャンネルでたいして面白い番組をやっているわけでもない。
昼食後の休憩は班行動がばらけるので、この食堂ヒエラルキーはその趣きを一変させる。
どこぞの世紀末的世界ほどではないが、ここでもまた古きよき進化論的習慣によって、弱肉強食の原理が働く。エレガントな言葉を使えば、暴力、ということになる。
もちろん所内での喧嘩は厳禁だ。まだ発砲された人間はいないが、銃を片手におっさんがやって来れば、誰だって反抗しようとはしない。
それでも、監視の届かない裏では、頻繁に鉄拳のやりとりが行われる。
結果として班組織とは別の世紀末的ヒエラルキーが成立し、それは昼休憩時の食堂において露骨に現れる。王様よろしくふんぞり返る男の横に、そのとりまきが息まいている。玉座はいつも、テレビの正面だ。裸の王様なみの、かなり貧相な玉座ではあるが。まあ鰯の頭も信心だ。
ただし、勢力争いはテレビ周辺の位階にそって行われるので、そこから離れているぶんには食堂にいても問題はない。入口付近に座って、三国志的なやりとりを眺めているとそれなりに興味深い。その席順に従って個人の没落やら隆盛をあれこれ想像できるからだ。
ある日、俺がそんなふうに人間観察をしていると、隣に寺原さんが座った。班長だけに寺原さんはヒエラルキーの位置はそれなり高いが、昼休みの世紀末的世界にはそれもあまり通用しない。
この時間に食堂で寺原さんを見かけることは珍しかったので、
「どうかしたんですか?」
と俺は訊いてみた。テレビ周辺では今、№1と№2がメンチを切って互いを牽制していた。
「いや、ちょっとテレビでも見ようかと思ってな」
寺原さんはいつものマイペースな様子で言った。
テレビでは午後のニュースが流れていた。今では革命政権のものになった国会議事堂で、議会討論が行われている。
ちなみに、国会は長老会と名前を変え、衆参両院は廃止されて賢人院という一院制に変わっていた。総理大臣のことは、今では大賢人と呼ばれている。
どこのファンタジー世界だよ、とは思うが。
「なんか、アホみたいな名前ですよね」
俺はテレビを見ながら、ぼんやりと言った。
「まあな」
寺原さんは同意して、けれど続けて言った。
「でもな、国を変えてしまうなんて、ちょっとすごいと思わないか。革命政権がこれからどうなるのかはわからんが、そのことには何か胸にくるものがあるよ。今の時代の日本で、そんなことをやってしまうなんてな」
寺原さんの言うことは、俺にもわからないではなかった。あのうんざりするほど完成され、固定化されたシステムを、ここまで完膚なきまで引っくりかえしてしまったのだから。
それは空から陸に戻ったペンギンや、陸から海に戻ったクジラのことを思い起こさせる。進化のプロセスを逆戻りしてしまうような図抜けた光景だった。
しばらくすると、予鈴が鳴って俺と寺原さんは立ちあがった。メンチを切っていた№1と№2も、ひなたぼっこ中のオットセイみたいな緩慢さで動きはじめる。体育館に戻って、いつもの課業をこなさなければならない。
移動途中、俺は顔見知りの監守を見かけて声をかけた。たまたま読んでいた本について話をして、親しくなった男だ。歳は俺と同じくらい。
「がんばれよ」
と、その監守は手を振って俺を見送ってくれた。監守といっても制服を着て銃を持っている以外は大体こんなもので、偉そうにいばりくさっているわけじゃない。
俺はあくびを噛みころしながら、体育館に向かった。
この頃、俺は秋岡と再会してもいた。
秋岡は相変わらずの電波っぷりを披露したが、生活そのものは何とかうまくいっているようだった。どうやらこいつもいい班長に恵まれたらしい。
俺と秋岡は課業終わりの午後に屋上で待ちあわせをして、少し話をしたりした。時間的にうまくいくと、きれいな夕陽が見えて、体の中まで茜色に染まってしまいそうな景色を拝めることになる。
話を聞くと、秋岡は何でも数学科の院生だったらしい。ただし休学中で、大学にはしばらく行っていなかったそうだ。
「何してたんだ、リーマン予想?」
俺は煙草をすいながら、適当なことを訊ねてみた。
「まさか、僕なんかがやるような問題じゃないよ」
秋岡はそれだけ言って、言葉を切った。
煙草をふかしたまま、俺は続きを待った。数学のことなんてよくわからないが、秋岡の答えの残りがふわふわと空中を漂っていることくらいはわかる。
「……数学ってさ、若いうちに成果を残せないとダメだって言われてるんだ」
やがてぽつりと、秋岡は言った。弱々しい夕陽の光でも壊されてしまいそうな、頼りない口調で。
「そうなのか?」
「うん、歳をとるほど頭の働きが鈍くなるからだってさ」
時間は人間に優しくない、ということか。
「だから、年齢が高くなると、あいつはもうダメだ、なんて言われたりするんだ。僕のまわりの人間は、大抵見えない壁に怯えてた。その壁は、ゆっくり自分のほうに近づいて来るんだ。そして気づいたら四方を囲まれてて、身動きがとれなくなる」
ふうん――
秋岡は夕陽に目を細めた。ガラス細工的に繊細なその横顔は、見ため以上に脆そうだった。
「でもさ、僕はそれでも数学が好きなんだ。数学は人間みたいに壊れたりしない。それは永遠で絶対なんだ。ピタゴラスも、ユークリッドも、ガウスも、ポアンカレも、今でも生きているし、これからもずっと生きつづける。地球が壊れて人間がいなくなったって、数学がなくなることはない」
「…………」
「数学はいつだって美しい。僕は、できることならその一部になりたいんだ。その美しさに、いつでも心が触れられているようになりたい。数学が好きであることを証明したい。それができたら、僕はきっと死ぬまで平和でいられると思うんだ」
何故だか知らないが、秋岡はそう言って笑った。
俺は紫煙ごしにそんな秋岡の笑顔を見て、不思議な思いにとらわれていた。
どうしてこんなやつが、宇宙人陰謀説なんて馬鹿らしい考えを頑なに信じているんだろう。頭の中のどういう働きが、こいつにそんな考えを信じさせているのだろう。人間に備わったどういうシステムが、こんな馬鹿げた結果を作りだしたのだろう。
――俺にはよくわからなかった。煙草を消した。それより前に太陽は消えて、あたりは暗くなっている。
二人で連れだって校舎の中に戻ると、例の監守に出会った。監守は秋岡のほうを見ると、「その人は誰だい?」と訊いてくる。
「友達です」
俺は答えた。
「なるほど……君はここでの暮らしで、何か不自由はあるかい?」
訊かれて、秋岡は恐縮したように首を振る。「あ、いいえ、大丈夫です。みんなにはよくしてもらっています」
「そうか、ならよかった。何か困ったことがあったらすぐに言ってくれ。我々もできるだけのことはするから」
監守は笑顔を浮かべてそう言うと、そのまま行ってしまった。
「……いい人だね」
と、秋岡がそれを見送りながら言う。
「まあな」
俺は気軽に同意した。
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