4(鉛筆削りと懲罰房)
そんなふうに、収容所での生活は大概が平和だった。少なくとも、放牧中の羊の群れくらいには。
それでも、問題が起こることはある。
収容者には基本課業の計算のほかに、持ちまわりでの雑役も課せられていた。雑役といっても、たいしたものではなく、給食の調理補助とか、清掃、洗濯、備品の整理など。要するに自分たち自身の世話だ。
雑役の中に、鉛筆削りがある。
体育館での計算には、鉛筆と消しゴムを使う。当然だが、鉛筆の損耗は勤勉なビーバーの歯のように激しい。一人につき数十本の鉛筆が支給されているが、それでも終業時間にはその全部がすっかり磨耗している。芯が丸くなって短くなった鉛筆は、もう一度尖らせてやらなければならない。
その日、俺たちがやっていたのはそんな雑役だった。
一応、具体的に説明すると、俺たち第二十一班の十人は、特別教室の一つで丸いテーブルを囲んでいる。テーブルの真ん中には、奴隷の叛乱でできそこなったピラミッドのような、大量の鉛筆の山。円卓の騎士よろしくテーブルについた俺たちは、ハンドル式の手動鉛筆削り器を使って鉛筆を一本ずつ削っていく。出来あがった鉛筆はまとまった本数ずつ箱の中へ。
ごりごりと鉛筆削りの音だけが響く中で、黙々と作業は続いていく。俺はぼんやりと、川の中で次々と信者に洗礼を施すヨルダン川のヨハネを連想していた。この想像に、特に意味はない。
その時、俺の左隣には須谷と岸田が並んでいた。チンピラと、独り言の二人だ。須谷は露骨にこの作業を嫌がって、ほとんどおざなりにしか手を動かさない。いつものことだ。この男がまじめに作業をしているところなんて見たことがない。
須谷は退屈したのだろう。でなければ、大量の鉛筆削りの音に人を苛立たせる効果があるのか、どちらかだ。須谷は隣の岸田に向かってしきりに雑言を垂れた。
「こんなのまじめにやってよ、馬鹿なんじゃねえの、お前ら?」
私語は禁止されているので、須谷の声は小さい。時々、鉛筆削りの音で途切れたが、それでも大体のところは聞きとれた。
岸田は臆病で無口な男だから、反論もしないし注意もしない。須谷はもちろん、そのことを熟知している。
「へいこらへいこら、言うこと聞いてよ」
ごりごり。
「どうせ本当は、こうやって使われるのを喜んでるんだろ?」
ごりごり。
「お前ら、その程度の勇気もねえんだよな。長いものには巻かれろってわけだ」
ごりごり。
「俺は違うね。お前らみたいな馬鹿じゃねえし。こんなくそったれな待遇を嬉しがったりしないね」
ごり――
その時、俺の中で何かが弾けた。弾けたものの正体が何なのかはわからなかった。ただそれは、大学を卒業してから七年間、俺がずっと抱えこんでいた何かだった。見ないふりをして、存在しないかのようにふるまってきた何かだった。
須谷の言葉や態度のどこに、そうさせるものが潜んでいたのかはわからない。ただ、気づいたときには俺は、ぼそりとつぶやいていた。
「うるせえんだよ、チンピラ」
その声はごく小さなものだったが、予想外の大きさで全員に聞こえたらしい。
ぴたり、と音がとまった。
「今なんつったよ、おっさん」
須谷は慣れたふうにドスを利かせた声で、俺のほうを見た。
その時点でなら、まだどうにでも言葉を濁すことはできた。が、何かが切れていたのだろう。俺は度胸もないし、腕っぷしもろくすっぽだが、腹の底からむかむかしてくる何かが、俺を前に押しだしてしまっていた。
「うるせえっつったんだよ」
「へえ」
須谷、冷笑。やはりこういうことには慣れているらしい。
「あんたのこと、ただのチキン野郎だと思ってたけど、訂正するわ。お前、チキン野郎のうえに脳タリンだったんだな」
「わがまま言ってるだけで自分のこと偉いと思ってるやつよりはましだろ」
須谷の笑いが片頬に移る。
「これだから日和見のおっさんは嫌なんだよ。強いやつにはすぐゲーゴーしやがる。ホシンを考えるので精一杯なんだろ」
「この程度のくだらない仕事をさぼるのに口実をつけなきゃいけないお前のほうが、よっぽど憐れだよ」
「どうせあんたなんて、暗い部屋に一人でしこしこやってたんだろ。わかるんだよ。ばれないとでも思ってた? 臭いから近よんなよ、おっさん」
「…………」
「現実じゃダメだから、想像の世界に逃げようとしてたんだろ。それも結局、無駄だったみたいだけどな」
その時、俺の右拳がやつの顔面にヒット。
あとから考えると、よく当たったものだと思う。しかし鉄拳どころかパチンコ玉ほども威力のない俺の右ストレートでは、須谷が怯むはずもない。痛いというよりは、ただ驚いたような顔で、俺のことを見る。その驚きが、あまりのダメージのなさのせいでないことを、俺はせつに祈る。
そのあとどうなったのか、俺はよく覚えていない。俺にわかるのは、左頬と右脇腹がやけに痛むこと。口の中に鉄の味がしてひどく不快だ、ということくらいだ。
