第14話 小さな背中

 どうしたものかと思いながら木の上でじっとして数分が過ぎた頃。今まで低く唸りこちらを威嚇していた狼が、突如子犬のような鳴き声を上げ遠くの方から来るなにかに怯え走り去っていった。


「な、なに?」

 狼はいなくなったが、脅威だった狼が逃げ出すような何かが向こうからやってくるのかと思うと気が抜けない。

 息を顰めじっとして様子を窺うと、やがて足音が近づいてきて……。


「暁ちゃん!」

「っ……そんなところでなにやってるの?」

 一花の声に気が付き見上げてきた暁斗は、うんざりと言った表情を浮かべた。

 狼は妖魔の気配に怯えて立ち去って行ったのか。


「えへへ、ちょっと狼に襲われかけちゃって」

 照れ笑いを浮かべながらも一向に木の上から降りてこない一花に、暁斗が訝しげな顔をする。

「いつまでそこにいる気?」

「……意外と高くて降りるの怖いなって」

 登るときは無我夢中だったが、冷静に地面を見下ろしてみると、怖くて身動きが取れない。情けない。


「……あ、そう」

 暁斗はそっけなく答えると、とっととどこかへ行ってしまおうとする。

「待って~」

「なに」

「助けてくれると、嬉しいな」

 だめもとで頼んでみたが。

「やだ」

「ですよね~」

 予想通りの返答だった。


「一花さ~ん、お怪我はありませんか! あれ、暁斗さん」

 狼の頭突きにより飛ばされていった昴がようやく戻ってきた。

「昴ちゃん、よかった。高くて降りれないの」

「よし来い!」

 甘えて頼んでみると、昴は張り切って地面に立ち翼を広げて待機してくれたが。

「……ごめん。わたし、昴ちゃんを潰さないで抱き留めてもらえる自信が持てない」

 どう考えても昴が自分を受け止めてくれる図が想像できなくて、その小さな胸に飛び込む勇気はなかった。


「そ、そうですかね。では、暁斗さんが代わりに」

「なに勝手に決めてるんだよ。嫌だ」

「でもでも、暁斗さんも一花さんが心配で森に探しに来てくれたのでは?」

「え、そうなの? わたしの帰りが遅いのを心配してくれて」

「ない」

 きっぱりと否定された。気持ちがいいぐらいのきっぱりだ。

「じゃあ、なぜここへ?」

「それは偶然……日課の巡回を」


「え――きゃあ!?」

 ぼそぼそと呟いた暁斗の声を聞き取ろうと前のめりになったら、手を滑らせてそのまま落下してしまった。

「だだだ、大丈夫ですか!?」

「う、うん。意外と大丈夫だった」

 軽い打撲程度はしているだろうが、落下したのが丁度草の上だったおかげで助かったみたいだ。

「チッ……一生あの木から降りられなければよかったのに」

 暁斗は辛辣な言葉を吐くと歩き出してしまった。


「待ってください、暁斗さん! 今の言葉はひどいです! 一花さんは女の子なんですよ。男なら、本来木から落下するとき受け止めるべきです!」

「必要ないだろ。この女、崖から蹴落とされてもケロッとして戻ってきそうだ」

「なんてことっ、一花さんは、か弱い女性ですよ!」

「この女のどこがか弱いんだよ」

「た、確かに。心は図太いかもしれませんが、身体はか弱いはずです!」


 昴は一花を思って怒ってくれたのだろうが、一花的には昴も十分失礼なことを今口走った気がした。

 だが一応自分が原因の口論なので、これ以上二人が揉めないうちに間に入ることにする。


「まあまあまあ、暁ちゃんに会えたおかげで遭難しなくて済んだし仲良く三人で帰ろう」

「なに勝手なこと言ってんの。いい加減どこか他へ行けよ」

 ウンザリ顔の暁斗は一花を突き放そうと早足になった。


「待ってよ、わたしっ――」

 追い掛けようとした一花は、突然顔を顰めると胸を押えて蹲る。

(な、に?)

 胸が苦しくて、昨日過去に飛んでからの記憶がぐちゃぐちゃに頭の中で再生される。

 それがなんとも気持ち悪くて、記憶も錯乱してしまいそうになった。


「一花さん、どうしたのですか!? やっぱり木から落ちた時に足を捻ったんじゃ!?」

「ううん、平気」

 全然平気には聞こえない掠れた声に自分でも驚く。

 この症状は、木から落ちたこととは多分関係ないだろう、恐らく……。


 ――命とは限らず、心が壊れたり記憶喪失になったり、何が起きるか。


 この時代に来る前に昴に言われたことを思い出す。

(わたしの記憶が、壊れそうになってる?)

 もしそうだとしても今はまだ黙っていようと思った。昴に要らぬ心配を掛けたくないし、元の世界に強制的に戻されたら困る。今ここで怯むわけにはいかないから。


「大丈夫。わたし、貧血もちだからたまに眩暈がしちゃって。すぐ治まるから」

 静かに呼吸を繰り返しているうちに、だいぶ楽になってきた。

 よし、この調子なら大丈夫そう。まだ、がんばれる。


「貧血ならば、ぼくがあなたを背負って移動を!」

 昴が張り切ってこちらに背を向けてくるが。

「ありがとう。気持ちだけ貰っておくけど、無理があるよね」

「はい……」

 しゅんとした昴の表情が可愛かったので、思わず吹き出してしまった。

「でもでも、いつまでもここでじっとしてたら、また先程の狼がくるかもですし」

「うん、そろそろ動けそう」

 もう一度大きく深呼吸してからゆっくりと立ち上がろうとした時だった。


「…………」

「暁ちゃん?」

 もうとっくに先に行ってしまったと思っていた暁斗が、背中をこちらに向けて一花の前にしゃがみ込む。

「どうしたの? まさか、暁ちゃんもどっか痛いんじゃ」

「違う。とっとと乗れよ、オレの気が変わらないうちに」

「え、あ……」

 そこで気が付いた。暁斗が一花を背負って洞窟まで連れ帰ってくれようとしているのだと。

 さっきまであれほど冷たかったのに、どういう風の吹き回しか知らないが、一花は素直に嬉しくて顔を綻ばせる。


「ありがとう!」

「うわっ、飛び乗るな」

 飛びついてきた一花にバランスを崩し掛けた暁斗だったが、妖魔は人より力持ちのようで小さな体なのに軽々と一花を背負って歩き出す。


(置いてかれるものと思ってたのに、意外)

 一花よりも小さくてまだ頼りない背中は、けれどどこか安らぎを感じて温かいと思った。

(妖魔は化け物で、暁ちゃんは凶悪な存在って言われてるけど……)

 一緒にいても命の危険を感じた事はない。今だって、口は悪いが助けてくれた。


「暁ちゃんは小さいのに力持ちだね」

「小さくて悪かったな。元気になったなら、今すぐ振り落してあげるけど」

「あ~、まだ眩暈が~」

「言い方が嘘くさい」

 そう言いながらも、暁斗は本気で一花を振り落とそうとはしてこなかった。


 どうして、わたしを助けてくれたの?

 どうして、背を貸してくれたの?

 どうして、人を襲ったりするの?


 聞きたかったけれど、やめた。今口を開いたら、この時間が終わってしまう気がして。

「ねえ、暁ちゃん……ほんとにありがとう」

「…………別に」

 口が悪くて生意気で、でも、もっと彼の事を知りたいと思った。

 もう少しこのままでいたいと、暁斗の肩にさっきよりもぎゅっと強く掴まりながら。

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