おそらく、とっくみあいになった俺と須谷をみんなが引き離し、かつ騒ぎを聞きつけた監守がおっとり刀で駆けつけてきたのだろう。須谷に俺と同程度の被害があったかどうかは不明。
そうして気づいたとき、ようやく横臥できる程度の狭いせまい個室に俺は入れられていた。
いわゆる、懲罰房というやつだ。
懲罰房は校舎裏の、目立たないところに設置されている。元小学校にこんな施設があったら教育委員会とPTAが黙っているはずはないので、新しく作られたものだろう。そう思いたい。
房の中は二畳もないくらいの広さで、剥きだしのトイレと手洗いが一つ。手の届かない高さに電球がかけられている。床も壁も、コンクリート製の無愛想な面構え。
ほかには、何もない。小さな窓一つさえも。
俺は入ってしばらくは、ぼんやりと座っていた。痛む頬を押さえたり、体をほぐしたりする。別の房には同じように須谷が入れられているはずだったが、何をしているのかはわからない。
少しすると、俺は腰を上げて、腕立て、腹筋、スクワットをやってみた。退屈で、ほかにすることを思いつかなかったからだ。が、元々筋力トレーニングなんて興味のない俺の体は、すぐに飽きてやめてしまう。あくびが出た。
完全な無音、完全な空白。
どうせだから眠ってしまおうと、俺は冷たい床の上で直接横になる。
そうすると、ここがどこかに似ていることに気づいた。すごく身近などこかだ。
――どこだっけ、と考えていたら、何のことはない、ここは俺の部屋に似ているのだ。あの無為で不毛で非生産的な空間。あそこで作られていたのは唯一、孤独な想念くらいのものだった。浪費の名にすらあたらない、膨大な時間の費消。
俺はじっと、部屋の片隅に目をこらす。
そこから、暗闇がじわじわと俺のほうに這いよってきた――俺は身動きをしない――暗闇は菌類が繁殖するように、その範囲を広げる――俺は身動きをしない――つる植物がからんでくるように、暗闇が俺の体を捕らえる――俺は身動きをしない――皮膚を裂き、骨に食いこんで暗闇が成長を続ける――俺は身動きをしない――体の中がすっかり掻きだされて、代わりに暗闇が満盈する――俺は身動きをしない――暗闇は俺の代わりに口を開く――俺は――
いつのまにか、夜になっていたようだ。眠っていたのかもしれない。扉の前にトレイがあって、みすぼらしい食事が置かれていた。食う気になれなかったので、そのまま外に出してしまう。
もはや退屈にすら退屈していたので、何も感じない。七年間、ずっとやり過ごしてきた時間と同じだった。そこでは、俺はこの世界のどこにもいない。俺自身すら、俺のことを認識しない。
消灯時間が来たのだろう、房の中の電気が消えた。完全な暗闇が光の一欠片まですべて溶かしてしまう。
――何時間、経っただろう。
不意に、ノックの音が聞こえた。骨を叩くような、虚ろな響きだった。それからかちゃりと音がして、世界に亀裂が入ったみたいに、扉についた細いのぞき窓が開く。
窓の向こうには、二つの丸い目玉がのぞいていた。文目も定かでない暗闇の中に、その二つの眼球だけがぼんやりと浮かびあがっている。
眼球は何の発言もせず、ぴくりとも動かなかった。そのくせ、そこには「視る」というその行為だけが残されている。そこに人間はいないくせに、一つの視線だけが存在している。世界に穿たれた隙間から、こちら側がのぞきこまれている。
その二つの目は、子供の頃に暗闇に潜んでいた怪物に似ていた。存在の薄い膜を裂傷して、白い骨のような手をのばしてくる、そこにはいないはずのもの。それに見つかってしまえば、あっというまに暗い場所に引きずりこまれてしまう。
――俺は身動きをしない。
それに捕まったら最後だということを、俺は知りすぎるほど知っていた。そのための方法は、決して難しいことじゃない。ただ、それが本当はいないふりをすればいいだけなのだ。そこにいることを知っていても、知らないふりをする。それを見ていても、見えないふりをする。
眼球はやがて、俺を捕まえることに失敗した。やつは諦めたようにゆっくりとのぞき窓を閉じ、世界の穴をふさいだ。俺はなおも警戒して、しばらくのあいだその態勢を崩さずにいた。
やがて本当にそれが去ったことがわかると、俺は横になって眠った。黒く塗りつぶされて、夢さえ浮かんでこれないような重くて深い眠りだった。
それから三日して朝になると、房の扉が開いて俺は外に出された。
離れたところで、同じように外に出される須谷がいて、見るとその髪は雪のように真っ白に変色していた。
その後、須谷は人が変わったように大人しくなり、まじめになったが、ほどなく病気になって収容所を離れた。療養後に復帰するという話だったが、結局のところ俺は、二度と須谷の姿を見ることはなかった。
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